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七 継続
ターミナル駅からすぐの雑居ビルの二階に、階段を使って上ると、廊下の向こうにすぐに小さな警備会社の入口が視界に入る。 大学を出たばかりの、背の高い短髪の青年は、大きなバッグを肩に背負い、緊張の表情で来客用入口から足を踏み入れた。 カウンターの女性が笑顔で出迎える。 「こんにちは、お約束ですか?」 「・・・こちらに内定を頂いている、豊嶋と申しますが、今月のうちに一度伺うようにとのことで・・・・。波多野営業部長と五時にお約束しています。」 「ああ、うかがってますよ。ちょっとお待ちください。」 女性が事務室内を振り向くと、呼びに行くまでもなく波多野が丸坊主に近い短髪にまったく似合わないメタルフレームのメガネのいつものスタイルで、こちらへ歩いてきていた。 「池田さん、応接室にお茶をお願いしますよ。」 「かしこまりました、波多野部長。」 波多野は豊嶋のまだあどけなさの残るような日焼けした顔をちらりと見て、応接室へと先導した。 ソファーに向かい合って座り、事務の池田さんがお茶を置いて立ち去ると、二人は一口煎茶を啜った。 「貴重なお休み中に、すみませんね。豊嶋さん」 「いえ、早く仕事がしたくて、たまりません。こちらで今日から働きたいくらいです。」 「頼もしいですね。・・・今日は、豊嶋さんの希望の件について、先にお話ししておこうと思いました。」 「はい。」 波多野は再び煎茶を飲んだ。 「新人警護員は先輩警護員とペアを組んでサブ警護員として仕事を始めますが、豊嶋さんはお父上が当社のクライアントになられたとき、警護を担当した、高原晶生警護員にぜひ教えを 受けさせてほしいとおっしゃっているんですよね。」
「はい。でもそんな超一流の警護員さんといきなりなんて無理だと父には言ってありますが、俺もいつかはとは思っています。」 「インターンシップで来られたとき、スケジュールがちょうど合ったんで槙野警護員と組んだことがありましたね。どうでした?」 豊嶋は思い出すように目を輝かせ、唾を飲み込んだ。 「プロの警護員さんは本当にすごいと思いました。俺とそれほど年齢も違わないのに・・・。」 「槙野はごくごく若手の部類に入りますからね。一人でメイン警護員を務められるには、最低限あのレベルが必要ということです。まあ、豊嶋さんも早晩そうなれますよ。」 「がんばります」 「うちに、パートタイムではありますが、最古参の警護員達・・・高原や葛城の、直弟子みたいな警護員がいます。豊嶋さんは、彼と組んで仕事を始めてほしいと思っています。」 「その方は・・・・」 「豊嶋さんのお父さんも豊嶋さんもご存じの人間ですよ。」 「あ、もしかして」 応接室の扉がノックされた。 波多野が入るよう返事をすると、長身の豊嶋より背の低い、身長百七十センチくらいの細身の青年が姿を見せた。 明るい茶色の、絹糸のようなさらさらの髪は、女性のショートカットくらいの長さがある。その童顔によく似合う透明度の高い琥珀色の両目が、豊嶋のほうを見て少し笑った。 槙野と同様、豊嶋とほとんど変わらないような、ごく若くみえる警護員だった。 立ち上がった豊嶋のところまで彼を導き、波多野が二人を引き合わせ紹介した。 「豊嶋さん、こちらが・・・河合茂警護員です。うちの、有能なガーディアンですよ。」 豊嶋は、僅か数年前に一度会っているはずの相手に、今初めて会うような思いがして、深く一礼した。 街の中心にある古い高層ビルの高層階にある事務所の、奥の社長室にひとりの背の高い女性が扉をノックし入っていった。 社長室と呼ぶには簡素なつくりの、個人の書斎のような部屋には、端正な紳士と平凡な容姿の眼鏡の女性とが中央の円テーブルに座って待っていた。 眼鏡女性のほうが立ち上がり、入ってきた背の高い女性を紳士のほうへと導いた。 「森宮くん、新任研修終了おめでとう。」 「ありがとうございます。大学の勉強との両立で、一時ブランクとなり、時間がかかってしまいましたが、ご配慮いただきまして感謝申し上げております。」 金茶色の髪をきちんと整え異国的な顔立ちに映える深い緑色の目をした、部屋の主は、ふたりの女性を前に祝福の笑顔を見せた。 「森宮さんは今日から、正式に恭子さんのチームのメンバーだよ。」 「はい。」 吉田恭子は眼鏡の奥の静かな両目で、上司のほうをちらりと見た。 阪元航平はその視線に気がつき少し顔を傾け笑った。 「ごめんごめん、森宮くんの大事な上司を下の名前で呼んでしまって。でも私の癖なんだ、許して。」 二人の女性は寛大に微笑んだ。 森宮は女性にしてはかなり高い身長に、少年のようなショートカットの髪型をしている。 「研修中にお世話になったチームの皆さんから、社長のいくつかの特徴についてはうかがっておりました。」 「へえー。例えば?」 阪元は楽しそうな顔で森宮の、吉田によく似た深い湖のような両目を見た。 「とってもコーヒーがお好きで、淹れるのがお上手だと。」 「うん。」 「それを社員にいつも飲ませてくださると」 「そうなんだよ」 「でもお悩みをお持ちのときは、社員がとても長い間社長室に拉致されてしまうと」 吉田が笑いをこらえているのがわかった。 「それは・・・誰に聞いたのかな?」 「リーダーの庄田さんです」 「そ、そのほかには・・・?」 遠慮がちに瞬きをし、森宮は阪元の顔を見て微笑した。 「社員を、とても愛してくださっていると・・・。ミッションを遂行していく上で、我々には少し面倒なライバルがいるけれど、どんなときも・・・社員をお守りくださっている、と。 そうおっしゃっていました。」
「・・・新人エージェントになんだか色々既に重いものを予感させてしまってるね。困ったものだ、庄田にも。」 ついに吉田が声を出して笑った。 「社長、あきらめてください。うちのチームの深山が、さらに色々なことを教えるでしょうから。」 「・・・・そして酒井もね。・・・森宮くん、とりあえず深山っていうエージェントが何か言ってても、軽く聞き流すように。」 「は・・・・」 「あれはただのバカだから」 「・・・あ、社長の弟さんの、優れたアサーシンさんのことですね。とてもお兄さん想いでおられるって、・・・・」 「浅香が言ってた?」 「はい。」 「忘れなさい。・・・酒井については?」 「庄田さんがおっしゃるには、社長のご意見番でいらっしゃるのに、若干素行に問題がおありだと」 「あははは」 「でもリーダーの吉田さんと、それからチームの和泉さんには絶対かなわないんだそうです。吉田さんのチームで困ったことがあったら、深山さんや板見さんじゃなくて吉田さんと和泉 さんを頼るようにとのアドバイスをいただきました。」
「あはははははは」 笑い過ぎて咳き込みながら、阪元は奥のカウンターへ行きコーヒーセットを持って戻ってきた。 繊細な磁器のコーヒーカップとソーサーが三組、円テーブルに置かれ、阪元がポットから熱いコーヒーを注ぐ。 「おいしいです」 社長と吉田とともにテーブルに座りコーヒーを飲んだ森宮が、嬉しそうに言った。 「川西様はお元気かな?」 「はい。ご親戚のかたと最近は南米旅行がマイブームになっているんだそうです。」 「すごいなあ。・・・森宮くん、君が一人前のエージェントになったら、ご紹介くださった川西様も喜んでくださるだろう。まあ、我々のお客様には、もうあまりなられないことを祈り つつだけれど。」
吉田が静かに微笑んだ。 「幸福に生活しておられるかたには、うちの会社は必要ありませんからね。」 「はい。・・・・私、立派なエージェントになります。」 「うん」 「吉田さんのような・・・。どんなものにも、負けない、エージェントになって、困っておられるお客様たちを一人でも多くお手伝いします。」 「そうだね。・・・君は、たぶん、とっても強い。・・・うちの会社はね、まだいくつものことが、途中なんだ。社長の私は、皆に助けてもらって毎日仕事してるんだよ。恭子さんみた いな、頼れる人たちにね。」
阪元は微笑し、もう一度新人エージェントの顔を見た。 「やっぱり、わが阪元探偵社の伝統かな。女性がすごく強いのって。」 言ってすぐに、やや言い訳するような表情で、阪元は隣の吉田の顔を見た。 吉田は眼鏡の奥の静かな両目に慈愛の色を満たし、言った。 「社長。それは正確な表現では、ありませんわね。」 波多野が応接室を去った後、茂は、向かいのソファーで背筋を伸ばして座ったままの、しかし何か言いたげな様子の豊嶋のほうを見た。 「あ、高原さんたちは、今日はたぶん後1時間くらいしたら事務所に見えますよ。改めて、先輩たちにご紹介できますけど、それまでの間、外で食事でもしましょうか。」 「ありがとうございます。高原さんは、この大森パトロール社ができたときからおられる数少ない警護員さんたちの一人なんですよね。」 「うちはまだまだ若い会社ですけど、警護員たちは皆優秀だって言われてます。そして特に・・・当初からおられる四人の先輩警護員たちは、本当の意味で超一流の警護員です。早くペ アを組めるようになるといいですね。」
「高原さんと、葛城さん、それから・・・・」 「山添さん・・・・そして月ヶ瀬さん。皆さん、それぞれに個性が違っておられます。そして、後輩をとても大切に指導してくださいます。山添さんは、貴方が以前職場体験のときに組 んだ槙野さんを、育てたかたですし。」
「そして、河合さんは・・・・」 「ええ、葛城さんとずっとペアを組ませてもらいました。高原さんとも、山添さんとも、月ヶ瀬さんとも。」 羨ましそうな表情の豊嶋に、茂は微笑した。 唾をのみ込み、生き生きとした目で豊嶋は先輩の顔を見た。 「来月、入社したら早々に最初の仕事をさせていただけると伺いました」 「そうですね。今、俺が単独で準備中の、単発の案件がひとつあります。サブ警護員として入ってもらいます。」 「ありがとうございます。・・・今日は山添さんも月ヶ瀬さんもこちらへ?」 「えっと・・・月ヶ瀬さんは今日は非番ですね。山添さんは葛城さんより少し遅れて到着されると聞いてます。・・・まあ、月ヶ瀬さんに会うのは、もう少し後でもいいかも・・・・」 「?」 茂は軽く咳払いをした。 夕日が街のビルの間を縫って輝き、すぐに宵の三日月が静かに姿を見せた。 阪元探偵社の若き社長は、しばらく一人でいた部屋に、やがて別の社員を迎えていた。 「失礼します」 「こんばんは、庄田。仕事はもう終わった?」 「はい」 一礼して入ってきたシニア・エージェントは、その涼しげな切れ長の両目を上司に向け、意外そうな表情になった。 「・・・なんだか社長、楽しそうでいらっしゃいますね。」 「特にそんなはずはないんだけどなあ」 「でもよかったです。吉田さんから、社長がお怒りかもしれないから用心するようにとのメールを頂いていましたので」 「あははは」 既にテーブルに用意してあったポットに阪元が手を伸ばそうとすると、庄田が近づいて申し出た。 「たまには、私に手伝わせてください、社長。」 阪元は秘蔵の宝物を見つめるような表情で部下の顔を見て、その深いエメラルド・グリーンの両目を瞬き、そして笑った。 「ありがとう。それじゃ、お願いしようかな。」 テーブルの上のコーヒーカップに庄田がポットからコーヒーを注いでいる間に、阪元は窓際の自分の机まで行き、パソコンで一曲の音楽を再生し始めた。 それは庄田が聞き覚えのある曲だった。 テーブルに戻り、部下とともに座ってコーヒーを飲み始めた阪元に、庄田が尋ねる。 「社長、この曲は・・・・」 「うん。いつか、祐耶に聞いたことがあって」 「あの教会で、耳にしたとき、深山さんが歌詞を教えてくれました。」 「どうせ祐耶のことだから、日本語じゃなく英語に訳したんだろうね。」 庄田は笑って頷いた。 「はい。・・・たしか、オペラの曲だと。」 「ヴィヴァルディのオペラ、『ジュスティーノ』に出てくるアリアだよ。」 「はい」 「タイトルは、『Vedro con mio diletto』。」 短い曲が終わり、阪元は目を閉じて、歌詞を日本語で暗唱した。 「私は大きな喜びを持って愛する者に会うだろう。 私の心の中の心、魂の中の魂の、喜びをもって。 そしてもしも愛する者が遠くに離れるなら、 私は哀しみの溜息に苛まれ続けるだろう。」 庄田が目を伏せ微笑した。 「シンプルな歌詞ですね。」 「そうだね。」 「・・・もう一度、曲を聞かせて頂いても、よろしいですか?」 「いいよ。」 阪元はパソコンで曲を再び流した。 歌声が、静かに部屋に満ちた。 Vedro con mio diletto.
