福縁譚

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本章は福縁堂出品の”定窯官用手劃龍文碗”の特徴を故宮蔵品と対照し、その時代整合性を論じる


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古作、時代感、黄味がやや強い象牙白、底釉少し抜けがありますから、釉掛け工法は定窯早期的なもので、
特に口縁の削り様相は下記中華博物誌掲載安徽博物館品”五代 定窯官字銘 浮彫五弁蓮花式深鉢”と全く同じであります。
(図、五弁蓮深鉢 底部に”官”字銘あり)
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私は個人的でも、本品を五代官用手との認識があります。仕上げ上と工法上は故宮蔵の北宋官用手よりやや古い感じが強くあります。
なぜ、最終的に本品を”北宋”と時代の位置付けを定めたかとの理由は、本品の造形と装飾手法は基本的に一致するものが、故宮博物院は北宋定窯と命名しているから、
おそらく、北宋時代の墓出であるとの理由があったかと思われます。
(故宮蔵 同類品 造形と工法は同じで、内部劃文は違うだけ)
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引き続き、本品の細部特徴から一つ一つ館蔵定窯遺品と対照論証しながら、本品だけではなく、早期定窯官用手について一つ明瞭な手引きのような文章にしたいと思います。


*先入感的な時代判定を修正:
定窯の製品は五代の時代からすでに官用されていた。上図のように多くの五代定窯の遺品に官字銘文が入っています。そのほか、苗字や”尚食局”などの刻文もあります。
銘文は”劃く”という方法で入れる、成形直後の製品の底部に爪楊枝のような細い竹の棒で字を書き入れる。だから、基本的には行書体です。

五代の定窯製品に唐の時代の金属器の造形を真似して、瓜棱状の外壁の造形が多いです。宋へ進むと、瓜棱状外壁がだんだん簡易化され、本品のように、形は円形であるだが、外壁に六当分に縦線を劃いて、線の先の縁部をちょっと凹みを削ることで、瓜棱のイメージだけが表現している。要するに唐の遺風であります。
(故宮博物院蔵 五代 定窯葵形碗)
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本品はすくなくとも五代後期〜のものでありますが、北宋最初の五年まで(乾徳元年)だと考えています。なぜならば、乾徳元年からは定窯が宋朝廷に徴用されたから、当然、新しい朝廷に新しい風格が求まれるので、それから5年間の官用手定窯ものは宋の時代の五代の名品の一つになります。

北宋定窯官用手の造形は極めてシンプルで、後の宋汝窯もの、宋官窯ものの造形と同様に”宋の美学”と呼ばれます。
官定の装飾も、五代の浮彫や劃花から、流暢でお洒落な片切りの削り技法(剔花)へ変化しました。
(図 北宋定窯官用手 剔花盤)
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*上節で話している外壁の棱線と対応に、本品の内壁に凸筋線六本があります。これは故宮蔵参照品と同様な現象で同様な工法を示している。
内壁の筋線は劃いたものではない。印模によるものです。轆轤成形後に、碗状半球形の模型の上で形を揃える。
定窯器が薄い作りですから、縁部ほど薄いので、内部の空気を上手く抜けるために、半球形模型上に六本の空気抜け凹みを刻んである。
内壁に筋線ができる原因でありますが、
定窯の遺品の中でこのような工法は早期的なもので、北宋以降はだんだん見られなくなります。
本品と同時期と思われる器に、内壁に筋線がないものもあって、これらの茶碗の内部中央に劃文はしない。

内壁の筋線は内底中央の劃文と関連しているようです。

劃文という技法は器の方面に字を書くような感じで模様を削り出す。団龍や団鳳など複雑な模様を綺麗に劃くため、正直作業者の個体差がありまして、
練習しないと上手く書けないことは自明であります。
そのため、予め、文様の筋書きを模型の頭上で刻む、整形と同時に碗の内底中央に劃く予定の模様の筋を浅く模印してから、劃いたほうができばいがいい。
つまり、文様が刻む模型の頭に空気が貯まるから、その逃げ道を作ってあげることは壁の溝である。

(故宮蔵 金の時代 定窯劃双魚文碗 劃文技法ですから同じく内壁に筋線があります)
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以上は私は2種類定窯碗の工法を比較した上の物理的な結論です。

