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白水阿弥陀堂(いわき市)
昨夜は久しぶりにNHKの「平清盛」を観ました。
ずっと観ていませんでしたが(笑)、ラストの壇ノ浦に向けて、どんな描き方をするのか 興味がありました。 前回のブログで紹介した、いわき市の白水阿弥陀堂の建立は、1160年。 義経が生まれた頃ですね。 奥州平泉から岩城氏に嫁いだ徳姫が、亡夫の冥福を祈って建てた御堂です。 平安時代の頃、阿弥陀堂を建立するのに最も好ましい地相は、「四神相応」の地と言われました。
東(青龍)に流水。 西(白虎)に大道。 南(朱雀)に凹地。 北(玄武)に丘陵。 この地相は、福禄・無病・長寿を併有するとされ、その地相条件を満たすとして、 白水が選ばれました。
周辺には、常磐炭鉱発祥の地「みろく沢」(弥勒菩薩のいる沢の意味)や、弘法大師が不動明王を祀った「白水高野山」もあり、大昔から霊場(イヤシロチ)であったと言われています。 日本人同士が・・・親子兄弟が・・・権力闘争の渦中で命を奪い合っていた時代です。
昔も今も、人間の本質は、あまり変わらないようですね。 未来から、今の時代を眺めれば、「あの頃は地球人同士が戦争してたんだよね〜!」となるのかもしれませんね・・・きっと。 さて、こちらは、伊達市霊山町の霊山神社です。
福島市内から、車で30分。 地図を見てビックリしましたが、飯坂温泉(西)と霊山神社(東)の水平ラインを一辺とする逆三角形の頂点は、なんと!飯野町のピラミッドとも言われる「千貫森」でした! UFOの里で有名な場所ですね・・・。偶然でしょうか(笑) 門をくぐると美しい紅葉の下に、静かな佇まいの社が・・・。
霊山神社の楓は、京都の嵐山から移植されたものと聞きました。
山の木立や気配が、なんとなく京都の鞍馬山に似ています。 鎌倉時代の末期に、隠岐島に囚われていた後醍醐天皇が脱出・挙兵して、北条氏一族を滅ぼし、1333年に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始し、朝廷政治を復権しました。
その際、側近の北畠顕家(村上源氏)を、陸奥国に派遣して、陸奥将軍府を樹立。 顕家は、16才にして、陸奥守に任ぜられたのだそうです。
当初、宮城の多賀城にあった陸奥国府を、霊山に移した頃は、数百の宿坊もあったということですから、大昔から、その名の通りの「霊場」だったのでしょう。 今は、ひっそりと、山の奥深くで、福島の行く末を見守っています。 霊山神社の登り口に、北畠顕家公の銅像がありました。
後醍醐天皇を守るべく、奥州から下向した北畠軍勢は、足利軍との戦いに敗れ、顕家は21才で戦死します。が、その直前には、腐敗した朝廷政治に異議を申し立てるなど、若いけれど感性の優れた人物だったようです。 その北畠顕家親子を祀った神社が、霊山神社です。 会津藩の首席家老、西郷頼母が宮司を務めたことでも有名ですね。
西郷は、霊山神社で神職を務めるかたわら、戊辰戦争で孤児となった甥の四郎を養育し、彼に柔術を教えました。
その西郷四郎は、小説「姿三四郎」のモデルともなった講道館の四天王です。
数年前に、町内の子ども達が打ち鳴らす霊山太鼓を聴いたことがありますが、地の底から湧き上がる様な悲しみの音色に引きこまれて、涙が止まりませんでした。 「親政」は2年半で瓦解し、後醍醐天皇は吉野(南朝)へ。
吉野朝廷と、京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝の抗争は、それから60年間続きました。 この日、52年ぶりに参拝したという身内が、なぜか境内の奥へ、奥へと・・・。
「あれっ?これは?」と手招きしています。 霊山神社の境内の右奥に、え〜っ!稲荷神社〜っ! 「福日稲荷神社」とあります。
福島稲荷神社と、何か関係があるのでしょうか? どなたか、詳しい歴史をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください。 次回は、紅葉の福島稲荷神社へ、飛びます! |
郷土の歴史
