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菊畑のトンボ
やっと雨が降り始めた福島市です。 昨日の最高気温は、20℃でした・・・・・。 菊の収穫
カッパを着て菊の収穫をしていますが、寒いため早朝は防寒着を着ました。
このところ40℃近い気温が続いていましたのに、この急降下・・・なんでやねん(笑) 日照りで枯れていたヒマワリを水切りして、家の中に避難させましたが、こちらは見事復活です! 復活といえば、バドミントンの桃田賢斗選手が、8/5世界選手権で日本男子初の金メダル!
3年ぶりに出場した大舞台でした。 違法賭博問題で、リオデジャネイロ五輪は出場停止・・・表舞台から姿を消した桃田選手が、孤独の底で何を学び、何に支えられたのか、淡々とした静かな表情に彼の成長を感じます。 出身は香川県。中学と高校時代は、福島県富岡町で過ごしています。 昨年5月、無期限出場停止処分が解けて約一年ぶりの復帰戦となった大会で優勝した桃田選手。 「辛い時に支えてくれた方々への思いのすべてが込み上げてきた。今は、どの大会が目標とかはないです。 それよりも相手への感謝など、コートの中の振る舞いも見てもらい、皆さんに応援してもらえる選手になりたい」と涙ながらに語ったそうです。 そして、今日は甲子園で、秋田県代表の県立金足農業高校が、鹿児島実業高等学校を破って初戦突破しました。
23年ぶりの初戦勝利だそうです。おめでとうございます! 東北の高校野球について、7月15日付の朝日新聞に、こんな記事が載っていました。 仙台育英高校の元監督・竹田利秋さん。
仙台市の東北高校〜仙台育英高校の監督時代に、春夏計27回、甲子園に出場したそうです。 1989年夏の甲子園は、エース大越基を擁して決勝まで勝ちすすみ、強豪「帝京」と競り合って延長へ。 あと一歩でした・・・。 竹田さんは、大学の先輩の誘いで銀行員を辞め、24才の時に東北高校のコーチ、そして監督に。
「勝ってやめよう」と思っていた1968年の夏。 甲子園の抽選会で対戦が決まった相手校から、拍手が湧いたそうです・・・一回戦はもらったと。 うつむいている東北の選手たちを見て、竹田さんは誓いました。 「この子たちの、劣等感を変えたい」 ナイター設備もなく、冬は積雪でグラウンド練習が厳しい中、東京の名門校と試合を組み、わざと電車で向かったそうです。満員の山の手線に何度も乗せた・・・と。なぜか? 「降ります」と言えない、生徒の心を鍛えるためでした。 あの抽選会から50年・・・今年こそ!です。 でも、ほんとに変われたのかな?・・・と、震災後の諸々を思いだしています。 私たちの劣等感は、今も心の無意識で敗者の物語を生み出し続けているんじゃないか・・・とも。 復興支援で福島入りしたNPOスタッフを前に「この期に名を売ろう」と呼びかけた東京の脱原発リーダー。 イベントに並べるのは、福島産ではなくて、東京から西の食材だという・・・。 同席した福島人は、誰も異議を訴えませんでした。 「東京から来てくれるだけで嬉しい」と。 「福島で毒米を作る農家は、オウム以下。福島県で放射能を浴びた娘を我が家の嫁には迎えないが、それは差別ではなく実害」とツイートした群馬の大学教授。 「ここまで愚弄されて、黙ってられない」と言う私に、 「運動を分裂させるような言動は慎んでほしい」と返したのは、福島県人でした・・・。 福島に生まれた自分を愛するということ。 差別や暴力には、毅然とした態度を示していくということ。 私たちの自尊心や自己肯定感が、震災復興の過程で試されていたのだと、つくづく思いますし、その力の復活が、生きていく上では一番必要なのかなと思います。 「ぼくは創造する。創造を止めない。」(「甲子園」テーマソングから) 夢の舞台に上る人。夢の舞台を支える人。 その情熱と創造の翼に、いつも力をいただいています。 ありがとうございます! 気温40℃の炎天下で側溝汚泥の撤去をする地元土建の作業員さん
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心の大掃除
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暑い日が続いていますね。
