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吾妻山
 
吾妻山の火山性地震が191回観測された、1月14日。
ウロコ状の雲が空一面に拡がっていました。
地震の波動が雲に伝わっていたのかもしれませんね・・・。
 
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実は、前回の「水蒸気噴火」があった1977年。
私は、いわき市から福島市に引っ越したばかりの大学一年生でした。
そして、翌年の1978年、6月12日午後5時14分。
心理学サークルの先輩たちと喫茶店でミーティング中に、大きな揺れが・・・。
大皿がテーブルから落ちて割れ、目の前のイケメン先輩の足がブルブル奮えていたのを今でもはっきりと覚えています。
たまたまカウンターでコーヒーを飲んでいた地学研究会の学生が、
冷静な顔で、「震源、近いぞ!」と叫びました。
 
震災が、「想定内」であった人間と、「想定外」であった人間・・・。
さらに「想定外」の事態に遭遇しても、冷静に状況を整理することのできる人間・・・。
とっさの時に、こんなにも差が、出るものなのか・・・・・
19才の貴重な体験でした。
 
震度5(マグニチュード7.4)の、宮城県沖地震。
当時の津波は、最大30cmでした。(センチメートル!です)
死者28名。負傷者1万名あまり。
宮城県沖地震は、「37年間隔」で複数回起きているそうです。
やはり当時も、火山活動と地震は連動していたのでしょうね。
阪神淡路大震災から20年めの今日。
「忘れない」そして、「伝えていく」ことの大切さを改めて想う1月17日です。
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さて、今回ご紹介する本は 「知ろうとすること。」 (新潮文庫)
 
この表紙の写真は、物理学者の早野龍五先生と、糸井重里さん、そして福島県立福島高校の生徒さんです。
たぶん早野先生が、宇宙の歴史について解説している時の写真ではないか・・・と、私は思うのですが。
 
早野先生「星の真ん中に鉄ができると、それで星は燃料切れになる。」
糸井さん「星が死んでいく。」
早野先生「そうです。星が燃料切れになるっていうのはどういうことかと
     いうと、それまでは星というのは、真ん中に向かって引っ張ら
     れてる状態なんですよ。
     重力で、万有引力で、その星の真ん中に向かってつぶれようと
     するわけです。
      ところが、つぶれたいんだけど、一生懸命光ってるので、光が
     押し返している。」
糸井さん「おお!わかんないけど、おもしろい。」
 
ってあたりの、爆笑光景でしょうか・・・(笑)
 
早野先生「光ることによって、その万有引力でつぶれようとする力を押し
     返して、それで星の、あるいは太陽の、一定の大きさというの
     が成り立ってるわけです。」
糸井さん「ギリギリの綱引きで、あの大きさを保ってる。」
早野先生「そうです。ところが、星が燃料切れになると・・・
     引力を押し返せなくなるので、真ん中に向かって星は徐々に
     つぶれていくんです。
     星の真ん中の硬い鉄の塊に、どんどん電子がめり込んで
     いって・・・その反動で、外に向かって爆発が起こるんです。」
 
なるほど〜・・・時々「爆発」するうちの夫と同じだわ〜(笑)
 
早野先生「その爆発の時に、星が営々と作ってきた様々な元素が宇宙空間
     にばら撒かれるんです。」
 
なるほど〜。
いえいえ、この本は、単なる宇宙の解説本ではないのです。
その辺りも興味津々ではありますが。
 
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       ☆福島市内の小学校(校庭)の空間線量
 
 序章のところに、こう書いてあります。
「2011年の東日本大震災のあと、コピーライターの糸井重里は
 物理学者の早野龍五とツイッターを通じて知り合った。
 福島第一原子力発電所の事故から3年を経て、
 あらためて現状を語り合う。」
 