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「人は、境遇に支配せらるる如き、弱きものにあらず」
「願わくは、悲哀の下に屈せずして、悲哀の上に屹立せよ」 朝河貫一書簡集(早稲田大学出版部)
今年も10/4〜5に開催された二本松提灯祭り。
福島県の重要無形民俗文化財に指定されています。 一つひとつの提灯に、亡くなった方々の魂が宿っているかのようです。 京都の祇園祭にも似ていますね。 さて、23歳で渡米した朝河貫一さんのメッセージの続きです。
偶然ですが、ちょうど海外研修で渡米していた三男が昨夜帰国しましたので、アメリカで撮影した写真を数枚挿入してみます。 ①武士道とキリスト教
安積中学校を卒業して上京した朝河青年は、19才の時、本郷教会でキリスト教の
洗礼を受けました。
そして、ここから夢見ていたアメリカ留学への道が拓かれていきます。 徳川幕府による300年にわたるキリスト教禁止の後、1873年、新政府がその教えを解禁した時、まずキリスト教を受け入れたのは、没落士族など武士階級出身の青年たちでした。
来年のNHK大河の主人公、新島八重(会津藩)もその一人ですね。 彼女も、新政府軍との戦いの中で、父や弟、砲術を教えた白虎隊士など、大切な人々を失い、その喪失と無常感の中で、魂の救いを求めていました。 内村鑑三は、この時代を振り返った「武士道と基督教」と題する論文で、こう述べています。
「日本人に、正義と真理の為には生命を惜しまざる武士道の精神があります。この精神を以って基督教に接して、われらはその犠牲の精神に共鳴せざるを得ないのであります。そして、明治の初年にあたって、多くの日本武士がこの精神によりて、基督信者になったのであります」 しかし、朝河博士が、武士道の賛美に終始することなく「おそろしく乱用される」危険性を指摘できたのは、やはり二本松の少年たちを巻き込んだ悲劇の歴史が、博士の人生の原点にあったからかもしれません。
23歳でアメリカのダートマス大学に留学した朝河青年。
ネイティブ・アメリカンを迫害して勢力を拡大した西洋キリスト教の、拝金主義や人種差別の生々しい現実を目の当たりにします。 皿洗いや給仕などのアルバイトで生活費を稼ぎ、学ぶ日々。 自身も人種差別を受けて、怒りを爆発させたこともあったようです。 彼曰く「人種差別の思想は浅薄なれども、その感情は深厚なり」
人間洞察と歴史認識を、生活者の砥石で磨き上げて、日本人で初めてアメリカの 大学教授(イェール大)となります。生い立ちやアメリカでの体験が、朝河博士の歴史学研究に、社会的弱者の視点を付与しているようにも感じます。
ちなみに博士論文は「645年の改革(大化の改新)の研究」でした。 幼少期の馬の絵、キリスト教、聖徳太子・・・見過ごせないシンクロですね(笑) ②歴史を見通す正確な予言と、日本人への警鐘
朝河博士は、日韓併合、日中戦争が、やがて日米戦争を誘発するであろうと、早くから予見していまいた。
1908年、彼が36才の時にアメリカで出版した「日本の禍機」という本の中に、その 見解を綴り、日露戦争後の驕り高ぶる日本人へ警鐘を鳴らしています。
また、1939年、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まると、博士はヒトラーとナチズムの将来をも見通して、日本に厳しい警告を発していました。
「ヒトラーは、自暴自棄の終末を演じて、自国を破滅し、他民族を殺す罪人として、
遂には恥辱きわまりなき屈服となり、自殺でも試みるのではありますまいか・・・」
(朝河貫一書簡集より)
朝河博士は、日独伊三国同盟(1940年)を「有史以来の大誤失」と断じ、その理由として、「ナチスドイツが表面的には日本を同盟国と扱っても、日本人は、彼らが憎悪し、虐殺をさえ放言したる、いわゆる禽獣に等しき黄色人種なる以上、その人種主義が必ず日本に向かってくる」と警告していました。
フランスがドイツに降伏した後の混乱に乗じて、日本がフランス領インドシナへ軍隊を進駐すると、アメリカは石油の対日全面禁輸にふみきり、日米戦争の危機が・・・。
国力の大差を知る朝河博士には、祖国日本の崩壊の先に、二本松少年隊同様の悪夢がはっきりと見えていたのではないでしょうか?