明日から東北地方は前線の南下と、北上してくる台風によって、しばらくは雨模様が続くかもしれません。まさに慈雨です。 夏の高校野球が甲子園で開幕しました。 100回記念大会の始球式で、松井秀喜さんが登場! ワンバウンドとなった一球に「甲子園の魔物に襲われました」とコメントした松井さん(笑) キャッチしたのは、母校「星稜」のキャッチャー。 開幕試合の守備が母校というのも、不思議なめぐり合わせです。 福島県代表の聖光学院高校は、11日の第三試合で、報徳学園(甲子園が地元)と対戦します。 温かいご声援をよろしくお願いいたします。 梨の実
さて、初日の第三試合は、新潟県代表の中越高校が登場しました。 今年のチームを支える「言葉」は「疾風に勁草を知る」だそうです。 「苦難にあってはじめて、その人の真の強さがわかる」 文科省の腐敗した官僚たちや、スポーツ界の泥でまみれたお爺さんに、高校球児の爪の垢を煎じて飲ませたいものです・・・。 早朝の菊畑
音声データの記録から。 谷口「ここは僕が全部・・・。快気祝いも含めて、もっと今度、高いところでやりましょう」 佐野「重ね重ね申し訳ございません」 谷口「予約入学」 佐野「すみません、谷口さんにいろいろお世話になっちゃって」 接待汚職事件で2人の幹部が相次いで逮捕された文部科学省。
8月1日、事務方トップの戸谷事務次官までもが、飲食接待の場に同席していたことが新たにわかり、東京地検特捜部は次官の執務室を家宅捜索しました。 戸谷次官は、日本原子力研究開発機構の理事を務めるなど、キャリアの多くが原子力関係だそうです。 コンサル契約を結んだ企業に接待費を負担させていたとか。 接待費は、一ヶ月あたり約300万円・・・。 仙台市の塩沼亮潤大阿闍梨〜NHK「明日へのことば」より
日本ボクシング連盟に選手ら333人から告発状。 WBA世界ミドル級王者・村田諒太選手がコメント。 「悪しき古き人間たち。もうそういう時代じゃありません。新しい世代に交代して、これ以上自分たちの顔に泥を塗り続けることは避けるべきです」 訴えられた山根会長いわく。
「私は選手に、愛をもって接している。選手、役員も会長にピリピリしている・・・?そんなことはない。 愛情を注ぐのが一番大事」 審判に圧力をかけて、愛を注いでいる選手を不当に勝たせていたそうです・・・。 お寺の掃除をする塩沼亮潤大阿闍梨
時代は、「大掃除」「浄化」へと向かっています。 古い体質を一掃して、新しい世代が時代をクリエイトする時が来ていると感じます。 8/4 わらじまつり「ダンシングそーだナイト」のストリートパフォーマンス
昨夜、福島市のわらじまつりに参加した友人を撮るため、菊の仕事が終わってから駅前に向かいました。 県都の夏を彩る「第49回福島わらじまつり」・・・来年は、50回の節目となり、まつりは大きく刷新されるということです。(NHKの朝ドラ「あまちゃん」主題歌を担当した大友さんが盆唄を作曲) 信夫通りに市内のダンスサークルなど50団体が集合して、軽快なダンスを披露しました。 余目の一輪車サークルの子ども達など、今年は子ども達の元気なパフォーマンスが目立ちました。 動画をアップできたら載せたいと思います。 ダンスに混じって「大わらじパレード」も行われ、12メートル大わらじが福島の夜に舞いました。 夜の気温は、30℃。 昨夜は久しぶりにカエルが鳴いていました。 穂が出始めた稲も、雨の匂いを感じていることでしょう。 |
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今朝は、激しい雨音で目が覚めました。
台風18号の雨と風で、梨の実の落下もあった模様です。 水害に遭われた地域の皆様に、心からお見舞い申し上げます。
さて、福島第一原発の放射能汚染水漏れ問題で、9/13東電の山下和彦フェロー
(技術顧問)が、「今の状態はコントロールできていないと考えている」と発言したそうです。
現場の人達の認識や感覚が、一番真実に近いのではと私は思っています。
汚染水問題は東京電力では対応できないと自白したようなものですね。 東京電力は実質国有化されています。 そして、安倍総理がIOCで汚染水はコントロールされていると発言したわけですから、その発言通りに政府が責任を持って汚染水対策を実行してもらうのみですね。
