福縁譚

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ちょっと各節の順番号が乱れているようですが、時間軸羅列でで読みやすいと思いますので、これでいいのでしょう!

明中期には基本的に官窯があって、双線環楷書式または双線格楷書記年落款があって、落款上は特別にところがないと思いますが、この様子は明中期官窯が一貫してちゃんと生産管理されていると理解すべきであります。

明中期の始まりの成化年は、まるで暗闇からの夜明けで、成化闘彩器は新生児のように可愛いものでしたが、成化年以降に、同様に可愛い風格の陶磁器は作れなかったから、中国陶磁史上の絶唱であります。

成化窯は精錬土と精錬呉須を丁寧に作ったものですから、コストの考えはなかったと思います。陶磁を再度宮廷に呼び戻す”モデル”のような役割があったかと思いますが、しかし、それから、景徳鎮窯はおよび大量生産モードに再開しましたが、やはりコストの問題で、成化窯ほどの精錬土と精錬呉須はそのまま生産に投入しなかったことは成化以降の明中期官窯遺品から証明されています。


成化時期に輸入呉須の代替品として景徳鎮所在地の江西省の山から採掘された”平等青”と呼ばれる呉須を含まれる土を精錬したものの、発色効果は清楚淡雅で非常によかったけれども、生産コストが高い。
(成化窯 闘彩缶 平等青落款)
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(清康煕窯倣大明成化年製落款、珠明料)
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以降の弘治窯、正徳窯、嘉靖窯までに”平等青”を使った染付は発色が重く暗くなり、成化染付のような綺麗な発色の再現は極少ない。
(弘治窯落款 平等青)
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(正徳窯落款 平等青&土青&正徳回青など)
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純粋な呉須鉱石がなかったことは、明中期の中心点を過ぎたところの明正徳年で解決された。

歴史のいたずらかもしれませんが、景徳鎮窯におよび優良呉須を齎した明の時代の”悪政”の一つ”宦官外放制度”である。

古代中国の朝廷には宮廷内務を努める”宦官制度”があります。歴代朝廷典章に内務を従事する宦官は国政を立ち触ることはできないと明記しているほか、宦官は地方へ出向することも禁止されている。違反すれば、死罪を問われる。

けれども、坊ちゃん+やんちゃ=正徳にはそんなルールは関係ありません。
正徳皇帝という人物は自分の世界に生きている人間で、紫禁城に住むことだけで意気が苦しいのだ。そのため、紫禁城の他所に”豹房”という世界級の別宮を作って、そこに起居住んでいた。

なぜか”世界級”というと、世界から集めた珍奇動物や珍宝を集め、各地風情の人物を呼び込んで、楽しんでいた。要するにアフリカ動物園+アラビア市場のようなところです。

しかし、正徳皇帝はそれでも満足せず、何年に一度自ら自へ”大将軍”と任命して、いきなり大軍を連れて、長城の関所を出って、遠征してしまう。

”運命”というものは、信じるしかないと思います。このやんちゃ皇帝はなんと一度も戦争に負けたことがなかった。いつものように、勝利を収めて凱旋の儀式を楽しんでいた。更に、勝利後に自分を”大将軍”から”大元帥”とか、なんとか総兵官、なんとか王とか無制限に昇進してしまう。軍中では、皇帝ではなく、”朱寿”という偽名を使っていた。
(”寿”とは寿命、長生きであるけれども、棺桶の意味もあるから、正徳皇帝の場合は偽名に”寿”字を使うことは戦争で死ぬという冗談交じりの意味が含まれている。)

その乱れぶりに、地方の王(寧王の乱)が反乱してしまったことがあって、正徳皇帝はなんともないように、”総兵官朱寿”の旗を担いで”御駕親征”した。
やはり、それも勝ちました(W)。

実は正徳皇帝が陣前到達前に、あの超有名学者、陽明学祖師哲学者、軍師の”王陽明”先生が、民兵を徴用して、寧王の軍隊を勝ち抜いたけれども、やはり、正徳皇帝は自分が戦わずに戦争終了の結果に大に不満でして、王陽明に”寧王と軍を放還”を命令したという。
最後に、正徳皇帝の親征軍勢で、毛が抜かれた鶏のような寧王と寧王軍勢を囲まして、再逮捕したという芝劇を演じてから、漸く満足して都へ。

こんなおぼちゃま王様ですけれども、勝っただから、遊びかなんか言わずに、運命を信じるしかない!