この頃、博士は30年来の友人、ウォーナー(ハーバード大・美術館長)を介して、 ルーズベルト大統領から天皇に親書を出すよう働きかけながら、自ら草案作りに着手していました。
が、日本軍の真珠湾攻撃の急報に泣き崩れ、戦後は一度も日本に帰国することなく、1948年、74歳で亡くなりました。 いま、原発事故を体験した福島で、改めて朝河貫一博士の貴重なメッセージに触れることができて感謝でした。
100年前に放たれた矢が、今、私たちの行くべき道の方向を指し示している、そんな気がします。 |
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* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 台風が近づいているため、次男と大急ぎで、新高梨の収穫をしました。 大玉は、一個1000グラムにもなります。 ずっしりと重い新高が鈴なりの梨畑。 少雨の夏を耐えて、たくさんの実を守りぬいた梨の木が、キラキラと輝いています。 目には見えない地下の水脈から、日々命の源を吸い上げて生長する、梨の木。
人間もまた、見えざる魂の水脈に育まれて花を咲かせ、実を結ぶようです。 殺伐とした地上の世界ではありますが、今も脈々と地下を流れる気高い水脈があることに気づかされる時もあります。 先日のEM環境フォーラムで、二本松市長の三保氏が紹介した「朝河貫一博士」。
皆さんは、御存知でしょうか? 私は、この本を読むまで、朝河博士は二本松・郡山所縁の方だと思っていましたが、実は、幼少期から中学までを、福島市の立子山と川俣で過ごした方でした。
博士のお祖父さんは、二本松藩の砲術師範の朝河八太夫さん。 錦の御旗を掲げる官軍が攻め入った二本松城内で、12〜17才の「二本松少年隊」や農民兵と共に、絶命しています。 昨日、二本松市歴史資料館で開催されている「新島八重の生涯と二本松藩の戊辰戦争」展をのぞいた後、菊人形展を見に霞ヶ城へ向かいましたら、雨が降ってきました。涙雨でしょうか・・・。
1868年7月、新政府軍は、いわき市の平城を落とし、向かった先の三春では、河野広中らの懇願で無血開城(7/26)。
一気になだれ込んだ二本松城に主力部隊はおらず(白河・本宮へ出兵)、老人や子どもまでもが戦闘の中、絶命しました。 急遽部隊編成された12〜17才の少年62人は、藩主一族が戦況の不利を悟り、城を捨てて米沢へ逃げた後も戦闘を続け、14人が亡くなりました。 二本松市が編集・発行した公式な市史の記述によれば、
「財政枯渇、周囲の勢いに処すこともできず、やむなく戦闘に加わり、満足な兵備もなく、新式銃器と洋式訓練の西軍と戦い、連戦連敗を繰返し、あたら有為の人材を戦野に失い、心のよりどころを賊軍の名に消滅、領内を焼土に、領民を苦難の淵に投じた。
・・・朝敵の名のもとに空しい討ち死にを遂げた家臣群、生き残った者にとっても、
暗い社会の谷底での生活が待つのみで、近代の輝かしい活躍の場はなくなっていた」
薩長主導の明治政府の下で、苦難の道を強いられた二本松の人々の怨念が込められた市史ですね。
没落士族となった朝河家は、焼土の二本松の八軒長屋で、傘張りの内職をしていたそうです。 1873年、生まれた息子に、父親の正澄さんは、論語の「吾ガ道、一ヲ以テ之ヲ貫ク」から、「貫一」と命名。 その後、正澄さんは、福島市立子山の小学校校長に赴任して、一家は福島へ。 家族が住まいとした立子山の天正寺には、今も幼少の貫一さんが描いた馬の絵があります。 出世すると単なる「落書き」ではなくなるので、子どもの絵は大事に保管しましょう(笑) さて貫一さんは、一歳の誕生日が過ぎても、なかなか一人歩きできず(脳が重かったのでしょうか?)、三歳になっても片言葉さえしゃべれなかったそうですが、母が亡くなり、後妻に入った梁川の神主の娘さんに愛されて、すくすくと成長。
