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「あ、またあなた専門領域外の話をするんでしょ(笑)。」 「え?古代日本って厳密に言って専門の人っているのか?」 「どういう意味ですか。」 「だってさあ、おまえ、3世紀くらいの日本の庶民生活を記述しろってのは不可能なんじゃないか?だったら専門も何もないよ。みんなで素人なんだよ。」 「大きく出ましたねえ。そんなこと言うと考古学の人に怒られますよ?」 「じゃあ、言ってやろうか?前方後円墳は誰それの天皇陵だとか言われることがあるが、そう言うの、証拠があるのか?」 「証拠って、あれだけ大きな古墳を作るんですから誰か巨大な権力を持った人が居ただろうし、葬られたんじゃないですか?」 「甘いな。権力基盤があったって言うのは認めてやろう。だが、その権力者そのものがどうして葬られなきゃいけないんだ?」 「だって、権力者なんでしょ?だったら盛大に葬るのがふつうじゃないですか。」 「それは今の感覚だ。権力者の死体に対して畏敬の念を持つかどうかは全く別問題だ。死んだら黄泉の国に行くんだから極論すれば権力者の死体だって単なる生ゴミだ。その辺の山に捨ててきても問題はない。言いたかないが、前方後円墳なんてはっきり言って人工の山だぞ?盛大に山に捨てに行ったんだよ。」 「いや、それはおかしいんじゃないですか?黄泉の国って地下深くにあるんじゃないですか?山に捨てたら黄泉の国に行けないじゃないですか。」 「どうして黄泉の国が地下にあるって分かるんだ?単なる思い込みじゃないか?」 「そんなことはないでしょ?地下ですよ。」 「だったら『古事記』を正確に読んでみろ。」 「黄泉の国で伊耶那岐命(いざなきのみこと)は伊耶那美命(いざなみのみこと)のあまりの醜さを見た。」(大筋の話) 「なので、伊耶那岐命はその姿を見て恐れてしまって、黄泉の国から逃げ帰ることにする。妻の伊耶那美命は『よくも私に恥をかかせたな。』と言って、すぐに黄泉の国の醜女を派遣して後を追いかけさせた。だから、伊耶那岐命は黒い髪飾りを取って投げ捨てると、たちまちヤマブドウの実がなった。それを醜女が食べている間に、伊耶那岐命は逃げたが、なおも追いかけてきた。そこで、右の髪飾りにさしていた神聖な爪櫛の歯を折り取って投げると、タケノコが生えた。それを醜女が抜いている間に伊耶那岐命は逃げていった。そこで、伊耶那美命はあの八種の雷神に、大勢の黄泉の軍勢をそえて伊耶那岐命を追わせた。伊耶那岐命は腰に差していた十拳(とつか)の剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げたが、雷神たちはなおも追いかけてきた。黄泉(よもつ)ひら坂のふもとに至りついたときに、伊耶那岐命はその坂のふもとに生えていた桃の実を三個取って迎え撃つと、みな坂を逃げ帰っていった。」 「どうだ?これが『古事記』原文の現代訳だ。黄泉の国から伊耶那岐が逃げてくるが、この文章のどこに上下を表す単語がある?」 「そういえばありませんね。強いて言えば『黄泉ひら坂』でしょうか?」 「この『黄泉ひら坂』に伊耶那岐は登ってきたのか?降りてきたのか?この文章では分からないだろう。それにもし、黄泉の国を地下だとすると、真っ暗なはずだ。」 「そうですね。」 「だったら、どうしてヤマブドウが生えただの、タケノコが生えただの分かるんだ。山から下りてきたと考えたらおかしくないだろ?黄泉の国を山の上にあると考える方がこの『古事記』の文章はスッキリ読めるんだよ。」 「また、無茶苦茶な。」 「何が無茶苦茶だ。合理的な思考方法だ。おそらく黄泉の国は山の上にあったんだよ。だとしたら、人工の山(前方後円墳)に埋葬するのは別におかしな事ではない。」 「まあ、論文じゃないですから好きなことを言って下さい。」 「じゃあ、死んだら山に捨てに行く。と言うのが理解できたわけだな。