(故宮蔵 北宋定窯 近似品 内壁筋線ない、内底劃文なし)
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*本品中央の団龍文は宋定窯の龍文様式か?または劃手が下手そうに見えますが、以下故宮蔵北宋定窯劃龍文碗の参考写真を一点がありますので、
比べてみますと、基本的に同様な下手であると思います。

(江陰博物館蔵定窯劃龍文碗 造形整形は本品と同じです。内部の劃く龍文があると説明しているですが、
龍文の写真は見当たりません。)
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(故宮博物館蔵 定窯劃龍文盤2点 龍文は基本的に本品と同様ですが、あまり綺麗に描いてないと思う。)
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(定窯の龍文模様を模写したスケッチです(故宮博物院)。
龍の頭部分はほかの時代と違って特徴的です。また立体的描きできない時代でイマージの龍頭を平面的な展開した様子です。体が太いこともこの平面展開の原因だと思います。平面上に押しつぶされた様子です。
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(本品の龍文をもう一度見る。)
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つまり、五代〜北宋早期の劃文様式の模様はみんな下手でした。それも定窯が下手ですはく、その時代に立体的描く技法はまた生まれていないため、宋画のように立体を平面上に押しつぶされた感じで描いている。

定窯の装飾文が綺麗で芸術的な匠心的なものに変化したのは北宋官用手以降であります。そこでは、劃く技法ではなく、片切り技法が応用始まったのである。片切り技法は一切で線の陰陽面を広く出すことができた。
(故宮蔵 定窯官用手 刻蓮花水鳥文盤)
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ご覧の通り、非常に流暢でお洒落んなイメージですが。芸術性が技法から生まれたということを実証しました。


更に、金元時期は印文という模型を使って模様を嵌めるので、早期の印模よりは複雑で作りがよいと思います。
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劃く→片切り→印文の変化は生産技術の進化過程であり、無から有へ、有るから良いへとの進化であります。
模様を劃く時代は一種の初期的な簡易方式であると分かります。


*本品最後の疑問点ですが、高台裏に”二”のような二本線を書いている。縦に見れば”宮”の輪郭にも見えるですが、
輪郭の中は字の部品らしき書きがないので、断念して”二本線の記号”と断定するしかない。
(本品)
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定窯器は底部に発注者を表す字や記号を劃く習慣があります。しかも全部ではない。
発見されている銘文入りのものは極一部であります。

そのため、本品は底部記号を解明できなであれば、品の製式は官用品とまったく同様であるため、特に龍文入りですから、”官”と同様に識別符号になるので、
献上手と定義してよろしいと思う。

(定窯劃”官”字一例)
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小結:定窯器は北宋朝廷に徴用された僅か5年の間だけではなく、その前代の五代の時代から、とその後代の金元までに、製造精良な官用品や献上手が生産しています。
本品は北宋早期定窯製の宮廷用様式であります。



東洋美術福縁堂主人

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福建地方の青白磁

最近”将軍腹”が出っているから、毎朝ジョッキングをしています。
早起きにして、よぶかしブログも朝ブログになった。

では、今日のテーマは”福建地方の青白磁”です。
昨日の新規出品物と関係している話です。

さって・・・
青白磁といえば、宋の景徳鎮窯と
そんな話はもう古いです。

景徳鎮窯の興起の一因は河運の便があります。
九江から船積みして、揚子江を下って、楊州や南京で大運河に入る。
大運河から北方へ一直線です。
だから、北宋時代に景徳鎮地方の青白磁が首都の汴京(今の河南省開封市)にも売られている。

しかし、今まであまり深く考査されていないことは、景徳鎮地区から少々南へ福建省の堺に入るところに、また青白磁の窯がありまして、これらの福建青白磁製品は福建から南方へ運ばれている。水路がないから、遠くは流伝されていなかった。

中華博物誌にこんな品を掲載している。
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品の名称に”閔地”という言葉があります。”閔”とは福建の略称です。だから、閔地とは”福建地方”の意味です。

この言葉を見た時に、まず私が覚えだしたことは日本にも”閔窯”との言葉があります。古い茶道具やさんが分かると思いますが、今では”建窯”と呼ぶ天目茶碗の窯元は、昔では”閔窯”と呼ばれている時期があった。

