福縁譚

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挿入書き:

明永楽四年、景徳鎮窯に御窯廠を開設された。近古代景徳鎮官窯の歴史を開いた。
元の時代に雲南から呉須顔料が景徳鎮窯に運ばれ、染付や釉裏紅技法を花咲かせた。その製品は雲南ー安南経由で東南アジア諸国へ運ばれた。また、元朝廷枢府と内府の官注より卵白磁ものも多く生産された。

元の時代に景徳鎮窯が興起したが、元朝廷に官窯制度はなかったから、官注品の受託生産でしたので、落款がなく、識款だけがあった。

元末になりますと
元至正二十年5月に、反元紅巾軍頭領の陳友諒氏が武漢にた”大漢国”を建立、元朝廷から脱離した。江西省景徳鎮窯は”大漢国”の勢力範囲に入ったが、北方と陶磁貿易は継続されていたと思うけれども、元の年号を落款することは不可能になると思います。だから、景徳鎮ものは至正二十年以降の落款はない
また、”大漢国”の官用陶磁も景徳鎮窯へ注文しているに違いない。

至正二十四年2月に、陳友諒軍は、同じくもと紅巾軍頭領の安徽省出身の朱元璋軍による撃破され、景徳鎮窯地区は朱元璋(当時は呉王と自称していたが、後の明国初の皇帝洪武皇帝)の勢力範囲に入った。

元末の浙江省龍泉窯の地は至正二十三年3月から、反元農民軍張士誠軍が建立した”呉越国”の勢力範囲に入った。
同じく、”呉越国”開国祭典用の陶磁一式は言うまでもなく、龍泉窯しかない。
以前のブログで書いた”明初処州龍泉官窯”は”呉越国”の官注品の可能性もある。

至正二十七年十二月に、朱元璋軍は”呉越国”首都の江蘇省高郵城を占領した。呉越国の消滅により、処州龍泉窯地区も朱元璋軍の勢力範囲に入った。

洪武元年(至正二十八年、1368年)正月初四の日 朱元璋は南京似て明国を建立。同年八月に明軍が元大都北平(現在の北京)を占領。

南京は六朝以降、元までに首都になったことがないから、礼儀制度上で、明開国祭典や宮廷内府、祖寺祭廟用の陶磁器一式はすべて作って貰うしかない。
占領したばかりの龍泉窯へ発注するか、または四年前に領地に入った景徳鎮窯へ発注するか?
その答えは、簡潔明瞭で”景徳鎮だ”と言うでしょう?・・・
そう思う、そうなるはずだと思うけれども、歴史は意外に面白いで、
多分そうではない・・・

明朝廷初めの注文陶磁は龍泉窯か景徳鎮窯か?明史稿には明らかな記載がない。
けれども、
明洪武年製と判定される重厚な黒呉須黒釉裏紅器が多く遺伝されているので、明の時代最初の時期から、景徳鎮窯が繁盛していることは間違いない。
(これも、別の理由がある!)

ちょっとだけ話が更に逸らしますが、なぜ洪武年景徳鎮窯の染付が黒いかと聞くと、発色明快な雲南産呉須は手に入れないから、江浙地区の土青呉須を使うしかない。雲南省の元軍が明国へ降伏した時期は、なんと建国の十五年後でした。だから、明の最初の20年弱で、景徳鎮窯には優良呉須はなかった。
この状況を打破したことは、永楽年になってからで、詳細は後で述べます。
(似たような状況が清初期の景徳鎮窯のもあった。)


