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南原繁著作集 第二巻

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南原繁と言えば、東大総長で時の首相吉田茂に「曲学阿世の徒」と罵られた人です。
立場はどうあれ、自らの学問的基礎を持って政治家に恐れず発言する姿は見事だと思います。
こういう、左右関係なく自説を曲げることなく発言できる学者が少なくなったように思います。

この著作集は第二巻「フィヒテの政治哲学」です。

フィヒテは第二次世界大戦中に日本のナショナリズムを煽り立てるのに使われました。
「ドイツ国民に告ぐ」
「人間の使命」
など、フィヒテの後期の著作は岩波文庫から出され大学生などがよく読んだ本です。

それだけに、戦後フィヒテのナショナリズムを正面から問いかけるのは難しかったと思います。

まあ、私的には、フィヒテのナショナリズムってのは、ケンカに負けたガキが負けを認めず「いやだ〜〜」と言っているような感じがするんですけどね。
何となく後ろめたいというか、危機感を煽るというか、情緒的と言うか、健康的じゃないと思うんですけど、いかがでしょうか?(笑)。
フィヒテ自体は激情型の付き合いの悪い奴だっただろうと思われます。
前期の「全知識学の基礎」とか「自然法論」はものすごく論理的で意気揚々としていたのに、何だか途中でねじくれて神秘的になってしまいましたが、読み物としては後期の著作の方がおもしろいです。
国が破れるとか、戦いきれない論争に巻き込まれるとか、そう言う不運を一身に背負ってるような悲哀が感じられていいです。

だからと言って、その雰囲気をそのまま政治に持ってこられてはたまりませんけどね。
そう言う、一種やばい部分を持っているフィヒテの健康的な所を取り出して見せたのが、この南原繁先生なのです。
もう少しこの「フィヒテの政治哲学」は読まれてもいいと思うんですが、あんまり売れてないですね。
あ、もしかしたら読まれているのかも知れません。
私が、教育学研究科だったので、知り合いに南原先生を知ってる人がいなかったのかも知れません。
でも、教育学研究科だったら「ドイツ国民に告ぐ」くらいは知っていても良さそうなんですが、近頃ではすっかり読まれなくなりました。
古典を研究するのはあんまり教育学では流行らないみたいです。
現場の対応でひ〜ひ〜言ってるので、古典を読むヒマがないのでしょうね。
私なんか浮世離れしてるので、古典を読んでいても怒られません、と言うより諦められてます。

でも、職場で「古事記」の現代訳じゃない奴を読んでいたらあきれられました。
そう言うのは仕事をさぼっていると言われます。
注意しましょう。

「三国史記」

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古本を中身を見ずにネットで買うとひどい目に会うという一例でしょうか?

朝鮮半島最古の書物「三国史記」です。

最初の1枚目、2枚目の写真がネットで買った奴です。
発行が「国書刊行会」になっているので、特に意識することはなかったのですが、値段が微妙に安いので、古本でも状態があんまり良くないのだろうなあとか、思っていたんです。
読めたらいいので、当然安ければいいんです。

ところが、開けてびっくりというか、何というか、2枚目の写真のとおり、全文が漢文です。
これでは読めるわけがありません。
どこかに訳があるのではないかと思いましたが、さすが「国書刊行会」です。
全くの原本を忠実に活字にしただけです。
日本人の悪いところが出てます。
本当にありのままを活字にしただけなので、資料としては大変重要なのでしょうけど、漢文を読めない私には意味がありません。

で、仕方ないので訳本を買いました。
こちらの方は全4巻なんですが、全部を読みたいわけではないので、本紀の所だけの2冊だけ買いました。
中身も4枚目の写真のように日本語で安心です。

この「三国史記」は西暦1145年にできあがったと言われてます。
と言うことは、それ以前の朝鮮半島の何かを知ろうと思っても文書としては残ってないんですよね。

「新羅本紀」とか「百済本紀」など、ふつうに書かれてますが、できあがった年代より500年以上も前のことです。
どこかに記録があって、その記録はなくなったのか、あるいは、日本や中国の歴史書を元につなぎ合わせてあとは適当に書いたのか、その辺の所は専門ではないのでよく分かりません。
どうせ、日本の「古事記」や「日本書紀」だって正確ではありませんので、そう言うのはあんまり追求しません。

