福縁譚

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明宣徳年の次は正統年、景泰年、天順年。更に後ろは陶磁史上有名な成化年です。宣徳と成化の間の三つの時代は景徳鎮官窯製品に記年落款がいまだに発見されていないから、空白なままですから、骨董業界では、この三つの時代を”明空白期”と呼ぶ。

落款はなかったけれども、同時代に景徳鎮窯の遺品が残っています。特に青花壺の独立した風格が有名です。
(明空白期青花大壷)
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(明空白期青花梅瓶)
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(明空白期の壺の底部、土が雑で厚い、仕上げの削りがほとんどしない。
この時期からは優良な麻倉土もなくなっていると思う)
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ご覧の通りに、なぜか明空白期の器の造形が粗大な元朝風格に復旧していた。
しかし、絵付けは独創的な風流と夢想が感じられます。元時代の主題風格の人物物語絵は、縮小した形で、一種の風景場面画になり、上下留白部分に、如意雲文や風の流れを表現する流れ雲文で装飾するようになります。
こゆう雲文装飾様式が明中期以降に陶磁窓絵風格を生み出した。


一般歴史的な見解では、明空白期の政治空気は国事より風月だという西晋の時代と似っている。要するに、外は戦争、内部は紛争、多くの文人士族が乱れに関わりたくないから、世間を超越した山水の世界を夢見している。

モンゴル帝国が永楽皇帝の討伐により解体されたため、従属性質の草原民族瓦刺族(オイラト、今の新疆ウイグル属の祖先という説がある)が独立した。
永楽皇帝が死去後に、オイラト部族が興起した。正統年初期に明朝属地へ侵攻が始まり、明とオイラトの戦争になった。
正統十四年9月に、正統皇帝が西方へ親征して失敗し、土木堡でオイラト軍の捕虜になった。史書上では”土木堡の変”と呼ぶ。
まもなく、正統皇帝の弟の景泰帝が即位して、オイラトと談判の結果、年貢や割地を条件に戦争を終結されたほか、なんと正統皇帝も放還された。

しかし、この放還が明国内部の紛争の起因になったが、景泰8年に、正統が腹辟し、”天順”と改元。
だから、明空白期に景徳鎮官窯はきちんと管理されていなかったと思います。また、戦争や賠償のために経費がないも原因で、官窯も放任されたと思う。
最後には、宣徳年中から銅器が作り始め、特に宮廷貴族家の装飾用品が銅器を好む傾向がありました。


実に私から言えば、明空白期に景徳鎮窯の退廃は、更なる深い原因があります、
それは、永宣年間で景徳鎮窯が高度成長したから、土や顔料など原材料がほぼ底に着いたかと思われます。
明空白期から始め、明中期の正徳四年までに、優良呉須はなかった。
そして、麻倉山に優良粘土もほぼ掘りつくし、萬暦中期まで高嶺山粘土が発掘されるまでには、よい土もなかった。
しかし、高嶺土が発見された当時に、その土の特性が柔らかすぎたために、成形上が難しかったので、だから、
萬暦の器が厚いし、形も歪みが明らかです。
(萬暦青花碗)
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明末から清初に渡り、漸く、高嶺土と瓷石粉と混合した二元配合が開発され、清康煕20年の唐窯により、完成されたため、
薄い、硬いという景徳鎮窯の代名詞のような優良陶磁が生まれたのであります。
(清唐窯青花)
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明一代に一つ例外な時期があります。
空白期直後の成化年に土の精練技術が開発され、極一部少ない宮廷特注用品に非常に繊細な精錬土が使わていたが、やはり、原料がすくなかったと精錬術のコストの問題で、官窯に精良な大型器具はなかった。
だから、骨董業界には”成化無大器”ということわざがあります。
(図:大明成化年製)
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成化窯から、官窯の落款はまたきちんとするようになりました。落款の形は記年分文字と更に双線環や双線格で囲む形にしています。落款まで装飾することは明初と一線を画く繊細な風格に変化した。(空白期から成化〜明嘉靖までは明中期と言う。)
このことから、成化官窯の管理が回復したと思われますが、それも訳アリです。

成化皇帝は一生趣味がない人生を送ったと言われたですが、なぜ、宣徳以降の宮廷に”銅器七宝”趣味を陶磁に変えたというと、成化皇帝の乳娘だった万貴妃の趣味かと史学家がそう言ってます。

成化皇帝は正統皇帝の長男太子でしたが、景泰皇帝即位後に廃太子になり、軟禁生活を送っていた。そのごろに万貴妃だけが面倒を見てくれたから、天順皇帝復位後に解放され、および太子に復位した。
しかし、人はすでに臆病ものになり、宮廷内では万貴妃以外に信頼するものがいなかった。

成化皇帝が即位後に、朝廷内外の政治はほぼ万貴妃に把握されたという。(”貴妃専権”)
だから、、万貴妃が好む”精巧な彩器”を献上品として作らせる王族官僚が結構いると言われる。つまり、”成化豆彩器”は一番喜ばれる献上品であった。絵付けも永宣年の宮廷古典風格を一除して、農家景色や市井風情のような絵画風格になったことも”女趣味”だと言われている。
(成化闘彩鶏缶杯)
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明空白期後期にオイラト族が内部でハーン位の争奪が始まり、混乱がモンゴル草原チベット高原へ発展した。逆に明国への脅威がなくなったため、明国の情勢が安定していくと、成化年初めりに、景徳鎮官窯が再度体制を備え、深層粘土が雑質が多い問題を対処して、土の精錬術がを取り掛かった経緯と政府からの支持の要因があった。
その支持は”陶磁貿易”ではなく、宮廷趣味ですから、精良な作品の遺留も非常にすくないので、成化年の優良陶磁器の市場価格は今は”天文数字”のものです。
なお、官窯記年落款以外に、特殊文字の”識款”もありました
(成化窯”天”字蓋缶)
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(文献上に関連記載がないが、推測ですが、”天”は天子を指す識款で、献上品の記号です。)

また、ペルシアから輸入した色濃いな優良呉須が尽くしたため、成化窯も国産呉須を精錬した。淡雅明快なブルー調と潔白の精錬土との映し合いの結果は非常に目に優しい感じのものができました。
成化青花の発色は、艶麗な五彩顔料との配色効果も”対照明確”、”主次分明”にして、絶賛されている。
(成化窯青花梵文杯)
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(続き・・・)

東洋美術福縁堂主人

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