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※「ご挨拶1(みなさまへ) 」(http://blogs.yahoo.co.jp/fukufukimama/68492770.html)も併せてお読みいただけましたら幸甚です。
(この記事は予約投稿機能を使って日時指定でアップロードされています。) 最後に
わたくしの死には、ふたつの面があります。
ひとつは、いわゆるメンタルの領域で、「病気と認定され救われる枠」からこぼれおちる「変わった症状」だったための哀れな死という面。
そしてもうひとつは、自分の信念を貫くことができた幸福な死という面です。後者について最後に、とても厚かましいことなのですが、少し補足をさせていただけたらと思います。
わたくしは、色々な意味で少し変わった人間だったと思います。
それを実際にするかどうかとは全く別の話として、世で「自殺」というものがとにかく異常なこと、悲惨なこと、間違ったこととして問答無用で忌み嫌われることが、とても疑問でした。 それは「死」そのものをどんな場合も理屈抜きに忌み嫌うことが正しいという発想(建前)(そのために無意味な延命医療なども生まれていると思います)と、とても似ている気がいたしました。
もちろん子供や若い人があまり何も考えずに安易に死を選ぶことは非常に不幸なことですし、もしもそうでないとしても自殺が増えすぎると社会そのものが成り立たなくなると思いますので、自殺を「推奨」することはできません。 しかし、より広い意味で、「いつでも死ぬ覚悟」で生きることは、最終的には何物にもとらわれず、自分の良心と信念に従って生きるということを、比較的心の弱い人間にも可能にしてくれることだとも思っています。
それは、自殺を批判する人が必ず言う「生きたくても生きられない人もいるのに」というようなこととは、まったく次元の異なることです。 (生きる、というのは、死なないでいればそれで生きている、ということではないと思います。1秒でも長く息をすることでもないと思います。生きているという状態は、息をしていてなおかつ、自分の良心に従って行動している状態のことなのだと思っています)
曽野綾子さんの「老後の心配などするな。いつでも野垂れ死にする覚悟でいなさい」という言葉がとても好きです。
死と仲良くし、最後は自分の最期を自分で決める自由があるということを、普通に認め、悪い意味での保身のために良心を犠牲にすることなく、そしてたとえば、愛する人が自分の意思で「尊厳ある死のかたちと時期」を決めることを受け入れる、
そうした、「死との普通の幸福な関係」は、人間同士が愛し合い、なおかつ依存せず、互いに精神的に自立した真に幸福な関係を築くことに、ほんの少しですが、なにかヒントをくれるのではないかとも思っています。 平成27年5月 ふくふきママこと 石田麻紀
なお、ブログを続けてきてさまざまな「主張」をしてきましたが、
比較的よく自分の思いをまとめて書けたと思う記事、みっつほどありました。
お暇なときにでも、よろしければ、見てやってくださいませ。
「「情報」は他人から。でも、「判断」も他人のものでよいのでしょうか?自分の頭で判断しよう。少なくとももっと迷おう。」
http://blogs.yahoo.co.jp/fukufukimama/64296143.html |
日本(関西)女性ふふママの主張
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「上司としてメンタルの部下にどう対応するか」相談していたカウンセリングですが、
三回目の今日はキャンセルしました。
やっぱり、あまり、意味がない。
前回、最後にわたくしはちょっと言ってみた。
他人のために生きるのか、自分のために生きるのか、どっちなんでしょうね、と。
カウンセラーさんは、カウンセリング時間の終わりを気にしながら、「自分でしょうね。では次回またお話できるのを楽しみにしています」とおっしゃいました。
わたくしは、両方だと思っていますが、どちらでもないとも思っております。
他人を支えに生きるのは虚しいことであるのに、
「自分」は、「他人」がないと存在しない。
わけわからないものなんですよね。
ため息。
今日は声楽のレッスンに行き、初めて、オペラ「リナルド」から「Cara Sposa」を歌いました。
心を込めて歌うと、なんだか気持ちがよいものです。
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コンビニで、いつも気に入った商品がすぐに販売中止になるわたくしですが、
