郷土の歴史

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東京〜神奈川方面を廻って福島に戻り、箱根山の噴火や新幹線事故のニュースを見ながら、やはり・・・という思いがしています。
電車内から見た横浜の夕焼けが、今まで見たこともないくらいの・・・ちょっと表現できない凄さでした。
自然も人も、いろいろな意味で「渇いている」「火種を抱えている」ということなのかもしれません。

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さて、クールダウンしましょう。
前回ちょっとだけ触れましたが、「『日本人』とは何者か?」(NHK出版)の中で、
中沢新一さんが鈴木大拙の著書「日本的霊性」を紹介しています。
いわき行きの高速バスの中で、読み返していたのですが、とても興味深いです。

大拙は、この本を1944年、太平洋戦争のさなかに書いていました。
「大和魂」といった言葉が蔓延し、宗教者も唯物論者も「心を一つ」にして「敵」と
戦っていた時代に、この戦争に日本が敗けることを確信し、戦後の日本人が
心の拠り所をどこに求めたらよいのかを考えていた仏教学者、鈴木大拙。

戦後の1946年3月に、「日本的霊性」を再版する際、「第二刷に序す」として一文を
記しています。
「日本崩潰の重大原因は、われらのいずれもが実に日本的霊性自覚に欠如して
居るというところにあるものと自分は信ずる」
なので、日本的霊性を多角的に捉え直し、その「脆弱性」を覆い隠す「鎧」や「殻」を自覚することが、まず大事なんだ・・・と。

「日本的霊性」なんて、ほとんどの日本人は考えたこと無いのではないでしょうか?
「ヘッセは読んだけど、折口信夫?だれ?」
「赤毛のアン」は好きだけど、「とりかえばや物語」って何?という人、多いです。
戦後は特に、学校教育全般が、西洋(白人文化)を向いている感が否めません。

それにしても、バスの窓際は暑い・・・。
本を団扇代わりにしてパタパタと扇いでいると、偶然、座席ラックに入っていた
学校案内と目が合いました。
東日本国際大学の「Active CANS通信」???
野球部とサッカー部の監督対談。
学生たちの「勝利の笑顔」・・・と表紙に。

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思いがけず、感動しました。
今春、エジプト考古学者の吉村作治先生が学長に就任された大学ですね。
テレビ番組の「 情熱大陸」(TBS)でも紹介された若き脳科学者・中野信子先生も、
客員教授です。
吉村学長就任の挨拶が下記にあります。


一度、キャンパスを見てみたい・・・福島大学とは違うかも(笑)

高速バスを降りて、いわき駅から車で5分ほどの大学キャンパスへ向かいました。

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美しい・・・。
なんだろう、この「違い」は・・・。
そして・・・

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 五霊神社

大学の裏手に、なにやら神社が祀られています。
神紋は「三つ巴」でした。
帰宅して、いわき市議・吉田みきと氏のブログの中に、五霊神社の記事を発見して驚きました。
吉田市議のブログ記事
www.mikito.biz/archives/35886412.html

以前、ご紹介した大規模ないわき農民一揆のリーダーが、義民として祀られている神社だったのです。
そして、その中の一人が私の母方の先祖でもあり、市議の記事の中に、その名前を発見した時は、ちょっと信じられない気持ちでした。
この場所にあったとは・・・。
偶然にしては、できすぎていますね。
もはや漠然とした日本的霊性・・・ではなくて、「いわき的霊性」「福島的霊性」に
導かれているのだと実感した次第。
そして、この後の東京行きで、またまた信じられない展開が。
「平」の謎解き、安倍晴明の父への思いに涙・・・次回に続く。

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いわき市内郷の「白水阿弥陀堂」の蓮の蕾が開き始めていました!

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  満月と吾妻連峰
 
12月7日、この冬初めての雪が積もりました。
早朝5時すぎ、餅つきの作業前に、白銀の吾妻山を拝する毎日です。
この日は、夜明け前の西の空に満月が輝いていました。
 
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12月の第一日曜日は、二本松・木幡の幡祭りです。
初めて参加した2年前のお祭りの時も、ベストタイミングで雪が降り、美しい写真をたくさん撮らせて頂きました。
雪の上に落ちた紅葉が、とても綺麗でした。
祭り当日に雪が降ったのは10年ぶりだったそうです。
2012年12月2日の記録は以下。
 
祭り当日の雪が「今年も木幡に来てみなんしょ!」と言っているように思えて、雪の参道を、なぜか無性に歩きたくなりました。
つきたて餅を「JAここら黒岩店」に並べた帰り、軽トラで夫と一緒に二本松へ。
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            参道を上る参加者
 