高等小学校3年の時は、東京から来た英語教師がいたという10キロ離れた川俣小学校に転校します。 その後、福島市の県庁近くにあった福島県尋常中学校(後の安積中学校)に入学し、特待生に選ばれた優秀な貫一さんは、毎日2ページずつ「英和辞典」を「食べながら」暗記したそうです。真似しないでくださいね(笑) 没落士族(逆賊)として、山中の教育に生涯を捧げた父の「武士道」を尊敬しつつも、二本松戦争の残照からなんとか抜け出したい・・・薩長の藩閥が幅を利かせる日本から脱出して、新天地アメリカへ!との思いが貫一少年の心の中で大きく膨らんでいきます。
海外雄飛の夢やまず、留学の第一歩として上京した貫一さんは、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学。
その頃お世話になった本郷教会の横井牧師の導きで、キリスト教の洗礼を受けています。
この横井牧師が、米イェール大学に留学した際、ダートマス大学の学長をしていたW・J・タッカー氏に貫一さんの留学援助を依頼して、OKを頂いたということです。 やはり人生は、まず「一歩を踏み出すこと」・・・そして「出会い」によって、大きく拓かれていくということでしょうか。
日露戦争から太平洋戦争に向かう激動の過程で、日米対戦、ヒトラーの自殺までも予言しつつ、日本の外交の驕りに警鐘を鳴らし続けた朝河博士のメッセージは、次回のブログで紹介します。
今月11日から、医療分野の海外研修でアメリカに行っている三男が、明日帰国します。持ち帰った写真も一緒にアップしますね。 お楽しみに! |
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本日8/11、甲子園で福島代表の聖光学院野球部が、優勝候補の日大三高を破って初戦突破しました!
今年はどんなドラマが待っているのでしょう。 それと今晩、オリンピック女子バレーの3位決定戦が行われて、日本女子は見事
韓国にストレート勝ちして銅メダルを獲得しました。おめでとうございます。
女子サッカーに続いて、女性は強いですねえ。 昨日、たまたま福島市宮町に用事で出かけまして、福島稲荷神社の前を通り過ぎ たのですが・・・、なぜか後ろ髪を引かれまして(笑)・・・引き返して、お参りさせて 頂きました。 もちろん聖光学院野球部の勝利も祈願いたしました! 蝉しぐれの杜の中に鎮座する稲荷神社。
長男の七五三の参拝以来ですから、25年ぶりでしょうか・・・。 素晴らしいものが身近にあっても、心の周波数が整うまでは、その真価をキャッチ できないものなんですね。 時が熟して、今が出会うタイミングだったようです。 境内に入り、参拝させて頂き、ビックリしました〜!。 境内に、なんと聖徳太子を祭神とする「太子堂」が・・・!
以前、このブログでも紹介しました、福島市飯坂の天王寺も聖徳太子の寺です。
そして、聖徳太子と秦河勝(京都・太秦)が景教と深い縁があること、福島の文化の源流にその霊統があるのでは・・・ということも書きました。 NHKの「スパーウーマン」という番組で、景教に関心があるというユーミンが、和歌山の高野山を訪ねていましたね。
空海が中国で伝授された密教に、原始キリスト教の教えを宿す、景教の香りを感じる人は意外と多いのかもしれません。 うわ〜、巴の紋だ〜! 福島稲荷神社の紋は、「三つ巴」でした!
福島で35年も暮らしているのに、初めて知りました・・・。 実は、息子が中学で不登校となり、毎日無償の「自宅警備員」(引き込もり・・・ともいう)をしていた頃、源義経所縁の飯坂・医王寺を訪ねました。 その入り口に、なぜか「貴船神社」がありまして、心惹かれ・・・その年の9月、知人の案内で、京都の鞍馬・貴船神社まで旅をしました。 そして、その貴船神社の紋もまた、「三つ巴」だったのでした・・・。 鞍馬に出かける前日は、大阪の四天王寺を参拝していました。
聖徳太子が建立した有名なお寺です。 5年前の出来事が、今、福島稲荷神社で、その解き明かしを望むかのように立ち現れてくる不思議・・・。 何なんでしょう、これは、いったい・・・。 写真の御神木は、稲荷神社の境内東に祀られている古峯神社脇で、清々しい
光を放っていました。大木です。その「不動」の品格に、圧倒されました!
