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昨日も、早朝から畑でお盆用菊の収穫をしていましたが、心は完全に甲子園へ
飛んでいました(笑) 7月から梨畑に定住している迷い猫の「福まろ」も、一緒に応援しましたよ〜! 午前8時からの第一試合で、福島県代表の聖光学院高校が、
愛工大名電高校(愛知)と対戦しました。
初回から、愛工大名電の2ランホームランと猛打を浴びて・・・大丈夫か?聖光野球部! と、こういう状況で、またしても「必勝スプーン」が登場しました! いわきの実家の母が、生前、念力で曲げたティースプーンです(笑) 結果は4-3の逆転勝利!
ラッキーボーイの酒谷くんが、ホームランと適打で大活躍でした。 人生も野球も、最終回まで諦めたら、アカンよ〜! 聖光学院の主砲・園部くんと、投手の石井くんは、いわき市の出身。
そして、なんと第3試合で勝利した常総学院の主砲・内田くん(3ランホームラン)も、 いわき市出身なんですよね〜!
内田くんは、小学生の時、お父さんが亡くなり、母敬子さんの支えで野球を続けて
きたそうです。(8/10付 福島民友新聞より)
園部くんもまた、同じような境遇の中、「母親に恩返し」のホームランを量産して、
現在、高校通算58号を記録しています。
松井秀喜選手の記録まで、あと2本!
ということで、今日は、いわき市の野球の話をちょっとだけ。 プロ野球の祭典・オールスターゲーム。
年に一度のビッグイベントが、7月22日に、いわき市のグリーンスタジアムで 開催されました。 なぜ、いわき市で?と思いますよね。 実は、2011年7月に千葉で開催されたオールスター第2戦に、いわき市職員のYさんが招待され「被災地からのメッセージ」を読み上げました・・・
そして、そのメッセージを聞いた落合監督が、復興試合の継続開催を提案し、福島県での開催が決まったということです・・・等々。 様々な経緯があったようですが、 なんといっても、野球といわき市の深い繋がりが、オールスターを引き寄せた・・・ということなのではないでしょうか。 梨畑に棲む迷い猫 「綾小路福まろ」です!
かつて夏の甲子園で準優勝し、人気野球漫画「ドカベン」のモデルともなった磐城
高校。
この磐高野球部の活躍を生み出した原動力が、実は「常磐炭礦野球部」の育んだ 人材と実績にあったことは、あまり知られていないかもしれません。 1857年の開鉱以来、本州最大といわれた「常磐炭田」
最盛期の昭和26年は、炭鉱数が83。 就業労働者が約2万2600人にも上り、いわき市は石炭城下町として発展していました。 そして「黒いダイヤ」といわれた石炭が好況だった時に、力を入れたのが野球部の 強化でした。
常磐炭礦野球部には、プロ野球経験者や、東京六大学のスター選手が入部し、 大躍進!
