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昨日さるSNS経由でメッセージが来ました。
内容はよくありがちな「お友達になりましょう。」でしたが、題名に「○○野に住んでるなら…」と書かれていました。
わたしはこのSNSを近々お暇しようと考えています。
このようなことがしばしば起こることもその原因です。
まぁ仕方ありません。個人情報は漏れているが当たり前の時代ですから…。
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つれづれ
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詳細
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私はかつて関西・淡路大震災の翌年、神戸市長田区を足を運んだことがありました。地下鉄の駅から地上に上がると、そこには予想だにしない「空間」が占拠していました。ポツリポツリと新築の家が建っていたものの、その空虚感に大きなむなしさを覚えました。
長田区はゴム工場が多く、震災時の火災で多くが失われていたことは知っていましたが「ことばを失う」とはこのことをいうのだろうなぁ、と思いました。
今回縁あり宮城県石巻市と女川町を訪ねました。しかし私たちを待っていたものは、3年3か月を経ても何ら変わることなく、その現実は大変厳しいものでした。中でも言葉を失った3か所について、記録の意味を込めて記します。
まず女川町です。ここは町中心部が大津波に襲われました。今はほとんどが片付き、がれきをあまり目にすることはありません。しかしおそらく地上4階建のビルが根こそぎ横倒しになり、七十七銀行女川支店跡の前に横たわる姿を、旧町立女川病院から見たときの衝撃はことばがありません。その他の建物は何も見当たる影はありません。
そして湾岸線から数十メートルかさ上げ工事するために、何十台のダンプカーがあたかもアリの如くに見えました。一瞬「無理」なる言葉が頭をよぎりました。
石巻市内も厳しい現実が見えました。内陸部分はまだまだよかったようですが、海岸線に近い個所は「元々住宅密集地だった。」と説明されても疑うしかない様子です。土台のコンクリートが残っているところは言い方で、多くは草が生い茂っておりとても住宅地とは思えない情景でした。
こちらにもポツンと住宅が残っていますが正面から見るともぬけの殻です。不動産権利者が行方不明となり、こわそうにも壊せません。
生き残った方々にもたくさんの証言をお聞きしました。その内容は厳しく個人ブログにも書くことをはばかられるような内容でした。
最後に大川小学校跡です。ここは北上川の沿岸にあった場所で、海岸からは5〜6キロは離れているでしょう。すぐ裏には小高い山があり、なぜ山にすぐ逃げなかったのか、管理責任を問う訴訟がおこされているようです。
でも誰がどう考えても「津波」がきて流される、なんて予想できない場所でした。ちょうど大雨でしたが遺族かボランティアでしょうか1列で何かを探しているようでした。あとで聞くと遺骨や遺品収集だそうでした。この地区にも通りに従って街並みがあったようですが、他の地区同様何もありませんでした。「草が生えていればいいほうで、海の塩分で普通は何も生えませんよ。」とのことばが重く、何より目の前の遺骨収集という現実が頭にのしかかりました。
この重くも貴重かつ大切な経験は、ものの考え方や見方が神中心の信仰にあることが誤りではないことを教えてくれました。
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先日友人と話していたら「○○ちゃんち、N県に引っ越すって」と聞きました。私は私の近所かなぁなんて考えていまして、ご本人にお聞きしましたら、開けてびっくり玉手箱!!なんと私の郷里ではありませんか!!!
私は発症以来ほとんど実家に帰っていません。というより、両親から兄の代に完全に代替わりしたのちは、なんとなく近寄りがたい場所になっていました。そこに加えて私の発症です。古い家なので、玄関、座敷など椅子に座っていられる場所が少なかったのも事実です。
しかし今回の移住があって、郷里に帰んなさい!と、神さまにいわれた気がしました。友人たちもたくさん地元にいますし、せっかくならと来月O市に行く途中必ず通過しますので、その時郷里に立ち寄ろうと思います。
せっかくの機会ですが、私の体調が不安定ですから、まだまだ公開できません。実家への連絡もまだです。でも兄たちはしばしば私の様子を心配して電話をかけてくれますし、同級生たちも必ずや歓迎してくれると思います。きっかけをくださった「移住された方々」に敬意を表します。
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