l'alma dell'alma mia, Il core del mio cor pien di contento. E se dal caro oggetto, lungi convien che sia. Sospirero penando ogni momento. 茂は後輩を促し、応接室のソファーから立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行きますか」 「はい。」 「なんだか、緊張してます?豊嶋さん」 「は、はい」 「俺も初めて先輩達に会ったときは、そうでした。まあ、あまり硬くならずに・・・。食べ物は、好き嫌いはありませんか?」 「はい、何でも好きです。」 「それはなにより。」 豊嶋が自分も立ち上がり、笑った。 「今日、本当は高原さんから過去の警護案件をいくつかレクチャーして頂けるはずだったんですが、それは来月までちょっと待っててくださいね。今日は顔合わせだけで、そのまま俺も 高原さんたちも別件で出なくてはいけなくて。」
「はい。」 茂は少し目を伏せ、微笑した。 「平日昼間勤めてる会社の、同期が婚約したんですよ。そのお祝い会で。高原さんたちも呼ばれてます。」 「おめでとうございます。でもそれ、親父も行くらしいです。高原さんから聞いて。児童館で今もボランティアで舞教室をしていただいていて、すごくお世話になっているので絶対行く って言ってました。」
「はははは、そうなんですね。あ、それじゃあ豊嶋さんも行きますか?駅ビルの上にあるバーを借り切ってるので、誰でも参加できますよ。」 「ありがとうございます!」 「高原さんが宴会一発芸を見せてくれるかもしれません。」 「コーヒーを口じゃないところから飲む技でしょうか」 「あはははは」 その後、豊嶋はふっと表情を真剣なものにし、息を飲み込み、そして言った。 「俺、高原さんや、河合さんみたいな、立派な警護員になります。そのために、修業して、それから・・」 「まずは肩の力を抜いてくださいね。先は長いんですから。それに・・・」 「?」 「・・・それに、これから警護員としてうちの会社で仕事をしていくなら、途中でいくつも、ちょっと悩まなければならないことに、出会います。」 「・・・・はい」 「そのときは、いつもこのことを思い出してください。我々は、違法な攻撃からクライアントを守る。そのためなら、違法なこと以外は、どんなことでもする。つまりはそれだけのことなんだってことを。」 「はい」 「そして、いつも、自分を大事に、してください。」 「はい」 豊嶋はじっと先輩の顔を見た。 緊張の中に、不思議な覚悟のような光が、あった。 「・・・・あの、これから、どうかよろしくお願いいたします。」 「はい」 「えっと・・・・」 まだ緊張している面持ちの豊嶋に、茂は微笑し、そしてドアを開けて給湯室のほうを指差した。 「麦茶、飲みますか?豊嶋さん。」 窓の外から、細い三日月が、まだ夕暮れの余韻の残るような夜空から密やかな光を届けていた。 (第二十四話 おわり) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二十四話、いかがでしたでしょうか。
シリーズ小説「ガーディアン」は、この第二十四話で、区切りとなります。 なお、わたくしの書いた小説はすべて、著作権フリーです。無償で、そして許可なく、自由に複製や出版等して頂いて大丈夫です。 また、作品の趣旨を損なわない限り、続編やサイドストーリー等の執筆・発表等も自由にして頂いて大丈夫ですが、その際は、藤浦リサの執筆でないことを明記願います。 これからも、「ガーディアン」を、よろしくお願いいたします。 平成27年5月16日 藤浦リサこと 石田麻紀 |
小説
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六 逡巡
酒井は少しの間を空け、上司へ向かって答えた。
「苦しいことをなるべくやらずに済むことを考えることですかね」 「そうだと思うんだよ。ひとつめの点を乗り越えるためには、あいつらに我々の仕事を邪魔されずに、しかもなおかつ、どうすれば”なるべく”あいつらを傷つけずに済むのかを、考えないといけないんだよね。」 「難しいことですな」 「うん。一度試して見事に失敗したこともあるくらいだからね。」 二人はしばらく沈黙した。 「つまりほとんど不可能なんじゃないですか」 「まあそう言わないで。まだ色々途中だって言ったのはそういうことなんだから。」 「はい」 「でも大事なことはね、こういうことを怖がらずに正面から考えることなんだと、思うんだ。」 「それはそうですね」 「どこまで行っても、”なるべく”なんだもの。苦しくてもあいつらを倒すしかないんだもの。究極的には。」 「はい」 「で、ふたつめの点なんだよね。”苦しいことそのものがおかしいんじゃないかという不安”。これを乗り越えるには、苦しいことはおかしいことじゃない、って、心と体で理解することが必要だと思うんだ。つまり、きちんと直視しなければならないってこと。我々がある意味あいつらを尊敬したり、愛したり、してるんだっていう苛立たしい面倒な事実を。そこから目を逸らさずに、はっきりと認めることが、必要なんだ。」 「はい。あいつらを倒すときに心が苦しくなることは、おかしいことでもなんでもない、ってことですね。」 「そう。倒すべきは憎い相手だけじゃないんだってことを、本気で理解するってことだよ。」 「・・・・・」 阪元は緑色の両目を細めて、微かに笑った。 「社内ルールの見直しを恭子さんに約束したから鋭意検討中なんだけど。今の我々の、外の敵に対するルール・・・たとえばルールAとかBとかね、それらは、あいつらみたいな敵は想定してないんだよね。」 「はい」 「脅しが効く、そして命が惜しいような、そういう人間達むけのルールだから」 「そうですね」 「だから、そういうことが通用しないあいつら向けには、特別ルールが必要なんだろうなと、思ってる。」 「なるほど」 「あいつらの妨害を排除するには、必要なときはどんなことをしても倒すことと、そうじゃないときは逆に潔く手を引くことの、両極端の対応をする切り替えが、我々に必要なのかもしれない」 「なんか頭おかしくなりそうですがな。」 阪元は今度はもっとはっきりと、笑った。 「…傾向と対策だよ。受験対策よりもっと単純なこと・・・のはずではあるんだけどね・・・。」 長時間扉が閉まったままになっている社長室のほうをちらりと見て、庄田直紀は苦笑しながら向かいの席の部下に声をかけた。 「酒井さん、もう一時間になりますね。」 「はい。」 浅香仁志は穏やかな容貌に当惑と同情の色を混在させながら自分も社長室の扉に目をやった。 「今日は我々以外に事務所に誰もいないから、社長も思う存分ドアを閉めきっておられる」 「ははは」 「悩み相談、我々も少し分担してあげられたらいいのですが、その点で酒井さんにかなう人材がまだいないのが課題です。」 「そうですね・・・」 長身の浅香に比べ、男性にしてはそれほど身長のない庄田は、しかしその凶暴さに近い隙のなさと、涼しげな切れ長の両目の静かな凄味が、実際よりずっと背を高く見せている。ぬけるように白い頬は、体の健康状態を如実に表しているが、以前に比較しその表情は生気を帯びて見えた。 「大森パトロール社の警護員は、社長も悩みすぎて体を壊したくらい、面倒な人々ですからね。」 「はい」 「浅香さん、あなただけじゃないから、改めて安心してください。」 「・・・すみません」 庄田は端末の画面から目を離し、右手で頬杖をついて少し宙を見つめた。 「私は、大森パトロール社に昔からの知り合いがいます。現役の警護員に。」 「えっ・・・・・・」 庄田は部下と目線を合せず笑った。 「幼馴染みです。私より少し年下ですけれど。・・・でも、決定的に嫌われる出来事がありました。」 「うちの会社に庄田さんが来られたから・・・?」 「それより少し前です。彼は私くらいの身長ですがもっと華奢で・・・いつまでも少年みたいな感じに見えました。あるとき、不埒な男色趣味の男に、凌辱目的で監禁されたんですよ。睡眠薬を使われて。」 「・・・・」 「私は彼を助けたんですが、犯人をほとんど社会復帰できない状態にしてしまいました。彼はすごく怒りましたよ。」 「そうなんですね」 「正当防衛の域を超えてる、ってね。」 「でも庄田さんはその人を助けようとして・・・しかもそれは庄田さんがその人のことを本当に・・・・・」 「犯人に私刑に近いことをしたのは事実ですし。感情に任せて。まあ本当は殺してやりたかったですけど。・・・・いずれにせよ今も、仕事をしていてときどき、彼の、怒りの表情を思い出します。」 「・・・・・・・」 黙り込んだ浅香に、庄田は申し訳なさそうな表情を向けた。 「すみません、浅香さん。なんだか気の沈む話をしてしまいましたね。」 「いえ、そんなことは・・・・」 そして庄田は笑った。 「彼は私を許していないし、さらにその後、正真正銘の犯罪者となった私を心底憎んでいるでしょう。でもね、」 「・・・・・・」 「でも、私は彼をずっと愛している。友人として。一方的な感情ですし、明らかに敵同士ですけどね。例の高層ビルで、彼の目の前で三人殺しました。一生どころか来世でも許してもらえないでしょう。でも私は、愛している。」 「・・・・・」 「そういうことです。」 浅香は唇を噛み、長い間ためらった後、少し震えるような声で尋ねた。 「庄田さん、それは、・・・亡くなった奥様を、今も愛しておられるということと、似たことですか・・・?」 庄田は苦笑に近い微笑をよぎらせた。 「そうですね。一方的なものだけど絶対なくならないものという意味ではね。」 浅香はそれ以上の質問をすることを、上司に失礼だという理由と、そしてもうひとつの理由とで、断念した。 察したように庄田は、部下に慈愛のこもった視線を向け、そして静かに席を立った。 三村英一が最近一人暮らしを始めたマンションは、独りには十分な広さだが、彼の実家が常軌を逸した豪邸であるため訪ねる者は一様に「狭い」という印象を受ける。 高原はここへ来るのは初めてではなかったが、やはり実家との落差を感じながら、英一が独立して暮らしていることを改めて認識もした。 稽古が終わったばかりという英一は、急いで戻ったらしくまだ和服姿だった。 「わざわざすみません、高原さん。・・・・お体のほうはもう大丈夫なのですか?」 恐縮して英一が高原を室内へ導き入れ、ソファーに座るよう促す。 