正徳十五年、31歳の正徳皇帝は水遊びで龍船が転覆して落水、すぐさま病状悪化して寝たきりになる。
翌年の正徳十六年に病気でなくなりました。
死ぬ前に”罪己詔”を下し、”国政はこれほど荒費になったことは、すべて俺の過失で、お前ら大臣たちの罪ではない。”と
中国史上にもっとも無法度な皇帝の口から、中国史上にもっとも良心的な言葉を吐露した。

史学家の研究によりますと、正徳皇帝の滑稽な行為の根本的な心理原因は”皇帝になりたくない”であるという。
本人も”だれか皇帝なりたいなら、譲る”と話したことは史書に記載されている。


ちょっと離れすぎって・・・では、そろそろ本題に戻ろう。
正徳年に皇帝不在だから、内府の宦官たちが、皇帝の代わりに国政を立ち触ることが多い。
地方諸王の不穏を監視するため、内府は宦官を藩属国へ外放して、監督役を担任する。
この行為は”国の典章”を違反したけれども、当朝の皇帝本人は楽見しているから、大臣たちが反対しても無駄でした。
処に、雲南省に外放された宦官は雲南にコバルト鉱石があるということを知り、さすが内府の役人ですが、それは大事な鉱石だと分かっているので、すぐ発掘を命じて、景徳鎮御窯に輸送した。
この雲南省産の呉須の発色は濃重明瞭な群青色です。

また当時の雲南省は中東イスラム地区へのルート地帯だから、”回回青”と呼ばれている。もし、産地は中東に近い雲南省西部にあると私はそう推測しています。

景徳鎮窯が正徳中期から使用始まって、嘉靖時期の”回青”顔料の純度が高く、鮮烈な群青色を表すので、”佛頭青”の名で有名です。(大仏の髪色)
(大明嘉靖年製 佛頭青)
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この優質呉須を使った景徳鎮制造はおよび東南アジアへの輸出で人気を得った。当時日本の伊勢国に”五良太甫呉祥瑞”という伝説人物がわざと景徳鎮へ訪れ、5年あまりの勉強で、佛頭青を使った染付の茶道具を作った。それは”祥瑞焼”の誕生物語ですが、祥瑞焼について、もっと詳細の歴史討論は以前書いたブログ記事があるので、当ブログ記事リスト画面で、”五良太甫呉祥瑞”を検索してみてください。
(祥瑞焼落款 正徳回青)
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正徳皇帝が没後に、子嗣がないから、いとこ兄弟が即位して、嘉靖年になる。
嘉靖年は45年あまりに長いので、萬暦初期になると”佛頭青”は掘りつくしたため、
萬暦朝には”土青”と呼ばれる現地産の暗い呉須を使うしかないので、染付器の見栄が悪くなり、直接萬暦五彩の発生を関係している。

萬暦期間の重い、暗い染付と漆のような濃厚な赤、若い緑と、密蝋のような黄色とのパレットが一つ特別な陶磁品目、”萬暦五彩”を作りだした。
(大明隆慶年製 土青混合回青顔料):隆慶年は嘉靖年と萬暦年の間の短い時期です。
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それぞれ時期の落款の真贋の判断には、落款の字形書写以外に、それぞれ時期官窯が使う呉須の種類との整合性がないか?との総合判断が必要なので、この結束語は本章の趣旨です。

(続く…)
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東洋美術福縁堂主人
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