福縁譚

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福建地方の青白磁

最近”将軍腹”が出っているから、毎朝ジョッキングをしています。
早起きにして、よぶかしブログも朝ブログになった。

では、今日のテーマは”福建地方の青白磁”です。
昨日の新規出品物と関係している話です。

さって・・・
青白磁といえば、宋の景徳鎮窯と
そんな話はもう古いです。

景徳鎮窯の興起の一因は河運の便があります。
九江から船積みして、揚子江を下って、楊州や南京で大運河に入る。
大運河から北方へ一直線です。
だから、北宋時代に景徳鎮地方の青白磁が首都の汴京(今の河南省開封市)にも売られている。

しかし、今まであまり深く考査されていないことは、景徳鎮地区から少々南へ福建省の堺に入るところに、また青白磁の窯がありまして、これらの福建青白磁製品は福建から南方へ運ばれている。水路がないから、遠くは流伝されていなかった。

中華博物誌にこんな品を掲載している。
イメージ 1


品の名称に”閔地”という言葉があります。”閔”とは福建の略称です。だから、閔地とは”福建地方”の意味です。

この言葉を見た時に、まず私が覚えだしたことは日本にも”閔窯”との言葉があります。古い茶道具やさんが分かると思いますが、今では”建窯”と呼ぶ天目茶碗の窯元は、昔では”閔窯”と呼ばれている時期があった。

”建窯”は中国語で、天目茶碗の窯元が福建省の建楊県に発見されたことで、”建窯”と呼ばれているですが、発見の前には概ねに福建当たりの製品という意味で”閔窯”と呼ばれていた。

なおさら、なぜ建窯の黒釉窯変茶碗のことを天目茶碗と呼ぶかといいますと、これもや日本人僧侶が福建省天目山のお寺に修業に行った時に、天目山のお寺で使われた茶道作法と茶碗を日本に持ち帰ったことから、天目茶碗と呼ばれたわけで、実は天目山と建窯は結構離れていた。

中華博物誌にこんな名前の青白磁ものも掲載している。
イメージ 2
イメージ 3

近年の考古により大体福建省の青白磁窯は邵武県と建寧県にあった。建窯から少し下ったところで、だから、福建青白磁の茶道具の様式は基本的に建窯風格とは変わりがないだが、作り上は青白磁ものは繊細な白磁土を使うので、薄手作りで海運ぶには向いてないから、日本人が選んだのは厚手作り丈夫な建窯ものではないかと理屈な想像でもない。

地図上に各窯を表記しているので、ご覧ください:
イメージ 4

(地図をクリックすると拡大表示できます。)


御覧の通りに、福建の青白磁や建窯は福建省の北境に江西省と隣接している。だから、景徳鎮地区へも沿海部へも距離がありますから、その製品は福建西北地区内で流通しているかと思われますが、当時福建の沿海部はまた未開の地で、日本人が上陸する場所は浙江寧波あたりになります。

そこは昔は呉の国でしたので、言葉が柔らかく、日本語の発音は呉音に似ているから、昔からの交流があったではないかと思います。
建窯とその周辺の青白磁窯が元の時代で終焉を迎えた。原因は景徳鎮窯の興起で、陶工たちはみんな景徳鎮へ引っ越した。

明の時代に入ると景徳鎮窯はさらに拡大して、全国へ供給する生産力が持つけれども、倭寇を退治するために、明朝廷が海上貿易禁止したから、景徳鎮窯からの輸出は閉じられたから、福建沿海部に私窯が興起し、漳窯、平和窯、徳化窯もその一つであった。

注1:景徳鎮の名前は明代から使う名前です、宋元では”浮樑県”との名前でした。宋の時代景徳鎮地区の青白磁窯は”湖田窯”や”湘湖窯”との名前があります。

注2:平和窯は珠光青磁の窯元としても知られていますが、南宋時代では小規模な青磁窯がありました。明の後期に日本や東南アジアへ輸出貿易に呉州赤絵の窯として栄えた。

福縁堂主人

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