東京小平市から岡山県岡山市に「移住」した三田茂医師(内科小児科)の見解①「被曝が関係あるかはよくわからない。ただ、皮膚炎が多かったり治りにくいのは明らか」増える岡山への移住相談…現状は? (2014年5月15日 KSB瀬戸内海放送)
岡山で増える移住についてです。東日本大震災以降、岡山市では県外からの移住相談が増えています。これを機に、市では移住を促進しようと政令市として初めて官民連携の協議会を設けるなど移住支援に力を入れています。震災から3年が経った今、増える移住希望者に必要な支援とは何か?ある母子を中心に移住相談の現状を取材しました。
東京小平市から岡山県岡山市に「移住」した三田茂医師(内科小児科)の見解②「東京やその近郊の健康に見える子どもの好中球が減少している。 それは西日本などへ移住や保養をすると改善している。子どもだけでなく、大人も東日本で被曝した人は血液検査が必要」 「避難をするかしないかどうこう言えないし、避難しない人をもう知らないとは言わないが、少なくとも子どもの保養は必要」20140214 UPLAN 三田茂医師「関東の子どもたちの異常について
(医師講演・被ばく連続額集会)
東京小平市から岡山県岡山市に「移住」した三田茂医師(内科小児科)の見解③「報道ステーションの甲状腺報道が話題になったが、自分も取材を受けたので『福島県のことばかりを言っている場合でない』『東京も危ない。特に東葛地域は福島県と差はない』『(自分の)名前も顔も出していい』と答えた。放送前、担当ディレクターに『上層部と相談をしたが、やっぱりあれは番組にできない』と言われた」2014・3・22 三田茂医師講演会in品川2/5
東京は、もはや人が住む場所ではない」東京から岡山に移住した日本人医師の発言が海外で話題に (2014年7月25日 Excite) 昨年の富士山の世界遺産登録や東京五輪決定のニュースは、2011年の東日本大震災が残したあまりにも大きすぎる課題に苦慮する日本社会の懸念を、一時期完全に拭い去ったかのような明るいムードをもたらした。
しかし現在、この瞬間にも福島第一原子力発電所事故の収束、廃炉に向けた作業が続けられていることも厳然たる事実であり、その終結が遥か先のように思えるのも否めないだろう。また、今年5月には「ビッグコミックスピリッツ」の人気連載漫画『美味しんぼ』の登場人物が劇中で原発事故後の福島県を取材し、その滞在の間に"鼻血"を流す描写(4月28日発売号掲載『美味しんぼ 604話』)が問題になり大きな議論を巻き起こした。
今なお決して無視することができない原発事故の数々の影響が指摘される中、これまで東京で医療に従事していた1人の医師がこの春、岡山県に移り住み医院を再開した。医師の主張は「できれば東日本から移住していただきたい」というショッキングなメッセージである。
【その他の画像はこちらから→http://tocana.jp/2014/07/post_4493.html】
■東京は、もはや住み続ける場所ではない 東京都・小平市で父親の代から50年以上にもわたって地元の人々の医療に貢献してきた「三田医院」の三田茂院長は、今年3月にいったん小平市の医院を閉じ、4月に移住先の岡山県・岡山市で医院を開業して医療活動を再開した。
この三田医師の決断は海外でも報じられ、北米を拠点にした情報サイト「VICE」や、エネルギー関連情報サイト「ENENews」などが、三田医師の主張を英語で紹介している。
「ENENews」の記事によれば、三田医師はここ1〜2年の間に東京で劇的に放射能汚染が進行していると語っている。東京の各所で滞留した放射性物質が濃縮されて汚染は進行し、「東京は、もはや住み続ける場所ではない」という衝撃の発言が記されているのだ。特に東京の東部地域は深刻であるという。
「残念なことに、東京都民は被災地を哀れむ立場にはありません。なぜなら、都民も同じく事故の犠牲者なのです。対処できる時間は、もうわずかしか残されていません」(三田医師)
■東京の子供たちの白血球が減少している 三田医師は2011年の原発事故以降、子供たちの血液検査結果を分析してきたということだが、昨年の半ば頃から子供たちの血液中の白血球、特に好中球が著しく減少してきていることを示唆している。白血球、好中球は共に人体の免疫機能を司る重要な血液細胞で、その減少は免疫力の低下を招く。当時の小平の病院を訪れた患者の症状は、鼻血、抜け毛、倦怠感、内出血、血尿、皮膚の炎症などがあり、ぜんそくや鼻炎、リウマチ性多発筋痛を患う患者も明らかに増えたという。
これらの症状を完治させることはできないと三田医師は率直に語る一方、移住や転地療養で実際に多くの患者が回復している事実を強く指摘している。
「VICE」のインタビュー記事によれば、重症だった乳幼児が家族共々九州に引っ越した後に急激に病状が回復したという例や、他にも大阪、京都、四国などに生活を移した患者の症状も確実に改善しつつあることに触れている。
症状を根本的に治すには、東京を含めた東日本から離れることが一番の治療法なのか? そして三田医師本人が、今回の岡山への移住を決断し身をもって東京を離れる重要性を体現しているのだ。
「東京の人々がより安全な場所に移ってくれることを願っています。少なくとも1年のうち1カ月でも2カ月でもいいので東京を離れることを強くお勧めします」(三田医師)
■海外の反応と東日本の将来 「E News」や「VICE」の記事の読者コメント欄には、三田医師の発言についての外国人からの様々な反応が記されている。
「医学的な検証はどうであれ、子供たちのためを考えれば不安を避けて(東京を離れて)暮らすのは当然だろう」と三田医師を支持する意見もあれば、「ばかげている。他の専門家や医師に彼(三田医師)の主張をどう思うか聞いてみたらいい」と反対する意見もある。
また中には「核戦争後の世界を描いた優れたマンガやアニメが多い日本でこんなことになってしまったのは残念だ」という感想や、輸入された日本の食品に懸念を抱いているという書き込みも見られる。昨年末には日本の「和食」が世界無形文化遺産に登録されたものの、皮肉にも日本産の食品の安全性については海外の目も厳しいようだ。
