|
梅に塩をふって数日で、梅酢が上がってきました。
梅を天日で干してから、赤紫蘇を入れる方もあるそうですが、 うちは塩で揉んで白梅酢で発色させた赤紫蘇を、梅の上にのせて、土用干しを待つことにします。 さて、前回に続き、1999年6月23日付の沖縄戦・特集記事を紹介したいと思います。
なぜ、15年前、この記事を切り抜いていたのか・・・まったく記憶にありません。
当時、高校一年だった長男の修学旅行の説明会で、旅行会社のスタッフから沖縄の話を聞いたこと、そして、旅行代金11万円を捻出するために、パートで仕事を始める決意をしたことなど、思い出しました。 おそらく、旅行の事前学習の際に、長男に読んでほしいという思いで、切り抜いたのではないかと思います。
2014年6月24日付の朝日新聞、沖縄慰霊の日の記事は、わずか20行・・・。
23日に沖縄県糸満市で開かれた戦没者追悼式の平和宣言で、仲井真県知事が「普天間基地県外移設」を求めなかった、とあるのみです。 記者(若い方なのかしら?)は、以下の内容をご存知でしょうか?
沖縄の月桃花
「体験の継承、曲がり角」という見出しで、以下の内容が紹介されていました。
「沖縄に来年(2000年)3月、新しい県立平和祈念資料館ができる。
糸満市にある、戦争で死亡した人たちの名前を刻んだ『平和の礎』の北側に、リゾートホテルのような立派な建物が外観を現している。・・・総工費約74億円・・・。 沖縄戦展示を貫くテーマは、『敵味方を問わない軍隊によって、住民が遭遇した惨劇』である。」 「県は2年前、専門家らによる監修委員会を作り、展示内容の検討を始めた。
日本軍による住民虐殺や『集団自決』をどう伝えるのか。細部の詰めにかかると、その伝え方をめぐって戸惑いや異論が吹き出した。」 「6月23日が迫ると、沖縄県内の多くの高校で沖縄戦を題材にした平和学習が盛んになる。
だが、教師自身が沖縄戦を肌身で知らない世代になった。 県立陽明高校教諭の新城さんは、4年前、生徒3000人にアンケートした。・・・ こんな設問があった。 Q「慰霊の日」は、何をもとに決められたと思いますか?
①沖縄戦が終結した日(回答49.3%)
②日本軍が降伏文書に調印した日(4.8%) ③米軍が、沖縄作戦の終結を宣言した日(8.6%) ④牛島司令官が自決した日(22.8%) ⑤わからない(14.5%) 正解の④は、4分の1に満たなかった。
沖縄戦の特徴の一つは、司令官の自決で日本軍の組織的な戦闘が終わったにもかかわらず、依然として沖縄は戦場であり続け、多くの犠牲者を生み出したことだ。それを伝えきれていなかった。」 「地区の半数以上が死亡」との見出しでは、以下の内容が紹介されていました。
「糸満市真栄平地区は、激戦地の糸満市の中で、住民の戦没率が最も高い。
二人に一人以上が亡くなった。・・・ 当時14歳だった大城さんは、戦後、地区の住民に戦争体験を聞いて回った。 家の敷地に掘った避難壕の明け渡しを求められ、方言で返事をした老婆が、日本兵に首を切られた。 逃げた子どもたちも銃剣で刺し殺された・・・。」 「沖縄戦を中心に記された糸満市史がまとまったのは昨年末(1998年)。
・・・3万9992人を対象に、各戸を訪問した調査員は約100人。 その一人、大城さん(30)は、ぼそっと話した女性の言葉が忘れられない。 「子どもの顔を水につけたら『おぶー(水)、もういらないよ』って」 場所も状況も語らない。 自分の子どもに手をかけざるを得なかったのだろうと推測されるだけだ。 54年たった。 それでも、いえない傷が残っている。」 1945年3月。
西太平洋を制圧した米軍が、沖縄の慶良間列島に上陸。 4月からは、艦船1500隻、のべ54万人の大部隊を投入した。 一方、沖縄守備軍は、約10万人。
3分の1は、学徒隊を含む現地招集の補助兵力だった。 首里にあった司令部は、5月末には撤退。
南部の自然洞穴(ガマ)に立てこもる持久作戦に出た。 ガマにはすでに住民が避難しており、十数万人の軍民が混住することになった。 日本軍による住民追い出し。
沖縄方言使用によるスパイ容疑での住民虐殺。 「集団自決」などの惨劇も含めて、20万人が犠牲となった沖縄戦。 6月23日に日本軍の組織的戦闘は終了したが、掃討戦は続いた。
降伏文書調印は、9月7日。 来年2015年は、敗戦から70年目。
太平洋戦争末期の最大の地上戦、沖縄の惨劇を、私たちは忘れてはいけない。
|
日記
[ リスト ]