2011年4月初めに、東電が大量の汚染水をいわきの海に放出した時、心の底から沸き起こってきた感情がありました。
自分の生まれ育った故郷が汚されていくのを見ている私・・・は、その時、 自分の母親が暴力を受けているのを、その傍らで震えながら見ている小さな子ども・・・でした。 ずっと、そのことが気になっていたんですが、
8月に、精神科医が主催したワークショップで絵を描き、改めてその感情と向き合うことができました。 ワークショップのテーマは「インナーチャイルドの癒し」です。
「3歳の自分を絵に描いて!」と促されて、
まず、青い海が心に浮かびました。 子どもの目から、涙が流れています。
「海が汚染されてしまった」と泣いています。 子どもの傍らには、イルカとジュゴンがいます。 次に、母親と父親の絵を描いてください・・・と言われて、
すぐに思い出したのは、両親の夢でした。 父が亡くなって四十九日めの明け方に見た夢です。
一面の青い海・・・・・。
海の上に橋が架かっていました。 下を覗きこむと、吸い込まれそうになって、思わずしゃがみこんだ私。 橋の上を、たくさんの人が歩いていました。 まるでお祭りのような賑やかさです。 そこに、8年前に他界した母が、夏のスーツを着て現れました。
お気に入りのラベンダー色のツーピースでした。 父が母と一緒に、橋を渡っていきます。 橋の向こうに西陽が輝いていました。 記念写真を撮ろうとして、カメラを探していたら、両親を見失ってしまいました。 実は、この夢の話を、今夏の新盆の席で話したところ、高齢の親戚が、
「実は、数年前、大量出血の危篤状態で、同じ海の夢を見た」と言うではありませんか。 青く美しい海を渡ろうとしたら、母親に「まだこちらに来てはいけない」と
止められ、目が覚めたというのです。 被災地の人々の心の中で、今、何が起きているのでしょうか・・・。
昨夜は、NHK大河ドラマ「八重の桜」の後、ドラマスペシャル「いねむり先生」を
見ました。 八重が、生意気な熊本バンドの学生たちから「鵺」とからかわれて、
「わだすは、新島ヌエです」と開きなおる場面がありましたが、人間は皆、鵺なのかも しれません。 学生たちも、頭は「キリスト教」ですが、胴は「封建武士」、足は「排他主義」だったかも。 「いねむり先生」は、そんな鵺のような人間の、魂の救済とはいったい何なのか、
深く胸に迫る内容であり、原作者・伊集院静さんの「別れる力」の一文を思いだ しました。
「二十歳の時、十六歳の弟を喪くした。三十五歳の時、愛する人を喪くした。
理不尽な別れに神を呪ったこともある。酒に溺れ、無気力な日々を過ごした。 だが、いまならわかる。 出逢えば別れは必ずやってくる。 それでも、出逢ったことが生きてきた証しであるならば、別れることも 生きた証しなのだろう、と。 伊集院静」 「いねむり先生」は、30年前、最愛の夏目雅子さんを失い、絶望の淵にいた伊集院さんが、ギャンブルの神様と呼ばれる作家、色川武大(阿佐田哲也)との交友を通じて、再生していく自伝的小説をドラマ化したものです。
このドラマの中で、悪夢に苦しみ酒浸りとなった伊集院さんに、色川さんが
「怖い夢でも、誰かに話してみると、楽になることもある」と話す場面がありました。
色川さん自身も、突然睡魔に襲われるナルコレプシーという難病を抱え、幻覚にも悩まされていたそうです。 退役軍人であった父親が、鞭を使って子ども(色川さん)を罰したことも、病の原因だったのかもしれません。 こちらは、梨畑で睡魔に襲われる福マロくん
優れたカウンセリング技術が、人を癒やすのではありません。
人と人とが、心の井戸の深いところで共鳴し合ったとき、何かが動いていくのでしょう。 この夏、ずっと河合隼雄さんのCDを聴いていました。
河合さんがタクシーに乗ると、なぜか運転手さんが人生相談を始めるんだそうです。 河合さんが誰とも知らずに・・・。 そして、目的地に着いてドアが開くと、そこは目指した目的地とは全く違う思いがけない場所だった・・・という体験を、河合さんは度々したそうです。 何の暗示なんでしょうね?
