福縁譚

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年号がない記年落款はまた以下2種は見られる。
大明年製”と”大清年製”と
文言上は”大明年製”や”大清年製”は間違っている言葉です。

大明や大清は国号で、年号ではないから。
このケースは官窯器と民窯器ともに見られますが、
そゆう年号がない書き方にした原因は少々述べます:

”大明年製”の落款はあの”古染付”でよく知られる明天啓年の後期のものです。
明萬暦年と天啓年の間に一瞬という超短い”泰昌年”があります。
泰昌皇帝は即位して30日で”長寿不老”の薬を飲んだせいか、暴死した。あわてて、皇長子の朱由校(天啓皇帝)が登極させたが、天啓皇帝となったけれども、この王様は太子の教育はまったく受けていなかったため、国政外交に対して概に無知無力ですから、政務を一斉に朝廷大臣と内務宦官に任せてやった。

では、王様はなにをやっているかといいますと、
天啓皇帝は大の木工好きで、皇居内に御用の木工製作所を開いている。
朝から晩まで、木工や彫刻、漆作など数々の名品を作り上げたと言う。
新しいデザインができるたびに、大臣たちを呼び集めて賛美を受けることも大満足らしく、自作の木工作品を京の市場に持ち出して売り出すこともあると時の商人は”ご作”の家具を手に入ることは人前で非常に栄光のあることだという。

天啓皇帝も自作の木工を超高額で売れたことを自慢にしているらしい。
この歴史から、天啓赤絵と天啓青花の紛雑で細小な模様を一面に埋めつくすような絵付け方式は、漆彫や木工彫刻に似ってませんか?
(図:東京国立博物館蔵 萬暦赤絵)
イメージ 1

似ってますよね!これは王様の趣味ですから、陶磁器も漆器のような模様にしてしますです。

このような政治雰囲気ですから、当たり前のように、天啓年には朝廷内部大臣たちの派閥争いが休むことはない。
天啓年内務宦官の頭は朱由校幼い時代に面倒見てくれた宦官の魏忠賢という人物ですが、この人は朱由校の乳母と交好のため、内廷では絶対の信頼と権力を手に入った。

天啓五年、朝廷内に”文人内争”の”東林党争”が激化したため、魏忠賢が東林党鎮圧を乗り出した。
天啓六年、東林党の人達はほとんど逮捕、処死された。それから、内府宦官のは朝廷の柱となって、人は魏忠賢のことを”九千歳”と呼ぶ。(皇帝は万歳ですから)。
朝廷内外の官僚たちは、迫害を恐れて、どいつもこいつも一先速足で魏忠賢を親分として派閥の門に入った。
一時、地方官僚まで子分入りになって、各地に魏忠賢を供奉する祠廟を建設した。
天啓五年、天啓皇帝が魏忠賢に”顧命元臣印を与える。政権をすべて任せた形になった。朝廷内大臣は全面的に魏忠賢から聴命するようになる。

天啓七年七月、天啓皇帝が重病の時に、皇弟の信王を呼んで、魏忠賢を重視するように勧告した。”将来に皇帝の座を魏忠賢に譲ることも考えてほしい”と
(元の言葉は”吾弟當為堯舜”と、堯は血縁がない賢明な舜に王の座を譲った典故を言い出した。)

魏忠賢のことを嫌悪している信王(後の崇禎皇帝)はそれから、病気と自称して自宅で隠居した。
信王は重病の天啓皇帝に後を託された様子を伺った魏忠賢は、兵部大臣を脅迫し政変を謀る。

八月十三日にに天啓皇帝が駕崩した。信王は一足先に藩兵を京城に配置したため、魏忠賢の政変を阻止した。
同日、信王が皇帝の座へ登基し、すぐさま、魏忠賢一党を弾劾した。魏忠賢を皇稜へ流放。
十一月一日、および魏忠賢逮捕令を発した。京城へ戻る途中の駅宿で魏忠賢が首吊り自殺した。
これで浩々なる歴史の一巻きが終了した。

明の最後の皇帝、崇禎皇帝も李自成農民軍の反乱に京城を陥落し、北京故宮の裏庭の景山で、魏忠賢と同じように首吊り自殺の運命でした。
が、
崇禎皇帝の歴史評価が高い。即位してからいろんな改革を励ましたが、結果的に、内乱と外患に勝てなかったということです。
時の崇禎年は鼠疫(ペスト)が流行し、兵隊の半分以上は病死したという。(民間人を含む華北地方だけで1000万人が死亡したという。)

そして、中華医学の漢方の歴史上初めて、ウイルス性流行病の治療法が誕生したという。(明末江蘇出見身の遊方漢方医者、呉有性氏が《温疫論》が持筆した。彼が呼吸による感染を発見し、患者隔離や換血措置でペストの拡散を阻止したという。)

なんか話がまたとんだ癖ですが、申し訳ございません。
本題に戻ります。

大明年製”落款の出現背景は上で述べた歴史をよくわかると思う。
明天啓年、特に後期に、景徳鎮窯の官民ともに、いつか”天啓”がなくなって、魏忠賢が皇帝になることを図ってわざと年号を書かないとか、
もしくは御窯の監督自身も魏忠賢の子分かもしれません。
(大明年製&大明年造落款)

イメージ 2
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同様な状況ですが、
大清年製”の落款が出現した背景は、清朝廷が北京入りした最初の皇帝順治皇帝は即位の時も子供でしたので、”皇太極(ヌルハチの長男、清国最初の皇帝)”の弟の多爾袞(ドロゴン、順治皇帝の叔父さんにあたる)が撮政していた時期でした。
(図:大清年製)

イメージ 5


皇太極は満州境内で、明軍との戦いで戦死したため、ドロゴンは清軍を連れて万里の長城に入り中国を全面占領した実際の王者であった。

名義上の皇帝ではないが、清の朝廷内外に多くの支持者がおります。
ドロゴン集団が幾たびに幼い皇帝を廃止して、ドロゴンを登殿させようとしましたが、
順治皇帝のお母さんの孝庄皇後の努力で、ドロゴン集団へ勧告と懐柔した。

順治七年12月、ドロゴンは狩り中で事故死した。
順治八年2月、13歳の順治皇帝が親政はじまる。孝庄皇後が”垂廉聴政”を始まる。
3月、孝庄皇後の主導で補政大臣鳌拜の力を借りてドロゴン集団を肅清。

前編にも述べたことですが、順治皇帝は病気で早死したため、
ここの孝庄皇後は引き続き幼い孫の康煕皇帝を育った。最後に鳌拜集団を殲滅し、康煕皇帝に大政奉還した。清一代に名を残る偉大な皇太后でした。

清後期の西太後はなぜ光緒や宣統皇帝を手に持って”垂廉聴政”できたかというと、孝庄皇後の先例があったからのである。

では、”大清年製”落款はドロゴン親王が知って、順治皇帝が知らない時代の産物でした。

東洋美術福縁堂主人

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