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(2008年3月25日(火)の活動日記)
● 離別の悲しみ、信念を見失わないで歩き続けることの困難さ
今日で予算議会が終わりました。
予算議会の結果、市の制度などが変わっていくことは
また後日、改めて紹介させてください。
エンドレスで朝から真夜中まで断続的に仕事が続いていく
『議会が無いシーズン』よりも
会議が必ず朝10時から始まって遅くとも夜19時には終わる
『議会があるシーズン』の方が
いつもは心身ともにラクなのですが
今回の予算議会は、心身ともに本当にハードな日々でした。
政治家の『仕事場』は『議会』ですから、
3ヶ月に1度の議会シーズンがやってくると
責任の重さに押しつぶされそうになると同時に、
「やっと議会がやってきた!」
と待ち望んでいた気持ちが沸いてきます。
しかし、今回、政治家になって丸5年間が経つのですが
「やっと予算議会が終わってくれた...」
と、今日の閉会に、また、何とか乗り越えることができた自分に、
初めてホッとした気持ちになりました。
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予算議会が始まる直前の、2月13日のカフェトークのことでした。
僕に、教えにきてくれた方がいました。
かつてカフェトークに参加したことのあるAさんが、
自殺によって亡くなっていたことを、
その方は僕に伝える為に来てくれたのです。
Aさんが亡くなったのは、半年以上も前のことでした...。
カフェトークに参加したことのある方が亡くなってしまったのは、
これで2人目となってしまいました。
Aさんは、ある時期、半年間ほど
毎回のようにカフェトークに来て下さった方でした。
僕は新しく知りあった方とはなかなか親しくなれないのですが
Aさんとは親しくなりました。
黒いタートルネックのセーターがとても似合う
スマートなタイプの男性でした。
ある時、偶然まちで出会ったAさんと
向かう方向が同じだったので
Aさんの車に乗せてもらったことがあります。
僕は、本当にガンコで
あらゆる他人の親切心を拒否する性格なので
誰かの車に乗せてもらうということは、仕事上、まずありません。
どんなささやかな貸しも借りもつくりたくないという性格なので、
その意味では、
Aさんのことを仕事の関わりではなく
プライベートでの関わりと感じていたのだと思います。
お仕事を休職していたAさんは
その後に仕事に復帰して、元気に働いているということを
1度、メールで報告してくれました。
それから、半年間以上、つまり2月13日に至るまで
月に数回、僕はAさんにメールを送り続けていました。
「Aさん、おつかれさまです。フジノです」
「お元気ですか?最近はお忙しいみたいですね」
「気が向いたらまたカフェトークに遊びに来てくださいね」
返事は1度も来ていませんでした。
でも、僕は気にしませんでした。
なんといっても男同士のメールのやりとりなんて
返事なんか来ないのが当たり前なのですから。
こうして僕は、Aさんが亡くなったことを知らないままに
半年間も彼の携帯電話にメールを送り続けていました。
それを知った夜、僕は激しいショックに襲われました。
カフェトークはAさんにとって
居場所として機能していなかったのか、
という絶望と同時に
僕という存在はAさんにとって
その死の淵に追いこまれたまさに瞬間に
助けを求めるべき存在にはなりえなかったのか、
という激しい無力感に襲われたのです。
自分の無力さに、ただ言葉を失いました。
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本会議を前にして初めて気力の限界を感じた僕は
このHPに掲載する為に
『一般質問をしないことを許して下さい』
『予算審議を乗り切る自信がありません』
というお詫びの文章を書きました。
放り投げてしまいたかったです。逃げたかった。
けれども、目の前の予算議会を前にして
あきらめる訳にはいきませんでした。
やるべきことはあふれていました。
たくさんの方々の声を聴いてきた
その役割を果たすべきだという義務感がいつもありました。
丸1日悩んだ後で、その文章の掲載をとりやめて、
とにかく予算議会に向きあうことにしました。
そうして、とにかく1日ずつ乗り越えようと決めました。
とにかく必死に市長への質問原稿を作って
雑誌のインタビューに答えて、
新聞の取材に答えて、
