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(1月27日(日)の活動日記)
● 『もう1つの成人式』へ行ってきました
今日は、成人式へ行ってきました。
「え、成人式はもう14日に終わったじゃん?」
と、思ったあなた、その通りです。
そうなんです。
今年2回目の成人式への来賓参加です。
横須賀市が開催した成人式とは全く別の、
『横須賀市肢体不自由児者父母の会』による成人式に
今日は行ってきました。
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昨年12月に招待状を頂いてから年始にかけて、
いつもこの成人式のことを考えていました。
・横須賀市が開催する成人式に
何故みんなが一緒に参加できないのだろうか
・障がいの無い人もある人も同じ成人式に参加して
一緒に祝いあうことがどうして難しいのだろうか
率直にそんな気持ちを招待状へのお返事に書きました。
それに対して『父母の会』の方からとても熱心なお手紙を頂いて
さらに新年になってからも
何度かお話をする機会がありました。
お会いするたびに
「ぜひ来てくださいね」
と熱心に誘っていただきました。
フジノは市が予算をつけて開催している成人式には
とても批判的な立場なのですが
(市が予算をつける成人式は廃止か入場料を取るべきです)
父母の会の方々の熱心さにこころを打たれて
(もともと出席するつもりでしたが)
「これには何があっても絶対行くぞ!」
と思うようになりました。
(いつも様々なイベントに遅刻しがちなフジノが
今日は誰よりも1番のりで準備前の会場に到着したのは
その想いのあらわれです)
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こないだ市が開催した14日の成人式に
車いすに乗った方々が
数名だけいらっしゃってました。
横須賀アリーナのどでかい会場の最前列に
付き添いの方とステージの方向を向いたまま、
プログラムの中で最もつまらない市長あいさつまでだけ滞在して
メインである同級生との自由な歓談の時間になったら
みなさんがスッと帰っていかれたのが激しく印象に残りました。
歓談の時間こそが成人式のメインであって
市長あいさつなんか聞いてる人は誰もいませんし、
市長や来賓がいるステージ側を向いている人もいません。
けれども、そのステージ側を向いたまま、
つまらないあいさつを聞いたら
同世代との再会を喜んだり語りあったりすることもなく
帰っていかねばならないのは、
見ていた僕でさえ胸がズキズキしたのですから
ご本人たちの想いはいかほどのものかと感じました。
何故こんなことになってしまっているのだろう。
これは僕たち政治家の責任です。
政治家として本当に情けなくて
申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
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今日は、出席できなかった方もいらっしゃったので
お2人の女性の成人をお祝いしました。
成人、おめでとうございます。
また、今日参加できなかった全ての方々に対しても
こころからお祝いを申し上げたいと思います。
おめでとうございます。
総合福祉会館のてっぺんにあるレストランで
規模としては確かにささやかなお祝いです。
でも、市の開催している4000人以上参加した成人式に比べて
こちらに集まったのはわずか40名でしたけれども
大きな意義があるなあと感じました。
フジノは率直なところ
「市の成人式を廃止して
こっちに予算つけろよ」
と思いました。
とても素晴らしい成人式でした。
また来年もぜひ参加させていただきたいと思いました。
● ふだんから考えていることを改めてこの機会に書いてみる
読んだ人が不快になることを承知で
ふだんから考えていることを改めてこの機会に書いてみます。
障がいのある方々は、
平均寿命が短くて、若くて亡くなる方が多いです。
(いわゆる『統計による一般的な傾向』です。
もちろん全員がそうではありません)
その事実は、当然ながらご家族の方々も知っています。
生まれてからすぐに、
あるいは幼児期に、
脳や心臓の手術を何度もしなければならなかったり
何度も何度もこどもたちの生命の危機に立ち会ってきて
だって、例えば歯医者に行くのでさえ、
全身麻酔しなければ治療をしてもらえなかったりして
言葉にはしなくとも少しずつこころの中で
その事実を事実としてのみこんでいきます。
自分よりもこどもが早く亡くなるかもしれない、という
事実をうけとめながら
親として生きていく訳です。
20才まで生きてくれて
本当にありがとう
と、ある親御さんがおっしゃいました。
その言葉に僕は親でも無いのに同感して涙が出そうになりました。
20年間を生きてきたご本人とご家族に対して
こころから感謝の気持ちがわきあがってきました。
● 生きるということの意味
生きるということの意味は何だろう?
僕たちはただの生物だから
遺伝子の命令に従って本能として
生まれたからただ生きていくだけだ。
漠然として生きる意味も分からないままに
いや、考えることを避けて、目先の出来事をこなして
ただ生きて、ただ食べて、ただ老いて、
テレビを見て、流行りに流されて、
ぶくぶくと中年になって、
ぐだぐだと仕事のグチをこぼして、
世の中の大半の人々にとって生きるということは
何の意味があるのだろう?
人間には意味が必要だけれども
意味を放棄しても
生物だから生きていかれる。
でも、僕はそんな生きるはイヤだ。
苦しい状況や厳しい状況に追い込まれると
人間はその意味を考えずにはいられない。
言葉にするとかしないとかではなく
何度も何度も生きるということの意味を
直視しなければならなくなる。
途中でやめることだって、できる。
だけど、そうしないで生きるのは
受け止める決心や覚悟をどこかでつけたから。
「がんばった人が報われる社会が好ましい」
と、今の世の中では多くの人が口にする。
じゃあ、大半の人々はそれほど
がんばってないじゃん。
仕事を残業してまでやとりげたとか
効率的な仕事の工夫をしたとか
儲けをたくさん出したとか、そんなレベルの話でしょ?
そんなもんはがんばったうちに入らん
と、僕は思う。
僕もこころの底から
「がんばった人が報われる社会にしたい」
と考えている。
だからこそ、
「がんばった」が報われる社会にする為に
政治家として政策の実現に向けて活動している。
『生きる』は、生物として本能的に生きていくだけではない。
それを直視して生きていかざるをえない人々や
それをリアルにがんばっている人々こそ
報われる社会に僕はしなければならないと考えている。
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