次は前方後円墳に本当に権力者が葬られたかどうかだ。」 「あなた、意外にしつこいですね。」 「その当時の人にもし、死体に対して特定の意味づけがなかったとしたらどうだ。例えば、Aさんの死体とBさんの死体は、死体として同じ物と見られているような慣習があったとしたらどうだ?」 「死んでしまえばみな同じ、見たいな考えですか?」 「そうだ。古墳が権力の象徴として機能することは認めるが、中に葬られたのは、はっきり言って別人でも問題ない。案外、宗教儀式を司っていた巫女が犠牲になったとかもありだろうな。」 「全く身も蓋もない。」 「いや、今の常識で考えるから誰か権力者の墓だと思うだけだ。よく考えてみろ。今の常識は『古事記・日本書紀』の常識が古墳時代にも通用したと言う事を前提にして作られたものだ。誰がそれを正しいと言い切れるんだ。 「そんなことを言い始めたら古代史が分からなくなりますよ。」 「だからおもしろいんじゃないか。」 案外、今定説になっている学説も、つつけばもろいような気がします。 考古学って本当におもしろいと思うのです。 |
私の本棚
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今現在、この本がまだ売られているのか知りません。 ほぼ、古生物学については網羅的に解説された、ある意味定番の一品です。 しかし、こう言うのを見るとつくづく思うのです。 「基礎からの○○」と名付けられた本は、ほとんど中身が薄っぺらいのに対して、「○○の基礎」と名付けられた本は絶対「基礎」ではありません。 本当に網羅的かつ具体的かつ難しいのです。 この「古生物学の基礎」という本は古生物学のスタンダードだったのではないでしょうか? だから、初心者を受け付けない壁がありました。 例えば、文系ではフィヒテの「全知識学の基礎」なんかも「○○の基礎」で騙される奴です。 全くもって「基礎」ではありません。 「全知識学の基礎」は哲学書なので、「基礎」と書かれているのを見て、哲学の初心者向けだと思って買った人はひどい目に会ったはずです。 「基礎」と書かれているのになんでこんなに難しいのだろう?オレはもしかしたらバカなのではないか?などと自分を卑下してしまいます。 でも、この場合は書名の方がインチキなので、心配はありません。 しかし、こういった翻訳本を訳する人はものすごく偉大だと思うのです。 「古生物学の基礎」は理系の本ですので、厳密に訳が定義されているはずです。 この辺は、文系のように訳者によって訳語が変わると言ったことはありません。 でも、定義された訳語がある場合は、全てを知っていないといけないはずだし、定義されていない単語に対してはどういう訳語にするか考えないといけません。 ヨーロッパ語や朝鮮語のように単語自体を見ても意味が分からない単語ではなく、日本語の場合は訳語そのもので意味が分かるので便利なのですが、それを考え出す人の感性は実に豊かです。 「棘皮動物」を実際に知らなくても何となく分かります。 また、「軟体動物」の網の「掘足類」とか「腹足類」は基準がどんなのか知りませんが、分かるような気がします。 「腹足類」の「臍孔」と言われて初めて巻き貝を見せられても日本人だったら、間違いなく「臍孔」の位置が分かると思うのです。 「三葉虫」だって絶妙の名前だと思います。 これが例えば「松かさ虫」だったらファンは激減したと思います。 だんだん話がずれてきました。 毎度のことですけど。 古生物に興味がある人は一度は読んでみたい、あるいは近くに置いておきたい1冊であることに間違いはありません。 さあ、持ってない人はいますぐ買いましょう。 |