初出場した昭和27年の都市対抗野球大会1回戦で、日本石油(横浜市)に7-6で勝利した時は、東京の後楽園球場応援のための臨時列車もでたそうです。 この一般市民をも巻き込んだ野球熱は、しだいに高校野球にも波及しました。
昭和46年夏の甲子園。
小さな大投手・田村隆寿投手を擁した磐城高校が、強豪校を次々と破り、準優勝。 その時の監督、須永さんは、オール常磐硬式野球部のOBでした。 この炭鉱をルーツにした人脈と技術の伝承が、いわき市の野球界の発展を支えていたともいえます。
「昭和の怪物」と呼ばれた元巨人軍の江川卓投手も、父親が炭鉱で働いていた関係で、幼少期をいわき市で過ごし、好間川で石投げをして遊んでいたそうです。
そんなこんなで、いわき市で生まれ育った私も、大の野球好きとなりました。 聖光学院高校野球部の2回戦は、8月15日第一試合です。
新盆に帰ってくる父のみ魂と共に、今夏も母の必勝スプーンで応援したいと思っています(笑) |
甲子園の思い出
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昨夜は、福島市の上空に、美しい満月が輝いていました。
「水もゆかず 月も来らずしかはあれど
波間に浮ぶ 影の清さよ」 良寛 10/26に、仙林寺で講演された三本杉祐輝先生が、2010年夏、S高校野球部に送ったメッセージと四つ葉のクローバー。 今だから書ける?マル秘ストーリーを、ほんの少しご紹介したいと思います。 写真は、仙林寺で講演する三本杉先生です。 震災の前年、福島県代表で甲子園大会に出場した三男(野球部マネジャー)は、 満身創痍、最後の夏に挑んでいました。 実は、三男が中学時代、華麗なる自宅警備員(不登校・引きこもりとも言う)だった 「お陰」で、三本杉先生との交流が始まり、いつも温かい励ましを頂いていました。
春の東北大会初優勝の際も、毎試合ラジオの前で、野球部を応援してくださった
先生。
そして迎えた高校最後の夏の大会! 苦しい試合を勝ち抜き、甲子園の切符を手にした選手たちのために、三本杉先生は、毛筆のメッセージと、四つ葉のクローバーの「手作りのお守り」をたくさん準備してくださいました。 甲子園では、試合前のミーティングで、監督が先生のメッセージを読んでくださり、
選手一人ひとりにお守りが手渡されたそうです。
監督は、「三本杉先生のメッセージは、いつも鞄の中に入れています」とおっしゃっていました。 初戦は、強豪・広島代表の広陵高校!
2年生ピッチャーの歳内君の奮闘で、息詰まる投手戦となりました。 そして、7回。 相手のミスから得点した1点が、勝敗を決めました。 (広陵は、6回にホームをねらうもタッチアウトで無得点・・・実はこの判定は、とても微妙なものだったと後で聞きました)三本杉先生のお守りのお陰かもしれませんね! 試合終了後、先生から「絶対7回で得点すると念じていた。次も勝つ!」と熱いメールが・・・。有り難くて、涙がこぼれました。
3年前は、部屋に引きこもって死を想ったという息子でした。 甲子園のベンチで、記録員の息子が、全身全霊でチームをサポートしている、その姿は、蛹から脱皮した蝶のようにも思えました。
「あきらめない。チャンスは必ず巡ってくる」
悪性リンパ腫を3度再発し、一時は余命半年を宣告された三本杉先生の信念です。 二回戦は、またまた強敵!大阪代表の履正社高校でした。
履正社高校は、奈良の天理高校を破っての二回戦進出です。 しかし、この試合も、なぜか負ける気がしない三本杉先生と私!(笑) 監督の息子さんのS君のホームランも出て、5対3で快勝! ついに、ベスト8です。 アルプススタンドで、沖縄の応援が始まると、波のような音の海練がマウンドに流れ込んで、島袋投手の超人的な投球が、ますます冴え渡りました・・・。 寛大な心で、沖縄代表初の「春夏連覇」を、プレゼントさせて頂きました(笑) 本当に、素晴らしい夏でした。
この体験を、三本杉先生と共有できたこと、そして、先生から託された不屈の精神で子ども達が奇跡を引き寄せ、最強のチームと対戦できたこと・・・今も感謝の思いでいっぱいです。 10/26講演が行われた仙林寺の玄関に、お迎え花が飾られていました。