昨年は、「ゴンダチ」(初参加)の若者と一緒に羽山の山頂まで登りましたが、今年は年配の世話人の皆さんと、最後の参拝場所「隠津島神社」(木幡山)に向かいました。
雪の参道を上る、宮司さんです。
 
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一緒に上っていた年配の皆さんは、原発事故のため二本松に避難されている方々のようでした。
「おねえちゃん、いっしょに撮って!」
私「私ですか・・・?」
二本松では、おばさんのことを「おねえちゃん」と呼ぶのだろうか(笑)
祭りの日だけ解禁となる「どぶろく」で、すでに「出来上がった」千鳥足の参加者もいたようで・・・。
 
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この日は、浪江町や飯舘村の皆さんも一緒に参加されていました。
雪でシャーベット状の山道を皆でなんとか上りきり、やっと辿り着いた
「隠津島神社」です。
 
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羽山神社に向かった旗行列が戻ってくるまでの待ち時間、神社周辺を散策しました。
 
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松尾神社
 
境内には松尾神社もありました!
二本松市「木幡の幡祭り」は、日本三大旗祭りの一つで、950年余の伝統を誇る国指定重要無形民俗文化財でもあります。
白装束に烏帽子姿の約200人の参加者が、120本の五反幡(旗)をなびかせて、雪の山里を練り歩きました。
旗行列の由来は、1055年の「前九年の役」まで遡るようですが、
もともとこの木幡山に、隠津島神社が祀られたのは、奈良時代で、西暦770年ごろということです。
 
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門神社
 
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祀られているのは、三人の女神です。
「隠津島姫命」 (おきつしまひめのみこと)
「田心姫命」 (たごりひめ)
「湍津姫命」(たきつひめ)
 
この三柱の神は、宗像三女神といわれる海の守り神で、福岡県の宗像大社に祀られています。
宗像大社は、日本各地に7000余ある宗像神社、厳島神社、宗像三女神を祀る神社の総本社。
また、弁天様の総本宮としても有名で、別名「裏伊勢」とも称されるそうです。
玄界灘に浮かぶ絶海の孤島・沖の島に祀られている女神が、なぜ二本松の山中に・・・。
 
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海上交通の要所に位置する沖ノ島・・・島全体が御神体ということで、今も女人禁制。
男性であっても禊をしてから上陸しなければならないそうです。
そして、秋季大祭の「神迎えの神事」(みあれ祭)は、漁船群の立てる色とりどりの旗が美しく・・・・・
えぇ〜っ!もしかして、木幡の五反旗の源流は、海人集団の祭り・・・
だったのでしょうか?
続きは、次回に!
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沙羅の花が咲き始めました。
毎年、この花を見ると岡潔先生(数学者)の著書「春宵十話」を読みたくなります。
先生いわく「人間にとって大切なのは情緒だよ」
 
数学は、論理的な学問だと私たちは思っています。が・・・
実は、人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学もわからないのだ・・・と、岡先生は書いています。
そして、数学に最も近いのは、百姓だ・・・とも。
 
先生は、芥川龍之介が釈迦を表した一文も紹介しています。
「沙羅のみず枝に花さけば 悲しき人の目ぞ見ゆる」  芥川龍之介
 
「太平戦争が始まったとき、私はその知らせを北海道で聞いた。その時とっさに、日本は滅びると思った。・・・戦争がすんでみると、これまで死なばもろともと誓い合っていた日本人どうしが、われがちにと食料の奪い合いを始め、人の心はすさみ果てた。
私はこれがどうしても見ていられなくなり、自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった。・・・宗教は、ある、ないの問題ではなく、いる、いらないの問題だと思う。
・・・人の悲しみがわかるというところに留まって活動しておれば、理性の世界だが、人が悲しんでいるから自分も悲しいという道をどんどん先へ進むと、宗教の世界になる。」
 
敗戦から69年めの今年・・・。
太平洋戦争末期の沖縄戦から69年めの「慰霊の日」6月23日は、いわき市におりました。
いわき市平赤井にある常福寺です。
 
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天平6年(734年)に、東北地方で大地震や飢餓が流行し、その惨状を見た大和国の僧侶、源観が善無畏三蔵伝来の秘仏である薬師如来を護持して、806年に開基したと言われています。
いわき市平の西部、閼伽井岳(標高605m)の中腹にある常福寺は、福島八十八箇所霊場「結願」札所。
閼伽井嶽薬師は、いわき三大薬師に数えられる古刹です。
 