日本の「古事記」や「日本書紀」は本当かウソかを別にして、宇宙創生から話を持って行って神代から天皇の話を作り出す神話的な性格もありますが、「三国史記」はふつうに初代の王から始まっているので何となくもっともらしく書かれてます。
でも、神は現れませんが龍は時々遊びに来たようです。

「六十年(西暦3年)秋九月、二匹の龍が金城の井戸の中に現れると、激しい雷雨が起こり、城南の門に雷が落ちた。」り
「三十三年(西暦56年)夏四月、龍が金城の井戸に現れた。しばらくして、大雨が西北からやって来た。」り
「十一年(西暦164年)春二月、龍が王都に現れた。」り
「七年(西暦253年)夏四月、龍が宮殿の東池に現れ、金城の南で臥柳がひとりでにたちあがった。」りしてます。

本当に龍なのかどうなのか知りません。見間違いかも知れません。
案外、龍ではなく蛇かも知れません。

「三十四年(西暦229年)夏四月、蛇が南の倉庫で三日間も鳴き続けた。」らしいので、蛇を龍だと言い張った恐れもあります。
と言うか、蛇が鳴くんだったら追い出すとか、殺すとかすればいいのに、三日間も放置し、歴史書の記録に残すのもどうかと思います。

なかなか、突っ込みどころが多い本ではありますが、高いのが難点。
文庫本を希望します。

大槻教授の最終抗議

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思うのですが、科学者というのは反科学や非科学に寛容であってはいけないと思うんです。
宗教者が異様に異端に対して寛容でないのと同じく、科学的でないものの見方には異論を出すべきだと思うのです。

それは研究課題にはなりえないつまらない事柄なのかも知れません。
でも、科学的思考を止めさせたり、人間の理性の力を認めない姿勢に対して反論するのは科学者の使命だと思うのです。

その点、この本の著者、大槻義彦先生は徹底的でありました(まだ生きてます)。
とにかく超能力者とか占い師に正々堂々と戦いを挑んで戦い抜きました。
科学者は研究して入ればそれで良いという姿勢は一切ありません。
見習いたい精神です。

この本は、大槻先生がどのような子ども時代を送り、どうしてあのような人格になったのかを自らが語るおもしろい本です。
子どもの頃に見た「火の玉」を徹底的に研究し解明したその根性もすごいですが、解明できると言う信念もすごいのです。

超能力を信じていたり、スピリチュアルにはまっている人には嫌われている大槻先生ですが、彼の理路整然とした説明に反論できなければ、超能力やスピリチュアルは娯楽であり教養ではありません。
科学には証明できない何かがある、とか、科学では解明できない何かがあると思われた方はぜひ、この本を読んでみるといいと思います。