「こちらこそ、お稽古のお忙しい週末にすみません。・・・・おかげさまで、あと一週間で仕事に復帰する予定です。メイン警護員業務ができるのはさらに一か月先の案件からになりますが。」 「そうなんですね」 英一がコーヒーカップを持ってソファーまで来ると、高原は立ち上がって頭を下げた。 「ご心配おかけして・・・すみませんでした。」 「高原さん」 高原に座るよう頼み、英一は自分も向かいのソファーに腰を降ろす。 疲労と罪悪感が入り混じったような表情で、高原はテーブルの上に視線を落とした。 「・・・三村さんは、いつも我々のことを誰より心配してくださっている。」 「・・・・・」 「それなのに、そのお気持ちを踏みにじるようなことばかりです。」 「・・・・・・」 「特に、河合警護員が仕事を続けてこられたのも、三村さんにお世話になってきたからです。・・・今回の事件のあと、私はまだ河合と話さえできていません。」 「・・・・・」 英一は高原のうつむいた顔を見ながら、自分が恐らく高原の知らないことで大森パトロール社の波多野営業部長から聞いたことを、切り出すタイミングを見つけられずにいた。 しかし幸か不幸か高原は英一の様子の微妙な変化に、ほどなく気がついた。 「すみません、私ばかり一方的に話してしまって」 「あ、いえ・・・」 「・・・・・」 二人はかなり長い間、黙ってコーヒーを飲んだ。 英一が溜息をつく。 「どうすれば・・・・高原さんに、お伝えできるのだろうと、いつも考えますよ。」 「・・・・・」 「あなたが、どれだけ皆にとって大切な人であるか。」 「・・・・・・」 「あなたは絶対に、わかっていない。」 目を伏せ、高原は英一以上に哀しそうな顔をして、笑った。 「ありがとうございます、三村さん。」 「・・・・・・」 「私は、これからもやっぱり、変わらないかも知れません。でもあなたが同じときを生きてくれていることを、神にいつも感謝しています。」 「・・・・・・」 「死がどんなものか分からないですが、常に共にあります。」 「高原さん・・・」 「それから」 高原は少し表情を変え、改めて英一の端正な漆黒の両目をその知的なメガネの奥の両目で見た。 「はい」 「命といえば・・・それを助けることに最も執着しているのは、うちの葛城警護員ですね。」 「・・・ええ。」 「怜は・・・葛城は、山添とか私とかのような、幸福な家庭に育っていません。幼いころ両親を亡くし、叔母に育てられました。」 「そうなんですか」 「そして葛城が学生のとき、その叔母が自殺をしたそうです。」 「・・・・・・・」 「前日まで、明るく元気に、一日も休まずに働いて。そして週末、ひっそりと亡くなった。彼は警察官志望でしたが、そのことをきっかけに、より直接的に人を守る仕事・・・ボディガードを志すことにした。」 「・・・・・」 「自分は叔母を助けてあげられなかったと、今もときどき思うそうです。そしてあいつは、今もそしてこれからも・・・・それが誰であろうと一人でも多くの命を守るためだけに、仕事をするんでしょう。」 「今、葛城さんが一人で住んでおられるあの家は、そうすると・・・」 「はい。彼が叔母と住んでいた家です。」 「・・・・・」 「すみません、こんな話をしてしまって・・・・。自分でも、なぜだか、よく・・・」 高原は自分に自分で当惑した様子を隠さず、コーヒーカップを持った手を見つめた。 カーテン越しに、バルコニーから静かに午後の陽光が差し込んでいる。 「ありがとうございます、高原さん」 「・・・・・・」 「部外者の私なんかに、大事な話をしてくださり、感謝します。葛城さんのことが、今までよく分からなかった部分がありましたが、少しだけ納得できる点が増えた気がします。」 「はい」 「あの人は、どうして心の底の底までいつも宝石のように純粋なのか、いつも不思議でした。」 「・・・・・そうですね」 「私も、高原さん、あなたにお伝えしたいことがあります。」 高原は顔を上げて英一を見た。 「?」 「波多野部長が、私に話してくれたことです。でも、誰にも言うな、とはおっしゃいませんでしたから。」 「それは・・・・・」 「河合のことです。」 英一が少し遠慮がちな微笑を浮かべ、高原の怪訝そうな顔を見返す。 大森パトロール社の事務所は週末午後にしては人が多く、山添は後輩警護員を外のコーヒー店に誘った。 「なんだか槙野さんが元気がないから。河合さんとは会ってるんですか?」 槙野俊幸は、先輩の優しい微笑に恐縮しながら、少しうつむいた。 「・・・あれから、うちにはまだ来られてないです。警護業務の間も空いているようで、事務所にもみえてないですし・・・」 「槙野さんの家に、猫のミケを見にも来ないとは・・・かなり重症ですね。」 「はい。」 水を持ってきた店員に、山添がコーヒーをふたつ注文した。 「こんなことを槙野さんに頼むのも何なんですが、明日あたりちょっと河合さんに連絡を入れてみてもらえませんか?」 「はい、大丈夫です。でも僕より、三村さんのほうが良いということはないでしょうか?」 「三村さんは昼間の会社が同じだから、逆に毎日近くに居すぎて言いたいことが言いにくいこともあるんじゃないかと、思うんですよ。」 「なるほど」 よく日焼けした顔に似合う黒目勝ちの目を、少し天井に向け、しばらくしてまた山添は小柄な後輩の上品な顔に視線を戻した。 「あの探偵社がからむと、皆、なにかちょっとおかしくなりますね。」 「・・・・・・」 「どうすれば乗り越えられるのか。ときどき、不毛なくらい考え込んだりしますよ。」 「山添さんも・・・そうなんですか。」 「あいつらがもっと人としてどこから見ても最低最悪の奴らだったらよかった。」 「・・・・」 「そう、思いますよ。」 「・・・・・山添さん・・・・。僕は、庄田と、幼馴染でした」 「はい」 「僕より年上で、そして何をやってもかなわない、尊敬する兄みたいな人でした。でも、あの人は、僕と絶対に相容れない。」 「はい」 「人を殺す。平気で。どうしてそんなことができるのか、どうしても分かりません。どうしてなのか・・・・」 「・・・・・」 「それなのに・・・・」 山添は微笑をさらに優しいものにしながら、右手を伸ばして後輩の頭にそっと置き、しばらくそのままにし、そして再び離した。 「・・・それなのに、慕っているんですね?」 「・・・・はい・・・・・」 「今も。庄田を。」 「そうです・・・・・・」 槙野はうつむいたまま、動かない。 「槙野さん」 「はい・・・・」 「もしも庄田が、ミッションを遂行するためにはあなたを殺さなければならない立場になったら、どうすると思いますか?」 「・・・・・・」 「あなたを殺すと思いますか?それとも、そのミッションを避けるなどして、あなたを殺すことを回避するでしょうか?」 顔を上げて、槙野が、その真っ赤になったままの両目で山添を見た。 「庄田は、迷わず僕を殺すと思います。」 「どうして、そう思いますか?あなたと幼馴染みだったことが、庄田にとってもうどうでもいいことだからですか?」 「いえ・・・・」 「・・・・・」 槙野は唇を噛み、そしてゆっくりと再び口を開いた。 「いえ、そうではないと・・・。」 「ではなぜ」 「・・・庄田は、自分の仕事を遂行するためには、全部のことを犠牲にすると思うから・・・です。彼の命も含めて。だから・・・」 「そうでしょうね。」 「・・・・」 山添は声をさらに静かにして、言った。 「・・・ならば槙野さん、あなたも全部の力を使って庄田を排除してください。どんなに慕っていようと問題ではありません。」 「・・・・・」 「愛していても、問題ないんですよ。クライアントを襲う人間は、親でも排除するのが警護員です。」 「はい。」 槙野は返答し、頷いた。 そして山添の表情を見て、少し驚いた顔になったが、さらにもう一度槙野は言った。 「・・はい。・・・山添さん。」 英一はコーヒーを淹れ直しに台所へ行こうかと思ったが、思いとどまり、そのまま高原の顔を見て、口を開いた。 「河合が、どうしてパートタイムで警護員をしているのか。平日昼間は別の会社で仕事をして、大森パトロール社では土日夜間限定で働いているのは、どうしてか。」 「・・・・・・」 「たぶん・・・高原さんを含め、大森パトロール社の先輩警護員さんたちも、ご存じないでしょう。」 「はい。」 「新人警護員の給料では生活できない、というのが表向きの理由ですが、槙野さんのように共同生活をするとか、生活費をなんとかする方法などいくらでもあります。」 「そうですね」 「河合は、学生のとき・・・高校時代に出会って、大学に入ってからもずっと交際していた、恋人を、ストーカーに惨殺されたそうです。」 「・・・・・・」 「ボディガードになると決めて、大森パトロール社に入ろうとしたとき、波多野営業部長はこのことを河合から聞いて、採用にあたり一つ条件を出したそうです。」 「・・・それが・・・フルタイムではなくパートタイムの警護員になること、だったのですか。」 「はい。ほかのことをしているくらいが、精神的にバランスが取れてちょうどよいと、判断されたそうです。」 「・・・波多野部長は、三村さんにこのことをなぜ話そうと思われたんでしょうね。」 「想像はつきます。高原さんは・・・?」 高原は眼鏡の縁を少し持ち上げ、そして笑った。 「・・・つきますよ。」 「はい」 「理由はふたつでしょうね。まずは・・・河合が、そろそろ、自分の個人的感情を超えて仕事ができる段階まで、成長したと感じているんでしょう。フルタイム警護員になってもおかしくない・・・ガーディアンに、なれる予感が、確信になっているんでしょう。」 「そうでしょうね」 「それからふたつめは」 高原は少し柔和な笑顔になった。 英一はその意味が分かり、一瞬目を逸らした。 「ふたつめは?」 「でも平日昼間の会社を本当にやめてしまったら、その会社の同期入社の仲間である三村さんがきっとアレなので、仁義を・・・」 「コーヒー淹れ直してきます」 立ち上がろうとした英一を、高原が止めた。 「三村さん」 「・・・・はい」 「波多野さんも、俺も、・・もちろん葛城も、同じ気持ちです。」 「・・・・・・」 「河合は、あなたがいてこそ、毎日元気でいられます。」 「・・・・・」 「これからも、あいつをよろしくお願いします、三村さん。」 「・・・・・・・」 英一は唇を前歯に挟み、黙った。その表情は、謙遜とも承諾とも読み取れる曖昧なものだった。 ふと高原は別の話をした。 「和服を着ておられるのを見て、我儘なお願いをしたくなりました。」 「え?」 「あなたの舞を、所望してもいいですか?」 「・・・ええ、それはもちろん・・・・。何か、特定のものをご希望ですか?」 高原が笑って英一の顔を見た。 「河合が初めてあなたが舞台で舞うのを見て、世界が変わったことがあるんですよ。ご存じでしたか?」 「いえ・・・・」 「確か、”いざや”という曲だったとか」 「ああ、それは・・・・」 「覚えておられます?」 「ええ、もちろん。葛城さんとあいつが俺の警護をしたとき、ですね。・・・地は録音ですが、ありますよ」 英一は静かに立ち上がった。 「扇は使われないんですね」 「はい。あのときは、舞台映えを考えて扇を持つようなアレンジをしましたが、本来は何も手にもたない、手踊りです。」 再生機器から、曲が流れ、英一がバルコニーへ向かう窓を背にし、ゆっくりと舞い始めた。 ”いざや行きましょ住吉へ 芸者引き連れて