糸井さん「さて、大きな科学の話から、現場の話に戻りましょう。
     震災からこれまでの早野先生の仕事は、いわばマイナスをゼロ
     にするような仕事だったと思うんです。3年が経って、いろんな
     ことが新しい局面に入っているようですが。」
早野先生「そうですね。最近『ゼロからプラス』という強い意識を持って
     取り組んだのは、福島の高校生をジュネーブに連れていった
     ことです。
     まさに『未来につなげよう』というはっきりとした思いを持って
          取り組みました。そして、一回で終わらせるのではなく、今後も
          いろんな形で続けていきたいと思っています。」

早野先生は、震災直後からデータをグラフ化し、放射能に関する貴重な情報を発信されていました。
そして、先生のツイッターを見た方々からの寄付金を活用して、
福島県の給食の陰膳調査や、ベビースキャンの開発、高校生のジュネーブCERNへの派遣などを行っています。
なぜ、一物理学者がそこまで・・・?
その疑問が、この本を読んで初めて解けました。
 
「原子物理学」や「反物質」の研究がご専門の早野先生が、放射線に関する情報を発信するにあたって、まず「被ばく」に関する個人的な体験があった・・・とのこと。
 そのふたつのバックグラウンドの一つは、
①肺ガン治療のため、これまでに200ミリシーベルト近い放射線を浴びている早野先生の体験。
そして、ふたつめは、
②1973年、東京大学物理学科の学生だった時の衝撃体験。
 大学にある小さな加速器(原子核の実験)を使った施設で、放射線のモニターにすごく高い反応があり、警報が鳴り響いた。
 汚染源を突き止めるため、サーベイメーターで調べると、原因は施設内部ではなく、外部の「雨」であることが判明!
 その日の「雨」を、ゲルマニウム検出器で調べると、核分裂以外では生じえないものが検出された。
 後日、中国が大気圏内核実験を行ったことを発表。(1973年6月27日の水爆実験)
 核実験の後に、東京に雨が降って、その放射線を偶然「計測してしまった」ということです。

糸井さん「当時、東京にいた人たちは、何も知らずにフォールアウトの雨
     の中にいたんですね。
     その実測したときの数値は、今回の事故の数値と比較して、
     どのくらいの規模のものだったんですか?」
 
早野先生の回答は、本の中にあります・・・。
 
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震災後、早野先生が見つけた「D-シャトル」という個人積算線量計は、一時間ごとの線量を記録することができるため、どこで(場所)どのくらい被ばくしているのかを知るのに役立ちます。
「子どもにつけたガラスバッジの線量が高いと、ご両親の多くは車で送迎したり、外出を控えたりしていました。ところが、D-シャトルで測ってみると、実は寝ている間の線量が高いということが判ったりするんです」と早野先生。
 
そうなんですよね〜(悲)
私の家も、いまだに除染が行なわれていないため、2階の屋根の線量が高く、寝室で被ばくという状況が続いています。このあたりの事は、今後のために記録に残しておきたいと思います。
 
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そして、やはりこの問題にも言及しているお二人・・・。
「私はちゃんと子どもを産めるんですか?」と、中学生の女の子が心配そうに質問してきたそうです。
糸井さん「それについては、早野先生にぜひともわかりやすく答えていただきたいです。」
早野先生の答えは、本を手にとってご覧いただければと思います。
 
最後に、合わせて読んでいただきたい
いわき市小名浜ご出身の小松さんのブログ記事です。
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6/13の金曜日は満月でした。
それも100年に一度という「ハニームーン」です☆
夜の10時すぎ、ほんの一瞬、奇跡的に雲間から現れた月は、なんと月虹でした!
昨年12月にも福島市上空に現れた月虹の記事はこちら。
 
ハニームーンとは、夏至に近い時期に発生する満月で、地上に近い位置を
過するため、見た目が「ハニー」のような、ちょっと赤みを帯びた色合いになると言われています。
数十年に一度程度の頻度でしか観ることのできない現象です。
次のハニームーンは、2098年6月に観測されるとのこと!
 