”建窯”は中国語で、天目茶碗の窯元が福建省の建楊県に発見されたことで、”建窯”と呼ばれているですが、発見の前には概ねに福建当たりの製品という意味で”閔窯”と呼ばれていた。

なおさら、なぜ建窯の黒釉窯変茶碗のことを天目茶碗と呼ぶかといいますと、これもや日本人僧侶が福建省天目山のお寺に修業に行った時に、天目山のお寺で使われた茶道作法と茶碗を日本に持ち帰ったことから、天目茶碗と呼ばれたわけで、実は天目山と建窯は結構離れていた。

中華博物誌にこんな名前の青白磁ものも掲載している。
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近年の考古により大体福建省の青白磁窯は邵武県と建寧県にあった。建窯から少し下ったところで、だから、福建青白磁の茶道具の様式は基本的に建窯風格とは変わりがないだが、作り上は青白磁ものは繊細な白磁土を使うので、薄手作りで海運ぶには向いてないから、日本人が選んだのは厚手作り丈夫な建窯ものではないかと理屈な想像でもない。

地図上に各窯を表記しているので、ご覧ください:
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(地図をクリックすると拡大表示できます。)


御覧の通りに、福建の青白磁や建窯は福建省の北境に江西省と隣接している。だから、景徳鎮地区へも沿海部へも距離がありますから、その製品は福建西北地区内で流通しているかと思われますが、当時福建の沿海部はまた未開の地で、日本人が上陸する場所は浙江寧波あたりになります。

そこは昔は呉の国でしたので、言葉が柔らかく、日本語の発音は呉音に似ているから、昔からの交流があったではないかと思います。
建窯とその周辺の青白磁窯が元の時代で終焉を迎えた。原因は景徳鎮窯の興起で、陶工たちはみんな景徳鎮へ引っ越した。

明の時代に入ると景徳鎮窯はさらに拡大して、全国へ供給する生産力が持つけれども、倭寇を退治するために、明朝廷が海上貿易禁止したから、景徳鎮窯からの輸出は閉じられたから、福建沿海部に私窯が興起し、漳窯、平和窯、徳化窯もその一つであった。

注1:景徳鎮の名前は明代から使う名前です、宋元では”浮樑県”との名前でした。宋の時代景徳鎮地区の青白磁窯は”湖田窯”や”湘湖窯”との名前があります。

注2:平和窯は珠光青磁の窯元としても知られていますが、南宋時代では小規模な青磁窯がありました。明の後期に日本や東南アジアへ輸出貿易に呉州赤絵の窯として栄えた。

福縁堂主人

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"守仁格竹"説

王陽明先生の心学の理論の骨幹の一つの”格物致知”について、以前の記事にいろいろ書きましたが、
ご興味や本節の予備知識としてご覧になりたい方は、リストから検索してください。

”格物致知”、王陽明先生が初創した言葉ではない。
南宋理学の鼻祖朱熹が初創した言葉であります。
理学の”格物致知”とは:自然の物に天理がある、だから自然を入念観察して天理を得ることを提唱した。
そして、”存天理、去人欲”へ道引くのである。
(自然の撮理を従い、人の欲望を捨てることは道徳のある道だと言う)

青年時期の王陽明(名守仁)が、理学を熱中に習う。
親の官邸の庭に多く竹が植えていることがあって、
理学の”格物致知”を実践し、自然物からなにか”天理”を得られないかと、
庭の竹を7日夜間に頑固に観察しつづ、飯食を忘れ、苦思瞑想したいた。
あの光景は”釈迦様が菩提の樹の下で閃く”を連想させますだが・・・
7日目で体調が崩した。
体調が回復後に思うと7日の観察から得たものや閃きもなにもなかった。

それから、王陽明先生が、自己反省モードに入りました。
自己小結として、”方知天下之物本無可格者、其格物之功、只在身心上做。”
((竹との格闘から)漸く物だけからはどれも窮究しても天理を得られない。格物ということは、実に自分の身と心にある仕事だ)
つまり、修身と養心は天理を得る第一の仕事で、身と心の準備ができてない内で、いくらものを観察しても分かるものがない。