しかしその一方、ここ数年の訪日外国人数は軒並み過去最高を超え、今年6月には群馬県の富岡製糸場が世界遺産に登録されてますます追い風が吹く中、今後もしばらくは訪日外国人数は上昇を続けると見込まれている。この「日本ブーム」は果たして2020年の東京五輪まで続くのだろうか。旅行先を日本に選んだ理由が「将来行けなくなるかも知れないから......」という動機でないことを切に願いたいものである。
(文=仲田しんじ) http://web.archive.org/web/20160101125034/http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201407_post_4493.html
http://web.archive.org/web/20160926172305/http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201407_post_4493.html?_p=2
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Nuclear Speech
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東日本大震災3周年追悼式における天皇陛下のおことば 平成26年3月11日(火)(国立劇場)本日,東日本大震災から3周年を迎え,ここに一同と共に,震災によって失われた人々とその遺族に対し,改めて深く哀悼の意を表します。
3年前の今日,東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は,2万人を超す死者,行方不明者を生じました。今なお多くの被災者が,被災地で,また,避難先で,困難な暮らしを続けています。さらにこの震災により,原子力発電所の事故が発生し,放射能汚染地域の立入りが制限されているため,多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。
この3年間,被災地においては,人々が厳しい状況の中,お互いの 絆 ( きずな ) を大切にしつつ,幾多の困難を乗り越え,復興に向けて懸命に努力を続けてきました。また,国内外の人々がこうした努力を支援するため,引き続き様々な形で尽力していることを心強く思っています。
被災した人々の上には,今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ,どうか希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう,長きにわたって国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。そして,この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。
被災地に1日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い, 御霊 ( みたま ) への追悼の言葉といたします。
Address by His Majesty the Emperor on the Occasion of the Memorial Service to Commemorate the Third Anniversary of the Great East Japan Earthquake (March 11, 2014)As we commemorate the third anniversary of the Great East
Japan Earthquake, together with the people gathered here
today, I would like to again offer my deepest condolences to
those who lost their lives in the disaster and their bereaved
families.
The huge earthquake and tsunami that struck eastern Japan
three years ago today left more than twenty thousand people
dead or missing. Many people are still living under difficult
conditions whether they are in the afflicted regions or in the
places where they evacuated to. The nuclear power plant
accident caused by the disaster is making some regions still off
-limits because of radioactive contamination, forcing many
people to leave the places where they used to live. It pains me
greatly to think that so many people do not yet know when they
can go back to their own homes.
In the past three years, people in the afflicted regions, still
living under severe conditions, have overcome numerous
difficulties with a strong sense of solidarity and made great
efforts towards reconstruction. I am also heartened to see that
many people, both at home and abroad, continue to support
these efforts in various ways.