売れる、ということと、本当に良いものであること、について、永遠のテーマですがたまに考えます。
イオンモールに入っているチェーン店が全国どこに行ってもおんなじに見えるのは、やっぱりつまらない。
でも、旅行先に「珈琲館」があると、ちょっと安心してしまう自分もいる。
書店と、コメ農家は、大規模なほうが良い気がする。
でも、個人経営の小さなカフェたちが生き残れないよう街は、民度が低いと思う。
面白いアニメが全然ない気がするのは、「売れるパターン」にみんなが追随しているからじゃないかと思う。
そういえば「聖闘士聖矢」の作家が、自分が本当に描きたくて描いていた作品があまりヒットしなかったようなことをほのめかしておられたことがあります。そして大ヒット作「聖闘士聖矢」は「自分が久々に打ち上げる花火」と連載開始時に自虐的に形容しておられたような記憶があります。(つまり売れることが最初から見えていたんですね。)
うううむ。
もちろん、
「本当に良いもの」
の、定義だって、カンタンではないでしょう。それは確かにそうだと思います。
独りよがり、じゃ、だめだし、それは「良いもの」とは言わないでしょう。
少なくとも、誰かに、求められているもの。
それが、「良いもの」でしょう。
それを考えるときに、メガヒットだけじゃなく、もっともっと、きめ細かいメッシュに切ってもらえないかなー、と、わたくし感じるんであります。
たとえば、雑誌は創刊と廃刊がめまぐるしいですが、
生き残っていて、なおかつ、大きなヒットを出す作品「以外」の作品も継続して出してくださるような、
そんな雑誌が、生き残ってほしいと思う。
特に、
メガヒットを出せるくらいの実力を持つ作家さんが、
本当に描きたいものを、思いっきり描けるように。
「大量に売れること」のために、不本意な路線変更を繰り返すようなことを、なるべくさせられないように。
そう思うんであります。
もちろん、先立つものがなければあらゆる活動はできない。それはそうでしょう。
ならば、苦肉の策として、
ドル箱の作品を描きつつ、ニッチな作品もメジャー雑誌に継続して載せていく、というようなことはできないものでしょうか。
読者の育成にもなると思うんです。
子供のころからマクドナルドばかり食べていると、それしか美味しいと思わなくなるとのこと。
同じように、
画一的なパターンにはまったメジャー漫画ばかり読んでいると、
それ以外のものの楽しさがわからなくなり、
悪循環が続いていくのではないでしょうか。
大ヒット漫画「家庭教師ヒットマン」の、パロディ作品に出会ったことから興味を持ち、
批評を読んでいて、ふとこうしたことを思ったわたくしでした。
たかが漫画、されど漫画♪色々、とても、おもしろいものであります。
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父は満六十歳で、母は満六十九歳で亡くなり、関西の実家も今は空き家です。
でもわたくしが八歳から十八歳まで過ごした思い出の家で、妹とも同意の上でそのままにしてあります。
年に三回のお休みシーズンには泊まりに行き、それ以外のときは月に一回「空き家管理サービス」を利用しています。
さて、どこにでもある築数十年の一軒家らしく、我が実家にもたくさんの窓と、同じくらいの数の雨戸があります。
同じ「くらい」というのは、トイレや洗面所や台所、それから後から建て増しした部屋の窓なんかは、格子がはまっていて雨戸がないからであります。
それでも、雨戸つきの窓の数、掃出し窓も入れると合計九つ。
毎日それらを開け閉めするのって、なんかめんどくさくないですか?
寒くて窓を開けたくない夜も、一度は窓を全開にして、ちょっとどきどきしながら雨戸を閉める。
子供のころから、自分の部屋の雨戸を閉めるのが、とてもキライでした。
で、東京で、雨戸のないアパートやマンションに住むようになって、わたくししばしば考えておりました。
「雨戸が、窓の内側にあったらいいのに。そうしたら、窓を開けずに雨戸の開け閉めができるのに。」
そんなのありえない?
いえいえ、でも欧州の古い田舎の家なんかで、窓が、「外側がガラスで内側が鎧戸」、というのを、パソコンの壁紙で見たことありますぞ!
でも我が国でそんなの見たことないし・・・・。
格子つきの窓っていうのも、なんだか刑務所みたいでイヤだし・・・・。
で、悩んでおりましたところ、ふとネットで検索してみましたら、
「防犯ガラス」
というもので、解決できるという説が!