いわき市の高校時代、地学専攻クラスで、天文学やプレート・テクトニクスを学んだ影響で、この歳になっても宇宙の視座から地球や日本を観ていく感覚が身についています。
故郷の恩師に感謝です。
 
満月は、強い引力の影響で、地震などの地殻変動を誘発させることもあります。
太陽フレア(火炎)も、6/10に「Xクラス」(X線の等級で最高レベル)が連発していて、ちょうど6/13夜から地球に到達〜接触か?と思われましたが・・・
幸い今回は地球とは別の方角にフレアが放射しましたので、電磁的な障害が発生するには至りませんでした。

それで、地震要注意のブログを書こうと思っていた矢先・・・。
昨日6/16の早朝5時14分。
震度4の揺れに飛び起きました。
午前3時過ぎにも、震度3の地震(震源は茨城県沖)があったようですが、熟睡していて気が付きませんでした。
福島市渡利では、水道配水管が損傷して、国道4号線の歩道が水浸し・・・。
福島原発へのダメージは無かったとの報道ですが、新幹線や在来線の運転見合わせで、通勤通学にも影響が出たようです。
いわきの知り合いは、たまたまその日は珍しく早朝5時に早起きしていて
庭にいたのだそうです。
そして14分の地震は、ゆっさゆっさではなく、庭の立ち木がブルブルブルブルブルと激しく揺れたので、再び311が来るのかと覚悟したとか・・・。
あれは震度4の揺れではなかったそうです。
 
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      ☆梨畑で、蛙さんは何を祈る?
 
さて、100年ぶりのハニームーンを見ながら読む本は、
「100年前からの警告」〜福島原発事故と朝河貫一〜(花伝社)です。
 
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この本は、福島県の高校教師OBと現役の先生方が、今年5月に出版しました。
朝河貫一博士の警鐘については、以前からこのブログでも紹介していましたので、合わせてご覧ください。

朝河貫一博士は、日本が日露戦争の戦勝気分に浮かれ、ナショナリズムが
高揚した時代に、アメリカの地から「増長する日本人」に警鐘を鳴らした福島県出身の歴史学者でした。
そして、日独伊三国軍事同盟を憂い、日米開戦阻止に奔走した博士・・・。
その朝河博士のメッセージが、福島原発事故後、100年の時を経て再び私たちのもとへ、「蜘蛛の糸」の救いのように届けられていることの意味を、想っています。
 
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     ☆満開のマロウ
 
東京電力福島原発事故を受け、2012年7月5日に、国会事故調(黒川清委員長)の報告書が提出されました。
黒川委員長は、その冒頭談話でこう述べています。
 
「100年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人・朝河貫一によってなされていた。
朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書
『日本の禍機』を著し、日露戦争以後に『変われなかった』日本が進んで
行くであろう道を、正確に予測していた。
『変われなかった』ことで、起きてしまった今回の大事故に、日本は今後どう対応し、どう変わっていくのか。これを、世界は厳しく注視している。
この経験を私たちは無駄にしてはならない。
国民の生活を守れなっかった政府をはじめ、原子力関係諸機関、社会構造や日本人の『思い込み(マインドセット)』を抜本的に改革し、この国の信頼を立て直す機会は今しかない。
この報告書が、日本のこれからの在り方について、私たち自身を検証し、変わり始める第一歩となることを期待している」
 
しかし・・・である。
この黒川委員長所感が出されてから丸2年・・・。
日本は「変わり始める第一歩」を踏み出したのか?
日本にカジノを誘致するという安倍首相が、この国の100年先を想い描いていないことだけは確かなようです。
100年先を見る者は、人を育てる。
カジノを誘致して、どのような人間を育てようというのか・・・。
 
著者いわく。
「このままでは50年後、100年後、同じことが日本のどこかで、
いや世界のどこかで起こるのではないかと危惧している」
「朝河博士の思想と行動を基に、日本人の思想的・歴史的側面や、国民性を検証し、歴史始まって以来、最大で最悪の原発事故を起こしてしまったこの国の今後のあるべき姿を、朝河博士が生まれたこの福島の地から、全世界に発信する使命感をもって、この書をしたためる」
一読を、お勧めします!
 