My thoughts go out to the afflicted people who must still be
experiencing various hardships. In order to ensure that they can
live in good health, and that they can live without losing hope,
it is important that everyone's hearts be with the afflicted for
many years to come. It is my hope that people will never forget
this disaster and hand down the lessons we learned to future
generations, and foster a proper attitude towards disaster
prevention, with the aim of making our country a safer place.
Together with the people gathered here today, I would like to
express my hope that days of peace and quiet will return as
soon as possible to the afflicted regions. In closing, I offer once
again my most sincere condolences to all those who lost their
lives in the Great East Japan Earthquake.
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東日本大震災1周年追悼式における天皇陛下のおことば 平成24年3月11日(日) (国立劇場)東日本大震災から1周年,ここに一同と共に,震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日,思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ,ほぼ2万に及ぶ死者,行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め,危険を顧みず,人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより,危険な区域に住む人々は住み慣れた,そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
この度の大震災に当たっては,国や地方公共団体の関係者や,多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ,被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で,避難者の心を和ませ,未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に,被災者や被災地のために働いてきた人々,また,原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を,深くねぎらいたく思います。
また,諸外国の救助隊を始め,多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも,日本の被災者が厳しい状況の中で互いに 絆 ( きずな ) を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ,被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく,子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
今後,人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い, 御霊 ( みたま ) への追悼の言葉といたします。
Address by His Majesty the Emperor on the Occasion of the Memorial Service to Commemorate the First Anniversary of the Great East Japan Earthquake (March 11, 2012)As we commemorate the first anniversary of the Great East
Japan Earthquake, together with the people gathered here today,
I would like to express my deepest condolences for the many
people who lost their lives in this earthquake.
A year ago today, Japan was struck by an unexpectedly huge
earthquake and tsunami, which resulted in almost twenty thousand
dead and missing persons. We must not forget that this included
many people, including fire fighters, who lost their lives as they
devoted themselves to relief operations and disaster control
without regard for their own safety.
As this earthquake and tsunami caused the nuclear power plant
accident, those living in areas designated as the danger zone lost
their homes and livelihoods and had to leave the places they used
to live. In order for them to live there again safely, we have to
overcome the problem of radioactive contamination, which is a
formidable task.
After the earthquake, many people, including members of the
Government and the local authorities as well as many volunteers,
went to the afflicted areas and carried out various efforts to
support the afflicted people. I am sure their activities helped to
comfort the evacuees living under harsh conditions and
encouraged them to think positively about the future. I would like
to take this opportunity to express my deepest gratitude to the
people who have worked for the afflicted people and afflicted
regions and those who have been trying to contain the damage
from the nuclear power plant accident.
Many people overseas responded to the disaster by sending us
relief teams and offering us help in various ways. In many cables
of sympathy I received from the foreign heads of state, they
commented that they were truly impressed by how, under severe
conditions, the afflicted people were helping each other and
working towards reconstruction with a strong sense of solidarity.
I am deeply grateful to the kindnesses shown by the people around
the world.
It is expected that many difficult challenges lie ahead in the
reconstruction of the afflicted areas. It is my hope that the
people's hearts will always be with the afflicted people and the
afflicted regions, and that everyone will continue to work towards
improving the conditions of those areas. It is important for us to
never forget this disaster and hand down the lessons we learned
to future generations, and foster the proper attitude towards
disaster prevention, with the aim of making our country a safer
place.
In closing, I would like to express my hope that Japan will become
once again a country where people can live with a sense of
security and again offer my sincere condolences for all those who
lost their lives in the Great East Japan Earthquake.
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「非現実的な夢想家として」村上春樹 HARUKI MURAKAMI (2011年6月9日) スペイン カタルーニャ国際賞授賞式スピーチ全文 ただ残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分、日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転がわずかに速くなり、1日が100万分の1.8秒短くなるという規模の地震でした。
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後に襲ってきた津波の残した爪痕はすさまじいものでした。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ遅れ、2万4千人近くがその犠牲となり、そのうちの9千人近くはまだ行方不明のままです。多くの人々はおそらく冷たい海の底に今も沈んでいるのでしょう。それを思うと、もし自分がそういう立場になっていたらと思うと、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せてしまった町や村もいくつかあります。生きる希望をむしり取られてしまった人々も数多くいらっしゃいます。
日本人であるということは、多くの自然災害と一緒に生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になります。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。それから各地で活発な火山活動があります。日本には現在108の活動中の火山があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、4つの巨大なプレートに乗っかるようなかっこうで、危なっかしく位置しています。つまりいわば地震の巣の上で生活を送っているようなものです。
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震は予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これがおしまいではなく、近い将来、必ず大きい地震が襲ってくるだろうと言うことです。この20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの巨大地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは1年後かもしれないし、明日の午後かもしれません。にもかかわらず東京都内だけで1300万の人々が、普通の日々の生活を今も送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで仕事をしています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
どうしてか?とあなたは尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?