真言宗智山派の常福寺周辺は、大昔からいわき市のパワースポット(修行と癒しのイヤシロチ)でもあります。
白水阿弥陀堂を拝する願成寺の僧は、もともとこの常福寺から派遣されたと叔母が話していました。
毎年9月1日には、夏大祭として有名な「火渡り行事」が行なわれます。
 
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さて、この日は、常福寺の手前に800年以上前から鎮座する「龍燈杉」に会いに行きました。
樹高42メートル。
幹周9.2メートル。
 
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いわき市で最も大きな杉といわれています。
龍燈杉には、伝説があります。
 
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昔、赤井村の若者が、村の娘と結婚したくて、薬師如来に願い出ました。
しかし、その若者は、龍の化身でした。
それを知っていた薬師如来は、結婚を許さなかったのです。
仕方なく若者は、娘を奪って竜宮城へ連れていってしまいました。
竜宮城のお姫様となった娘でしたが、身ごもると難産で苦しみました。
龍が薬師如来に救いを求めると、薬師如来は見るに見かねて安産を叶えてくれました。
龍はお礼に、毎晩、「龍燈」を薬師如来に捧げました。
龍燈とは、日本各地に伝わる怪火の事で、龍神が住んでいる海や川で見られるとの言い伝えがあり、昔の人々は神様として崇めていました。
その時の龍燈は、四倉の仁井田浦から夏井川を上り、常福寺に達すると、
この杉の巨木のそばで一段と輝きを増して、本堂に入っていったのだそうです。
 
☆「いわきふるさと散歩」(歴史春秋社)
  いわき市の文化財(いわき市教育委員会) 参照
 
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軽い病なら、この巨木の清々しい気に触れただけで治ってしまう・・・そんな気がしました。
大昔から、災害や病で傷つき、救いを求める人々の心と身体を癒してきたのでしょう。
手垢にまみれた人間界の「宗教」なんて、ポンと吹き飛んでしまうくらいの圧倒的な浄化のパワーです。
私たちが、震災後、心の奥深くで日々求めてきたものは、石原さんの言う「金目」ではなく、本物の癒しだったんだと改めて感じました。
 
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昔、いわきの海から船出して、沖縄に渡り、エイサーの元となった念仏を伝えた僧がいました。
袋中上人についてのブログ記事は、こちら。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/fukushima_apple/11068662.html
 
広島や長崎とは、ちょっと次元の違う・・・沖縄の「地を這うような慟哭」を想っています。
1945年3月末、米軍が最初に上陸した慶良間列島では、座間味村などで、住民の集団死が相次ぎました。
その惨状について、1989年に刊行された「座間味村史」には、こう記述されています。
「座間味村民も、個人を犠牲にしてまで天皇を頂点とする国家に忠誠を尽くしてきた。(中略)
座間味村民の『集団自決』は、まさに国家がおしつけてきた歴史の総決算だったといわねばなるまい」
 
座間味村史は、集団自決という言葉をかぎかっこの中に入れています。
多くの子どもが、親や親類縁者によって命を奪われた事実・・・当事者として、その傷みに向き合う中で、その惨劇を、単に集団自決と、表記することはできない・・・と。
 
このことを朝日新聞の記者が、1999年6月23日の記事に書いていました。
先日、部屋の大掃除をしていて、ひょっこりと当時の記事の切抜きが出てきたのです。
ブログに書いてと、言わんばかりに・・・。
 
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写真上の「沖縄戦から54年・きょう『慰霊の日』」の特集が、1999年の記事です。
そして、下の約20行の記事が、今年の6月24日に、朝日新聞が掲載した「慰霊の日」の記事でした。38面の片隅に・・・。
23日の紙面には、沖縄に関する記事は見当たりませんでした。
夫いわく。
「これが日本の現実だ・・・小保方論文も、サッカー日本代表も、そして美味しんぼ事件も、虚実を正しく判断できないマスコミが、都合の良い記事だけを書いて国民を誘導している。マインドコントロールを解くのは難しいけれど、いつでも『敗けた時』が、目を覚ますチャンスなんだ」
 
回転寿司で、350メートル流れた売れ残りのマグロは廃棄すると聞いた時、この国の精神の根幹が危うい所に来ていると改めて思いました。そこにカジノを持ってきたらどうなるんでしょうか?
私が心配しなくても、因果応報の宇宙の采配が、「あるべき」結果を導くのかもしれませんが・・・。
次回は、1999年6月23日付の衝撃的な記事内容を紹介します。
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いわき市白水阿弥陀堂の満開の梅の花です。
3月30日の雨の後・・・、舞い散る梅の花の絨毯を息子が撮影しました。
 