このことは佛教の”修行”から”修禅”への道乗りと彷彿します。
(修行は行動で禅への道を開き、修行だけは悟らない。
修禅(冥想)により佛の真意が悟る。
心は自然の鏡である、
修行とは鏡上の埃を拭くこと、
修禅とは鏡の歪みを治すこと。
最終的に天地の佛を心に現れることは悟ことです。
素性がよい人は心鏡に埃がないから佛と縁があると言う。
修養のよい人は心の鏡にが歪みがないから、”悟性”があると言う。)

陽明先生のこの反省文は”心学”の先河を開いた。
心学と理学の根本の違いは
理学は天地自然と人の意識を割離してた。人が自然へ溶け込むべきと主張しているだが、
心学は人や人の意識も自然の一部で、天地の間の自然で、だから人の意識も天理である。

そこから、”人の欲望”は悪ではなく、天理の一つであって、
欲望があるから悪いではなく、人の行動は欲望だけに落ちなければよいと
実は”中庸”の道へ戻った。(左右を偏らなく、中間のを取ることは大事という理論。
人の行動は環境諸要素のバランスを取ることです。)

更に、欲は悪くないから、人の行動さえ慎重で公正の道を歩けば、だれでも聖人になれると
”決然以聖人為人人可到、便自有担当了。”
(だれでも聖人になれると人に分からせれば、人は自己覚悟して行動に責任を取るようになる)
と理学とは断然違う道徳への道を示した。

ここで”守仁格竹”の典故を一段落にして、骨董鑑定者があるべき心態を話す。
自分が勉強不足であれば、壺を目の前にして一所懸命観察しても識別できない、あるいは認識間違いにある。
だから、修身養心は大事だと、壺と格闘ではなく、自分の心にある認識との格闘である。

博物館や下見会へ見学は”格物”、
骨董文献や考古論文から勉強も”格物”
歴史や文化を習うことも”格物”ですから、
上の格物内容がなければ、街の古物商レベルから超えない。

また、格物ならこれだけは足りないと陽明先生はこういう。
”知行合一”が必要。
知るだけでは物足りない。実践も必要。

実践してから、現在の知識にある過ちを発見できる。
実践して勉強、更に実践へとその繰り返して、最終的に”天人合一”と
つまり、自然に存在している天理と認識上の天理が漸く合致したところで、
わが身が聖人になる。

骨董愛好者の場合は、買って勉強し、知識修正、更に買うと
その繰り返しだけは、本物の鑑識者になることです。
この中途半場な私も実にここまで来ると買うことは止まったことがない。

骨董愛好者も、”値上げの欲”は当たり前の天理ですから、悪欲ではないから、
それを狙って集まってることは当然の話であるながら、
これ一本だけじゃなく、歴史や文化、鑑賞性、保全性などほうほう面々の欲望も考慮に入れるべきに、
”中庸”の道を忘れてはならない。
一旦欲への答えを左右に偏ってしますと道徳の道から外される悪になる。
そうならば、一生成功できないとの自覚もなさるべきでしょう?

最近にも嬉しく感じたことですが、内の常連様のことですが、
その方は数年渡りに内のお世話にしていた方ですが、
最近の話で、物の見る目やとその判断方法や認識は目覚ましく躍進して、
敬服と一言です。
やはり、これぐらいを買わないと”格物”にはならないと思う。

”コピー”がいっぱいあるから買いに怖がることは”聖人”にはなれない、
理論だけで、紙上論兵の”好龍の葉公”になるぐらいだから、
失敗買いは決して無駄なことではないと思います。

王陽明先生は時代の聖人と評判されたことは、
陽明先生の心学理論は素晴らしいだからだけではない。
陽明先生は学問のほかに、国政、軍事いろんな方面を実践し、
明正徳年間で、巨大な文治武功の成果を作り、公爵、侯爵まで封賞を得った。

”私が聖人になれる”と石破天驚の一言に励ましされて、
陽明の身後にどれほど歴史の風流人物が登場した。
それは、曽国藩、毛沢東、小平、習近平などがいる。

福縁堂主人

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中国古陶磁落款の中に、”堂名款”という”xx堂製”の様式があります。
概に堂名款という。