実は、987年、福島稲荷神社を建立した方は、あの安倍晴明さんです。
そう、「晴明桔梗紋」(五芒星)の陰陽師ですね。 福島稲荷神社の一角にも、ひっそりと桔梗の花の御札がありました・・・。 そして、福島市の「清明町」は、安倍晴明と深い関わりがあるそうですから、 知れば知るほど奥深い町ですね、福島は・・・。
福島稲荷神社の宮司さんの「アベさん」は、うちの近所にお住まいです。
晴明さんの子孫かもしれませんね。 京都の上賀茂神社の宮司にも抜擢される由緒ある家柄の方です。 上賀茂、下鴨、貴船神社・・・そして、福島稲荷、会津土津神社・・・。 神道に詳しい方は、京都〜福島の深い繋がりをすでに理解されているのではないでしょうか。 境内には、パワーを頂けるという「力石」や、擦ると病が癒えるという石塚などがありました。
「力石」は、隕石のような不思議な石で、触るとビビッときました(笑) 稲荷神社の祭神は「豊受比売命」
配神は「大国主命・事代主命」 伊勢神宮外宮の豊受比売命を祀った稲荷は、全国でも珍しいそうです。
明日8/12は、福島稲荷神社で、お盆の花市が開かれます。 まだまだ続くミラクルなお話は、また次回に。 |
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今日のいわき市は、青い空が美しいです。
昨夜は、大雨が降りまして、天を裂くような雷鳴がありビックリでした。 東日本大震災から一年めの昨日、いわき駅前で、じゃんがら念仏踊りと沖縄のエイサーが心ひとつに鎮魂と再生の太鼓を打ち合いました。 雷鳴は、天からの応答だったのかもしれませんね。 菅波青年会と中山青年会の皆さんが、太鼓と鉦を打ち鳴らしながら踊る鎮魂の舞・・・。
鉦の音がいわき駅前に鳴り響き、心の底から、悲しみのような怒りのような感情が 湧き起こってきて、涙が止まらない・・・。
まわりの人々も、ハンカチを手に泣き続けていました。 400年前に、いわき市生まれの僧、袋中(たいちゅう)上人が、エイサーのルーツと
なった念仏を琉球に伝えたご縁で、沖縄からは、久保田青年会と沖縄獅子舞の皆さんが、情熱の舞を演じてくださいました。
いわきの海は、沖縄の海に繋がっている・・・「なんくるないさ」
今までだって、そしてこれからも、無常の世界で「見えないもの」を鍛えていく・・・。 エイサーは、沖縄で現在も盆の時期、祖先の霊を迎え送るため、地域ごとに演じられている伝統芸能です。
戦時中は、日本で唯一の地上戦となった沖縄戦などで、15万人もの尊い命を奪われた沖縄。
その喪失感と怒り、悲しみは今も消えることなく・・・戦後は、戦火を受けた地域の 再生を後押しするように、エイサーが盛んに演じられたそうです。
いわき駅前のラトブ2階に設置されたメッセージボードです。
3/11夜に放映されたNHk、ETV特集「埋もれた初期被曝・・・甲状腺被曝の実態」を見て、今朝はショックで布団から起き上がれませんでした。
弘前大学の先生方が、原発事故直後に、浪江町津島の住民の甲状腺検査を 行い、衝撃的な事実が明らかになっていたのです。。
当時、文科省のモニタリングで、330マイクロシーベルト/時もの数値が計測された 高線量地域に、乳幼児や妊婦さんなど住民が避難誘導されて、無防備に被曝してしまったことは、国連報告にも書きました。
そして、津島診療所の関根俊二医師は、携帯していた線量計の積算数値(800マイクロシーベルト)をテレビで紹介し、県や国に早急な調査と対応を訴えていました。 関根先生は、テレビの「DASH村」で、国分さんを治療した先生ですね。 事故直後の検査データを公表した弘前大学の先生は「津島に留まっていた1歳児の、甲状腺被曝の最大値は、800ミリを超える」と話していました。
そして、番組の最後に、放射性ヨウ素の拡散が南下していたデータも紹介され、 いわき市から南の関東圏でも、子ども達の甲状腺被曝が懸念されるとのこと。
この痛みから、私たちは逃げることはできない。
この痛みと共に、活路を見出していく、新たな一年の始まりです。 |




