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東北地方は梅雨入りした後、あまり雨が降りませんでしたが、今日あたりから
ようやく降ってくれそうですね。
日曜日の夕方6時。
いわき市から福島市へ向かう、高速バスの中です。 いわき駅前から乗車して、一番後ろの座席にいた私の隣に、汗まみれのユニ フォームを着た野球少年2名が、「偶然」座りました。
坊主頭の野球小僧です。 実は、バスの待ち時間に、イタリアと日本の素敵なお坊さんの本を読んでいたので、
とても偶然とは思えない私です(笑) その本の中で、臨床心理学者の河合隼雄さんが「祈りは大切です」と仰っていました。 その言葉に触れた時、私は、中学時代不登校だった息子がS学院の野球部に 入部して、朝6時に弁当を持って家を出たあと、送り出した玄関先で毎日、祈っていたことを思い出しました。
その当時の記事は、こちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/fukushima_apple/8222773.html ☆3時のバスに乗り遅れ、6時までの待ち時間に読んでいた本です☆
それにしても、懐かしい「感謝・不動心」のユニフォーム!
まさに、そのS学院野球部のユニフォームです。 私の目の前に突然、撮してと言わんばかりに・・・なんでかな〜。
バスに乗り遅れたからこそ、出会うことができました(笑)
少年の話では、このユニフォームは、甲子園に出場したS学院野球部のキャプテンM君から譲り受けたということです。
少年たちは、福島市の中学生なのですが、レベルの高い「いわき市の野球チーム」に所属していて、毎週末、高速バスで練習に通っているんだそうです。片道2時間かけて! 心の中では、甲子園でプレーする自分の姿をしっかりとイメージしているのでしょう。 13歳の少年の熱い志が、後ろ姿から伝わってきました。 さて、河合隼雄さんが、「明恵(みょうえ)夢を生きる」という著書の冒頭で、明恵上人の歌を紹介しています。
ながきよの 夢をゆめぞとしる君や さめて迷へる人をたすけむ
(明恵上人歌集)
明恵さんは、震災の後、なぜかずっと気になっていました。
河合隼雄さんは、湯川秀樹氏と梅原猛氏から、明恵上人の研究を勧められたといいますから、日本の霊統のかなり深いところに位置する方なのかなと思います。
思いがけず5月に参加した、白水阿弥陀堂の慰霊法要で、参列者に配布された それで、これはもう何らかのメッセージが来ていると感じまして、本棚から河合隼雄さんの本を取り出して読み進むうち、明恵さんが聖フランチェスコともつながり、
まさに今、福島で読むべき心の処方箋のような本だと確信するに至りました。
「聖地アッシジの対話」という本は、河合隼雄さん(2007年逝去)とヨゼフ・ピタウ
大司教の対談を基にまとめられたものです。
平和のために今、何が必要なのか・・・宗教間対話の象徴的都市アッシジから、 お二人が力強く発信しておられます。
河合隼雄さんが、はじめに重要な問題提起をしていました。
「日本人は西洋近代に生まれた個人主義を取り入れようとしているが、倫理観を 抜きにした個人主義は、利己主義になるおそれがある。この問題は、日本人が
よほど真剣に考えねばならないことである」
「ふつうの人は、祈っても何も起こらない、しかしお金があれば何かできると考えている。その時に、祈りというものがありますよ、それが大切ですよとちゃんと伝えることは、すごく大切だと私は思います」
日本を代表する心の専門家が、祈りには力があると力説しています!