日本語には「無常」という言葉があります。この世に生まれたあらゆるものは、やがては消滅し、すべてはとどまることなく形を変え続ける。永遠の安定とか、不変不滅のものなどどこにもない、ということです。これは仏教から来た世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し別の脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても無駄だ、ということにもなります。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になると桜を、夏には蛍を、秋には紅葉を愛でます。それも習慣的に、集団的に、いうなればそうすることが自明のことであるかのように、それらを熱心に観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば人々で混み合い、ホテルの予約をとるのもむずかしくなります。
どうしてでしょう?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。私たちはそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そして、それらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さなひかりを失い、鮮やかな色を奪われていくのを確認し、そのことでむしろほっとするのです。
そのような精神性に、自然災害が影響を及ぼしたかどうか、僕にはわかりません。しかし私たちが次々に押し寄せる自然災害を、ある意味では仕方ないものとして受けとめ、その被害を集団的に克服していくことで生きのびてきたことは確かなところです。あるいはその体験は、私たちの美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けました。普段から地震に馴れているはずの我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ抱いています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて僕はあまり心配してはいません。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は補修できます。
考えてみれば人類はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。ここに住んで下さいと地球に頼まれたわけではありません。少し揺れたからといって、誰に文句を言うこともできない。
ここできょう僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった6基の原子炉のうち3基は、修復されないまま、いまも周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、海に流されています。風がそれを広範囲にばらまきます。
10万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。ペットや家畜もうち捨てられています。そこに住んでいた人々はひょっとしたらもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりでなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなるかもしれません。
どうしてこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因は明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことがあり、安全基準の見直しが求められていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。どうしてかというと何百年に一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するはずの政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節があります。
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族のようです。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させることにはあまり得意じゃあない。そういうところはバルセロナ市民のみなさんとは少し違っているかもしれません。しかし今回ばかりは、さすがの日本国民も真剣に腹を立てると思います。
しかしそれと同時に私たちは、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないはずです。今回の事態は、我々の倫理や規範そのものに深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、私たち日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という2つの都市が、アメリカ軍の爆撃機によって原爆を投下され、20万を超す人命が失われました。そして生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていきました。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものか、私たちはそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。私たちは被害者であると同時に、加害者でもあるということをそれは意味しています。核という圧倒的な力の脅威の前では、私たち全員が被害者ですし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、私たちはすべて加害者でもあります。
今回の福島の原子力発電所の事故は、我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を汚し自らの生活を破壊しているのです。
どうしてそんなことになったのでしょう?戦後長いあいだ日本人が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?私たちが一貫して求めてきた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
答えは簡単です。「効率」です。efficiencyです。
原子炉は効率の良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めてきました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、この地震の多い狭く混み合った日本が、世界で3番目に原子炉の多い国になっていたのです。
まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、私たち日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
私たちはもう一度その言葉を心に刻みこまなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。
「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもないことですが、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
私たち日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の個人的な意見です。