新地両側華やかに 沖にちらちら帆掛け舟 一艘も二艘も 三艘も四艘も五六艘も おや追風かいな ええ港入り 新造船 障子あくれば 差し込むまどの月明かり とぼそまいぞえ蝋燭の 闇になったらとぼそぞえ 一丁も二丁も 三丁も四丁も五六丁も おやとぼそぞえ蝋燭を” わずか数分の上方唄は、舞い終わり正座して英一が深く一礼すると同時に終わった。
顔を上げた英一の表情が、たちまち変わった。 その視線の先に、玄関をゆっくりと開けて入ってきた葛城と茂の姿があった。 「お邪魔します。・・・というより、お邪魔してました。」 「葛城さん・・・・・」 「ドアの鍵が開いていたものですから、三村流宗家の舞を、ちょっと覗き見してました。」 「・・・・・」 そして葛城に少し背中を押されるようにして、茂がリビングへと入ってきた。 その透き通るような琥珀色の両目で、英一を見て、そして次に、高原を見る。 「河合・・・・」 「・・・高原さん、確か、車の中でクライアントにおっしゃっていましたよね」 「・・・・・」 「法律に頼った仕事をしているのは、これでいいかどうかについて、何も考えなくていいからだ、って。」 「・・・ああ。」 「それは絶対違います。何も考えなくていい仕事なんて、ないですよ。」 「・・・・・ああ、そうだな。」 英一が立ち上がり、困ったように笑いながら親友の顔を見た。 「河合お前、よくここに高原さんがおられるってわかったな。」 「葛城さんも、俺も、高原さんの行動パターンなんてもう熟知してるからね。」 「うるさいよ、河合」 高原は後輩に向かって少し怖い顔をしてみせた。しかしそれは意図した効果は生みそうになかった。 バルコニーから差し込む太陽の光はさらに明るさを増していた。 |
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五 告解
西日が病室へオレンジ色の光を届け始めたころ、一人の看護師が病棟の二人部屋へ静かに入り、奥のベッドのカーテンを開けた。 「高原さん、ご気分お変わりありませんか?」 ベッドの上で浅い眠りに落ちていた高原は、しばらくして目を覚まし、黒く染めた波打つ髪を後ろできちんとまとめ笑顔で自分を見下ろしている看護師の顔を認めた。 その表情は僅かしか変わらなかった。 看護師は異国的な顔に似合う茶色の二重瞼の目を細め、微笑した。 高原が微かな愉悦のよぎる表情で、低く静かな声で言った。 「・・・・私を暗殺しに来られたわけでは、なさそうですね。阪元探偵社の深山さん。」 深山祐耶はマスクを外し、両手を相手に見せた。 「ナイフは持ってないよ。」 「あなたに女装趣味があったとは」 「男性の看護師はまだ少なくて目立つからね」 二人はしばらくそのまま黙った。 高原は楽しそうな表情をさらにはっきりしたものにして、再び口を開いた。 「ご用件は?」 深山が顔を少しだけ傾け、少しの皮肉を含む笑顔を見せた。 「ふたつ。ひとつめは、君がほんとに生きてるか、一応見に来た。」 「潜入しているお仲間の情報を信じてあげないとは、ひどいですね。」 「頭をぶつけると、意外なタイミングで急変したりもするから」 「ご心配ありがとうございます。おかげ様で、明日やっと退院です。」 「ふたつめはね。」 深山の右手が高原の首元に伸び、微かに喉元に指が触れた。 「・・・・」 「今度うちのエージェントを危険な目に遭わせたら必ず殺すけど、でもね」 「・・・・・・」 「でも、・・・僕以外の人間には、殺されるな。大森パトロールの、高原さん。」 指が喉元を離れた。 足音もなく深山は病室を出ていった。 エレベーターではなく階段室へ入り数歩下った深山の足が、最初の踊り場の手前で止まった。
薄暗い蛍光灯の明りの下で、壁にもたれて、艶やかな黒髪を長く伸ばした青年が待ちくたびれた様子でこちらを見ていた。 「・・・・僕に、何の用?」 「随分冷たい反応なんだね。僕のこと、気に入ってくださっていたかと思ってたけど?」 「気に入ってるよ。ようやく、僕たちのところへ来る気になったの・・・?大森パトロールの、月ヶ瀬さん。・・・なんてわけ、ないか。」 「死んでもそれはないね。」 「・・・・死にたくなかったらそこをどいてくれる?」 「君、僕と殺し合うほど馬鹿な人ではないでしょ。一流のアサーシンは相手の力量を考えて行動する。」 「・・・・・君も有能なアサーシンになれるよ、月ヶ瀬さん。僕が来るタイミングを予想したんだね。退院前日で、そして・・・」 「・・・看護師の目が届きにくくなる、勤務時間の交代の時刻。高原警護員を追い回すストーカー君の行動の予想は易しい。」 「警護員のお客さんの半分はストーカーがらみなんだってね」 月ヶ瀬は深山のマスクをした顔を視線に捉えたまま、その青みがよぎるような頬によく映える切れ長の美しい両目で、冷たく笑った。 「君に言っておくよ。阪元探偵社の、深山祐耶。」 「・・・・・」 「もしもうちの警護員に、危害を加えたら、僕が君も君の仲間も、殺す。覚えておいて。」 「・・・・君は同僚への情というものを持たない主義だと思ってたけど?」 艶やかな黒髪をかき上げ、月ヶ瀬が嘲るように笑った。 「僕は余計なトラブルがイヤなんだ。それだけのこと。」 「君に人が殺せるの」 「もう一度今の質問してくれる?」 深山は一瞬息を飲みこんだ。 そしてゆっくりと言った。 「・・・・君なら、できそうだね。」 数秒後、二人はすれ違い、深山は階下へと姿を消していった。 高原のマンションに、真新しいベッドが運び込まれていた。 葛城が高原をソファーで待たせ、手早くベッドにシーツを敷き整える。 「悪いな、怜。こんなことまでしてもらって」 「お前、放っておくと自宅療養もソファーの上で済ませそうだからな。治るものも治らないぞ。」 「はははは」 午前中の明るい光が差し込む寝室へ、寝巻に着替えた高原を連れていきベッドに座らせると、葛城は台所へ行き水と薬を持って戻ってきた。 「飲んだらちゃんと寝るんだぞ」 「もう大丈夫なんだけどなあ」 「またそんなこと言ってる。泊まり込むよ?」 「はいはい」 高原は大人しく薬を飲んで横になった。 「じゃ、俺は帰るけど、明日は崇が来るって行ってたから」 葛城が踵を返したとき、高原が声をかけた。 「・・・怜」 「ん?」 「ごめんな。色々と」 葛城は振り返ると黙って同僚の顔を見下ろした。葛城の美しい顔には、しばらくの間なんの表情も浮かばなかった。 さらに数秒の後、やや厳しさの色を混ぜ、どんな美女も戦慄するような艶っぽい両目は哀しげに伏せられた。 「お前、車の中でひとつだけクライアントに指示を出したそうだね。」 「河合に聞いたのか」 「クライアントが茂さんに伝えたからね。・・・・”車が停まったら、分からないようにシートベルトの金具を外してください”・・・って、言ったんだね。」 「ああ。」 「車に乗ってて襲撃されたとき、クライアントを車の外へ突き落す警護員なんて聞いたことがないよ。酒井は完全に虚を突かれた。」 「・・・・・」 「お前は、本当にすごい警護員だ。たぶん、阪元探偵社のどんなエージェントも、まともに襲ったらお前のクライアントに手出しすることはまず不可能だろう。」 葛城の表情はさらに哀しそうなものになっていた。 「怜・・・」 「お前は完璧なんだ。だから、晶生・・・・お前を誰も、助けられない。」 「・・・・・・・」 高原は葛城の目から涙がこぼれるのではないかと思ったが、しかし葛城は唇を噛み、さらに目の光を強くしてもう一度高原のほうを見た。 そして、その表情が柔らかいものとなり、やがて葛城は高原が少し驚くような、静かな声で言った。 「波多野さんの奥さんが、おっしゃってた。」 「え?」 「お見舞いに伺って、帰り際の俺たちを追いかけてこられたとき。内緒ですけど・・・って小さな声で、でもはっきり言ってくださった。警護員さんたちは、やりたいことを、思いっきりやってください、って。」 「・・・・・」 「結果を受け止めることが、上司の責任だから。部下の皆さんは、波多野の気持ちのことなど本当に気にしないで。上司の基本的な指導と会社の方針を理解した上ならば、あとは本当に必要とご自分で思われることなら、例え波多野をそのときは苦しめるようなことでも構わないから。しっかりやってください、って。」 「そうか」 「・・・・俺はね、人はそれぞれ皆、何らかのかたちで苦しむし、苦しんでいるものだと思ってる。」 「うん」 「医者とかカウンセラーとか他人とかが助けることができるのは、そのうちのほんの一握りの人間達だけだ。助けが必要かどうかに関係なく、たくさんの人間が、助けられず放置される。むしろさらに鞭打たれる。家族や友人に相談して元気になるとかそういうレベルじゃなく。・・・それでも歯を食いしばって生きるのが人間だ。」 「ああ。」 「倒れて専門家の手の中に保護してもらえる一部の人間じゃなく、俺は、ふらふらになりながらも必死で自分の足で今日も立ち続ける大多数の人間のために、存在していたい。」 「・・・・・」 「一見、強くて、あかるくて、元気で、なんの問題もないようにしか見えない人間。でも一皮むけば、その心の中は、想像するのも怖いような状態かもしれない。責任感というものさえなければいますぐ自殺して楽になりたいくらいつらい毎日なのに、誰にも気づいてもらえないでいるのかもしれない。そういう人間のために。」 「・・・・・・」 「お前が、その、いやになるくらいあかるい好青年の顔の下で、いつもなにを考えて、どこへ向かって生きているのか、俺にはたぶん永遠に理解できないよ。でもね、俺はお前みたいな人間のために、今日もここにいたい。ここにいることしか、できないけど。」 「怜・・・」 「自分のことを棚に上げて言ってるかもしれないけど。