リンドウの花の色は、S高校野球部のチームカラーです。 曹洞宗のお寺の宗紋でもありますね。 以前、ご紹介しました飯坂の中野不動尊の宗紋も同じです。 不思議なシンクロを感じました。 お寺の庭の「水琴窟」を案内して頂きました。
水を掛けますと、地面の下の空洞に水滴が流れ落ちて、美しい音色を奏でます。 目には見えない場所に、美しいものが隠されている・・・。 清々しい思いに満たされた再会の一日でした。 講演の内容は、次回のブログでご紹介いたします。 三本杉先生のブログもあります。URLは下記です。
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福島の畑も、夏に向けて作業が始まりました。
連日、お盆用の菊の定植をしています。 花が咲く頃、また甲子園で聖光野球部の勇姿を見たいです。 先日の春の大会、準々決勝で、、横浜高校と関東一高が対戦しましたが、
スクイズでホームインした横浜のランナーが、ホームベースを踏み損ね、アピールプレイでアウトになったシーンにはビックリでした。 甲子園では、こんな「まさか・・・」が試合の流れを変えることが良くあります。 そして、私たちの人生もまた、上り坂・下り坂・「まさか」の連続ですね。 今日は、2008年、クリスマスの日に起きた、とっておきの「まさか」を紹介したいと思います。
その日、朝から野球部の練習に出かけていた息子から、突然メールが入りました。 「お母さん、野球部の友達が、俺と親戚だって言っているよ。郡山のほうの中学出身で、名前は、K君っていうの」と息子。
「郡山の方に親戚はないので、何かの間違いだと思うけど・・・調べてみるね」と私。 2008年夏の甲子園アルバムのページをめくり、野球部員の顔写真と名前を探す。
K君・・・K君・・・K君は、どこかな・・・? あった〜!え〜っ!・・・いわきの従兄弟達に目元がそっくり! そして、K君の出身中学を見た時、全てが解りました・・・。 話は前後しますが、今から7年前の4月、実家の母の告別式の後、ある親戚の家を訪ねました。
実は母方の祖母の実家は、江戸時代に、いわきの大きな農民一揆をリードした由緒ある家系で、私は、その歴史の詳細を調べていたのです。 その時、私の福島の住所をメモして渡していました。 それから3年の月日が流れ・・・。。
息子が聖光学院に入学した2008年、ある女性からお手紙が届きました。 お名前に、心当たりは全くありません・・・が、実は、その方は、私の母方の親戚で、 幼い時に交流があったAちゃんだということが、手紙を読んで解りました。 それで、クリスマスに、手紙を添えてうちのリンゴを送ったのです・・・。 手紙には、息子の近況も書いて・・・。 その彼女の住所が、K君の中学校名と同じ・・・そして、彼女の名前が、そういえば
Kさんだった・・・と気づいた時の衝撃は、もう言葉に表現できません。 彼女も、まさかの展開にビックリだったと思います。 そして、息子たちは、クラスも同じでした! 出席番号も隣同士(OとK)ですから、入学式では、すぐ近くに並んでいたわけです。 Aちゃんから手紙が来なければ、このことに気付かずに卒業していたかもしれません。そして、息子が不登校にならなければ、聖光学院に入学することもなく、この出会いは無かったでしょう。
(不登校にならなければ、中学の親友と一緒に、県立の野球部に入部する予定でしたので・・・) 息子たちが、同じ年に生まれ、野球の道に進み、同じ高校の野球部に入り、同じクラスになる確率を想うと、「出会いは必然」として用意されていたようにも思います。
全てが大きな計らいのもとにあるように思えて、ただただ、感謝の涙・・・でした。
45年ぶりに、聖光グランドで再会したAちゃんは、懐かしい「いわきの香り」がしました。
息子は、K君と一緒に、3年連続で夏の甲子園大会に招かれ、チームの言霊「ありがとう」を体現して、昨春卒業しました。 人生には、苦しいことも悲しいことも、いっぱいあるけれど、全てに意味があり、
その都度、私達は成長して、必然の出会いを授かる・・・その気づきを頂いた3年間でした。 中学時代、「もう俺の人生は終わった」と諦めていたら、今の息子はありませんでした。 震災や原発事故の苦しみの中で、私達は自分自身に、日々どの様な言葉を発しているでしょうか?