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「この本を読んで眠れなくなりましたか?」
「いいや、ちゃんと寝られたよ。どちらかと言えば安心だな。」
「この本の著者の佐藤勝彦先生はあの『インフレーション宇宙』を提唱した人でしょ?」
「そうだなあ。オレはちょっと前までは胡散臭いと思っていたんだが、この頃、インフレーション宇宙を受け入れたよ。」
「頑固ですねえ。いい加減理論を認めたらいいのに(笑)。」
「ま、理論を受け入れるとかどうとか言う前に、この先生の基本的思想に共鳴するわけなんだな。」
「なんでしょうか?」
「それはなあ、人間の理性で世界は認識可能だと言う信念だ。これがなきゃ生きていけないな。」
「さすが無神論。あなたの大好きそうな考え方ですね。」
「おまえ、もし世界が認識不可能だったとしてみろ。そもそも人間の思考になんか意味があるか?世界が分かるはずだと思うから考えるんだよ。探求心ってのは根本的に可知論なんだよ。」
「え?でも不可知論と言えば、カントですけど、あの人だって考えたんじゃないですか?」
「あいつは自分の理性に自信がなかったんだよ。人間の認識は現象を捉えるだけでその物自体は分からない、てのは要するにガキの考えだ。あいつが結婚しなかったのはそのひねくれた思想からじゃないのか?」
「いや、結婚したくないのは自由ですからいいんですよ。」
「だいたい、おまえ、もし彼女が出来たとするじゃないか。」
「はい、出来たと思いましょう。」
「カントの考えでは人間は現象しか捉えられないんだから彼女の現象しか見えないわけだ。これは非常に痛い。」
「なんでですか。女の人の心なんか分からないんですから現象だけかも知れませんよ?」
「ああ、この頃の女性の心は分からないな。だが、オレの言おうとしてるのはそういうことじゃない。たとえばだ。彼女と付き合いだして仲良くなって抱き合ったとしてみろ。カント君は自分の彼女を抱いてるはずなんだが、彼女の現象しか見えない。これはものすごい言い訳に使えそうだろ?」
「どんな言い訳ですか。」
「そりゃおまえ、どんなことをしても現象しか捉えられないんだから、本質は分からないんだ。なので彼女に飽きたら『あなたの本質は分かりません。じゃあさよなら』ってなことになるだろ。実にひどい別れ話だな。逃げ口上にぴったりだよ。どんな状況でも『本質は分からない』なんてことを言えば許されると思うか。」
「状況にもよるんじゃないですか?」
「じゃあたとえばだ。ある眼科の先生の大好きなお城の形をしたホテルに知らない女性と一緒に行ったとしてみろ。それが世間様にばれても『本質は分かってないので大丈夫です。』てな言い訳が通じると思ってるのか?」
「さすがにそれは無理ですね。」
「だろ?世の中の人は健全だから人間同士はわかり合える、あるいはわかり合えない場合はお互いに世界の見方が違う、と言う世界は共通だと言うのを薄々認め合ってるからそうなるんだよ。それがもし『わかり合えない場合にはお互いの世界(宇宙)はまるっきり関係のない世界だからお互いにあきらめましょう。』ってことになったらどうするんだよ。そもそも人間社会が成り立たないだろ?」
「分かりました。それはカントが悪いんです。」
「ま、別にカントは悪くないけどな。でも、カントの自分の理性に対してのちょっとした自信のなさを拡大解釈するやつは悪いな。」

「はっ!!また本の中身の紹介を全然してないじゃないですか!!」
「いいんだよ。佐藤先生はすごいってことが分かればそれでいいんだ。こういう人こそ本当の科学者だよな。」
「へ〜。あなたってひねくれてるから人なんか信用しないと思ってたのに(笑)。」

文系の人にお勧めの宇宙のお話です。
きっと夜食を食べながら読むと体脂肪が増えて驚くと思います。

尋常小学修身書

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尋常小学校の修身(道徳)の教科書です。

これと言って珍しいものではありませんけど、中から出てきたのがおもしろかったので紹介します。
こう言った古い教科書は大量に古本市場に出てきますので、古本屋さんもいちいち中身を調べないまま放置することが多いのです。

急に「古い教科書がほしい」と言われると、手当たり次第に持ってきたりするので、2枚目の写真のように可哀想な紙も出てきます。

この紙は、石黒君のものであることは明らかです。なにせ堂々と名前を書いているんですから。
でも、1行しか書かれていません。
今では知る人も少なく、また、それほど重要視もされない「教育勅語」です。

戦前の小学生は暗記させられたと言われていますが、実際にはどの程度の人が暗記したのでしょうか?

とりあえず、石黒君は1行だけ書いてみたようです。
でも、その後は興味を失ってしまったんでしょうか?
だからと言って石黒君を責める気はありません。

第一、「教育勅語」は小学生には難しすぎると思うのです。
書きかけの紙をみると、なんと、漢字で書かされています。
これはちょっと無理でしょう。
このままでは意味が分からず、音だけで覚えてしまうような気がします。
まさにお経の世界です。

たとえば般若心経の出だしを音読すれば
「カンジザイボサツギョウジンハンニャハラミタジ、ショウケンコウンカイクウドイッサイクヤクシャリシ・・・」
になりますが、石黒君も音読のまま
「チンオモウニ、ワガコウソコウソウクニヲハジムルコトコウエンニトクヲタツルコトシンエンナリ・・・」
で、意味なんか分からなかったんじゃないでしょうか?

無駄な努力はやめて1行で知らんぷりしたのはある意味正解だったのかもしれません。
というか、こんな紙切れを教科書の中に入れっぱなしで忘れていたのですから、当然、教科書なんか読んでないのです。
まあ、それでもいいんじゃないでしょうか。
後世になった恥ずかしい紙を見られて石黒君も笑っていることでしょう。
いや、もしかして、まだ生きているかも知れませんね。

もし生きていてこのブログを見て返してほしいと思ったらお返事ください。


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