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それにしても、昨日の石原伸晃環境相の発言「最後は金目でしょ」には、
驚きを通り越して笑ってしまいました・・・(悲)。
除染廃棄物を保管する国の中間貯蔵施設建設をめぐる福島県側との交渉について、「最後は、金目」と言い切った石原環境相。
 
施設が建設されれば先祖代々の土地やお墓を手放すことになる・・・。
たくさんの思い出が残る故郷を失い、汚されるということは、自分自身の一部を
「失い」「汚される」ことと同じことなんです。
その喪失感は、本来お金では償えないものだという「最初の認識」が欠けていると思います。
 
そして、それはおそらく、石原環境相や官僚たち限定の、霞ヶ関症候群ともいうべき
高所傲慢病が・・・・・というよりも、「放射性廃棄物は、帰還困難区域に返せ!」と
当たり前のような顔で叫ぶ脱原発派の人たちをも含めた日本人一般の、非当事者意識でもあるのかなと思ったりします。
 
「安全だと言うのなら、田舎ではなく東京に原発を作ればいい」
「今まで電気の恩恵を受けてきた都会の皆さんが、廃棄物のリスクくらい
背負って頂きたい」
一人ひとりが、今までの自分の行いを省みること。
逃げずに、責任を取ること。
「100年前からの警告」を読んで、少しは考えて頂きたいものです。
 
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前回ご紹介した精神科医・加藤清先生の対談集「この世と あの世の風通し」の最後のところで、加藤先生がターミナルケアと夢について、ちょっと気になるお話をされていました。一部抜粋します。
 
「医者といえども、本当に癒しということを言うには、魂と心と体を深く考えていなければいけない。・・・ターミナルケアに一番必要なのは、治療者が本当に落ち着くということ
魂や死後の世界ということは、あまり強調しなくてもいい。自分が深く深く落ち着いた状態で死にゆく人に向かえばいいんです。そうすると、人間というのはどこかで互いに落ち着いていくことを求め合っているから、相手も安心する。・・・ただそばにいて、自分が本当に落ち着けばいい。それが本当のターミナルケアだ」と。
 
エリザベス・キュブラー・ロス医師が、あるチベット人の僧に、
「私は瞑想は嫌いだから、やらない」と話したところ、
その僧は、
「死にゆく人のそばに長時間座っていることは、高度の瞑想です」
と答えたのだそうです。
 
「落ち着くこと」は、人間のビーイング(在り方)が問われることですね。
 
そして、最後は、夢の話でした。
セラピストとクライアントが、夢の共有体験で、癒しの糸をたぐり寄せる・・・と。
 
「共有体験の後に、今度は逆にクライアントが遠いところに行ってしまう・・・夢がそのような状況を示すようになると、あえて追いかけないで、もっと遠いところへ行くままにしておく。
今までは一緒に湖の中で泳いでいたけれども、今は互いに離れている。・・・この様な状況で、今度は患者が夢を見る。山が2つあって、真ん中に川が流れている。川に舟がゆっくり浮いて、海のほうへ流れていく・・・と。海というのは「生む」ところであると同時に「帰る」ところである。・・・夢についていろいろ語り合いつつ、一年も二年もかけて癒しの糸をたぐっていくのです」
 
「僕にとっての発見は、相手にとっての体験です。
 そういうことができるためには、僕自身の存在が問われるわけです。
 ちょうど鎖のようにより合い、在り合って、重なっていく。
 断ち切れている連続を、何度もたぐっていく。
・・・今、ふと思いついたことですが、このように話すことが僕の青春なんです」
 