・・・・自分を守り、家族を守り、仲間を守って・・・そして初めて、他人であるクライアントを、ほんとに守れるんだと思うから。」 窓の外の太陽がさらに高さを増していく。 高原は同僚の顔を見上げたまま、黙った。 「おはよう、深山」 「吉田さん・・・・昨日は我儘をきいていただき、ありがとうございました」 事務所に現れた深山は上司が座る机の脇まで行き、一礼した。吉田恭子がメガネの奥の静かな両目で微笑する。 「酒井が今回かなり危ない目に遭ったのだから、お前が高原をしっかり威嚇してくれたのは良いことだった。」 「はい」 もう一度吉田は部下の異国的な顔に浮かんだ複雑な表情を見上げた。 「でも、次回は私ももう少し安全策を優先する。」 「・・・はい」 「酒井は、高原警護員がターゲットと一緒にいる間に襲撃させてほしいと求めた。お客様からのご指示でもないのにね。今回は許したけれど、相手があの会社であるならなおのこと、そういう我儘はもう許さない。」 「はい」 「あの後、酒井が何て言ってたか知ってる?」 「え・・・・」 吉田が困ったように再び笑った。 「・・・”高原は、祐耶の指摘も、そしておそらくお仲間からの願いも、なんにも体で理解しておられないようです。しかしひとつだけ評価します。俺を本気で殺そうとしたこと。一歩親近感を感じましたよ。”・・・ですって。」 「・・・・」 「困ったものだわ」 深山はそのまま立ち尽くすように沈黙した。 吉田が立ち上がり、部下を応接コーナーへ行かせ自分はパントリーから二つのコーヒーカップを持って戻ってきた。 「今日はまだ誰も事務所に来ていないけれど、午後は社長も見えるから、酒井も呼ばれる予定だ。」 「はい」 「昨日の電話の様子だと、社長の話は長くなりそうよ」 吉田はコーヒーカップから熱いコーヒーを一口飲み、深山にも勧めた。 「兄が・・・いえ、社長が、ずっと悩んでいたことが、なにか進展したんでしょうか」 「どうかしらね。多分途中だけど、酒井あたりに色々聞いてほしいみたい。・・・・こういうときは、一番溺愛している庄田じゃなくて性格が正反対の酒井。いつもながら、おもしろい。」 深山は少し笑い、そしてコーヒーカップを両手で持ったまま、吉田の顔を見て、遠慮がちに言った。 「吉田さんはすごく兄のことを・・・・社長のことを、いつも理解されています。それはやはり、奥さんだった吉田明日香さんが、吉田さんのお姉さんだからですか?」 「どうしたの、急に」 「僕は大抵、兄のことがほぼまったく分からないから」 「そんなことはないでしょう。仲が良いことは、皆知ってる。あまりにも兄を慕い過ぎて、距離を置かなきゃってあなたが思うほどにね。だから、あなたは御祖母様の姓を名乗っている。」 「・・・・はい。」 「私は、姉のことは、あなたが社長をわかるほどにも、わかっていないのよ。恐らく。」 「・・・・・」 吉田は地味なタイトスカートをはいた綺麗な足を組んだ。 「姉は事故で亡くなるまで、本当にほとんど仕事の話を私にしなかった。警察官時代も、その後もね。でもひとつだけ、よく覚えていることがある。警察をやめて一緒に”警察にできない方法で人を守る”会社を立ち上げた・・・大森政子のことを、話していたこと。一度だけ。」 「はい」 「傲慢な人間に、人を助けることなどできない。大森と袂を分けたときに言われたこの言葉が、いつまでも頭を離れないって。」 「・・・・・」 「千の反論はできると思うけど、シンプルなだけにあとを引く言葉だわね。我々、社会のルールをご都合主義で逸脱している、傲慢な人間達、だものね。」 「・・・・」 吉田は情けない表情になっている深山の顔を、慈愛を込めて見つめた。 「そんな顔しないで。板見や逸希に笑われる。」 「・・・そうですね」 「我々、拠って立っているものがあるでしょう」 「・・・愛、ですね」 「そう。」 カップからもう一口コーヒーを飲み、深山は微笑し、そして再び少し硬い表情になった。 「でも吉田さん」 「?」 「お客様への愛を持てるエージェントは、家族だって、恋人だって、すごく愛する人間でしょう」 「そうね」 「でもうちの会社のエージェントは、社外の人間とは恋すらできない」 「ええ」 吉田は少し目を伏せ、再び部下の茶色の両目を見た。 「たとえばそれは・・・和泉のことを言っているのね、深山。」 「はい」 深山がコーヒーカップをテーブルに置いた。手の震えが伝わり、何度かカップとテーブルが当たる音がした。 「可哀想だと思っている。私も。」 「・・・・・」 「うちの会社をやめれば、和泉はそれなりの罪の償いをして河合のところへ行くこともできる。でも、私が勧めようと社長が命令しようと、和泉は絶対にうちの会社をやめないでしょう。」 「はい」 「それはどこまでも、彼女本人が選び決めること。」 「はい」 「ただ、ひとつだけ言えることは・・・・・かたちとして実らなくても、愛し愛されることの幸福は、ありえるということ。」 「・・・・・」 「それだけは、言えると思っている。」 「・・・あの言葉を、思い出しました・・・・」 吉田は小さくため息をつき、優しく微笑した。 「月ヶ瀬が言い、葛城が庄田に言った、あの言葉ね。」 妻に渡された受話器に向かい、波多野は挨拶しながら姿の見えない通話相手に一礼した。 「社長・・・・ご心配おかけしています。お電話いただいてしまいまして、すみません。」 相手の女性の少し低い声が、温かみのある笑いを交えて言葉を紡ぐ。 「・・・はい。明日から仕事に戻ります。あいつらが慌てて見舞いに来てくれた時はちょっと可哀想なことをしたと思いました。・・・え?いや、反省してますよ、こんなことがなくてもあいつらは。」 相手はさらに楽しそうに笑った。 「ええ、今日も、明日も、あいつらは・・・命を危険に曝して、仕事してますね。警護員たちは子供みたいなもんですから、社長も俺もよく気がふれないもんだとときどき真剣に考えますよ。精神を正常に保つことだけが我々上司の使命かもしれませんな。・・・・でも社長。いつになったら、お話になるんです?」 少しの間を置いて、再び相手が話し、波多野は苦笑し溜息をついた。 「吉田明日香が、最後に何て言ったか。それが我々への非難じゃなく、・・・・だめですよ、また逃げてますね、社長。」 波多野に責められ、相手は笑いながら早々に電話を切り上げた。 吉田の予告通り午後の社長室には酒井凌介が軟禁されていた。 「ねえ、酒井。まだ色々途中だから、適当に聞き流してくれていいんだけど、聞いて。」 「はい」 阪元は繊細な磁器のコーヒーカップ二つを置いた円卓を挟んで、長身の黒髪のエージェントの精悍な顔立ちを頼もしげに見つめる。 「価値観や考え方が相容れない相手・・・もっと言えばつまりは敵である相手を、それなのに尊敬していたり愛していたりすることは、別に珍しいことでもなければ、ましてや致命的なことでもない、って、すでに皆、頭ではそろそろ理解してるよね。」 「はい。考えてみれば、昔から”敵ながらあっぱれ”とかいう言葉があるくらいですから。」 「でも、頭でわかっても、心と体で理解できないことも、多いよね。そんなの矛盾であり受け入れがたいことだって、心と体が拒否する。」 「そうかもしれません。」 「どうすればいいか、その選択肢は意外と少ないと思うんだ。」 「はい」 「彼らと対峙するのをやめるか、続けるか、そのどちらかだからね。」 「はい」 「でも我々は、その選択肢に、別の要素を混入させているから、話がややこしくなっている。」 「心の問題ですか」 「そう。彼らと我々との、価値観や考え方が真逆であるという事実は、間違いがない事実。だから、対峙するなら、選択肢はひとつ。倒すしかないんだよ。」 「そうですな」 「そして、倒すのがイヤだから対峙することをやめる、避けるとするならば、それはつまりは我々の廃業を意味するんだよね。」 「その通りです。」 「でもね、”敵ながら”とてもあっぱれな、敬愛している相手だとしたら、対峙し倒すのは本当に苦しいことだ。その心の苦しさと、そしてそれ以上に・・・苦しいことそのものがおかしいんじゃないか?という不安が心を責めることの、心の二重の問題。」 「はい」 「苦しい。でもやらなきゃいけない。どうする?」 阪元の両目の深い緑色が、酒井の視界の中で詰問するように光る。 酒井はしばらく沈黙した。 |
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四 回想
三村英一は、本業である日本舞踊三村流宗家の人間としての仕事を、他の用件のために師範代たちに任せることを最近は極力避けるようにしているが、この日はそうすることにしたことを心から正しかったと思った。 しかし同時に、病院の待合室という場所が、これほど入るのが嫌な場所であると感じたのもまた初めてだった。 大森パトロール社の人間に、三村家の肉親はいない。過去何度も警護の業務を依頼してきたが、あくまで客と警備会社という関係である。 そして、自分が少なくともそれ以外の関係、それが友情というべきものかほかの名前がふさわしいかはともかく、そうしたものを持つと思っている人間たちが、勤めている会社であること、そのことが自分の一方的な思い込みでないことを、初めて意識して願いながら重い足を進めた。 「失礼します。」 低い声で言葉を出すと、待合室の堅い椅子にこちらに背を向けて座っていた二人の青年のうち、ひとりが振り返った。 「三村さん、わざわざありがとうございます。」 山添崇は、立ち上がり、英一のほうを向いて一礼した。日焼けした愛らしい童顔に、疲労の色が濃い。 「高原さんは・・・・」 「大丈夫です、数時間以内には意識が戻る見込みだそうです。側頭部と額を強めにぶつけて、やや出血がありましたが、ほかに大きな外傷もありません。」 「はい」 「人工呼吸器もなしに呼吸もできていますし、痛みへの反応も敏感だそうです。目が覚めたとき、見当識を確認して、もう一度CTとMRI検査をしてもらえるそうですが、最初の検査で、頭蓋骨骨折もないし、脳の損傷もないこともほぼ間違いないと。意識が戻ればすぐに一般病棟へ移れるでしょう。」 英一は大きく安堵の息をついたが、最大の問題は高原の容体そのものではないことも、二人の様子から明らかだった。 「・・・・今、高原さんには・・・・」 「はい、怜が・・・葛城が、付き添っています。契約病院なので、集中治療室でも少し長時間付き添いを許してもらえていますので。」 「お二人は、ここでずっと?」 山添は苦笑し、隣で座ったままでいる茂を見下ろした。 茂は、頭の中だけが別の世界へ行ってしまったように、宙を見つめていて動かない。 