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ここ数日、いわき市は、春のような暖かい陽気です。
同じ福島県でも、海沿いの浜通りは、太陽の光の強さが違いますね。 空の青さも、星の輝きも、とても鮮やかです。 久しぶりに、片寄平蔵が石炭を発見した弥勒沢へ出かけました。
道も整備され、案内の看板まであってビックリでした(笑) なだらかな坂を上っていきますと、閉鎖された炭鉱跡や、みろく沢炭鉱資料館が・・・
そして、なんと山の上には稲荷神社も祀られていました。 命がけの石炭採掘現場を見守ってきた稲荷神・・・赤い鳥居が、力強く屹立していました。 以下、前回の平蔵実伝の続きです。収めてきた写真も合わせてご覧ください。 (2)1855年・横浜に156坪の「石炭屋」・・・石炭御用から貿易商へ
1854年、幕府は内外の情勢に鑑みて軍艦操練所を設け、石炭を買い上げることになり、平蔵は、直ちに3000俵を上納して石炭御用となりました。
その頃、平藩主安藤対馬守信正は、若年寄から老中に進んで、外交関係を専掌し、幕府の最高責任者として親米平和外交に活躍していたため、おそらく平蔵の 事業への支援もあっただろうと想像します。
翌年、幕府は日米通商条約に基づいて神奈川開港を認め、外国との交易を許し、
さらに横浜の開港も認めました。
そこで平蔵は、明石屋や高島屋と共に、横浜5丁目に石炭販売店「石炭屋」をオープン! 156坪の店舗は、横浜商人中最大の構えを持ち、幕末から維新にかけ横浜開港 貿易に尽くした功績は大きいと云われています。
一方、白水村の弥勒沢はというと・・・。 現在、弥勒沢在住の渡辺氏が自宅敷地内に開設している炭鉱記念館で、貴重な
写真や資料を見ることができました。
石炭が見つかって、一変した弥勒沢の環境・・・。 当時、清流「白水川」は炭粉で濁り、黒い川だったそうです。 最初は露天掘りから次第に小さな狸堀りとなり、丸太の坑木で留枠を施して上盤を支え、貝殻に種子油を入れた灯火を頼りに採掘したそうです。
四つ這いになって坑道から運び出した石炭を、当初は馬の背につけて江名の中之作港まで運搬し、それを船積みして横浜まで送りました。 磐城の山奥から石炭を運ぶも、問屋の明石屋あたりに甘い汁を吸われ、労多くして利に薄い現状・・・平蔵は敢然として明石屋たちと同列で商売をする決心をします。
外国交易一手販売問屋を設けて、外国船に石炭を売る一方、絹糸や茶、磐城産の延紙や椎茸も売り出しました。 平蔵は、横浜・江戸・白水を駆け回りながら「これからは外国人と取引するには英語ができなくては駄目だ」と云って、早速外国人から英語を習い、小さな手帳に克明に筆記しては暗記していたそうです。成功する人は、さすがにアクションが速いですね(笑) (3)1860年・享年48歳/平蔵の早過ぎる死の真相
片寄家の子孫、片寄三郎氏が、曾祖母キミ(平蔵の妻)の話として、平蔵の死の真相を書いています。(「片寄平蔵実伝」より)
1855〜1862年(安政・文久年代)ごろは、攘夷浪士の過激な行動が、貿易商人にも脅威を与え、そのテロを避けるために貿易を断念せざるを得ない状況になったようです。 キミさんの話によると、「水戸天狗党の浪士により金蔵が襲われ、千両箱が馬で積み出されるなどの襲撃事件が起き、息子の小三郎と共に針金で縛られるなどの恐怖を体験した。その後テロを避けるため帰郷したが、1860年8月3日、平蔵は水戸
天狗党の浪士の襲撃にあい命を落とした」とのこと。
キミさんが急報を受け、海岸に駆けつけた時は、首のない死体だけが残されていたそうです。 平蔵の死後、石炭は地元の加納、大越の両氏に引継がれ、しばらくは小規模の採掘が行われていました。
その後、西南役による三菱汽船会社の軍需品輸送のため、筑豊炭が減少し、京浜の石炭も払底する中で、改めて常磐炭が注目され、
1884年、渋沢栄一、浅野総一郎などの中央資本家に実権が移りました。 国の富国強兵政策を支え続けた「黒いダイヤ」でしたが、
戦後は石油エネルギーに圧倒され閉山・・・。 そこからの復活劇は、映画「フラガール」にも描かれましたね。 2013年は、いよいよ岩戸開きの年です。
私たちの内外で、隠されていた光が、少しずつ表に出てきます。 片寄平蔵・生誕200年のタイミングにも、何か不思議なシンクロを感じます。 「いわき」から始まる、岩戸開き? フラガールは、まさに岩戸をひらく女神なのかもしれませんね(笑) 「みろく世の 岩戸ひらく音 福島の 七色の虹 天に光りて」
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郷土の歴史
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