文献記載上では、明史に於いて、最初に景徳鎮窯のことを言及したのは:
清・汪汲《事物会原》卷二十八.古饒器項目:“明恵宗建文四年(1402)壬午,始開窯焼造,解京供用。”と一句があります。
訳:明建文四年7月に、初めて窯を開き、その製品は京都(南京)の用へ供奉し始めた。
この記載を理解するために、以下の2つの注釈をまず読んでください:
注1:明恵宗は明の2代目の皇帝建文皇帝の廟号です。建文帝は洪武帝の長男長孫です。洪武皇帝の長男が太子時代に亡くなりましたから、親譲りで、明の二代目の皇帝として即位したが、僅かに4年目で洪武帝の四男の朱棣(燕王、後の永楽大帝)に皇帝の座を奪われた。
注2:古饒器とは、景徳鎮窯の製品のこと。景徳鎮窯の名前は宋の時代に付けた名前で、その前には饒州との古名があったから。

つまり、明朝廷が初めて景徳鎮窯へ徴用したのは、なんと二代目の皇帝がなくした後である!?
うん?
史書の記載により:
建文四年7月13日の日に、反乱した燕王朱棣は燕軍を連れに南京城を陥落した。南京皇宮が燃やされ、大火事の中に建文皇帝は失踪した。
って?皇帝が失踪したのに、じゃ〜、だれかが景徳鎮窯へ徴用したかと言いますと?

もうちょっと史書を読んでもらう・・・
7月十七日に、燕王朱棣が南京城にて”皇帝”と称す。年号は永楽。建文皇帝を認めないから、同年の年号を”建文四年”から”洪武三十五年”へ更改した。
翌年から、永楽元年とする。燕王の封地の北平(北京)も南京と並びに、北京へ改名した。

つまり、建文7月の南京で、都の再建再開のの責任者は燕王朱棣でした。だから、分かることは、永楽皇帝が称帝の時から、初めて景徳鎮窯を御用にしました

では、ここから文理上で逆推理しますと、明初めの三十五年の御用窯は景徳鎮窯ではないのだ!
つまり!!!龍泉窯しかない。でしょう!
という否定ができない文献記載なのだ。


この論拠から、私が書いた”明処州龍泉官窯”や”哥窯狂想曲”などの記事に、明の初期に、処州龍泉官用品の窯は存在していた佐証になります。

この結論を認めてから、再び振り返してみますと、
明朝廷の建国理念は漢文化の復興にあります。つまり、明朝廷建国方略は漢民族伝統の”周礼”を基準にしているから、宮廷用品祭器供奉器などすべて元の前の宋の時代の典型に復興するわけ、だから、南宋官窯のゆかりの地にある龍泉哥窯が選ぶことは文化を選ぶことで、明朝廷建国の時は絶対また存在している元朝廷と同じものを選ばない。

青磁は漢文化上では上品の制式で、景徳鎮の卵白釉はモンゴル人の趣味だから、そこは趣味が分かれますよね。
そして、景徳鎮窯の青花や釉裏紅はすごっくいいだから、一般用品や稼ぐための貿易商品にしては問題ないが、国家祭典用品はやはり官窯青磁だ。格は違うだから!!!
(なぜか、ここまで書くと私が自分も納得してしまった。W)

ちょっと待って、残る疑問点がある。つまり・・・仰る通りだと思うけど・・・
なぜ燕王朱棣はいきなり景徳鎮窯を選んだか?龍泉窯が嫌いのでは?・・・

多分こゆう重大なことですから、皇帝一人で決まることじゃないと思う。
要するに、
まず、前朝への”反抗心”と”警戒心”が潜意識でも明意識でもあると思う。
建文帝を殺して、以前の官僚はすぐ協力してくれるかは問題だ。史実上は、建文帝時代の大臣は多く殺されていた。だから、昔の仕事関係はすでに存在しないので、
新規開拓が必要な時期にもある。

そして、またまたある。燕王朱棣の頭に未来に関しては重大な理想があります。彼の理想を近付くために、宮廷用陶磁器は軽いものでないといけないという必須条件がある!

軽いもの選びたい、景徳鎮窯が軍配があがった!
その理由を明す前に、皆さん、続きの後半部分でもう少し史書を読んでもらうわ。W

(続き・・・)

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東洋美術福縁堂主人

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