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梅の花と雨、そして白鷺が、父の一周忌法要のタイミングにピタリと集合して、すばらしい一期一会の光景となりました。
特に白鷺は、父の葬儀の時にも現れ、皆で庭に出た時に空を舞っていました。
母の葬儀の時にも現れたので、霊鳥といっても過言ではないと思います。
 
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先日、福島の母が畑仕事の合間に突然つぶやきました。
「自分の娘は、農家にだけは嫁にやりたくなかった」・・・と。
農家の跡取り娘であった母が、しみじみと言うのです。
この言葉の意味は、単に労働がキツイとか、嫁業で苦労させたくない・・・という単純なものではないのですが、一瞬、私の両親も同じ思いであったろうと胸がザワザワしました。
そして、取り返しのつかない親不孝をしてしまった・・・と、今頃になって涙する私なのです。
両親の期待を全て裏切ってきた娘ですのに、
今思い返しても、母は無条件の愛の人でした。
おそらく、親不孝な私を受入れていくうちに、母は結果的にそのような境地の人になったのだろうと思われます。
 
母が亡くなった時は、本当に心にポッカリと穴が空きました。
認知症を患い寝たきり状態になっても、母は私の心の中心にあった・・・。
そのことを失って初めて理解できました。
一年前に父が逝った時は、身体のネジが外れたようになりました。
父は私にとって、そのような存在だったのだと思います。
 
その父が遺したアルバムの中に、1902年(明治35年)当時の、白水阿弥陀堂の写真がありました。新聞の切り抜きのようです。
 
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写真の下に「朽ちるにまかせて荒廃した白水阿弥陀堂」とあります。
私も、高齢の叔母たちも、初めて見る写真でした。
1868年(明治元年)、明治新政府は神仏分離令を公布し、廃仏毀釈運動が激化していました。
世は「文明開化の音がする」の時代・・・。
日本古来の美術軽視とも相まって、大量の美術品が海外に流出していきました。
その頃、県庁から「阿弥陀堂を焼き払え!」との通達があり、村の衆はびっくり!
村役の大越惣五郎さんを中心に、役人と交渉が始まりました。
県側の言い分は、「阿弥陀堂の東に常磐神社、西に熊野神社が鎮座している。神社の境内に阿弥陀堂があるのは宜しくないので焼き払え」・・・と。
そこで、村人は阿弥陀堂内の仏像を願成寺に移して、再び交渉しました。
「阿弥陀堂を焼けば、近くの神社や人家に延焼し、災いを及ぼす。
 要するに無くなれば良いのでしょう?
 雨漏りがあっても屋根の葺き替えはせず、立ち腐れに自然消滅の形にしま しょう」
と言って、役人を納得させ、修理せずの誓書を提出して焼き払いを免れたのだそうです。
それから20年が経過・・・。
岡倉天心やフェノロサらの古美術保存運動が結実して、古社寺保存法が公布され、地元の閼伽井嶽常福寺の住職らが中心となって保存運動が始まりました。
白水阿弥陀堂にも、復興の光が差し込んできました。
1902年には、平安時代後期の優れた建造物であることが認められ、その年の
7月に、特別保護建造物の指定を受けました。
しかし、その当時の阿弥陀堂はといえば、荒廃したボロボロの状態・・・。
屋根は傾き、戸はどこかへ吹き飛び、中は丸見えの惨憺たる有り様でした。
そして翌年1903年の1月8日、大風でついに倒壊・・・。
しかしその後、大修理を重ねて、1952年に御堂が国宝に指定されます。
 
1961年〜1983年にわたる発掘調査を経て、地中から浄土庭園が姿を現し、
復元され現在に至ります。
復活した白水阿弥陀堂の記録を遺した父の眼には、いわきの未来が映っていたのではないか・・・。
花明りの命日が近づいています。
 
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3/12に、福島稲荷神社の初午(古峰神社鎮火祭)で引いたおみくじが大吉で、
大伴旅人の和歌が添えてあったことはすでに書きました。
 
わが園に 梅の花散る ひさかたの
天より雪の 流れくるかも
 
「ひさかたの」は、「光」の枕詞だそうですから、
冬が終わり、春の光が注がれる清々しい「わが園」を想いました。
皆さんの「わが園」とは、どんな園でしょう?
 