”xx堂”とは文人墨客の書斎の名前で、その書斎で書いた作品に、”xx堂主人”と落款する習慣があります。
だから、”xx堂”はその所有者の名号の一つになり、俗に”斎号”とも言う。
また、”xx斎製”、”xx府製”、”xx山房”、”xx宝用”等方式の落款がありますが、
堂名落款と別に斎号落款とか府房落款とか、用款とかの呼び方もありますが、
本章では、こゆう個人の雅号、府堂房用落款を概に堂名落款と表記する。

そこから、広がって、文化的な商売の店号もxx堂と名付ける風習になって、要するに一種の風雅ですから、商売の堂号については、本章の主題ではないので、割愛します。

本文を最初から読んできた方が分かると思いますが、
陶磁に正式に落款が始まるのは明永宣時期ですから、当然堂名落款の出現はその後になります。
明の時代ではあまり流行じゃないので、非常に珍しいですが、

堂名落款の流行の始まりは明嘉靖年頃です。つまり明後期から始まるですが、
文人趣味が陶磁へ注目し始まることを示している。

個人の趣味で私窯を開き、世間とは独特な陶磁作品をを作り出す。
だから、堂名落款の陶磁器は官窯ではなく、私窯でありますが、

一般の民用品を作る民窯とは、一線をかく”芸術創作品”の場合が多い。
だから、遺品の品位は当然ながら、民窯ものよりかなり高いだが、
官窯の上位作品と並ぶぐらいの市場価値があります。

しかし、堂名落款の流行により、ビジネスへ氾濫してしまうケースが明末の萬暦天啓年から頭が出る。
例えば:”玩玉”落款は、もともと字面通りに文人の書斎用品の堂名落款ものですが、その内、民窯に真似されて、一般民窯品の中に作りのよい可愛い茶杯とかも、
”玩玉”落款をしてしまった。

だから、堂名落款のものは必ずしも、私窯の作品で限らない、鑑識上は、有名私窯の製品の特色と落款の整合性から切り入れることになります。
さらに、王公貴族や皇帝本人が官窯へ特別注文したものを堂名落款を入れることもありますから、
例えば:”慎徳堂製”は必ずしも、道光皇帝の私窯ではない。これらの製品は”慎徳堂(円明園の中にある道光皇帝の書房)”に使うための特注品という意味が含まれているだから、
こゆう堂名落款のものは実は官窯特注品である。

同様な例は清の時代に各代皇帝にあります、
中和堂製は康煕皇帝の私用磁器、

朗吟閣制は雍正即位前の用器

乾隆皇帝は陶磁ファンなので、所用の堂名落款器はやったら多い:
養和堂、静鏡堂、彩華堂、避暑山庄、敬慎堂などなどがあります。
寧晋斎と寧遠斎落款は皇室用品。
ここで、彩華堂は多分乾隆御用の私窯だと思う。
乾隆年間はやったら堂名落款が多いので、具体的にどの落款がだれかの私窯かはほとんど不詳でありますが、
その内に遺品として大事に収蔵してきたものはやはり市場価値が高いです。

嘉慶年間に、やはり堂名落款の流行をブレーキはできなかったので、いろいろと堂名落款の陶磁が多い。
懋勤殿、彩華堂とかよく知られています。

ここで、一つ気になっていることは、彩華堂のような数代渡る落款があります。
つまり、その時代だけの特注品ではなく、確実に私窯の実体があってからできることです。

行有恒堂は道光皇帝が太子宮時代の用品です。道光皇帝が登極後には颐寿堂製、慎堂制の記号を使う。

清中期から、堂名落款は徐々に減りましたが、清末の光緒、宣統時期は御用の堂名落款はないようです。

咸豊皇帝は退思堂、同治皇帝は慎思堂、西太後は大雅斎、長春宮、儲秀宮、玉海堂とかあります。

また、中華民国初期に、袁世凱が称帝の時には居仁堂製の私窯を開いた。
徐世昌が大統領時期に、静遠堂製の私用陶磁を景徳鎮窯へ注文した。

清末の光緒年から中華民国初期から、景徳鎮窯に各種堂号の私窯や民窯が一番多かったです。ほとんど商標のようなものですから、一部の有名陶芸家の私窯(珠山八友の粉彩窯や王歩の青花窯)以外に、市場価値はそれほど高くはない。