雨戸以上の強度を持つガラスが今はあって、
それに、空き家の雨戸を閉めていると昼間っから「留守です」と公言しているようなものだから、そういう意味でも雨戸なしの防犯ガラス窓をおススメします、という心強いコメントまでありました。
というわけで、今度のゴールデンウィークに実家に帰った際、さっそく見積もりに来てもらうことにしました♪
妹は、雨戸のままがいいんじゃない?泥棒とかやっぱり雨戸のほうが入られにくそうだし、と消極的でありますが・・・。
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メンタルのことを色々な人と話題にすると、返ってくる反応で相手の思想などが分かり、面白いです。
「だって、自殺しちゃうんだよ。大変だよ」
と、自殺自殺と騒ぐひと。
「つらいんだよ。なってみなきゃわからないよ」
と、「経験した者にしか」というありきたりの反論しかしない人。
逆に
「あんなの全部甘えだよ」
と、ちょっと極端に走ってしまう人。
どれも、おかしいんだろうなと、思います。
メンタルの問題に限らず、わたくし、いつも思うことがあります。
・・・・社会よ、もっと、「その他大勢」を大事にしようよ、と。
特にブラック企業でもないのに、今や、おそるべき人数の社員(・・・数年前は0.5%、今や、来ない社員を養う余力のある大企業を中心にだと思いますが体感的には1%ではないでしょうか)が、
ある日突然、出社してこなくなり、代わりに診断書が送られてくる。
そんなとき、残された社員が、その放り出された仕事をカバーする。
・・・・念のためですが、「1%」って、「100人にひとりがいなくなって、それを99人がカバーする」なんていう甘い話ではありません。
仕事の最小単位は、数人から多くて10名程度の、「グループ」とか「係」とかから成るのが、普通でしょう。
つまり、一つの課の平均人数が30人程度としたら、
平均して三つの課にひとつで、
どこかの係から人がひとりいなくなり、
そしてそれはその仕事にとって、10人あるいは5人のうちの、ひとりがいなくなるということなのです。・・・・・
で、メンタルヘルス業界の専門家たちが言うことは、
休んだ社員をいかに大事に留意して取り扱うべきか、ということばかり。
もちろん、それはなにより重要なことです。優良な、そしてゆとりある大企業ほど、労働者の権利は手厚く守られており、早く元気になってもらわないと、会社はものすごいコストをかけ続けるだけになってしまうんですから。
そして、残されて仕事をカバーしている社員たちは、
「メンタル患者を出した職場環境が悪い。職場環境を改善しましょう」というプレッシャーにさらされることこそあれ、
「休んだ分の人の仕事までして大変だよね、偉いね」と労ってもらえることはまずない。
わたくしもちろん、心の病気になって働けなくなった人が、悪いと言っているんじゃないんです。
そうではないのですが、
世の中、なんだか知らないんですが、
「なにも問題を起こさない人」
「黙って耐えている人」
つまり、
サイレントマジョリティーに対する処遇が、
そうじゃない人たちへの処遇と比べて、
不公平すぎないでしょうか。
別の例をあげますと、
お役所、市役所の資源の配分もそうであります。
ごく一部の、クレーマーたち、困った市民さんたちが、
役所の資源と労力の大部分を浪費しているのは、よく知られた事実です。
(コスト意識の皆無な役所は、なおのこと、一人のクレーマーに一日おつきあいしたりするし)
マスコミや人権派の人たちは、
「日本の自殺率は高い。人々は苦しんでおり日本の社会は悪い社会だ」と喧伝したがる。
でもね、
自殺が多いかどうか、それがなぜなのか、苦しみが多いからなのか文化のせいなのか、単に根性なしが多いからなのか、ハラキリ文化のせいなのか宗教がないからなのか、
そんなこと、簡単に誰に判断できますか?
いずれにせよ人間は毎日ばたばた死んでいく。そのうちの、年間3万人が、多いか少ないか、わたくしの知ったことではありませんし。
それより、わたくしは、
誰にも注目してもらえない、大多数の人間たちを、大事にしたい。
親や子供のことを考えて自殺を思いとどまり、
石にかじりついて今日も生き、
行きたくない会社に這ってでも行き、
妻子のために嫌いな上司にもおべっかを使い、
役所にクレームなんか一生に一度も言ったことがなく、
仕事帰りの夜道でひとりでにこぼれる涙をぬぐう、
そんな、
哀れな小市民たち。
彼らのために、わたくしは、働きたい。
そう思うのであります。
少なくとも、4人に1人が、一生に一度はメンタルを経験するそうです。
つまりメンタル経験者の大多数は、黙って耐え、死ぬほど苦しくても学校や会社に行き続け、一人で這い上がっているのです。
そういう人たちを、わたくしは、助けたい。そう思うので、あります。 |



