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朝鮮半島最古の書物として有名な「三国史記」、「三国遺事」は案外歴史的に見て新しい書物なのです。「三国史記」の方が西暦1145年に完成されたのです。で、それより前の書物は紙切れ一枚に至るまで朝鮮半島にはありません。記録が無いと言うことは恐ろしいことで、この「三国史記」以前に朝鮮半島でどのような言語が使用されていたか分からないのです。もっとも、「三国史記」も漢文で書かれていますので、言語としての朝鮮語はどんな発音であったのかは不明です。 ま、昔、朝鮮語がどんな発音だったかは私には興味がありませんので、どうでもいいのですけど、「三国遺事」はだいたい西暦1280年頃に完成されたと思われる、高麗の僧侶、一然の「作品」です。 敢えて「作品」だと言い切ったのは、西暦1280年頃までに朝鮮半島に広く流布されていた伝承や、あるいは思いつきを一然の主観で並べたからなのですよ。でも、朝鮮半島にはこれに代わる書物が存在しないことから、朝鮮の人々にとってはこの書物こそが魂のふるさと的なものとなっているのだろうと思うのです。とは言うものの、原文は漢文で書かれていますので、現代の韓国人には読めません。自らの国の古文書を読めないのは悲しいと思うのですが、韓国の人はあんまり困っていないようですので、歴史は重要では無いのかも知れません。 たとえば、「三国遺事」の古朝鮮(王倹朝鮮)の部分をそのまま記すとこんな感じです。 「魏書云。乃徃二千戴有壇君王倹。立都阿斯達。(経云無葉山。亦云白岳。在白州地。或云在開城東。今白岳宮是。)開国號朝鮮。與高同時。」(『三国遺事』55ページ) あんまり面倒な漢字は現代文字に置き換えましたが、日本人的には何となく分かる文章です。あえて私が読み下してみるとこんな感じでしょうか? 「『魏書』が言っています。今から二千年前に壇君王倹が居ました。都を阿斯達に立てました。(経は無葉山だと記しています。また白岳とも記しています。これは白州にあります。あるいは、開城の東にあるとも記しています。今、白岳宮と言われているのがこれです。)国を開いて朝鮮と名乗りました。高(これは堯の当て字)と同じ時代だと言われています。」 日本人だったらこんな感じで無理矢理日本語に変換することが出来ます。でも、漢字を捨ててしまった韓国人にはおそらく漢文から韓国語に変換するのは無理でしょう。もっとも出だしから怪しげな文章ではあります。「魏書云。」と書かれていますが、どこから引用したのか明らかではないので、でっち上げの可能性も否定できません。たぶん、壇と言う国の君主で王倹という人物が居たという意味で「壇君王倹」と言っているのだろうと思います。もちろん、「壇」と言う国が実在したかどうかは不明ですし、「王倹」と言う人がいたかどうかも不明です。なにしろ、この「壇君王倹」と言う人物は『三国遺事』で初登場の新人さんなのです。 続いて「古記云。」と記して「壇君王倹」の出生の秘密を暴露しています。「古記」がなんであったかが分かりませんし、おそらく、「古記」などなくて、一然がでっち上げた可能性の方が高いのです。なにしろ「壇君王倹」のおじいさんは「桓因」(帝釈天)なのです。実に驚くべきと言うか、時系列が滅茶苦茶と言うか、もう少し考えてウソをついたらいいのにと思うのです。で、その帝釈天の子どもに「神雄」(桓雄)と言うのがいて、この人が「壇君王倹」のお父さんです。じゃあ、お母さんはと言うと、熊です。熊が人間になりたいと言うので桓雄が祈りを聞き遂げて女性に変身させたのでした。熊から変身した女性は桓雄と結婚して子どもが生まれます。この子が「壇君王倹」なのです。驚いたことにこの「壇君王倹」は1500年の間朝鮮を統治したのです。で、1908歳で没。この話を真に受ける人はそんなに多くはないと思うのです。 でも、これを真に受けた人がいました。そうです。朝鮮半島の人、主に教科書を執筆するような人です。一然が「三国遺事」を執筆した時点から見て2000年前に「壇君王倹」がいたことになると、1280−2000で−720です。で、1500年統治したから−720−1500で−2220です。この辺でやめておけばいいのになんだかいろいろ研究したらしく「壇君王倹」が建国したのは紀元前2333年だと言い切ってしまったところが凄いのです。韓国の教科書は全て古朝鮮の記述を採用し、紀元前2333年以来朝鮮民族は脈々と国家を運営したことになっているのでした。 この「壇君王倹」伝説はいろいろな場所で紹介されていますので知っている人も多いと思います。でも、この「壇君王倹」が登場する『三国遺事』巻一、紀異第一、古朝鮮の前の一文はあまり知られていません。 作者、一然の渾身の序文です。 「自ら叙(の)べる。およそ、いにしえの聖人は礼楽で邦をおこし、仁義で教えを設けたのであるが、(別に)怪力乱神などについては語らなかった。しかし帝王がまさにおこらんとする時は、符命(天命)や図録(瑞徴)を受け、かならず凡人とは異なるところがあり、しかる後にはじめて、よく大変に乗じて、大器を執り、大業を成し遂げたのであった。だから、河水(黄河)から図が出、洛水から書が出た後に聖人が現れたのである。虹が神母を取り巻いて伏羲を生み、竜が女登に感じて炎帝を生み、皇娥(堯の娘で、舜の妃)は窮桑の野に遊んだときに、みずから白帝だと称する神童と交わって小昊(しょうこう)を生み、簡狄(かんてき)は卵を呑みこんで契を生み、姜嫄(きょうげん)は足跡をふんで弃(き)を生み、堯の母は身ごもってから十四ヵ月目に堯を生み、沛公を生んだのである。」(『三国遺事』53ページ) 序文のくせに自分の国のことは言っておりません。かいつまんで言えば、中国で帝王が生まれるときには、それなりに神話的な話があるのですよ、と言いたいわけです。まあ、神話的な要素を後になって取り付けないと威厳とか権威が必要な国家運営ですので、いろいろ考えたんだろうと思います。権力者として当然の事だろうと思います。で、ここからが一然の力業なのです。てか、これはもう、言ってはダメだろうと思うのです。 「その後の(かかる神異な)出来事は、とうてい書き尽くせるものではない。であるから(わが)三国の始祖が、みな神異な中から出たとしても、なにも不思議なことはなかろう。この『紀異』篇を諸篇のはじめに載せたのも、その意義がここにあるのである。」 これは、明らかに神話捏造宣言です。中国に帝王神話があるのだから、朝鮮半島にあってもおかしくない。この発想はまあ、昔の人だから仕方ないと言えばそうなのですが、一然の序文には参照した文書なり言い伝えなどが出てきません。そうなると一然自身の創作の可能性が非常に高いのではないかと思うのです。このような宣言文の直後に古朝鮮が書き始められるところに古朝鮮神話の弱さがあります。 と言うか、神話と現実の区別くらいはつけないといけないような気がします。 |
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