明清から近代まで堂名落款はあまり多いので、王様専用品や御窯の落款しか紹介できない。その一つ一つ有名な落款の後ろに伝説や物語も紛雑にありますから、
書いてしまう時間があれば、個別テーマ―で書きますから、ここでは全部書ききれないので、省略します。

では、本節の最後に一つ関連している”誤伝”を紹介して終章とします:
”現代官窯”と呼ばれる中華人民共和国建国後に、景徳鎮陶磁研究所が中南海専用の陶磁器を製作していた。その数は数百点とあまり多くはありませんが、製品の状態は”清三代の官窯を超えた”との評価があります。

骨董市場では”中南海用磁”や”景徳鎮陶磁研究所製”とのような落款ものが”中南海用磁”として売り出していることがよく見られるですが、
私が読んだ景徳鎮陶磁研究所に勤めていた方が書いた中南海用磁の生産歴史について文章に、
これらの”共和国官窯”の磁器はすべて高嶺土を使う。50〜60年代のものは落款はしない。
70年代以降のものは篆書体印章式<景徳鎮製>と赤絵落款をしているとのことです。
”中南海”の字は落款に出ない。

なお、”中南海用磁”と落款した写しものは、字は有名書法家が書いたもので、字は非常に綺麗だとしても写しは写しで、気を付けてくださいとのことです。

では、お休み

福縁堂主人

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年号がない記年落款はまた以下2種は見られる。
大明年製”と”大清年製”と
文言上は”大明年製”や”大清年製”は間違っている言葉です。

大明や大清は国号で、年号ではないから。
このケースは官窯器と民窯器ともに見られますが、
そゆう年号がない書き方にした原因は少々述べます:

”大明年製”の落款はあの”古染付”でよく知られる明天啓年の後期のものです。
明萬暦年と天啓年の間に一瞬という超短い”泰昌年”があります。
泰昌皇帝は即位して30日で”長寿不老”の薬を飲んだせいか、暴死した。あわてて、皇長子の朱由校(天啓皇帝)が登極させたが、天啓皇帝となったけれども、この王様は太子の教育はまったく受けていなかったため、国政外交に対して概に無知無力ですから、政務を一斉に朝廷大臣と内務宦官に任せてやった。

では、王様はなにをやっているかといいますと、
天啓皇帝は大の木工好きで、皇居内に御用の木工製作所を開いている。
朝から晩まで、木工や彫刻、漆作など数々の名品を作り上げたと言う。
新しいデザインができるたびに、大臣たちを呼び集めて賛美を受けることも大満足らしく、自作の木工作品を京の市場に持ち出して売り出すこともあると時の商人は”ご作”の家具を手に入ることは人前で非常に栄光のあることだという。

天啓皇帝も自作の木工を超高額で売れたことを自慢にしているらしい。
この歴史から、天啓赤絵と天啓青花の紛雑で細小な模様を一面に埋めつくすような絵付け方式は、漆彫や木工彫刻に似ってませんか?
(図:東京国立博物館蔵 萬暦赤絵)
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似ってますよね!これは王様の趣味ですから、陶磁器も漆器のような模様にしてしますです。

このような政治雰囲気ですから、当たり前のように、天啓年には朝廷内部大臣たちの派閥争いが休むことはない。
天啓年内務宦官の頭は朱由校幼い時代に面倒見てくれた宦官の魏忠賢という人物ですが、この人は朱由校の乳母と交好のため、内廷では絶対の信頼と権力を手に入った。

天啓五年、朝廷内に”文人内争”の”東林党争”が激化したため、魏忠賢が東林党鎮圧を乗り出した。
天啓六年、東林党の人達はほとんど逮捕、処死された。それから、内府宦官のは朝廷の柱となって、人は魏忠賢のことを”九千歳”と呼ぶ。(皇帝は万歳ですから)。
朝廷内外の官僚たちは、迫害を恐れて、どいつもこいつも一先速足で魏忠賢を親分として派閥の門に入った。
一時、地方官僚まで子分入りになって、各地に魏忠賢を供奉する祠廟を建設した。
天啓五年、天啓皇帝が魏忠賢に”顧命元臣印を与える。政権をすべて任せた形になった。朝廷内大臣は全面的に魏忠賢から聴命するようになる。