この続きは、また次回にでも(笑) |
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山本八重さんが、命がけで守ろうとした会津若松城です。
空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ケ城」と呼ばれています。 本丸側の高石垣は、扇の形の勾配で、約20メートルの高さがある「忍者返し」です。 約370年前に整備されたという石垣・・・。 いったい、この石垣が守ろうとしていたものは何だったんでしょうね。 私「松平容保さんが切腹しなかったことで、心離れした人も多いだろうね〜?」
夫「権力者なんて、どこもそんなもんだよ・・・」 私「なんか、今の日本を見ているようだわ〜」 しかし、三の丸、二の丸と歩くほどに、自分自身の心の中を歩いているような
不思議な気持ちになりました。心の中の「石垣やバリケード」が高ければ高いほど、
その心象風景を鏡に映したような状況を引き寄せてしまうようです。
目の前の混乱は、自分自身の姿でもあります。
旧会津藩士の精神的よりどころでもあった鶴ケ城の破壊を望む新政府は、明治7年取り壊しの入札を一般告示し、同年7月に300年の伝統を誇る名城は姿を消しました。
鶴ヶ城が再建されたのは、91年後の1965年でした。 本丸北の太鼓門わきに、鶴ケ城稲荷神社を発見!
お城を築く場所を探していた時に、狐さんが導いたという伝説があるそうです。 いつの世も、戦争の最大の犠牲者は一般民衆です。
藩主・松平容保が京都守護職として上洛して以来、その経費を賄うための重税や 兵糧の徴発、軍役までもが押し付けられた農民にとって、会津藩の敗北は、苦役からの「解放」でもありました。
昨年の3月に、いわきの実家で見つけた「会津の歴史」(講談社)に、詳しい記述がありましたので紹介したいと思います。この本の監修・執筆は、東北大学の豊田武先生です。 「会津開城後、まだ10日もたたない10月3日から、約2ヶ月もの間、会津の全域にわたり数万にのぼる農民の激しい蜂起がつづいた。世直し一揆とか、ヤーヤー一揆といわれるのがこれである。この打ち壊しは、農民自らが世直しといい、封建制度を激しく批判して、新政府に改革の実行を迫ったことから、今までの百姓一揆と区別して評価されている。」
「彼らの掲げた要求のうち、年貢については無年貢、あるいは半納となり、大半の要求が通った。世直し一揆は、幕藩時代の強い絆を断ち切ろうとした、反封建の闘争であった。」
「しかし、それは長い間の農民の不満が一度に爆発し、吹き出したもので、藩閥政府が安定するにつれて、再び新しい支配機構の中に埋没されていくのであるが・・・一揆の洗礼を受けた肝煎層は、やがて、明治10年代におこる自由民権運動に参加し、敢然と明治政府に戦いを挑んでいったのである」
☆会津藩校・日新館にも立ち寄りました。
1772年、5代藩主・容頌(かたのぶ)の時代、財政は悪化の一途をたどり、累積した
借金は57万両。会津藩の石高の2倍以上の巨額の借金でした。
1782年から3年間つづいた天明の大飢饉が、さらに藩財政に深刻な打撃を与えて・・・。 その時、登用された改革派の家老・田中玄宰(はるなか)が、廃れた学問所の再興をはかり、藩校日新館や「什」の創設を行ったそうです。 明治政府が「村に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」と、学制を頒布したのは明治5年。
明治15年には、旧会津藩士族の希望で、旧藩校の日新館が非公式に発足していたそうです。 たまたま、会津三方道路の工事で自由党員の反対に手を焼いていた県令・三島通庸(旧薩摩藩士)は、会津士族の歓心を買うために、日新館修理費の名目で金を出していたそうです。(「会津の歴史」より) 当時、福島県会は、弱冠32歳の河野広中議長の率いる自由党が、民意を無視する県令・三島通庸と激しく対立していました。福島県は、土佐と並ぶ自由民権運動の拠点でした。
麻生太郎氏は、三島通庸の孫(吉田茂)の孫という、由緒あるお家柄の方です。 どことなく似ているような・・・。 最後に、お二人の写真を紹介しまして、第一回・会津の旅のお話を閉じたいと思います。 三島通庸
