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そこはかとなく書き綴る撮影日誌
鉄道・飛行機・艦船・風景なんでもありのごった煮撮影碌

書庫懐かしの群像

今ではあまり見かけなくなった国鉄型、私鉄型。主に私が「鉄」を始めた当初にさりげなく撮影した写真等などを集めてみました。

当然、写真の腕は当時、最低だったので見るに耐えませんが、こうしてみると自分の写真の腕も少し?成長したのかな?と思う事があります。

キハ58系やキハ20系、113系、蒸気機関車など懐かしい顔が勢ぞろい。
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583系が走った夏

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twitterを漁っていたら秋田車の583系がいよいよ最後を迎えるとの情報が出ていましたのでそれを機に過去の画から一枚。よくぞここまで持ったなというのが本音です。この車両を追いかけて磐越西線に赴いたのも昔の話。この写真もまだあいづライナーが上下計6本走っていた時代のものです。次第に撮りたい車両がなくなっていき、寂しい限りです。

昔の姿と今の姿

 いすみ鉄道で余生を送るキハ52とキハ28の過去の姿をとらえた画像が私の所のフォルダの中にもあったので今の姿と比べてお見せしましょう。当時はこれらを追いかけることに血道を上げていました。後年この二両が手を繋いで房総の地を走るとは思いませんでした。
まずはキハ28系の末期の頃の姿を高山本線で撮影したものから。
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キハ58 1114+キハ28 2346(高山色) 西富山〜婦中鵜坂間 2008年 8月18日

当時はキハ58+キハ28の2両編成が2編成所属しており、この高岡色と国鉄急行色がありました。運用は朝に決定し、基本的に1編成が朝の運用と夕方のラッシュ運用を担当していました。このキハ58系がここ高山本線で生きながらえることが出来たのも高山本線の増発社会実験のおかげでキハ120よりも収容人数が多いキハ58系が選ばれたと言うのがありました。婦中鵜坂駅の建設を含んだかなり本格的なものとして計画されたようで婦中鵜坂駅はその後、正式にJR西日本の駅として登録されたことからそれなりの成果があったようです。

さて、このキハ58系、当然、国鉄色の方が注目を浴びていたのですが、実際には機関系の調子などから末期はこの高山色が主力として活躍していました。私もこの国鉄色が撮りたくて連日、運用報告などに目を通していたのですが、先ほど書いた通り、高山色が主力であり、国鉄色の運用報告を聞くことは滅多にありませんでした。
今のようにtwitterで運用のやり取りをすることもありませんでしたから掲示板だけが頼りでした。この撮影の前日に大宮から乗車した『北陸』で富山入りし、高山本線に乗車したわけですが、案の定、キハ58系は高山色が運用に入っており、国鉄色を撮ることは出来ませんでした。その後、嫌なことは続くもので動画用に持参したcoolpixを泥の中に落としてしまい、故障してしまうなど散々な目に合いました。幸い、キハ58系の走行動画は消えていませんでしたが‥・。

ちなみに今、いすみ鉄道で活躍しているキハ28は前から2両目です。検査した後なのか比較的、綺麗で先頭のキハ58 1114は色がくすんでいます。このキハ58 1114も当時、最後に残ったパラミックウインドウ型のキハ58系でしたが、キハ28と共に保存されることはなく、解体に道を歩んでいます。
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キハ52 125(旧気動車標準色) 南小谷駅 2010年3月2日

キハ28の次は大糸線で活躍していた当時のキハ52 125。旧気動車標準色を纏い、他のキハ52 115、キハ52 156と共に活躍していましたが、このキハ52125はどちらかと言うと日陰者の印象で雪の中で撮影すると目立たないと言うことや地味な色合いからも余り好まれなかったようです。今現在の姿と比べるとワンマン表記や行先表示器、黒色のHゴム、グレイの床下のせいか随分と賑やかでした。その点、今はすっきりとした印象になりましたね。

キハ52は当時、3両が糸魚川に所属し、そのうちの2両を運用させると言うのが普通でした。休日は2両編成を組んでいたような気がします。私が糸魚川入りした週はキハ52 125と156が運用される週で最終日以外はキハ52 115に会うことはありませんでした。上記の理由から私も専ら移動に利用したのがこの125号車でキハ52独特の味のあるエンジン音を楽しんだ覚えがあります。

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キハ52 125(気動車標準色)+キハ28 2346(国鉄急行色) 城見ヶ丘〜上総中川間 2013年4月28日

そして数年後にまさかこうなるとは。当時は思いもしませんでした。ここ数年の自分の中では一番のビックニュースじゃないかなと思います。日曜日は天気が良いようなのでまたいすみ詣でにでも行こうかと思います。まだ小谷松の紫陽花を見ていないので。



今回も過去に載せそこなった画像から。今回は前回に続いて『はまなす』の画像でも。『はまなす』は主に14系で構成されている今では珍しい客車急行(と言うか唯一の)ですが、夏になると増結がされ、一昔前の客車急行のようになり、その姿は急行ながら圧巻です。今回はそんな『はまなす』を構成する客車の中から数枚選んでみました。
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オハネ24−501

14系を主体とする『はまなす』の中では異色の存在ですが、『はまなす』においてはお馴染みの存在です。金帯が巻かれた姿がチャームポイントですね。夏の北海道旅行の復路はコイツにお世話になりました。今や珍しい2段式のB寝台でプライバシーや居住性などあったものではないですが、それでも横になって眠れると言うのは座席車に比べて大きなアドバンテージのような気がします。