天啓七年七月、天啓皇帝が重病の時に、皇弟の信王を呼んで、魏忠賢を重視するように勧告した。”将来に皇帝の座を魏忠賢に譲ることも考えてほしい”と
(元の言葉は”吾弟當為堯舜”と、堯は血縁がない賢明な舜に王の座を譲った典故を言い出した。)

魏忠賢のことを嫌悪している信王(後の崇禎皇帝)はそれから、病気と自称して自宅で隠居した。
信王は重病の天啓皇帝に後を託された様子を伺った魏忠賢は、兵部大臣を脅迫し政変を謀る。

八月十三日にに天啓皇帝が駕崩した。信王は一足先に藩兵を京城に配置したため、魏忠賢の政変を阻止した。
同日、信王が皇帝の座へ登基し、すぐさま、魏忠賢一党を弾劾した。魏忠賢を皇稜へ流放。
十一月一日、および魏忠賢逮捕令を発した。京城へ戻る途中の駅宿で魏忠賢が首吊り自殺した。
これで浩々なる歴史の一巻きが終了した。

明の最後の皇帝、崇禎皇帝も李自成農民軍の反乱に京城を陥落し、北京故宮の裏庭の景山で、魏忠賢と同じように首吊り自殺の運命でした。
が、
崇禎皇帝の歴史評価が高い。即位してからいろんな改革を励ましたが、結果的に、内乱と外患に勝てなかったということです。
時の崇禎年は鼠疫(ペスト)が流行し、兵隊の半分以上は病死したという。(民間人を含む華北地方だけで1000万人が死亡したという。)

そして、中華医学の漢方の歴史上初めて、ウイルス性流行病の治療法が誕生したという。(明末江蘇出見身の遊方漢方医者、呉有性氏が《温疫論》が持筆した。彼が呼吸による感染を発見し、患者隔離や換血措置でペストの拡散を阻止したという。)

なんか話がまたとんだ癖ですが、申し訳ございません。
本題に戻ります。

大明年製”落款の出現背景は上で述べた歴史をよくわかると思う。
明天啓年、特に後期に、景徳鎮窯の官民ともに、いつか”天啓”がなくなって、魏忠賢が皇帝になることを図ってわざと年号を書かないとか、
もしくは御窯の監督自身も魏忠賢の子分かもしれません。
(大明年製&大明年造落款)

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同様な状況ですが、
大清年製”の落款が出現した背景は、清朝廷が北京入りした最初の皇帝順治皇帝は即位の時も子供でしたので、”皇太極(ヌルハチの長男、清国最初の皇帝)”の弟の多爾袞(ドロゴン、順治皇帝の叔父さんにあたる)が撮政していた時期でした。
(図:大清年製)

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皇太極は満州境内で、明軍との戦いで戦死したため、ドロゴンは清軍を連れて万里の長城に入り中国を全面占領した実際の王者であった。

名義上の皇帝ではないが、清の朝廷内外に多くの支持者がおります。
ドロゴン集団が幾たびに幼い皇帝を廃止して、ドロゴンを登殿させようとしましたが、
順治皇帝のお母さんの孝庄皇後の努力で、ドロゴン集団へ勧告と懐柔した。

順治七年12月、ドロゴンは狩り中で事故死した。
順治八年2月、13歳の順治皇帝が親政はじまる。孝庄皇後が”垂廉聴政”を始まる。
3月、孝庄皇後の主導で補政大臣鳌拜の力を借りてドロゴン集団を肅清。

前編にも述べたことですが、順治皇帝は病気で早死したため、
ここの孝庄皇後は引き続き幼い孫の康煕皇帝を育った。最後に鳌拜集団を殲滅し、康煕皇帝に大政奉還した。清一代に名を残る偉大な皇太后でした。

清後期の西太後はなぜ光緒や宣統皇帝を手に持って”垂廉聴政”できたかというと、孝庄皇後の先例があったからのである。

では、”大清年製”落款はドロゴン親王が知って、順治皇帝が知らない時代の産物でした。

東洋美術福縁堂主人

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