「河合さんは、まだ晶生に会っていないんです。ここに座ったままで・・・。」 「・・・・・」 山添はもう一度英一の顔を見て、微笑して言った。 「事務所へもう一度連絡を入れてきます。・・・すみませんが、河合警護員をその間お願いしてもいいでしょうか。」 「はい、大丈夫です。」 山添警護員が立ち去り、英一は茂の隣の席に座った。 茂の反応はない。 隣にじっと座り正面を見つめたまま、英一は長い間黙っていた。 そしてようやく英一が最初の言葉を言う準備を整えたとき、先に茂が小さな声で言った。 「あいつは・・・・高原さんを殺さなかったんだ」 「・・・・・」 「阪元探偵社のエージェントの酒井。山添さんがはっきり見ている。深山が車の進路を阻んで、酒井が襲撃した。そして高原さんは酒井をご自分もろとも殺そうとされた。エージェントを殺そうとした人間は、どんなことをしても殺す。それがあいつらの決め事だ。」 「ああ。」 「でも、酒井は転落した車の中でその時間が十分にあったのに、高原さんをそのままにして逃走した。高原さんのものと思われるもの以外の血痕がなかったことや、車中の様子や逃走のスピードを考えれば、酒井はほとんど負傷していなかったと思われるのに。」 「そうか。」 茂は少しだけ顔を上げたが、まだ英一のほうを見ようとはしなかった。 「高原さんの命が、人殺し集団のあいつらの胸一つ、だったってことだ。そしてそいつらでさえ、高原さんを助けた。」 「助けた、という表現が正確かどうかは分からないけど・・・そもそも襲ったのがあいつらなんだから・・・」 「俺は、なにをした?」 「・・・・・・」 「もう同じ会社で何件仕事して、どのくらい高原さんにお世話になってきたか。何度高原さんのアドバイスで救われたか。そして・・・・どれだけ、高原さんの苦しそうな気持ちを感じてきたか・・・・」 「・・・・・・」 「高原さんは、俺のオートバイの燃料メーターが細工されていたことに、あの時すぐに気づかれたんだと思う。その後すぐに、通信がつながらなくなった。」 「そうか・・・」 「現地に潜んで、指示を待っていてくれるよう、事前に頼んでおられたんだ・・・・山添さんに。人目の少ない山道は襲撃の絶好のポイントだから。それも、日が暮れる時間帯が一番危ないって。」 「クライアントを、山添さんに託したんだな。」 「そう。」 二人はしばらくの間、それぞれ前を向いたままで沈黙した。 遠くから救急車のサイレン音が聞こえ、次第に近づいてくる。 時刻は夜明けに近くなっていた。 「山添さんが電話で少しおっしゃっていた、クライアントの事情は、高原さんは・・・・」 「もちろんまったくご存じなかったよ。俺も同じだよ。」 「自首されたんだな」 「ああ。警察へあのまま行かれた。全部話しますと言っておられたから、そうされると思うよ。・・・最後にクライアントと会話できたのは短い時間だったから詳しくは分からないけど、小学校のとき息子さんを自殺に追いやった当時の同級生、五人が、大学生になるのを待って殺したんだって。」 「・・・・・・」 「殺人を依頼するのにふさわしい人間を探して、愛人みたいな関係を作って、それなりの報酬も払って三人を殺させた。自分の家に近い大学に通う二人は、最後にした。三人殺させたところで殺人を頼んだ男が自分自身が尾行されているって言って、もう仕事しないって言ってきたから危険回避のために殺した。」 「・・・・・・」 「どうして、大学生になるまで待ったのか。それについては、話は聞けなかった。」 「・・・・どうしてだろうな」 「・・・・・・」 「子供を殺したら自分もそいつらと同じになる、って、思ったのかもな。」 「・・・成人するまで待った、ってことなのか・・・・」 「わからないけどな。・・・いずれにせよ、高原さんは、たぶんあいつらからクライアントの犯罪のことは全部聞かされたんだろう。襲撃の時に。」 「そうだと、思う。」 朝日が薄い光を届け始めるまで、二人はそのまま硬い椅子にじっと座っていた。 和泉麻衣は自宅で起床しカーテンを開けたところで、携帯電話の呼び出し音に気がついた。 発信者が上司の吉田恭子だったことと、その時刻が日の出とほぼ同じだったことから、慌てて一度携帯電話を取り落とし、ようやく応答した。 「はい、和泉です。おはようございます」 「早朝からごめんなさい。補助要員から二度目の連絡があった。高原警護員の意識が回復したそうよ。」 「そうなんですね」 「夕べの第一報と同様に、すぐに社長に報告が行く。」 「はい」 少し控えめに吉田が笑っていることが、電話を通じてでも和泉に分かった。 「・・・・・和泉、あなた夕べもだけど、全然驚いてないわね」 「それは、吉田さんが驚いておられなかったからです」 「なるほど」 和泉も少し笑った。 「・・・・深山さんには、気の毒なことをしましたね・・・・」 「高原警護員死亡っていう情報を、まともに聞くはめになったわけだからね。」 「深山さんは現地で目の前で車の転落を見たわけですから、ショックは我々と比較にならなかったはずです。夕べ、酒井さんから本当のことを知らされたとき、そのまま気を失って倒れてしまったくらいですから・・・。板見くんが行ってくれててよかった。」 「そうね。・・・でも私も酒井からもう一度連絡があるまで確信が持てなかったからね。」 「はい」 「・・・で、今の問題だけど」 「はい」 「酒井は社長に打ち明けるって言ってたから」 「・・・処分されるんでしょうか・・・・」 「私からは、自白はするなって言っておいた。」 「・・・・」 「無鉄砲で馬鹿なことをするなら、最後までそれは徹底するべきよって、一応言っておいた。あの警備会社のあの警護員がからんだ時点で、深山を殺人担当から外した。そのとき、自分が代わりにやると志願したんだものね、酒井は。」 「はい」 「高原と正面から対峙したかったんでしょう。そしてどういうことになるか、薄々見当はついていたでしょうに。」 「そうですね」 「今回の最大の問題はね、たぶんだけど」 「・・・・・」 「・・・うちのエージェントが襲撃現場で高原警護員に敗れたことでもないし、過剰防衛でエージェントを生命の危険に陥れた警護員を、その張本人のエージェントがみすみす殺さずに放置したことでもない。」 「はい」 「ターゲットに、少しどころか本気で、同情してしまったことだと、思う。殺人担当のエージェントがね。」 「・・・・はい」 「そしてもしかしたら、我々も。」 街の中心にある古い高層ビルの、高層階にある事務所は、朝早い時刻のため、最近部屋の主が部屋にいることの多い社長室が、まだ唯一人影のある場所だった。 阪元航平は、端正な紳士にふさわしい優美な仕草で、部下に円卓に向かう椅子に座るよう勧めた。 酒井が背筋を伸ばして椅子に座ると同時に、阪元は用意していたコーヒーセットを円卓まで運んだ。 「高原は蘇生したんだね。というよりもともと・・・・」 「はい」 阪元は酒井の顔を見ずに、その異国的な顔立ちと金茶色の髪に似合う深い緑色の両目を、少し伏し目にしながら微笑した。 ポットからふたつの磁器のコーヒーカップに熱いコーヒーが注がれ、良い香りが部屋の空気を満たしていく。 「報告書は読んだけど、警護員はお前をターゲットから引き離すためにああした行動に出た、そういうことだね。」 「そうです。」 「主観的にはともかく、客観的には、エージェントを明らかかつ重大な生命の危険にさらした。」 「はい」 「ルールAではないけど、基本は」 「殺害です」 「そうだ。」 酒井の表情が変わらないのを一瞥し、阪元がもう少しはっきりと笑った。 「心肺停止だと誤認。お前にしては珍しい判断ミスだったね。」 「脱出を急ぐことを考えて少し慌てていました。申し訳ありません。」 「そうだね。」 「・・・・・・」 「・・・とにかく、酒井、お前に大きな怪我がなくて本当によかった。車から一刻も早く脱出するのは当然のことだ。ガソリンが漏れ出していたから万一のこともあるからね。」 「はい」 「お前が自分の命を大事にしてくれたことを、私は感謝しているよ。だから小さなことをあれこれは言わない。」 「・・・・・・」 「お疲れ様。コーヒー、うまく淹れられたと思うんだ。飲んでみて。」 「はい。」 ふたりはそれぞれ自分のコーヒーカップを持ち上げ、しばらく沈黙が支配した。 阪元の緑色の両目が再び部下を見たとき、部下も自分からそうしたように、静かに上司の顔をその精悍な漆黒の両目で捉えようとしていた。 「ねえ、酒井」 「はい」 「子供って、悪魔になることがあるね。」 「それは少し不正確な表現ですな」 「そう?」 「・・・子供は、ほぼ、悪魔ですよ。」 「あははは」 笑って阪元は頷いた。 酒井は表情を変えない。 「・・・・・」 「ならば、ほぼ全員が悪魔なんだから、子供のすることは罪には問えないね。」 「そんなことはありません」 「そうかな?」 「人を死に追いやれば、それなりの罰を受けるべきなのは、全ての人間にいえることですから。」 「うん」 「気狂いであろうと、悪魔であろうと。」 「・・・・そうか」 「同じ子供であっても、人を死に追いやらない子供がいる限り、・・・・そうでない子供は犯罪者です。」 「そうかもしれないね」 阪元は立ち上がり、ポットに新しいコーヒーを淹れて円卓へ戻る。 「・・すみません。出過ぎた発言だったかもしれません。俺は・・・」 「いや、いい。そんなことはないよ。」 「・・・・」 阪元がゆっくりまばたきをして、酒井を正面から見た。 「・・・・では、悪魔と気狂いが殺し合ったとき・・・」 「・・・・・・」 「我々阪元探偵社が受けるべきお客様は、いるのかね。いないのかね。」 「・・・・・・」 阪元はコーヒーカップの縁を唇に当てたまま、柔和な微笑を浮かべた。 酒井はやはり少しも笑ってはいなかった。 やがて、温かい声で、阪元は部下へ声をかけた。 「今日は、疲れてるところ報告に来てもらってすまなかったね。ありがとう。」 「・・・いえ・・・・」 「残りの業務は明日でいいから、今日はもう上がって、ゆっくり休んで。」 「はい」 一礼し、酒井は社長室を後にした。 一人になり阪元はうつむいてもう一度苦笑した。 月曜昼前の大森パトロール社の事務室へ、従業員用入口から入ってきた葛城は山添の席まで来て、同僚に挨拶をした。 「おはよう、崇」 「ああ、おはよう」 山添は立ち上がり、温かい微笑を同僚へと向け、肩に手を置いた。 「晶生の様子は?」 「うん、落ち着いてる。今朝から一般病棟へ移ったから、見舞いも自由にできる。午後また行ってくるよ。」 「元気か?・・・いや、体はともかく、だけどさ」 「・・・・夕べは意識が戻った後も検査とかがあってあまり話せなかった。今朝は少し会話できたよ。・・・・波多野さんが戻られた後、俺に、茂さんのことを尋ねてた。」 「そうだろうな」 「・・・茂さん、今日は平日昼間のほうの会社だよね。」 「ああ。」 「容体はメールで全部伝えてあるけど・・・・やっぱり、会いにいける精神状態じゃないんだろうな・・・・」 「・・・・そうだな。俺は、お前がこんなに今回冷静であることに逆に驚いてるけど、怜。」 「俺も自分でも驚いてる。」 「ははは」 「茂さんの受けてるショックを目の当たりにして、俺がしっかりしなきゃって思ったのかもな。」 「なるほど。人間、そういうものかもな。」 葛城は山添との会話を終えると、自席で作業を始めたが、それは数分間しか許されなかった。 受付カウンターで電話を取った事務の池田さんが、事務室内を振り返り、呼びかけた。 「外線からですが・・・・山添さんか、葛城さん、出られますか?」 「あ、はい」 山添が手を上げ、電話が近くの内線電話へ転送された。 通話はすぐに終わり、山添が立ち上がって葛城の席までやってきた。 顔が蒼白になっていた。 「怜、これから出られるか?」 「どうしたの?崇」 声のトーンを一段低くして、囁くように山添が葛城に伝えた。 「波多野部長の奥さんからだ。波多野さんが、倒れた。」 その一時間後、二人が波多野営業部長の自宅に到着すると、玄関の前に茂と槙野が立って待っていた。