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今、社会史の流派がどのようになってるのか知りません。 私が学生の頃流行したアナール派の社会史は、ちょっとだけ私の心を揺さぶりました。 「アナール論文選」の4巻まで買いましたが、その後、この本の続刊が出たのか、あるいは出なかったのかも知りません。 この人達の明らかにしようとしたのは、その当時の人がどのように考えていたかだったと思います。 現代の目から見たらおかしな行動であっても、当時の人にとってはおかしな行動でない場合もあるのです。 非常に合理性を欠く行動だからと言って批判しても仕方ないのです。 もし、合理主義者達が言うように、歴史は人間が合理的になっていく過程だとすれば、過去に遡るほど合理的でない慣習が存在したはずです。 そう言うのを集めてその時代の精神を考えるというのは一つの学問として成立するような気がします。 中世ヨーロッパに行われていた「シャリヴァリ」と言う儀式はその点、非常に奇抜でおもしろい風習だったと思います。 どうやら、男女間の不釣り合いな関係に対して行われるようなのですが、例えば、70歳になるジジイが18歳の女性を妻に持った場合、未婚の結婚適齢男性諸君が立ち上がります。 手に手に鍋や釜を持ち、そのジジイの家の周りに押し掛けて、大騒ぎをするのです。 この「シャリヴァリ」と言う儀式が行われている場合には、公権力は介入できません。 ひたすら被害者は耐えるか、金を差し出して「シャリヴァリ」をやめてもらうしかないのです。 場合によっては1週間騒ぎ続けるときもあって、それはなかなか楽しい光景だったのではないかと推測されますが、やられた方はたまったものではなかったでしょう。 でも、70のジジイが18の娘と結婚するのは社会慣習としては不釣り合いなので、「シャリヴァリ」をやる方も止まりません。 行きすぎてジジイを殺してしまう場合もあったようです。 ところが、「シャリヴァリ」は世俗を超越した儀式なので、その儀式で殺人が行われても、犯罪に問えなかったのです。 どうやら、共同体の意識を守るために暗黙に「シャリヴァリ」が機能していたようです。 こうした、主に中世の人たちの共同心性みたいなのを読み解くのがなかなかおもしろいのです。 今では正確に覚えてませんけど、日本でも似たような考えがありました。 平安期に礫(つぶて)は神の意志という意味合いがあったようなのです。 例えば、貴族の牛車に向けられて投げられた礫は、貴族に命中したとしても礫を投げた人間を裁けなかったような記憶があります。 手から離れた時点で人間の意志を超え、神の意志になったはずです。 「シャリヴァリ」にしても「礫」にしても今で考えたら犯罪です。 しかし、その当時の人には犯罪だとは考えられておらず、かえって、その行為によってある意味、社会がうまく機能するような存在だったのです。 そう言うのを研究するのは楽しいなあと思うのです。 今、この分野はどうなったんでしょうか? |
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長年定期購読をしている「キーボードマガジン」が最近来ないなあ、と思っていたら、月刊誌から季刊誌に格下げになってました。 そりゃ、この時期に小室哲哉の特集なんか組んでたら読者も驚くと思います。 実際、このキーボードマガジンに書かれている情報はほとんどがネットで得られるような情報なので、いちいち金を払ってまで買う必要がないのかも知れません。 でもまあ、愛読者はそう言うことには関係なく購読するので、もう少し受け狙いじゃない方向に進んで欲しいものです。 私的には、小室哲哉とつんくがJ−POPをぶち壊したと思ってますが、まあ、それは一人の意見ですので反論もありましょうけど、今現在、公判中の人を特集するってどうよ? 確かに、小室さんは、シンセを山のように積み上げて演奏していたので、キーボードマガジン的にはこう言うのを出してみたいと思うのでしょうけど時期を考えて欲しいですね。 少なくともあと10年くらい後に特集を組むべきです。 でも、季刊誌にしてしまったら、この雑誌、ますます売れなくなるように思うのです。 