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・「日本に対して中国が強くなるためには武器も必要であろうし、飛行機も必要であろう。けれども自分がドイツにおける国防軍を編制し、国防軍を動かした経験からするならば、今最も中国がやらねばならぬことは、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心(てきがいしん)を養うことだ」
 中国軍の強化策を蒋介石から問われたハンス・フォン・ゼークトは、このように答えた。
 やがて、この考えは中国軍人の思想を貫き、それが核になって中国全体の反日感情になる。秘密警察組織である藍衣社(らんいしゃ)が特別な力を持つようになったのも、ゼークトが提唱した日本敵視政策を取り入れるようになってからである。


・昭和10年1月、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは「中国国防基本方針」と題する対日戦略意見書を蒋介石に提出した。
 日本が攻撃したとしても、日本は、極東に戦略的地歩を求めるソ連に備えなければならず、中国に経済的関心を持っている英米と対立することになり、日本の財力はそういった全面的な国際戦争に耐えられない、とファルケンハウゼンは分析し、中国は長期戦に持ち込んで、できるだけ多くの外国を介入させる、という戦略を示した。


・ファルケンハウゼンは、北支での戦いを主な対日戦と考えており、中国軍が近代戦に適応できないことを認めるとともに、長期戦に持ち込むためには中国政府の抗日姿勢が大切だ、と説いた。


・ファルケンハウゼンは、中国の敵を、日本が第一、共産党を第二と考えていた。中国軍が日本軍に勝利することができれば、共産党をも消滅させ得ると予測した。


・昭和11年4月1日、ファルケンハウゼンは蒋介石にこう進言する。
「ヨーロッパに第2次世界大戦の火の手が上がって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」


・日本軍の突撃は銃剣でもって敵陣地に躍り込む。
 中国軍の突撃は、数個の手榴弾を手に30メートルほどまできて一斉に投擲(とうてき)する。


・日本軍は手榴弾での突撃を考えたことがなく、兵隊の持つ手榴弾は2発で、投擲(とうてき)しても1発だけである。また、手榴弾の効果を上げるために擲弾筒を用いた。
 一方、中国兵は各自数十発の手榴弾を持っていて、手榴弾戦に限れば中国軍が長じていた。


・中国軍の攻撃の特色は夜間突撃である。日本軍陣地から数十メートルのところまで進むと、手榴弾を投擲(とうてき)して戻る。その攻撃を数回繰り返す。


・中国の街は、どこも城壁に囲まれている。
 城壁は土を固めたものから、石やれんがでできているものまであり、時代とともに頑丈なものへと変わる。
 高さは数メートルから十数メートルまで、周囲は1キロメートルに満たないものから数十キロメートルに達する。
 これら城壁は宋の時代までにはおおむね普及し、県の行政組織が置かれるような街には、ほぼ築かれ、県城と呼ばれた。


・徴兵されて入営すると、教練がおこなわれる。教練は射撃からはじまり、次いで銃剣術に進む。応急動員の命令を受けたとき、高知歩兵第44連隊では初年兵への射撃訓練は終わっていたけれど、銃剣術はまだだった。戦場では、最後に敵陣地へ向かって突撃する。これから戦場に向かう兵士が近接格闘の訓練を受けていないでは済まされない。急きょ、格闘訓練をおこなうことになった。


・連日の暑さで、どの兵隊も喉の渇きに苦しんでいた。月浦鎮に進む途中には高粱(コーリャン)の畑がある。長い茎を切ってかじると、甘みのある水分が出る。兵隊は高粱(コーリャン)をかじって前進した。


・陸軍では毎年8月に定期異動がおこなわれる。この年(1937年)の夏も大幅な異動があった。

↑支那事変の勃発が1937年だから、この事変を受けて、急きょ、大陸に動員された部隊は、その慌ただしいさなかに長などが入れ替わっている。
 俺が個人的に勉強している歩兵第30連隊でいえば、支那事変の勃発時は儀我誠也大佐が連隊長であったが、8月2日に猪鹿倉徹郎大佐が後任の連隊長になっている。
 支那事変の初期に戦った日本軍は、新たな連隊長のもとで、支那との全面戦争に突入したのである(全部が全部、そうとは言い切れないが、そのような例が多かった、ということ)


・中国軍は中央直系軍、中央傍系軍、地方軍の3つに分けられる。蒋介石が指揮する軍隊は、近代的な武器を装備し、ドイツ軍事顧問団の指導を受けた。これが中央直系軍である。蒋介石と覇を競った、李宗仁や白崇禧(はくすうき)なども直接指揮する軍隊を持っていて、精強で知られていた。蒋介石と何度か戦った後、中央軍として組み込まれ、中央傍系軍といわれるようになった。このほか、蒋介石とつながりがなく、地域ごとに独立していた軍もあった。察哈爾(チャハル)省の宋哲元、山西省の閻錫山(えんしゃくざん)、山東省の韓復僉覆んふくく)らの地方軍である。これらの軍隊は、装備が古く、軍紀も乱れがちで、依然として蒋介石の指揮には従わず、独自の動きをしていた。

↑当時のシナは統一国家とは言い難かったから、安易に「中国」と言ったり、「支那」と言ったりすることができない。しかし、そうであるにも関わらず、多くの書き手は、気軽に「中国」と言ったり、「支那」と言ったりする。つまり、それが何を指していっているのか、読者は常に、書き手の意図をくまなければならない。
 ここで3つに分類されている「中国軍」とは、国民党軍のことを指している。だから、共産党軍(八路軍)は含まれていない。
 支那事変の勃発とともに、第2次国共合作が成立して、「中国軍」は「国民革命軍」と称するようになる。しかし、その実態は、名目上の合作にすぎず、それぞれの思惑のもとに各勢力は行動する。
 山西省の地でいえば、蒋介石の国民党軍、閻錫山の地方軍(晋綏軍)、共産党系の八路軍が、歩兵第30連隊と干戈(かんか)を交えている。
 気をつけなければならないのは、「中国軍」または「支那軍」と言った際に、どこの軍を指して言っているのか、ということである。国民革命軍のことなのか、その中の国民党軍や八路軍のことなのか、それとも地方軍(軍閥軍)のことなのか、文脈から判断しないといけない。もしくは、書き手が、あえて、「中国」「支那」という、ぼやけた表現を用いて、全体を総称しようとしている狙いを察しないといけない。


・ドイツ軍事顧問団の撤退と武器売り込みの中止という日本の要望を、ドイツが拒み続けた理由は、ドイツと中国の経済的結びつきであった。昭和11年の統計によると、ドイツが武器を輸出している国別で、中国は57.5パーセントで第1位である。
 この頃、ドイツは再軍備に追われていたが、そのための外貨は充分でなく、中国とのバーターは重要だった。


・第1次世界大戦時、日本はドイツに宣戦して青島(チンタオ)を攻めた。戦争が終わると、ドイツは青島(チンタオ)を中国に返還し、ドイツの持っていた南洋諸島は日本が委任統治することになった。結果的に、山東省や南洋諸島の権益を奪うことになった日本に対して、ドイツは反感を抱いた。

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