これらは、15年前に語られた内容なのですが、震災後の私達へのメッセージのようにも思えて、とても不思議な感覚にとらわれました。
 
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今回ご紹介する「心理療法の彼岸」という本の中に、
加藤清医師の「青春」と「沖縄」に関する記述があり、私は深く心をうたれました。
 
加藤先生が患者さんと向き合う中で「自分自身の中の断ち切られたもの」を必死に紡ごうとしておられたこと。
セジ(霊位)の高い患者さんに教えられることも多かったこと・・・を、
初めて知りました。
 
加藤先生が京都大学の医学生だった1943年、医学部や文化系の学生は全部、学徒出陣したそうです。
医学部の学生は、大学在学のまま海軍軍医学校に入り、大学卒業と同時に
海軍軍医となりました。
そして、1945年3月に、加藤先生の医学部の友人が、那覇沖で戦死・・・・。
 
1994年、その沖縄に、加藤先生が愛弟子の皆さんと訪れた時、むかい入れた現地の臨床心理士、崎原林子さんが、「ニラーハラー(ニライカナイ)の旅人達」と題して貴重なお話を書いてくださっています。
 
「1994年の8月に、初めて沖縄研究のメンバーが精神科医『加藤清』を筆頭に大挙して来沖してくることを知ったのは、父の死の直後でした。正直言って、この人たちも、いつもの物見遊山の普段は考えもしない沖縄に対するちっぽけな罪悪感に駆られて、ついでに遊びがてら慰霊碑にでも手を合わせに来る人たちなのかなと思いました。」
あの残酷な戦いの後、人々がどのように復活してきたのか。
それは長い歴史による知恵なのか、それとも自然のもつ不思議な神秘的な、自ずと美に向かう指向性によるものなのか。この16年間、加藤先生に導かれ、そして加藤先生からも独立してきた沖縄研究のメンバーの人々とともに、沖縄の拝所や自然の森や、美しい海に遊んだ記憶とともに一緒に歩いてきた私です・・・・・」
 
「先生の持つ戦友に対する罪悪感。それがゆえの沖縄研究。
将校でありながら生き延びてしまった心の深い闇・・・私には、加藤先生が、戦後の精神科医としての生きざまが戦争を無意識の隅に追いやっていたとしても、命について深く探求する姿勢を生み出す原動力だったとともに、生きてしまった罪の意識との何年もの戦いをなされてきた方のように思えました」
 
大宜見村根路銘の神人(カミンチュ)、玉城安子さんとの交流と、海神祭
「ウンジャミ」でのある出来事については、また次回に!
 
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事の始まりは、4/6母の命日の夜に、なぜか突然「この世と あの世」と
心の中で繰り返す自分がいて、なんだろうと書棚を見たら・・・。
精神科医・加藤清先生の著書「この世と あの世の風通し」と目が合って
しまいました(笑)
震災後は、時々気になっていた本ではあったのですが・・・。
実に15年ぶりに、表紙を開けました。
1998年12月20日第一刷発行とあります。
当時、長男は15才。三男は、まだ幼稚園でした。
 
あの頃、神戸の須磨の少年事件などがありました。
同じ年頃の息子を知る手がかりを求めて、ちょっと不安な思いで本を買い
求めた記憶があります。
子ども達の「リアリティとバーチャルリアリティ」に起因する「切る」と
いう行為の分析とか・・・加藤先生の文章に、赤線がいっぱい引いてあります。
当時は、若かった・・・(笑)
 
ところが今、震災を体験した50代の私がこの本を読むと・・・、
おそらく当時は読み飛ばしていたかもしれない箇所で、ヒリヒリとした心の 痛みを感じるのです。
 
たとえば、加藤先生が、旭川の純粋のアイヌの方々と交流した時の記述。
アイヌの杉村京子さんが「シャモ(日本人)が憎い!」と絶叫したそうです。
 
明治以来、アイヌの文化を根こそぎにした日本人。
そればかりか、有名な学者がアイヌの村に来て、人々に伝統の歌を歌わせ、
いろいろな昔語りを全部テープに録って、帰ってから本を出版した・・・。
福島でも同じ様なことがありました・・・・・。
 
