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この『京都府警察史』を紹介したのはずいぶん昔の事でした。 よくまあ、こんな『非売品』が古本屋に並んでるなあと思いましたが、この四巻本を買ったのは、別に京都府警の研究をするためではなかったのです。 今まで、中身を公表しようとは思わなかったのですが、やはり、こういうのも公表していく方がいいのではないのかなあ?と思うのでした。 おそらく、私が引用するところは、歴史事実として正しいと思います。 なにせ、引用する場所は警察としては黙っておきたい、公表されたくない所だからです。 まさに恥さらし、しかも、世界的な恥さらしなので、グローバル恥さらしなのです。 しかし、私がなぜこれを引用するのかは、読者様にはきっと分かってもらえるかなあ?とか思うのでした。 では、第三巻『七条署事件』を引用します。 七条署事件 敗戦の混乱期を迎えた京都は、他の都市に比して戦災被害は少なかったとはいえ、食糧危機に際して市民の飢えと、敗戦のみじめな屈辱感は、市民をして、なすいことを知らない虚脱状況に陥らしめていた。このときの府民生活をみると、戦時中は、厳しい経済統制によって公定価格は維持され、わずかな食糧の配給ではあったが、そのルールは守られていた。しかし、終戦を迎えてこの年の凶作とあいまって、食糧問題は重大な危機を迎えた。さらに、インフレーションの進行で生活水準は低下し、人々は争って近郊農家に買出し(個人的食糧調達)に出向かざるをえなかった。 そのため連日、京都駅は、これらの人々で混雑し、買い出し物資であふれていた。昭和二十一年二月十九日指令第七五六号が出された。 その内容は「刑事裁判権の行使について、日本裁判所は、爾今、連合国民又は団体(法人を含む)に対して刑事裁判権を行使してはならない。」との覚書であった。これを曲解、すなわち不当拡大解釈した中国人、朝鮮人らの一部は、自分達は戦勝国民だから、日本の法律には従う必要はないと考え、集団の威力を示し、駅改札口を無札通過し、また日本人に対し暴行、脅迫を加えるなど、暴虐の限りをつくしたのである。 これの不当、不法行動に対し、指令七五六号によって、拘束されるのではないかとのためらいを感じた日本側は、かれらの行動の取締まりを見合わせ、敗戦国民としての辛酸をなめさせられ続けた。 警察に対しても、中国人、朝鮮人に対し日本の法律が適用できるかどうか議論が分れ、しばしば緊急課長会議が開かれた。眼前の事態を憂慮して内務省に照会しても明確な回答が得られなかった。取締りを行なえば、中国人、朝鮮人が、集団でその警察署に抗議に押しかけ、警察官に暴行を振うといった事態が、日常茶飯事のように発生していた。 当時、警察部経済食糧係長、浜本孝作警部補(西陣署長など歴任)や、保安課次席、田中北郎警部(五條署長など歴任)などは、当時取締りに当たった警察官として、しばしば抗議を受けたが、その際、断固として彼らの脅迫的言動に動ずることなく、警察の威信を守り抜いたのであるが、そのため朝鮮人、中国人に暴行を受けるという事態が生じている。 ついに、彼らの暴虐に対して、わが国の法律を適用するとの取締方針を固めるに至った当時の七条署長・小寺卯三警視は、二十一年一月十八日、朝鮮人の買い出しに対し、物価統制令違反でヤミ米運搬中の朝鮮人を現行犯逮捕した。ここに七条署事件が発生したのである。 現行犯逮捕されたその朝鮮人は、連行途中すきを見て、京都駅構内の「朝鮮人連盟京都府本部出張所」に逃げこんだのである。七条署から同所に対し、犯人引渡しを要求したが、彼らはこれを拒否、さらに二十日には、京都駅構内の「朝鮮人連盟京都本部出張所」「中華民国京都華僑連合会出張所」の看板が警察官によって割られたとして、朝連幹部が七条署に抗議にきた。警察側が一切関知しないと回答したことから、険悪な雰囲気となった。そして二十四日には、四十人の朝鮮人が七条署に抗議に訪れ、代表者十名が署長室において、小寺署長に抗議、代表中の一人が手錠をとりだし、同署長にかけようとしたのである。これに相前後して地元的屋、博徒らは、日ごろの朝鮮人、中国人の横暴と彼らのナワ張り争いがからみ、対立していたが、当日、第三国人が七条署に押しかけたとの情報を得て、地元的屋、博徒ら五百人が警察応援という名目の下に署周辺に集結し、機会をうかがっていた。折しも署長が手錠をかけられようとしたため、公廨で待機中の署員が署長室へ救出すべくなだれこんだのを見て、彼らも署内に乱入、朝鮮人と乱闘になり、朝鮮人を署外に追いだしてしまった。 しかし、事態はこれで納まらなかった。朝鮮人は仕返しのため人を集めた。これに呼応した朝鮮人、中国人は、約七百人、短刀、日本刀、こん棒等でそれぞれ武装し、午後四時ごろ、駅前及び塩小路高倉付近で、的屋、博徒らと無法”外国人”との間で制止の警官をも巻きこみつつの大乱闘となったのである。これらの暴徒に対し、わずかな警察力では制止もできず、まして武装解除され劣悪な装備であるため事態収拾不能となり、急遽軍政部に応援を求め、これに応じたMPが出動、けん銃を威嚇発射し、ようやく事態を収拾したのである。 この乱闘により、日本人一名、朝鮮人数名が死亡、負傷者は相当数に上ったが、事件処理をMPがしたこともあって、双方とも被害をウヤムヤにして、事件は次第に沈静化した。同勢力(両集団)ともにスネに傷持つ身だったのだろう。 このように、各地に続発する外国人の無暴な行動に対し、警察の武装強化の関する覚書が発せられたのは、七条署事件の二日前であった。 現実に京都市内各署にけん銃が貸与されたのは、二月に入ってからであり、それも署情に応じて逐次配布されたのである。 (京都府警察史:第三巻589〜592ページ、発行:京都府警察本部『非売品』) こう言う歴史もあったのです。 恥ずかしいでしょうが、やはり歴史の事実として伝えないといけないだろうと思います。 |
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2012年08月30日
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