全国から頂いたメールを1つずつプリントアウトして読んで
資料の山をポストイットと蛍光ペンで読みこんでいって
市役所の担当部署にヒアリングをして
そのことは質問しないでほしいとか言われても笑顔で受け流して
1秒でも長くモニターの前に座って原稿を打つ気力をふりしぼって
なんとか、3月3日の一般質問を迎えることができました。
忙しくして何も考えないようにすれば
何とか乗り越えられるのではないかと感じました。
徹夜して資料を読んで、カフェトークも休まず開催して、
HPも毎日必ず更新して、とにかく休まず、とにかく前に進む。
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こうやって1ヶ月の山を乗り越えられようかという
つい先日のこと、
フジノ事務所のすぐそばのお宅に暮らしていた
Bさんが亡くなったことを知りました。
ごみを出す時や、道ばたで出会うたびに、
Bさんにあいさつをしていました。
毎日のように見かけていたのですが
ある時期ばったりと見かけなくなって
とてもその不在が気になっていたし、
家族との会話でもその不在を話題にしていたのですが、
Bさんのお宅にまで行ってみようとは
その時期の僕には全く思いつかなかったのです。
今思えば、もしも予算議会でせっぱつまっていなければ、
ずうっと不審に思っていたのですから、できたはずなのです。
ある日、ご近所の方がお宅を訪れて
倒れていたBさんを発見して救急に通報したとのことでした。
僕はその1週間ほど前に、
民生常任委員会の所管事項で『孤独死』の問題をとりあげて
健康福祉部にもっと取り組みを加速させるように提案していたのでした。
僕は、政治家として自分が偉そうに提案してきたことと、
目の前で起こっていた出来事を防げなかったことに
埋めることができない溝を
激しく意識してしまいました。
個人として防げないことを、政治家として予防できるのか。
集約するとこの一言に尽きるのですが
Aさんの死を多忙にすることで無意識の中に封じ込めようとしたのを
Bさんの死が再び剥き出しの現実として引きずり戻して
僕を向き合わせたのです。
正直なところ、僕は政治の力で何ができるのか、
時々、自分の信念を見失いそうになりました。
その間も、台湾のメディアが一般質問をとりあげてくれたり、
教育界の専門紙の記事が掲載されたりして、
動けば、もがけば、道ができることを自分が示していることを
まわりは受け止めてくれているようでした。
でも、その自分自身が、目の前のリアルな死を
現実として防ぐことができていないこととの溝が
どうしても僕には理解できない、
感情的に乗り越えられないのでした。
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この2つの失われた命と
どう向き合うべきなのか、今も答えは出ていません。
何とか閉会を迎えることができた今、次の議会まで
しっかりと悩みぬいて、その答えを探したいと思うのです。
もちろん、1人の個人としてできることには限界があるから
公の立場という手段を選んで政治家に転職したのです。
けれども、僕は自分の力で命を救いたいという気持ちから
全てがスタートしているので
いつも迷うとスタートに気持ちが戻ってしまうのです。
そして、政治家という安全地帯から
予防策を偉そうに提案している自分をひどく嫌悪するのです。
ふだんはその唾棄すべき矛盾を
目的を実現する為にはしかたがないことだと覆い隠しているのですが
剥き出しのリアルを目の前にした時に
自分のこころの中で決着がついていないことなので
いつも激しいショックを受けて、動揺して、歩みが止まりそうになります。
だから今は、次の議会まで
この現実から目をそむけないで答えを探したいと思うのです。
きっと見つかることは無いにしても、それでもしっかりと悩んで、
個人としての自分と公の立場としての自分との間に
溝や乖離が無いように
再び信念を確かなものとして抱き続けることが
できるようになりたいと思うのです。
ようやく予算議会が終わりました。
もちろん閉会していても何かが変わることはなく、
24時間、公人であることに変わりは無いのですが、
この先2ヵ月半はたとえ仕事の能率は落ちても
多忙で自分をごまかすことなく、
目の前の現実に向き合っていきたいと思います。
いつもふがいないフジノですが、どうかお許し下さい。
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