テープを返してくれと頼んでも、返してくれない。
それで「シャモが憎い」と・・・。
それを聞いて、加藤先生はものすごい罪の意識と恥ずかしさを感じた。
 
そして、こんなことも書かれています。
日本人がフィリピンに進出して、山の木を伐採して向こうの山をはげ山にした。
世界で生産される木材の50%は、全部日本に向かって来ている・・・
日本人にディープ・エコロジカル・エンカウンターというセンスが無いことによって、・・・特に日本の商社はそういうことを自動的にやってしまう。
それは日本の非常に深いカルマになって、今後、日本人は相当苦しい状況に置かれるのではないでしょうか。ひょっとしたら日本人が世界を滅ぼすことにもなりかねない、アメリカと共同して。」
 
15年前に、このような予言的な見解を記していた加藤清先生は、昨年2013年に他界されていました。(昨年は、河合隼雄先生の七回忌の年でもありました)

そして「心理療法の彼岸」という先生の卒寿記念論文集が2012年に出版されていることをネットで知りました。
また、2006年には「風土臨床」という本も編まれていました。
 
早速、2冊をアマゾンで取り寄せて、ビックリ!
本を編集された青木真理さんという加藤先生の愛弟子は、なんと・・・
福島大学総合教育研究センターの教授で、現在、不登校専門の臨床心理士のお仕事をされている方でした。
 
加藤清先生が、愛弟子たちと「心理療法の新しい地平をめざして」向かった先は・・・
なぜ、沖縄だったのか?
そのあたりは、次回に!
 
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吾妻小富士の「種まきウサギ」がハッキリと見えてきました。
 
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今日は、稲の育苗前の「種もみ播種作業」をしました。
丈夫な苗が育ちますように!
 
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1年先を見る者は、花を植える。
10年先を考える者は、木を植える。
100
年先を想う者は、人を育てる。
 
会津藩士・山本覚馬は、100年先を想う心眼の人でした。
失明、脊髄損傷という二重の障害がありながら、京都府顧問、京都府会の
初代議長として古都の復興に尽くし、新島襄と共に同志社を興した山本覚馬。
NHK大河「八重の桜」のドラマ終盤のストーリーと現在の日本の状況が、妙にシンクロしていて覚馬さんからメッセージが来ているのかな〜とも感じています。
 
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先週は、検査で入院中の母の病室のテレビで、秘密保護法案の攻防をチェックしながら、覚馬の伝記を読んでいました。
1892年12月28日。
山本覚馬が64歳で息をひきとる間際、妹の八重に遺した言葉が記されていました。

「なあ、八重。人間は苦しみと友だちになって、はじめて心を深くしていけるのかも
しれないね。私は、目が見えなくなったおかげで、ありがたいことに、一度きりの
人生を二倍にも三倍にも生きたように思うよ・・・」
 
また、死の前年、同志社の卒業式で、覚馬は壇上から、卒業生に向かって不戦を
訴えていました。
 
「戦が不幸しかもたらさないことを私は誰よりもよく知っているつもりです。
もしも不幸にしてそういう日がやってきたら、どうか戦で盲目になった私のことを
思い起こしてほしい。そして、聖書のつぎの言葉を胸に思い浮かべていただきたいのです。
聖書には、こう述べられている。
・・・その剣をうちかえして鋤となし、その槍をうちかえして鎌となし、国は国に向かいて剣をあげず、戦闘のことをふたたびなさざるべし・・」と。
 
この演説は、日清戦争の3年前、1891年6月のものです。
富国強兵を推し進める日本の行き着く先を、覚馬は感じ取っていました。
 
故郷(国)を失う痛みは、福島(会津)が一番よく知っている・・・。
痛みを知らない安倍首相の暴走を、なんとしても止めたいですね。
来年の、福島県知事選で、福島県民の怒りを示していきたいです。
 
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     ☆眠りから覚めた「福まろ」君です!
 