事故以来、「もう福島の農業は全滅だ」とか、「除染しても、福島は人の住める所ではない」とか、「被曝して病気になったら人生終わりだよ」と言う人もいます。
「原発を停めたい」と強く念じれば、本当に原発は停まります(地震が起きて停まることも・・・) 私たち人間の心と言葉の力は、とてもとても、大きいです。
恐怖から発せられた言葉は、とくに強力ですね。
温かくも力強い、前向きな言葉で、新しい世界を開いていきたいものです。 |
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3/29の横浜高校戦の後、息子の携帯に連絡が入りました。
もうすでに、聖光野球部は、夏に向けて動き出しています! 「春の遠征に同行して、チームをサポートすることになった」と息子。 卒業して一年目の、恩返しの春です。 大阪城内から撮影
この様な展開になるとは、想像もできなかった・・・4年前の今頃。
聖光学院高校の入学式の受付で、「息子さんも一緒ですか?」と心配してくださった K先生に、「はい、なんとか・・・」と答えた私。 中学2年時から不登校で、卒業式にも出席しなかった息子でしたが、大好きな野球を続けたい一心で、新たな一歩を踏み出した決意の日でした。 当初、不登校の子どもを、全日制に受け入れた前例は無いとのことで、半分諦めつつも、「落ちた場合は、通信制もあるし」と、受験した聖光学院高校でした。
ですから、入学を許可された時は、信じられませんでした(笑) 学校に通うだけでも奇跡なのに、野球部に入部して、終電で帰宅する息子。
夜12時に帰宅して、朝の6時には家を出ていました・・・。 そんな彼の弱音を「そうだよね〜」とひたすら受けとめる毎日。
4月、5月、6月、7月・・・まさに奇跡の4ヶ月でした。 そして決戦の夏、黒羽主将のチームが福島代表を勝ち取り、生まれて初めての 甲子園へ!
帰ってきたら、たぶん野球部は辞めるだろうと、私は密かに思っていました。 体力が続かないだろう・・・と。 それで、「父母会で応援できるのは、これが最初で最後かもしれない」と、私も夜行バスに乗ったのです。 その年、聖光野球部は、ベスト8まで勝ち進むも、、強打の横浜高校に大敗。
重い足取りで乗り込んだ帰りのバスで、隣の席の方が、途中下車しました。 その空いた席に・・・暗がりの中、隣のバスから乗り込んできた牧師先生が・・・。 「どこに座ろ〜かな〜。あっ、ここ空いてるの?」と。 現在は、東京の町田市で伝道活動をされている後藤牧人先生でした。
そして、75歳にして、ハーレーで東京・福島間を往復するというスーパー校長先生は、隣の席で、英文の分厚い本を読み始めました。 私「あの〜、初めまして。野球部一年のYの母親です。不登校にもかかわらず、
入学を許可して頂き、本当にありがとうございました」 先生「あ〜Y君ね〜!」
私「ご存知でしたか?」
先生「当たり前でしょ。私を誰だと思ってるの。校長だよ(笑)」
後藤先生は、入学式で、ヴァージンエアーという航空会社のお話をされました。
その会社の社長は、ディスレクシアという学習障害があるのですが、低迷する航空業界の中にあっても、業績を伸ばしている・・・それは、なぜか?と、子ども達に問いかけたのです。 「優秀なエリートを集めたのに、会社(チーム)の業績(成績)が伸びないのはなぜか?」
という逆の問いかけをも暗示しながらの、後藤先生のお話は、私達に深い印象を与えました。 前回のブログで「感性命」という言葉を紹介しました。
感性は、知識として学ぶことはできません。 人間は、痛みや弱さの体験の中で、感性を磨いていきます。
感性命という精神の中では、「挫折」も「病」も「障がい」も、感性を磨く砥石 なのかもしれません。 強い自分が、人生(会社・チーム)をコントロールできると思う傲慢を手放した時、
時満ちて授かる「出会い」「チャンス」「ゴッドハンド(笑)」・・・。 このあたりの実例については、また別の機会に書きますね。 というわけで、夜行バスでの出会いをきっかけに、後藤先生ご夫妻との交流が始まりました。