私たちは技術力を総動員し、叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求するべきだったのです。それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、私たちの集合的責任の取り方となったはずです。それはまた我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を私たちは見失ってしまいました。
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは私たち全員の仕事になります。それは素朴で黙々とした、忍耐力を必要とする作業になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなが力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げていかなくてはなりません。それは私たち全員が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人を励ます律動を持つ物語であるはずです。
最初にも述べましたように、私たちは「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きています。大きな自然の力の前では、人は時として無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、そのような危機に満ちたもろい世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も私たちには具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけることは、僕にとって大きな誇りです。私たちは住んでいる場所も離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつ私たちは同じような問題を背負い、同じような喜びや悲しみを抱く、同じ世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られるということも起こります。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることをとても嬉しく思います。
夢を見ることは小説家の仕事です。しかし小説家にとってより大事な仕事は、その夢を人々と分かち合うことです。そのような分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの長い歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、独自の言語と文化をまもってきたことを僕は知っています。私たちのあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、私たちが等しく「非現実的な夢想家」となることができたら、そしてこの世界に共通した新しい価値観を打ち立てていくことができたら、どんなにすばらしいだろうと思います。それこそが近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、ヒューマニティの再生への出発点になるのではないかと僕は考えます。
私たちは夢を見ることを恐れてはなりません。理想を抱くことを恐れてもなりません。そして私たちの足取りを、「便宜」や「効率」といった名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。私たちは力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」になるのです。
最後になりますが、今回の賞金は、全額、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そしてまた先日のロルカの地震で犠牲になった人々に一人の日本人として深い哀悼の意を表したいと思います。 カタルーニャ国際賞授賞式でスピーチする作家の村上春樹さん
=9日、バルセロナ(ロイター=共同) 「非現実的な夢想家として」 カタルーニャ国際賞スピーチ前半
村上春樹 Haruki Murakami
「非現実的な夢想家として」 カタルーニャ国際賞スピーチ後半
村上春樹 Haruki Murakami |
渡辺謙 ダボス会議スピーチ全文 2012年1月25日 スイス 世界経済フォーラム年次総会「ダボス会議」 初めまして、俳優をしております渡辺謙と申します。
まず、昨年の大震災の折に、多くのサポート、メッセージをいただいたこと、本当にありがとうございます。皆さんからの力を私たちの勇気に変えて前に進んで行こうと思っています。
私はさまざまな作品の「役」を通して、これまでいろんな時代を生きて来ました。日本の1000年前の貴族、500年前の武将、そして数々の侍たち。さらには近代の軍人や一般の町人たちも。その時代にはその時代の価値観があり、人々の生き方も変化してきました。役を作るために日本の歴史を学ぶことで、さまざまなことを知りました。ただ、時にはインカ帝国の最後の皇帝アタワルパと言う役もありましたが…。
その中で、私がもっとも好きな時代が明治です。19世紀末の日本。そう、映画「ラストサムライ」の時代です。260年という長きにわたって国を閉じ、外国との接触を避けて来た日本が、国を開いたころの話です。そのころの日本は貧しかった。封建主義が人々を支配し、民主主義などというものは皆目存在しませんでした。人々は圧政や貧困に苦しみ生きていた。私は教科書でそう教わりました。
しかし、当時日本を訪れた外国の宣教師たちが書いた文章にはこう書いてあります。人々はすべからく貧しく、汚れた着物を着、家もみすぼらしい。しかし皆笑顔が絶えず、子供は楽しく走り回り、老人は皆に見守られながら暮らしている。世界中でこんなに幸福に満ちあふれた国は見たことがないと。
それから日本にはさまざまなことが起こりました。長い戦争の果てに、荒れ果てた焦土から新しい日本を築く時代に移りました。
私は「戦後はもう終わった」と叫ばれていたころ、1959年に農村で、教師の次男坊として産まれました。まだ蒸気機関車が走り、学校の後は山や川で遊ぶ暮らしでした。冬は雪に閉じ込められ、決して豊かな暮らしではなかった気がします。しかし私が俳優と言う仕事を始めたころから、今までの三十年あまり、社会は激変しました。携帯電話、インターネット、本当に子供のころのSF小説のような暮らしが当たり前のようにできるようになりました。物質的な豊かさは飽和状態になって来ました。文明は僕たちの想像をも超えてしまったのです。そして映画は飛び出すようにもなってしまったのです。
そんな時代に、私たちは大地震を経験したのです。それまで美しく多くの幸を恵んでくれた海は、多くの命を飲み込み、生活のすべてを流し去ってしまいました。電気は途絶え、携帯電話やインターネットもつながらず、人は行き場を失いました。そこに何が残っていたか。何も持たない人間でした。しかし人が人を救い、支え、寄り添う行為がありました。それはどんな世代や職業や地位の違いも必要なかったのです。それは私たちが持っていた「絆」という文化だったのです。
「絆」、漢字では半分の糸と書きます。半分の糸がどこかの誰かとつながっているという意味です。困っている人がいれば助ける。おなかがすいている人がいれば分け合う。人として当たり前の行為です。そこにはそれまでの歴史や国境すら存在しませんでした。多くの外国から支援者がやって来てくれました。絆は世界ともつながっていたのです。人と人が運命的で強く、でもさりげなくつながって行く「絆」は、すべてが流されてしまった荒野に残された光だったのです。
いま日本は、少しずつ震災や津波の傷を癒やし、その「絆」を頼りに前進しようともがいています。
国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。
私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。
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