ドラマ「八重の桜」を観て、八重のお兄さんの名前を初めて知ったという方も
多いのではないでしょうか。
覚馬が17歳の時、八重が生まれています。

会津藩の砲術指南の家の長男として生まれた覚馬。
江戸遊学中に、佐久間象山や勝海舟らに洋式砲術を学び、帰郷後は、会津日新館の先生をしていましたが、情勢は風雲急を告げます。
 
1862年、34歳の時、京都守護職となった藩主に従い、京都へ。
1864年、池田屋事件(6/5)、佐久間象山暗殺(7/11)、禁門の変(7/19)へと続く戦火の中で、目を負傷し、失明に至りました。
千年の都、京の町は、三日三晩、火の海と化して、町の3分の1を焼失。
およそ20万人が住む家を失い、町の中には逃げ遅れた町人の焼死体が流木のように・・・。
 
この体験が、覚馬の不戦の誓い、古都再生の決意につながったといわれています。
「多くの町人の命を奪い、家屋敷を焼いた罪が、この失明なのだ。
 このことを片時も忘れること無く、これからの命を生きねばならない」(覚馬)
 
1868年1月、鳥羽伏見の戦いの中で薩摩藩に捕らえられ、幽閉される覚馬。
この戦いで、19歳の弟・三郎が戦死しました。
 
江戸で戦うと宣言し、大阪城を後にして江戸へ逃げた徳川慶喜は、
同行した会津藩主・松平容保の登城を禁じ、自らは江戸城を出て上野寛永寺に
自主謹慎・・・。
 
一方、薩摩藩に幽閉された山本覚馬は、獄中で建白書「管見」を作成していました。
新しい国づくりの設計書です。
両眼を開いても、もう人の顔すら見分けることのできない覚馬でしたので、
管見は口述筆記で書き記されました。
 
そこには、三権分立の思想や、教育制度の確立(女子教育も!)、税負担の平均化、職業選択の自由など、先見性のある意見が多く織り込まれていました。
 
1870年、京都の復興を指揮するリーダーとして、管見を書いた覚馬に白羽の矢が
立てられ、京都府顧問に登用されました。
覚馬は、伏見製作所・梅津製紙場・養蚕場・染織殿・製皮場などの殖産興業策を
推進していきますが、これらの施策に共通する特徴は、必ず人材養成の研修場が併設されていたことでした。
やはり彼は、100年先を見ていた人だったようです。
 
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新島襄との出会いは、1875年。
新島は1864年、21歳の時にアメリカへ密出国して、1874年に帰国していました。
密出国して、捕まる人(吉田松陰など)と、成功する人がいたんですね。
新島は、裕福な船主夫妻の支援で、大学まで出してもらったそうです。
人生って不思議ですね。
日本にキリスト教主義の大学を創るという志を胸に、京都へやって来た新島でしたが・・・。
仏教の中心地、京都には3500の寺院と8000人の僧侶。
2500の神社には神官もいます。
そんな京都に、キリスト教の学校を創るなど、まさに命がけの志事でした。
「神に捧げた身ですから、身の危険は少しも恐れてはいません」と新島。
そんな新島が説くキリスト教に、覚馬が共感し、京都に同志社が根づいていったのはなぜでしょう?
この辺りの詳細は、本を読んでいただければ・・・と思います(笑)
 
京都って、本質的に秦河勝の時代から、キリスト教の源流が息づいている土地なのかもしれませんね。
福島出身の朝河貫一先生の紹介記事も合わせてご覧ください。

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