そして、私も息子も、一番辛い時期を支えて頂き、今に至っております。 息子は、野球部マネジャーとして、3年間働きを与えられ、無事に卒業することができました。 お世話になりました先生方、父母会の皆様、チームメイトの皆さんに、心から感謝いたします。 本当に、ありがとうございました。 |
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昨日、春の甲子園大会に出場した聖光学院高校(福島代表)が、ベスト8をかけて
横浜高校と対戦しました。 結果は、7対1で敗退。 「聖光、未だ木鶏たりえず」と言う息子と、久しぶりに野球の話をしました。 今年の3年生は、息子のチームが夏の甲子園大会で、沖縄興南高校と対戦した時、
一年生だった子ども達です。 昨日の試合では、高い身体能力で、好プレーを見せてくれましたが・・・。 「ベスト8、そしてその上のレベルに招かれるためには、何が必要なのか?」 2008年夏の甲子園で、聖光野球部は、福島県勢33年ぶりのベスト8に進出し、
横浜高校と対戦するも、15対1で大敗・・・。 横浜高校は、高く強靭な壁でした。 勝負の世界も、まさに無常の世界です。 アルプススタンドで応援していた私達も、選手と一緒に再起を誓いました。 そして2年後に、再びのベスト8で、興南高校と対戦したわけです。 頂上に向かう道は、さらに険しく、神々の庭に招かれる者は少ない・・・。
「トイレ掃除や、部屋の整頓、靴をきちんと並べることが、野球とは関係ないと 心のどこかで思っているレベルでは、高い山の頂上には登れない」と息子。 「中国には、感性命(かんしょうみょう)という教えがある。知識があっても、
その本質を受信する感性がないと、空理空論の人になる」とも・・・。 う〜ん、なるほど〜。 2年前の今頃、私はボランティアで、野球部の古い寮のトイレ掃除をしていました。
幽霊が出るという噂の寮でした・・・(笑) 仕事が休みの日に、1階から5階までの20部屋を回って、水回りを磨く作業です。 その過程で、部員達の意識が変わっていくのを実感しました。 各人の部屋が、みるみる整理整頓されていく・・・。 その年、チームが選んだ言霊は「ありがとう」でした。 自分の外側を「整える」「磨く」という作業は、同時に自分の内側も浄化していきます。 その春の東北大会で、聖光野球部は初優勝し、夏に向かって快進撃を続けていきました。 新寮が完成し、引越しも近づいたある日、「立つ鳥後を濁さず」の思いで、清掃作業に出かけた私は、最後の5階のトイレのドアを開けて、びっくり・・・! 幽霊?・・・じゃありません(笑) そこには、一枚の古びた紙が画鋲で留めてありました。
「木鶏の故事」と記されています。 「木鶏」とは、「荘子」に収められた故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように 全く動じない、最強の状態を表しています。 故事の内容を簡単に紹介しますと・・・。
闘鶏を育成する名人に、鶏を預けた王様は、10日ほど経過した頃、その仕上がり具合を聞いた。すると名人は「まだ、空威張りして、闘争心があるからいけません」と言う。更に10日ほど経過して、王様が聞くと・・・。
名人「まだいけません。他の鶏の声や姿を見ただけで、いきり立ってしまいます」 更に10日経過したが、名人は「まだ目を怒らせて、己の強さを誇示しているから話に
なりません」と言う。 更に10日経過した時、王様が問うと、名人は誇らしげに答えた。
「もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません」 王様が、その闘鶏を見ると、まるで木鶏のように泰然自若としていた。
その静かな徳の前に、相手の闘鶏は、「闘わずして敗れた」という。 この故事を、今も時々、思い返しています。 ある人が言いました。 「昨年、福島は、痛々しい傷ついた子どもの様だと思っていたけれど、今は違う。 産みの苦しみを耐えた母親の様に、私達はこれから、たくさんの素晴らしいモデルを 産み出していくんだね」 今年の年回りは「壬辰」だそうです。 女偏をつけると、妊娠ですね。 泰然自若、徳の力が、本質的変容の要なのかもしれません。 |