「葛城さん、山添さん・・・知らせてくださり、ありがとうございました」 「とりあえず思いついて二人に電話してしまいましたが、槙野さんは非番でしたけど河合さんは仕事だったんですよね、すみません」 「いえ、係長も三村も仕事はいいからすぐ行けって・・。」 「僕も、山添さんから連絡を頂いたときは感謝しました。ありがとうございました」 槙野は華奢な体に休日らしい、警護業務のときよりさらにカジュアルな服装をしており、スーツ姿の茂と対照的だ。槙野は山添の育てた後輩らしく最近は筋力もつき体型に少したくましさも増してきている。 四人が、迎え入れた細君に導かれて居間に入ると、ソファーに座った波多野が困ったような笑顔を見せた。 寝巻の上にガウンを羽織っているが、坊主頭に近い短髪にまったく似合わないメタルフレームのメガネはいつもと同じだった。 「お前たち大げさだな。風邪で休むからその間の仕事について連絡させただけなのに。」 「今まで波多野さんが体調を崩して休まれたことは、記憶にある限り一回もありませんから。」 「そうだっけ」 座るよう細君に勧められ、波多野の座る一人掛けソファーを取り囲むように長椅子や一人掛けソファーに座った四人は、真剣な目で上司を見た。 「ただのお風邪なんですか?大丈夫なんですか?」 「ちゃんと病院も行ったから大丈夫だよ。」 「でもやっぱり、今回の晶生のことが・・・・」 「絶対、そうですよね、部長・・・・・」 「それに今までだって皆さんざん部長にご心配かけて・・・・・」 「部長のご心労を思うと、俺たち・・・・・」 尋問を受けているような波多野の姿を笑って見ながら、細君がお茶をテーブルへ置き、再び去っていく。 波多野に勧められ、警護員たちは熱い煎茶を啜る。 「・・・じゃあ本当に、数日で復帰できるんですね?」 「だからただの風邪だって。でも心配してくれて嬉しいよ。」 葛城がその美しい顔を曇らせ、うつむいた。 「知らせを聞いたときは、心臓が止まるかと思いました。私たちが、いつもご心配ばかりかけているから・・・とうとう波多野さんの、お体に限界が、と思いました。今までの色々なこと、全部思い出しました。」 「大げさな奴だな」 葛城がそれ以上話せなくなり、山添が後を引き継いだ。 「・・・後輩たちの前であまり言うべきことではないとは思いますが・・・・俺たちは、いつも部長に、警護の時自分の命を懸けるのは当然だけどそれは最後の最後の選択肢にするよう、言われてきました。頭では分かっているつもりです。でも、まだまだ、体で実践できていない。」 「そうだな」 「後輩に良い手本となるどころの話じゃありません。・・・特に、晶生は、・・・あれほど有能な警護員のあいつは・・・特に段違いに酷い。・・・・たぶんあいつは、自分というものの価値を、まったく認めることができずにいる。」 「・・・そうだな」 「そんなあいつを、波多野さんも、そして・・・大森社長も、恐らく想像を絶する苦しさと愛情を持って、見守ってこられたんだと思います。」 「・・・・・・・」 「でも、晶生は、無意識に自分を葬ろうとすることを、やめられずにいます。俺はあいつに、あいつが生きる価値があるんだってことを、教えてやりたい。」 「ああ。」 「でも、どうやってそれを伝えればいいのか、わかりません。」 葛城も、槙野も、茂も、うつむいて黙っている。 「・・・・・・」 「・・晶生、おまえには生きる価値がある。なぜなら、・・・・なぜなら・・・・」 「・・・・・・」 「優れた警護員だし、他人にできないことができるし、人間を愛することができるし、賢いし、それに・・・・」 「・・・・・」 「それに・・・・・」 山添は、うつむいて、そのまま黙った。 しばらく誰も話さなかった。 波多野が珍しくあまり大きくない、しかししっかり芯の残る声で言った。 「どん詰まりだな。でもだからといって・・・・どんな人間にも生きる価値はあるんだよ、とか、生きたくても生きられない人間もいるんだよ、とかいう陳腐な言葉に、どんな力があるか哀しいくらい想像がつく。」 「・・・・・」 窓の外の雲が切れ、陽光が部屋の隅々まで差し込んでくる。 その明るさと、その場にいる人間たちの表情は、ほぼ正反対だった。 槙野が恐る恐る口を開く。 「人を殺さないこと。これだけでも、その人には生きる資格があるということではないでしょうか。」 「でもな、俊幸。俺たちは人殺しだって、違法に命を狙われている人間は守るからな。」 「・・・・はい。」 山添がうつむいた後輩の肩に軽く手を置き、そして再び上司の顔を見た。 「晶生は死にたいんじゃない。むしろ逆です。人間を、命を、この上なく愛しています。そしてあいつは自分の生きる意味を渇望してます。だからあいつは常に死に場所を求めている。」 「・・・・・」 「人の役に立って死ぬ、そしてもう迷惑をかけない。全ての人間に。・・・これが、生きる価値が不動になる瞬間なのではないでしょうか。」 全員が何の反論の余地もなく数秒間沈黙した。 茂が少し声を震わせながら、発言した。 「いつも・・・・、仕事で他人の役に立ってなおかつ一日も早く死のうとしている人間って、その・・・・心療内科とかカウンセリングとか行ったほうがいいということは、ないのでしょうか・・・・・・」 葛城が苦しそうな笑顔で、後輩の顔を見た。 「だめなんです、茂さん。そういう所で助けてもらえるのは、仕事に行けなくなったり眠れなくなったりして、実際に目に見えるかたちで日常生活に支障をきたしている人間だけなんですから。晶生みたいに、毎日少なくとも食べて眠って、顔で笑って仕事もそれなりにやれている人間は、心の中がどうなっていようとどれだけ長い間苦しみのたうちまわっていようと、そして今日死のうとしていても、心の病気だとは認定されません。」 「・・・・・」 数分後、ようやく、見舞いにしては長居しすぎたことに気がついた警護員たちは、上司と細君に礼を言って退去した。 玄関まで見送ってくれた細君は、別れの挨拶のあといったんドアを閉めたが、すぐにそっと再びドアを開けると、門の外まで夫の部下達を追いかけてきた。 「あの、皆さん」 「・・・はい」 四人の警護員は、振り返り、優しい笑顔で彼らになにかを伝えようとしている美しい細君の顔を見つめた。 |
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三 襲撃
高原の携帯電話が鳴り、運転を続けながら高原は通信機器を操作し、その後左手で携帯電話に応答した。
相手の声には明白に聞き覚えがあった。 「もしもし、運転中の電話は危ないよ、高原さん。」 「停車したらもっと危ないんじゃないですか」 「あははは。」 深山祐耶は、心の底からおかしそうに笑った。 「ご親切な情報を頂けそうですね」 「よくわかったね。いつも話が早くてラクだよ、高原さんは。・・・・隣に座ってる君のクライアント、昨日近所の大学に通ってる学生ふたりを殺したんだよ。」 「・・・・・・」 「でも、それだけじゃない。別のみっつの県で、ひとりずつ・・・合計三人を、嘱託殺人で殺してるんだよ。都合五人。僕たちのお客様はそのうち二人の親御さんなんだけどね。そのうち一人の被害者の四十九日である今日が、殺害のご指定日なんだ。」 「はい」 「そしてさらに・・・」 「殺しを頼んだ人間も殺したんですか」 満田が高原のほうを見た。 「そうだよ。そいつが当初は僕たちのターゲットだったから、びっくりしたよ。」 「そうでしょうね」 「僕たち、調査能力はどこにも負けないつもりだったけど、やっぱり人間先入観っていうものはこわいね。無差別連続殺人犯だと決めてかかってたから、被害者の年齢と出身小学校が同じだなんていう初歩的なことを、身落としてた。」 「それは痛恨ですね」 「それで、どうするの?高原さん」 「・・・・・・」 「なんて質問、無意味?」 「無意味ですね」 高原はアクセルをさらに踏み込んだ。 電話の主はその後ふたつのカーブを過ぎたとき、路上で高原とクライアントの車を出迎えた。 片道一車線の道路に、後ろ向きに停車させた中型オートバイに跨り、ヘッドライトを点滅させ、深山はヘルメットの顎ベルトを少し締め直した。 茂は制限速度いっぱい、いや少し超えるスピードで、必死に高原の運転する車を追っていた。 「高原さん・・・・!」 さっきから呼びかけているが、応答がない。 茂は燃料メータにもう一度目をやった。やはり表示はガス欠を示している。 「畜生・・・・」 ガソリンスタンドで、まだ全くガス欠状態ではないと言われた。メータの表示がおかしいと。 「あいつらだ。こんな細工するのは」 その目的は明らかだった。 「高原さん、応答してください。大丈夫ですか?高原さん!」 茂の呼びかけが空しく響く。 規程に従い、茂は携帯電話から波多野部長へ、メイン警護員との通信が途絶えた旨の連絡を入れ、引き続き高原の後を追った。 車のヘッドライトが、行く手に静止しているオートバイ上の深山祐耶の金茶色の髪を一瞬反射させた。 高原は減速しなかった。 「危ない・・・!」 「大丈夫です。対向車は来ません。それから満田さん」 高原は一言だけクライアントに指示を出した。 