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福貴野の滝は西椎屋の滝、東椎屋の滝とともに
「宇佐の三滝」と言われている名瀑です。
高さ60mで、三滝の中では高さが一番低いのですが、
横幅は一番広く、水量も多いので迫力では負けてはいません。
滝の裏側に回れることから、「裏見の滝」とも言われています。
福貴野の滝は滝壺側と展望台側から見られます。
写真は展望台側です
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安心院
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鏝絵(こてえ)はコテと漆喰を使って作られたレリーフです。
安心院に行くと、
古い民家の壁などに飾られています。
鏝絵はもともとは
金持ちの家などに飾られる贅沢品でしたが、 明治になって庶民の間でもブームになり
盛んに制作されるようになりました。
現存する鏝絵は全国で3000か所、
そのうち大分県内では1000か所、
安心院町内には100か所が残されています。
安心院に鏝絵が多いのは
腕の良い左官が多くいたのと、
安心院が交通の要衝で、
裕福な家庭が多かったためと言われています。
他県の鏝絵は精巧なものが多いですが、
安心院の鏝絵はユーモラスな物が多いです。
重松邸、市指定史跡
虎・龍・富士・松の鏝絵が飾られた
安心院を代表する建物
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安心院にある重松邸
明治期に作られた建築、市指定史跡。
虎、富士山、龍、松の「鏝絵」の施された
安心院を代表する建築物です。
鏝絵(こてえ)はその名の通り、 鏝(こて)と漆喰を使って作られたレリーフです。
家の戸袋や壁、土蔵などに描かれています。
安心院に行くと、古い民家の壁などに
鏝絵が飾られています。 鏝絵は、施主が左官さんに依頼して作ってもらう場合と、
左官さんが新築祝にプレゼントする場合がありました。
安心院では明治初頭から盛んに制作され、
今でも70数ケ所で見ることができます。
宇佐市にある大分県立歴史博物館には
代表的な鏝絵のレプリカが展示されています。
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安心院の妻垣神社で24日25日、
創建1250年式年大祭が行われました。
妻垣神社は765年創建
御祭神は比売大神、八幡大神、神功皇后
式年大祭を迎えるにあたり、
本殿、申殿の改修、社務所の新築が行われました。
24日は奉祝際があり
宮司が祝詞を読み上げ、巫女が「豊栄の舞」を奉納
参列者代表が玉串をささげました。
25日は奉祝行事があり
麻生神楽や和太鼓の演奏が奉納されました。
さてこの「妻垣神社」 どこの町でもあるような小さな神社ですが、
大変由緒のある神社で古代史研究家の間で
一大論争を起こしたことがある神社です。
妻垣神社の入口には「足一騰宮・妻垣神社」 と記された大きな案内標柱が建っています。
「足一騰宮」は(あしひとつあがりのみや)と読みます。
このことは日本書紀に記されています。
日向(宮崎県)から大和を目指して 東征の旅に出た神武天皇は宇佐に立ち寄り、
その時この一帯を治めていた
菟狭津彦と菟狭津媛の兄妹が
「足一騰宮」を造って神武天皇をお迎えしたとあります。
その「足一騰宮」があったのが
妻垣神社の地という伝承が残されています。
そのため「妻垣神社」は高い格式を持っています。
さてここで、興味深い話があります。 前述した神武天皇は宮崎の出身者で、
日本を統一するため大和を目指して旅に出るのですが
その随伴者の中に「豊受けの神」という名があります。
「豊受けの神」は一般的には、 天照大神に食事を奉げる神といわれています。
そのため天照大神を祀る神社には、
必ず豊受けの神も祀られています。
天照大神と豊受けの神の正体については、 古代史研究家の間で論争の的になっていますが、
よく言われているのが、
天照大神とは魏志倭人伝に登場する
邪馬台国の初代女王「卑弥呼」
豊受けの神とは卑弥呼の後継者で、
2代目女王「台与」という説です。
卑弥呼の時代、邪馬台国は福岡の筑後川流域に、 台与の時代、邪馬台国は豊後宇佐に
あったと主張する研究者もいます。
神武東征軍の中に「豊受けの神」の名があるということは、 宇佐邪馬台国の2代目女王「台与」は
神武東征軍に加わり大和まで共に旅をし、
神武とともに大和朝廷を立ち上げたのかもしれません。
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楢本磨崖仏は安心院の中心地から南東に約4キロ程行った
楢本地区にあります。
不動明王像、如来像、菩薩像、十二神将像など
全部で45体の仏像が崖に刻まれています。
不動明王横に応永35年(1428)の銘があるので、
室町時代の作であることが確認されています。
楢本磨崖仏は彫り込みが浅いので、少し離れて見ると
たんなる崖にしか見えませんが、
近寄ってよく見ると、
多くの仏像が刻まれていることが分かります。
なかなか味のある磨崖仏です。
崖にはたくさんの亀裂が生じ、崩壊の危機にありますが、
それがまた「荒廃の美」を醸し出していていい感じです。
県指定文化財です。
参考資料 立て看板
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