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鶴ケ城から、この日一番の目的地「諏方神社」へ。
観光マップにも載っていないため、案内所の女性に目印などを教えてもらい 車で向かいました。途中、晴れていた天気が急変。 雪が降り始めました・・・。 まずは、2枚の写真をごらんください。 この2枚の写真は、ビフォー&アフターの証拠写真です(笑)
違いがわかりますか? 突然降り始めた雪の中、やっと辿り着いた諏方神社。
夫は、ちょっと後退りして、境内になかなか入れない様子でした。 雪に埋もれた境内全体に、何か重苦しい雰囲気があります。(1枚目の写真) この日の言霊は「ナ・オル」です。
直感ですが・・・。 心の中で繰り返し唱えながら、雪を踏みしめ拝殿へ。 雪に埋もれているのは、目に見えるものだけでは無いようです。 「大切な魂(スピリット)を忘れてはいませんか?」
「何を、復興するのですか?」 と、問われているように感じました。 御祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)というお名前です。
拝殿の前で、深く深く陳謝しました。 そして、御祭神に感謝の思いを伝えました。 夫「木の上の方に、カラスがたくさんいるね。何か話をしているように鳴いている」
境内の片隅に、雪に埋もれた古い祠を見つけました。
稲荷でしょうか? 傍らの狐さんに「ごめんなさい」と謝りました。 そこに突然、西陽が・・・! 金色の光が境内に差し込んで、清々しい神気を放ち始めました。(2枚目の写真) この激変に、夫も私もビックリでした。 この諏方神社は、1293年、葦名盛宗が信州諏訪神社に戦勝祈願をしたところ、
戦わずして勝利したことから、 信州からご神体を迎え、城下に奉ったのが始まりだそうです。 信州諏訪は、出雲第二王朝ともいわれる土地です。 蒲生氏郷が、黒川を若松と改め、城下町を整備した際は、唯一郭内に残された
城下の総鎮守。
1667年、保科正之が藩主の時は、会津大鎮守六社の筆頭とされたほどの、神格でしたのに・・・。 出雲→会津→福島と、まつろわぬ者達の遠い記憶が、その時代の「縁」の舞台で再現されるかのような不思議な符合の数々・・・偶然とは思えない私です。 (ちなみに、福島稲荷神社には、出雲の大国主命とその息子、事代主命が祀られています)
二の鳥居には、今も会津戦争時の弾痕が残っています。
この神社内で、城内守備隊長の西郷寧太郎の妻「やほ子」と、一族の女性たち4名が自刃したそうです。 母の「なほ子」の外孫が、飯沼貞吉です(生き残った白虎隊士)。 野矢常方公の歌碑を捜しましたが、境内の雪が深くて見つかりませんでした。
雪解けのころに、再訪したいと思っています。 福島の自宅に戻ってから、諏方神社の祭礼などを調べてみました。
落城前は、「授光祭」という盛大な祭礼があったそうです。 6月1日から、2夜3日、普段は外で食べ物を食べてはならない武家の子ども達(什の掟)も、買い食いを許される特別な日だったそうです。
そいいえば、今年、福島で開催される東北六魂祭の日程も、6/1・2でしたね!
当時の諏方神社は、今とは比べものにならない広大な敷地をもち、総門を入ると随神門があり、左右に続く回廊が中央の拝殿や本社を囲んでいたそうです。 授光祭の夜には、境内に提灯や燈明が灯され、篝火も焚かれて昼間の様な明るさでした。 神輿や山車が賑やかに町に繰り出し、2000人以上の着飾った男女や子ども達が、歌ったり踊ったりしながら練り歩いたといいます。 会津戦争で神社が焼失した後は、途絶えて今日に至っています。 実は、ヘブライ語で「オル」は、「光」
「ナ・オル」は、「光を受ける」という意味なんです。 日本語の、「治る」「直る」にもつながる言霊です。 そして昨年、金澤翔子さんが、日新館で揮毫した書は、「光」でした。
インスピレーションが、光のように降り注ぐ、聖地・会津。 次回は、日新館と鶴ケ城で撮影した写真をアップしたいと思います。 鶴ケ城本丸に、なんと稲荷神社がありました! お楽しみに。 |