よく考えてみたら、私はこの雑誌でシンセサイザーの新製品の情報を知りました。 要するに雑誌そのものがシンセの新製品情報だったんですよね。 あるいは、大昔のシンセの特集などで、昔はこんなシンセがあったんだ、今度中古で探そう、とか思ったのです。 それが季刊誌になったら新製品情報ではなくなります。 ますますネット情報に負けて地盤沈下するのは目に見えてます。 どの程度発行部数が減ってるのか知りませんけど、こういう雑誌は無理しても月刊誌にした方がいいんだろうと思うのです。 どうせ固定層は買うんですから。 季刊誌にしたら固定層が逃げるんじゃないでしょうか? 廃刊にならない程度に頑張って下さい。 |
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ファシズムというのが支配者から与えられると思ったら大間違いなのです。 大衆に、社会にファシズムを許容する雰囲気なり感情なりがなければ、そう簡単にはファシズム国家にはならないのです。 よく言われるのが、「恐怖支配は闇の中で行われ、国民が知り得なかった。」と言う論法がありますが、それは、ある一定の部分では確かではあるけれど、やはり大筋では間違っています。 日本もドイツも言論統制が行われ、支配者に批判的な文章は出せなくなったと思われがちですが、案外、その当時の新聞は本当の事を書いているのです。 一度、「非国民のように見えた。」とか「売国奴的発言をした。」とか「ユダヤ人っぽく見えた。」と烙印が押されたら最後、どのようにあがいても身の証は立てられなかったのです。 だからといって、その人を裁判した記録が抹殺されると言うことはありませんでした。 むしろ、新聞記事は「非国民」や「売国奴」や「ユダヤ人」を憎しみを込め大きく取り上げられていたのです。 冷静さを失い、感情をむき出しにした国民は、「本当に非国民なのだろうか?」とか「売国奴と言うけど何をしたのか?」と言う判断が出来なかったのです。 警察や国家権力、裁判所まで巻き込んで有罪判決を受けた人を悪人だと思うのは、今現在でもそうですし、ヒトラー政権時代もそうでした。 民主主義だと胸を張っている日本の裁判所でさえ、えん罪は無数に起こっています。 そして、一度えん罪に巻き込まれたら、その人の人生は終わってしまいます。 それがファシズム国家の中でだったら取り返しはつかないのです。 国民が何に熱狂し、陶酔するのか。 私は幸いにしてファシズムを経験したことがありませんが、あれほど負け戦が続き、国土が焼き払われ、敵が目前までやってきているのに日本もドイツも、なぜあれほどまでに頑強に持ちこたえたのでしょうか? 日本の場合ですと「やがて神風が吹く」と言われていましたが、おそらく「神風が吹く」事を本気で信じていた人は少なかったと思います。 にもかかわらず、日本人はほとんど全世界を相手に戦い続けました。 アメリカ軍の上陸に対して竹槍で戦おうと本気で考えていました。 日本もドイツも自民族の優越性を強調し、世界支配の根拠にしていましたが、それだけで国民が国家壊滅の危機に瀕してでさえ国家に忠誠を誓うにはそれなりの理由が必要だったと思います。 もちろん、それが理路整然とした哲学のようなものである必要はありません。 「鬼畜米英」と言う扇動的な言葉もそれなりに国民感情を支配したのだろうと思います。 世界経済が崩壊に向かい、それぞれの帝国主義国家がとった道はいろいろでした。 だから、ある意味では第二次世界大戦は帝国主義国家同士による植民地の再分割戦争でもあったろうと思います。 日本、ドイツ、イタリアはその再分割戦争のためにファシズムに活路を見いだし敗れました。 けれども、再びファシズムに活路を見いだす人、国が出てこないと断言は出来ないでしょう。 その意味で、この本は一読の必要があるのだろうと思います。 当然の事ではありますが、この本も一つの主義主張です。 そこから何を得るのか、失うのかは読み手にかかっていると思います。 |