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スハネフ14−551

こちらは14系の寝台車。14系の座席車と寝台車、24系が使われていると言うのがこの列車の面白い所であると思います。三種類の客車が同じ列車に繋がれている所謂ちゃんぽん急行なわけですが、つなげてみると案外、違和感を感じないものです。これだけ見るとブルートレインのようにも見えます。『はまなす』のテールサインが可愛らしげです。オハネ24とは異なり、こいつは白帯です。白帯と銀帯と金帯があったような気がしますが、詳しい意味は失念。

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オハ14−507

『はまなす』で主力を為すのがこの車両。広い窓割が特徴で12系とはその趣も異なります。引き戸と言うのも北の14系の証。往路はこのオハ14に乗車しましたが、昔に比べると座席者と言う物には弱くなった気がします。なんというか全然、眠れません。乗る前にビールを飲んで酔って寝てしまうのがこの車両の正しい(?)乗り方のような気がします。まぁ、この時はお盆で『はまなす』の切符がとれたこと自体が奇跡でしたけど。

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スハフ14−508(上)とスハフ14−555(下)

コチラは14系座席車の緩急車verのスハフ14。設備自体はオハフ14とさして変わりません。青森行の際にはこちらが最後尾になります。14系の座席車自体が珍しいのでこうして記録を残しておくと後々、貴重な記録になると思います。乗り鉄すると形式写真が多く撮れるのが良いですね。編成写真だと資料性に乏しいですからね。本当はどちらもとれるのが良いのですけれどなかなかそうはいかないものです。後、注目すべきなのはスハフ14−555のクーラー。既存のクーラーと比べると見慣れない形をしています。これも寒冷地対策の一種なのでしょうか?他にもいくつかの14系に搭載されているようです。ご存知の方、ご教授ください。


とこのように様々な車両で構成されているこの『はまなす』。何時まで持つかどうかわかりませんが、デキればもう一度乗ってみたいそんな列車です。

※追記
TOMIXから『はまなす』用の14系500番台を発売するとのこと。すごーく欲しいですが、お高いですね…。










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昭和のムードを色濃く残すキハ20系


ディーゼル油の香り

 ひたちなか海浜鉄道は茨城県の勝田から海水浴で名高い阿字ヶ浦までを結ぶ私鉄で沿線には漁港などもあり、グルメ的にも外せない地域でしょう。
そんなひたちなか海浜鉄道に旧型気動車で有名なキハ20系が居ます。
このキハ20系は元日本国有鉄道(国鉄)から水島臨海鉄道を通して茨城交通、現在のひたちなか海浜鉄道へと渡ってきました。国鉄在籍時にはキハ20-522と呼ばれていました。茨城交通へと渡って来た後はキハ205と名前を変えています。


 同型にキハ52系が居ますが、こちらはキハ20系のエンジンを二基に変更し、山岳路線用に変更した型です。こちらは今でもJR東日本、西日本で細々と走っていますが、その原型となったキハ20系はいまやJRには残っておらず、水島臨海やこのひたちなか海浜鉄道に残るのみです。
 最近では同じくキハ20系を運用していた島原鉄道が同系列を撤退させてしまい、さらに肩身が狭くなってしまいましたが、ひたちなか海浜鉄道では冷房搭載のおかげと言うのもあり、まだまだ活躍しそうです。


同鉄道ではキハ22と呼ばれるキハ20系の耐寒型も活躍しており、国鉄型気動車の博物館と言っても良いかもしれません。写真はキハ205の車内。
懐かしさを誘う為にあえて暖調のモノクロにしていますが、実際は車内は薄いグリーンを基調とし、シートモケットは青と今の車輌に比べると乗ったとき、非常に落ち着く感じがします。ほのかなディーゼル油の香りもまたこの車輌の味わいといえます。

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戦後製の粗悪フィルムが当時を伝える


 なんて春らしいとても麗らかな一日であったのだろう。その日、私は浜松まで闇市の買出しに行っていた。政府からの統制物資は既に底つき、闇市で買出しを行う人が日に日に増えていた時代である。
 行きの汽車は買出し客などでドアーには鈴なりにぶら下がり、屋根の上にも人が乗っていた。
そんな私も客車と客車の間の幌に掴まり、ある意味、必死の買出しだったのかも知れぬ。
 浜松の闇市は喧騒に溢れかえっていたが、昭和20年7月29日の浜松艦砲射撃の傷跡が深く残っていた。
駅前は特に狙われたらしく、大勢の方々が亡くなったと聞いている。
 でも、そんな中でも人々は焼け残った廃材などをりようしてこうやって闇市を経営している。
闇市は普通、流通している商品の価格よりも2〜3倍程、高い。それでも飢えをしのぐ為には買わ無くてはならない。私は手持ちの金額だけでは足りないので家にしまってあった着物でなんとか醤油と砂糖を買う事が出来た。
 帰りの列車もやはりの混雑様で鈴なりにぶら下がっていた。
途中の掛川で大半が降り、やっと座る事が出来た。人が少なくなると窓の外をぼーっと眺める余裕も出てきた。戦争が終わって一年も経っていないのに既に沿線には桜が咲き、茶畑には青々とした葉をつけている。窓から吹き込んでくる風が心地よかった。そこで私はうとうとと、寝てしまったのである。

それっぽいシチュエーションで

 元々、大井川で撮影した車内の写真をちょっとそれっぽく加工してみたものです。
ストーリーは完全、オリジナルで戦後の資料をちょくちょく見ながら書き上げました。当然な事ではありますが、戦争の経験が無い自分にはこうした戦後の様子を出来るだけ本当に近づけたように書くのはかなり、困難な作業なのであります。戦争が起こっていないからこそ、こんな事が言える訳で当たり前のようにある平和をかみ締めて生きていかなくてはならないと思わされます。



 

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