震災の前年、福島市内で不登校支援のイベントを開催しました。
その時、光の見えないトンネルの中で、子ども達と一緒に悩んでいる保護者の方々と交流し、お互いの体験を分かち合うことができました。
 
不安でいっぱいの親心を利用して、恐怖を煽り、百万単位の「祈祷料」を
要求する悪徳商法があることを、その時初めて知りました。

恐怖心を煽るのは、マインドコントロールの常套手段です。
まず、親自身が変わることなく、向き合っている問題が解決することはありません。
そして、そのような謙虚な積み重ねの中に、少しずつ光がさしてくるように思います。
 
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                          ☆ いわき市好間の龍雲寺・地蔵菩薩(吉野せいの菩提寺です)
あれから4年・・・。
中学校で不登校だった子ども達が、今春、無事に通信制などの高校を卒業しました。
「就職がきまりました!」「入試に合格しました!」と、嬉しいご連絡を
頂いております。
震災と原発事故を体験して、未だ苦しみの中にある私達ですが、以前より「逞しく成長している私」・・・「小さな殻を破って、飛翔する(卒業する)私」というパワフルなイメージも、心の中にあふれてくる早春の日です。

ご連絡くださった皆様、本当にありがとうございました!
 
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ということで、またまた大吉のおみくじ引いてしまいました(笑)
いわき市の水石山というパワースポットにある、閼伽井嶽(あかいだけ)薬師にて、たまたま・・・です。
その七福神おみくじの中に入っていたのは・・・。
 
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いわき市といえば「大黒様」・・・大国主命です!
凄すぎる!
早速、本日、誕生日の夫にプレゼントしました(笑)
 
閼伽井嶽の薬師如来の由来は、今から1200年以上前・・・。
734年に、東北地方が大地震や飢饉に見舞われ、その惨状を見た大和国の
源観上人が秘仏の薬師如来を護持したと言われています。
大地震ですか〜・・・。
大きな津波も、浜に押し寄せていたのかもしれませんね・・・。

ちなみに東日本大震災の時に話題になった貞観地震は、平安時代前期の
貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日)となっています。
 
全くの偶然ですが、「わが園に〜」の歌人、大伴旅人は、同時代の人です。
旅人の長男、大伴家持(万葉集の編纂人)は、718年に生まれています。
 
父の旅人は、思想犯として罪に問われた長屋王の新政に助力していたとして、藤原不比等から疎まれ、大宰府に左遷されてしまいました。
 
長屋王は、聖武天皇の皇后・光明子の義兄、藤原4兄弟(不比等の子)にとっても、戦略上亡き者にしたい唯一の存在でした。(長屋王の死後、4兄弟は疫病で亡くなっている)
長屋王を「ひそかに左道(邪道)を学び、国家を傾けようと図った罪」で裁き、謀反人として処刑した舎人親王は、日本書紀を編纂した人物です。
「左道」とは、日本書紀とは相容れない何か・・・であった可能性もありますね。
 
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   いわき市水石山の閼伽井嶽参道にて
 
そして、息子の大伴家持(718-785)は・・・。
738年ごろから、聖武天皇の皇子、安積親王と親しくするも、親王の死後、
またもや越中富山〜出雲〜東北(多賀城)に左遷され、父と同じ運命を辿ることに・・・。
これは、桓武天皇の遷都計画に反対したためとも言われています。
仏教勢力の政治関与に危機感を抱いた桓武天皇が、賀茂神社を守り神とする平安京を造営するにあたり、長官に任命された藤原種継が、工事視察中に何者かに暗殺されます。
この暗殺計画の立案者が、なんとすでに亡くなっていた大伴家持だということで官位剥奪・・・息子も壱岐へ流刑。
 
桓武天皇を退位させ、天皇の弟の早良親王を即位させるための計画だったという「冤罪事件」を捏ち上げたのは、誰だったのでしょう。
淡路に流された早良親王は、一切の食事を拒否してハンストの末、憤死しました。
 
なんとも凄まじい権力抗争と文明交錯の時代を生きた大伴親子。
東北の大地震と大飢饉、都のケガレの一切を祓うべく、聖武天皇が東大寺の大仏建造を立案。
後を継いだ孝謙女帝により大仏は開眼されましたが、この女性は、
陸奥のアラハバキ王の王女であったという説も。
和平条件(安倍系の女子を天皇にする約束)として、平城京に引き取られ、光明皇后に育てられた・・・と。
ホントかな?
彼女の持参金ともいうべき「みちのくの黄金」で、大仏開眼?
「蝦夷で、蝦夷を制する」政治は、昔も今も変わらない・・・。
 
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