また、ヨゼフ大司教が、罪を認めること、許すことについても語りました。
「自国の力を拡げるために、キリスト教を使って、宗教と軍事力を一緒にして進出し、アフリカでは、カトリックもプロテスタントもそこの人達を奴隷として連れて行き、奴隷は非人間的に扱われました。
アフリカ、そしてアジアの国にどのように償うか・・・その罪を認めて償うということがなければ、新しい出発はありません」 現代社会が忘れてしまった「祈り」「許し」「貧しさ」の意味を語り合う対談の中で、
日本の明恵上人とイタリアの聖フランチェスコの生き方が紹介されています。
まず、明恵上人。
1173年、平家の全盛期に、武士(平家)の家に生まれました。 (この年、親鸞も生まれています) 1180年、戦乱の中で父が戦死。同年、母も病死した明恵は、8歳にして天涯孤独の身に・・・。 1185年、壇ノ浦で平家が滅亡した時、明恵は13歳でした。 西日本は大凶作で餓死する人が相次ぎ、鴨長明「方丈記」によれば、京都の道端には飢え死んだ人々が数万人も放置されたままであったという・・・仏教でいう「無常」ということが、全ての人に実感をもって迫っていた時代でした。
東日本大震災を体験した私達も、まさに明恵の時代を生きていますね。 その頃、思想界では、法然、親鸞、道元、日蓮、一遍という名僧たちが新しい思想をもって活躍。
明恵は、16歳で出家するも、23歳で寺を出て紀州栖原の白上の峰に引きこもり、様々な奇蹟を体験します。 19歳から書き始めた自らの「夢記」は、60歳で亡くなるまで記録されました。 一方、アッシジのフランチェスコは、裕福な商家の跡取り息子として、1182年に
生まれました。
70年代に「ブラザー・サン シスター・ムーン」という映画にもなりましたね。 20歳の時、アッシジとペルージャの戦争に従軍しますが、失意と虚しさの中で帰郷。 ハンセン病患者との出会いと、十字架から呼びかけるキリストの声に導かれて、 荒れ果てた教会の修復を始めます。
一枚の粗末な服を縄帯でしめて、素足で物乞いするフランチェスコ。 ヨハネによる福音書15章には「人が私につながれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあります。 そして「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とも。 貧しいフランチェスコは、それゆえに謙虚に助けあって、神を求め賛美し、豊かに 実を結びました。
今、私たちの身のまわりには、様々な困難が押し寄せています。
何十万人のデモや抗議があっても、世の中が変わらない・・・。 その原因を、社会の上層部の腐敗や怠慢の問題として情勢分析することもできます。 が、果たしてそれだけなのでしょうか? 花は咲いても、実にならない・・・そんな渇いた国にこそ、新たな明恵やフランチェスコが生まれてくるのかもしれませんね。 ※河合隼雄さんの本「明恵 夢を生きる」の中に、セノイ族の興味深いお話が
紹介されています。セノイ族は夢を大切にし、朝食の時間に、年長者が幼少の者達が語る昨夜の夢に耳を傾けるそうです。そのような「夢体験」の蓄積によって、人々は心の健康を保ち、警察・監獄・精神病院の類を一切必要としない「平和」を実現したのだとか・・・・・。
一読をお勧めします。
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本の森
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5/27のNHK「プロフェッショナル」で、染織家の志村ふくみさんが紹介されて
いました。 今年4/16、京都に染織学校を開校した志村さん。 88歳の人間国宝です。 志村さんの著書「語りかける花」と出会ったのは、20年前。
ちょうど三男を出産した頃で、授乳の合間に読んでいました。 久しぶりに本棚から取り出して読み始めたら止まらなくなりまして、 雨の日の午後、一気に読みました。 晴耕雨読なので、本当に雨が待ち遠しいです(笑) この本は、当時シュタイナーのオイリュトミーを学んでいた知人から紹介され購入
したのでした。
染織の本として興味深く読んだ記憶がありますが、改めて今、読み返してみますと、 「死と再生」「日本の霊性」に関する志村さんの深い思想や、危機感が底流にあるのだと感じました。 そして、一つの瓶から他の瓶に水を注ぎうつすように、志村さんが、深い水脈から
汲み上げた大切な「水」を私たちに伝えようとしているのだということも感じました。
その「瀉瓶」(しゃびょう)という言葉を、この本で初めて知りました。 「朝あけに咲く」という最初のエッセーには、
わずか四日の命を咲き切って散る、蓮への思いが綴られています。 そして、続くエッセーの中で、他界した実母や兄、養母、心友の思い出などが語られていきます。 20年を経て、やっと志村さんの本が、私の中で「開かれた」という気がしました。 「突然、幕が下ろされ、白日の下にその人をみることのなくなったその時から、
実は本当にその人をみるのだった。空洞が日ましに深く、その人とのかかわり合いの深さを身に刻んでゆく。・・・」
番組でも紹介されていた志村さんの兄、小野元衛さんは、仏画を遺して29歳で
逝った画家でした。
その「童顔如来」と名付けられた仏画の映像を見ていて、どこかで見たような・・・と記憶を辿っていましたら、思いだしました! こちらの本の表紙でした。 この本の著者、津名道代さんが、改訂版あとがきに「故小野元衛氏ご遺族との思いがけぬ出会い」という一文を書いていました。
その内容が、とても不思議なので、ちょっと紹介いたします。 「初版を小野氏のご遺作で飾れたのは、東京の私の知人のご友人が、たまたま幾人かのご縁を経て入手し、大切に秘蔵しておられたのを、お貸しくださったゆえであった。小野氏は近江のご出身らしい・・・とのみで、ご遺族については、当時、全く手がかりがつかめなかった。昭和58年、私は京都にでかけた折、夕方、とある喫茶店に入った。卓上に京都新聞夕刊が無造作に開かれていて、ある記事の見出しが私の目に飛び込んできた。『早逝の画家・小野元衛さんの遺作展〜没後37年、初めて』翌日、私は、三条河原町の展覧会場に
駆けつけた。控え室で初めてお会いした御令妹、志村ふくみさんとの奇しき
出会いであった」
人間は、機が熟した時に、出会うべき人と、必ず出会うようになっているようですね!