対向車線側へハンドルを切った車の、前輪めがけて深山がオートバイを横倒しにした。 車は停止こそしなかったが左前輪が大きくバイクに乗りあげ減速した。 後方から迫っていた大型バイクが車に追いつくまで、その後数十メートルほどで十分だった。 運転席の窓ガラスが粉々に砕けると同時に、ドアが大きく開かれ、大型バイクを捨てて乗り移った暗殺者の両手がボディガードへと襲いかかった。 高原は急ブレーキを踏み車は対向車線にはみ出して止まったが、酒井凌介は高原の右手が自分の頭の後ろまで回っていることに気が付き、右手のナイフの刃をさらに強く高原の首筋に押し付けた。 「警護員さんが、ナイフで人を殺すとは知りませんでした」 「そういうこともありますよ。」 高原の右手の万能ナイフが、その切っ先を酒井の後ろ首に触れていた。 次の瞬間、酒井は相手の意図を読み違えたことを知った。 酒井の目に、高原の薄いゴーグルの奥の両目が、微かに笑ったのが映った。 「・・・・・!」 高原が体を大きく助手席側へ傾け、左手左足で助手席の扉を開きクライアントを車外へと突き落し、ほぼ体を横向きにしたまま、右足でアクセルを一杯に踏み込んだ。 そして酒井に態勢を戻す暇を与えず、高原の手がハンドルを大きく切った。 既に後方から猛スピードで追い付き車の脇で急旋回して止まった大型バイクの運転手が、大きく傾けた車体から降りずに右足を地面につき、右手で路上のクライアントを拾い上げていた。 車は高原と酒井を乗せたまま激しい勢いでフェンスを突き破り道路脇の斜面を滑落した。 その数秒後に到着し中型オートバイを停めた茂の目に映ったのは、大型バイクの後部座席上にクライアントを座らせたまま車の落ちた先を茫然と見ている山添崇の姿と、破られたフェンスに注ぐ微かな道路照明の白い光だった。
後方に乗り捨てられた中型バイクはあったが、既にそれ以外の人影はなかった。 斜面を滑落しフェンスを破って十メートル近く下の県道まで落ちた車は、天井を地につけ、反転した状態で止まった。 酒井は天地逆転した車内で、ナイフで手近な窓ガラスを窓枠から歪めて粉々に破壊し、次に自分の体の下になっているボディガードの状態を確認した。 高原は額から血を流していたが、出血量はそれほどでもなく、また車はほとんど変形しておらずシートなどに手足が挟まっていることもなかった。 「ガソリンがちょっと漏れてますんで、車と路面の摩擦で火が点かなかったのはラッキーでしたな。足やけどするのはイヤですから。」 右手で高原の顔と首に触れると、酒井はすぐに窓から車外へ脱出し、目の前の大型バイクの運転手へ向かってにこりともせずに言った。 「心肺停止。時間の問題や。行くで。」 「はい」 茂が車まで到着したとき、既にパトカーのサイレン音が近づいていた。
地面に伏せるようにして、割れた窓ガラスから車内へ上半身を入れ、茂は下になっている天井の上に眠るように横たわっている高原の体に手を触れた。 「高原さん・・・・・」 反応はない。 頸動脈で脈拍を確認したとき、反対車線にパトカーが止まり、警官が降りてきた。 茂は車から這い出て、地面に両膝をついたまま振り返って、言った。 「救急車を、お願いします」 警官のひとりが、既に呼んであると茂に告げた。 県道を下って、大型バイクに乗った山添が続いて到着した。後ろに自分のヘルメットをかぶせたクライアントを乗せている。 バイクを停めてクライアントを降ろして両手でかばうようにして地面に立たせ、山添はそのまま茂に声をかけた。 「河合さん!・・・晶生は・・・・・」 「・・・・山添さん・・・・・」 続いて救急車が到着した。 高原が車内からそっと運び出され、救急車へ収容されていく。 「救急車には俺が同乗します。河合さん、クライアントをお願いできますか?波多野さんには一報しましたが、また連絡を入れておきます。警察の事情聴取もよろしくお願いします。」 「・・・了解しました」 それらはサブ警護員として茂の当然の責務だった。 街の中心にある古い高層ビルのカンファレンス・ルームで、吉田恭子と和泉麻衣は二人目のエージェントからの報告をこれまで一度もない静けさで聞いていた。 「お疲れ様・・・。酒井。」 報告を聞き終わり、吉田がチーム筆頭エージェントへ労いの言葉をかける。 酒井は同僚のことを訊ねた。 「祐耶はそちらへ向かってますか」 「いえ、近くの拠点にもう一泊するそうよ。」 「そうですか」 「心配しないで。板見が向かってくれたから。」 「・・・・ありがとうございます」 「浅香さんも行くんですって」 「えっ?」 別のチームのエージェントで、深山の親友である人間の名前を聞いて酒井がさすがに驚いた声で聞き返した。 「・・・別のミッションの帰り道だから寄るって。」 「そうですか」 酒井の声はさらにトーンが下がった。 吉田は少し伏し目になり、そしてゆっくりと言った。 「こういうときは、仲間というのは、ありがたいものだ。別のチームの人間のことまで、心配してくれる。」 少し間が空いた。 そして酒井の疲れたような一言で、通信は終わった。 「ええ。ありがたいことです。」 吉田が酒井との通信を終え、和泉とともに事務所を後にしたころ、協力要員の大型バイクで非常なスピードで送り届けられた板見徹也が県境の小さなホテルに駆け込んでいた。
階段で最上階まで上がり、角部屋のドアをノックし、鍵のかかっていない扉を開ける。 部屋に入ると、奥の窓へ向かうデスクに、深山がこちらに背を向け座っている。 「深山さん」 返事はない。 板見はもう一度声をかけた。 「・・・深山さん・・・」 そっと近くまで歩いていくと、深山が振り向かずうつむいたまま、小さな声で言った。 「ごめんね、板見くん・・・ホントに来てくれたんだね。心配してくれてるんだよね」 「・・・・・」 「大丈夫だよ。こんなこと、いつでも想定してたもの。」 「深山さん・・・。通信、全部切っておられたので、心配しましたよ・・」 しばらく間があった。 「殺すときは僕の手で、って思っていたから、そうならなかったことは残念だけど、でも同じチームのエージェントの手にかかった。似たようなものだ・・・・不満はないよ・・・・・」 深山は腰のホルダーの携帯電話の電源を入れ、ホルダーへと戻した。 「・・・・今日は俺もここに泊まります。向かいの部屋ですから。」 「ありがとう。今日は・・後輩に甘えるね。お茶でも淹れるよ。」 ゆっくりと立ち上がった深山の体が少しふらついたように見え、板見が先輩の腕を持って支えたとき、深山の携帯電話が鳴った。 ホルダーから電話を取り出し深山が応答する。板見は腕から手を離して一歩下がる。 「もしもし、深山・・・・」 相手の話を三十秒ほど深山は黙って聞いていた。 「・・・・・」 再び相手が少し話したようだった。 「・・・・・そうか・・・」 もう一度深山が聞き返した。 次の瞬間、板見は先輩の名を叫んで一歩踏み出した。 深山の手から離れた携帯が床に落ち、深山は両膝を折ってそのまま座り込んだ。それ以上倒れないよう右手で椅子の座面を支えにしようとしたが、あえなくそれも失敗し、板見に抱きかかえられ、深山の体は辛うじて床への激突を免れた。 「深山さん!」 右腕と右膝とで先輩の上体を支えながら、板見は床に落ちた携帯電話を拾い、耳にあてた。 「もしもし、板見ですが」 電話の向こうから聞きなれた声がした。 「板見か?どないした?」 「酒井さん、今、何をおっしゃったんですか?深山さんに」 「なにって、・・・大したことやないけど」 「そんなはずありません。深山さん、気を失ってますよ。」 「なに?」 「俺に言えないことなら別にいいですけど、後でこの責任はとってもらいます、酒井さん」 「・・・・・・」 「じゃあ、俺は深山さんを休ませないといけないので、これで」 「待て板見」 「はい」 酒井は話の内容を手短に説明した。 板見は黙って聞き、そして表情を重くし、しばらくして応答した。 「・・・・わかりました。教えてくださり・・・ありがとうございます」 「決死の覚悟やで、先輩としては」 「はい」 「じゃ、祐耶を頼む。」 「了解しました」 「それにしても、柔なやっちゃ」 「繊細なんですよ、酒井さんと違って」 「うるさい」 通話を終え、板見が深山を抱きかかえてベッドへ向かって後退していると、部屋のドアを数回ノックし入ってきた別のチームのエージェントがこちらを見て愕然として足を止めていた。
「祐耶・・・・」 「浅香さん」 こちらへ駆け寄ってきた浅香仁志の声が上ずった。 「どうしたんですか?まさか、祐耶は・・・!」 「大丈夫です、浅香さん。深山さんはちょっと精神的ダメージにさらにびっくりすることが重なって、気絶してしまっただけですから」 「・・・・・?」 浅香は状況が呑み込めない様子のまま、深山の靴を脱がせたりベッドのカバーをめくったり枕を整えたりして、板見が深山を寝かせるのを手伝った。 二人がベッドの上の深山を見守っていると、再びドアがノックされ、浅香の上司が入ってきた。 「騒ぎが聞こえたものですから・・・・すみません、本当は浅香さんだけが伺う予定だったのですけれど。」 二人は庄田直紀の姿を認め、椅子から立ち上がって一礼した。 庄田はぬけるように白い肌によく似合う涼しげな切れ長の両目に微笑を過らせ、そしてベッドに近づいた。 「大丈夫ですか?」 「もうすぐ目が覚めると思います。すみません、ご心配おかけして。しかも庄田さん、もしかして浅香さんとすぐにご一緒に帰られる予定だったんですよね」 「大丈夫ですよ板見さん、ここに立ち寄るのを口実に、久々に一泊してゆっくり一緒に食事でもしようという段取りですから。ね?浅香さん」 「はい。」 「阪元探偵社でも三本の指に入る敏腕のアサーシンが、こんなになるというのは、一体どんなことが・・・・・という質問は、しないようがよさそうですか?板見さん」 「・・・・すみません」 「いえ、あなたが謝ることはないです」 ベッドの上の深山が目を閉じたまま低く呻いて、体を少し動かした。 「それでは私は、自室で少し報告書の準備をしますので」 庄田が出て行き、そして間もなく深山が目を開けた。 浅香が心配そうにのぞき込む。 「祐耶、大丈夫?」 深山は目の前の二人のエージェントの顔を見て、状況を理解し、そして申し訳なさそうな表情になった。
「・・・うん・・・・仁志、それに板見くん・・・・ごめん、僕、倒れちゃったんだね」 「そうですよ。びっくりしましたよ。」 「一体なにがあったの・・・・・って、訊かないほうがいいか・・・・」 「・・・・・・」 深山は浅香の顔から目を逸らして、天井を見つめた。 |