津名さんの本は、また別の機会に紹介したいと思っています。 生まれてすぐ養女に出された志村さんは、18歳の時、初めて実の両親と兄を知ったのだそうです。 その後、発病したお兄さんの看病をしながら芸術の感化を受け、実母からは染織の手ほどきを受けました。 離婚後、自立のために染織の修行を始めた頃は、夢中で火の中を駆け抜けるような日々だったようです。 「人生には、何度かそこを通過せずには先へ行けない関門がある。竹の節のようなものだ。苦しいからといってそこを避けては通れない・・・私も、かつて、そんなところを通った経験がある。両側に火が燃え、後ろにも火・・・両方の翼に子どもを抱えて一気にそこをかけ抜けた。私はそこで多くのものを捨てた。そこを突き抜けた時、仕事を得た」
「琵琶湖は私にとって、父や兄達の終焉の地であり、若かった自分が傷つき、世間に背をむけてたどりついた水辺であり、仕事に打ち込むことによって蘇った場所でもあった。湖は京都の影にあって、ひっそり歴史をうつしてきた古い鏡のように思われ、私は四季折々に移り変わる微妙な湖の表情を織物にあらわしてみたいと久しい間願ってきた」
番組では、志村さんが藍瓶で「雨過天晴」の色といわれる瓶覗(かめのぞき)を染め上げる工程を紹介していました。
雨上がりの空の、透き通るような水色・・・2ヶ月にわたる藍の発酵過程の最後に
現れる色なんだそうです。志村さんは、未だ、その思い描く色を手にすることができないでいる、とおっしゃっていました。
人と人との出会いのように、人と色の出会いもまた、人智を超えたものなのかもしれませんね。 花の咲く前の桜(樹皮)を染めれば、美しい桜色がでると思っていた志村さんでしたが、ある時打ちのめされました。
群馬県の藤原中学校の子ども達と染めた山桜は、濃い黄色でした。 千の桜には、千の色があるようです。 「古来、我々の先祖はすべての草木に霊があると考え、強い木霊の宿る草木は薬草として用いられた。
薬草に宿る霊能によって、病が癒され、その薬草から色彩をとり出して、布に染め、身にまとって保護したのである・・・一色一色の色のもつ意義は深く、 それを尊んだ・・・ある時期から、ふと、ふしぎな木の声を
きくようになった・・・正に『植物は物語る』のである」 「人それぞれが違うように、人の眼に、心に映る色は、その人のものである。
古代から日本には、表現を超えたかと思われる達意の色名がある。秘色も
そうだが、滅紫(けしむらさき)、青鈍(あおにび)、真朱(まそお)麹塵(きくじん)・・・色なき色をみる、日本人の感性とは、どこから生まれてくるのであろうか」
最後に、志村さんが沖縄で作品展を開いた時のこと。
石垣島で織をする女性が「織物の中に、必ず一ヶ所、魂の抜け道をのこして おくのです」と話したそうです。
すべて自分がしている仕事ではない。 神様にゆだねる部分を、魂の抜け道としてのこしておく・・・ということです。 「それとよく似ているのは、ナヴァホのインディアンは、美しいブランケットの
一隅の小さい三角を織らずにのこしておく。最後の仕上げは神様にしていただくというのである。自主性とか個性とかの向こう側に、もう一度これらの言葉を浮かび上がらせて、新しい仕事の方向性を私は考えてみたいと思ったのである」
20年前に、この一文に感動して、友人たちに紹介したことがありました。
でも、今思えば、観念的な理解に留まっていたと思います。 あれから、元気だった両親が徐々に老いて障がいのある身となり、その介護や看取りの過程で、この世界には間違いなく人間のコントロールを超えたものが働いていると確信しました。
その実感の中で、再び志村さんの「語りかける花」を読ませていただき、 「アリがタイなら、芋虫ゃ、くじら」です!・・・・本文から拝借しました(笑) 志村さんを、福島にお招きできないかな〜などと夢想しております。
ご活躍を心からお祈りいたします。 |




