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『裏昭和史探検』
風俗、未確認生物、UFO
小泉信一 朝日新聞出版 2019/3/7
<未確認生物をたどって>
<ヒバゴンはいとしく、永遠に>
・日本国内で目撃された未確認生物の中で、ヒバゴンもまた強烈なインパクトを残した。特徴がすごい。逆三角形の顔に鋭くつり上がった目。体長1.5〜1.6メートルほどで全身毛むくじゃら。二本足で歩き、ゴリラのようにも見えたという。
目撃場所は中国地方の比婆山一帯。広島県旧西城町(現・庄原市)の観光協会に当時の証言記録が残っている。
<自動車の前を、子牛ぐらいのゴリラに似たものが横切ってのう。谷の方へゆっくり、わしの方を見ながら歩いていったんじゃ>(1970年7月20日、最初の目撃者)
・<墓地でのう、草刈りをしとったらカサカサと音がしたんじゃ。異様な顔をしたものがわしの方を見とるじゃないけえ。たまげてのう……>(3日後、2番目の目撃者)
・やがて第3の目撃者が現れる。約30メートル前方に見えた黒い人影。「きっと、もらい風呂に来た隣のおばあさんじゃ」と思って声をかけたが返事はない。薄暗がりの中をゆっくり歩いてくる。全身毛むくじゃらで顔は逆三角形の生き物が立っていた。ゴリラがよくやるように両手を肩に上げ、ひじを張っていたという。
証言も生々しい。
<一目散に家まで逃げ帰ったんじゃが、あいにく家族は大阪の万博見物に出かけた後でのう。家の中は暑かったが、恐ろしいので我慢して雨戸を締め切ったんじゃ。ありゃ見たもんでなけりゃ、あの恐ろしさはわからんよ>
・地元紙が報じるとマスコミ各社が押しかけ、静かな里は騒然となった。子どもたちは集団で登下校し、警察も連日パトロールだ。発見された足跡を広島県警の鑑識が調べたところ、足の長さは約27〜30センチ、幅約15センチだったという。
役場は住民の相談や外部からの問い合わせの窓口として「類人猿相談係」を設けた。特に目撃情報が集中した住民地区には、目撃した場合には「迷惑料」として5千円を支給した。問い合わせが殺到し、農作業などの手を休めざるをえないからだった。
「足跡を見つけた」との通報を含め、目撃情報は75年までに20件あった。だが情報は次第に途絶え、この年6月、町は「ヒバゴン騒動終息宣言」を出し、係も廃止した。
・担当者として現場を駆け回っていた恵木剋行(72)はいう。「原生林を切り開いて開発がされとった。山の神さまが怒って、使いに出したのがヒバゴンじゃないか、といううわさもあった」。比婆山は、女神イザナミノミコトが眠る信仰の山である。
21世紀になり、作家の重松清が騒動を題材にした『いとしのヒバゴン』を執筆。後に映画化され、市町村合併に揺れていた2004年、旧町民の約4分の1がエキストラで出演して撮影が行われた。観光協会事務局長の前田忠範(52)は「目撃者の多くはすでに亡くなったが、ヒバゴンは過疎化で失われかけた町民の結束を強めるために現れたのではないか。あの時代に何があったのかを子どもたちに語り継ぎたい」という。
ヒバゴンよ、永遠なれ。
<木か気か、奄美のケンムン>
・「ケンムン」も同じことが言えるかもしれない。東京から南西へ約1300キロ。鹿児島・奄美の島々に伝わる「妖怪」「木の精」である。
・ページをめくっていたら、全身毛むくじゃらで頭に皿をのせた、かっぱのような絵が出てきた。「これがケンムンです。文献上で最も古い記録です」と博物館職員。
・ケンムンについて書かれた文献があると聞き、奄美市立奄美博物館を訪ねた。
・別のページには人間の手を引いているケンムンの絵があった。「島人迷いし方に山野に引き迷わす事あり」と書いてあるので、人間に危害を加えることもあったのだろう。
言い伝えによると、ケンムンは魚の目玉が好物。相撲も好きで人間を見ると勝負を挑んでくる。苦手なものはタコ。ガジュマルなどの巨木に棲み、森を荒らしたりすると目をつかれるという。
子どもを救った話もある。瀬戸内町在住の男性(36)が、小学生のときの事件を教えてくれた。1学年上の先輩が学校の裏山に入ったきり行方不明になった。「神隠しにあったのでは、と大騒ぎになった。でも1週間ほど経ってから先輩はかなり離れた場所で見つかった。ケンムンが食べ物を持ってきてくれたそうです」と男性は言う。
<6人が「実際に会った」>
・面白いデータがある。奄美大島の小学6年の少年が島民106人にアンケートをしたところ、8割以上が「ケンムンはいると信じている」と回答し、実際に会ったという島民は6人いた。
この調査は2010年1月、優れた地域研究に贈られる東京都板橋区の「桜井徳太郎賞」小・中学校の部で佳作を受賞した。
・調査によると、目撃場所は民家の庭や海の近く、川や田んぼとさまざま。生臭いにおいが漂っていたそうである。共通するのは①背丈は人間より少し小さなサルくらい②全身は毛で覆われ、手足がとても長い――という点だった。
・ケンムンはニュースにもなった。10年2月14日の南海日日新聞。社会面に「ケンムンの足跡?」との記事が載った。見つかったのは、奄美市名瀬の砂浜。竹筒を押しつけたようなくぼみ(直系5センチほど)が、約20センチの間隔で約20メートル先の岩場まで点々と続き、岩の後ろに回ると、さらに山裾まで続いていたという。
・写真を鑑定した元奄美市立奄美博物館長の中山清美(故人)は「明らかに犬や猫の歩幅でもなく、ヤギでもない。どの動物にも該当しない。やはりケンムンだろうか」と述べた。
・ケンムンは、青いよだれが光るという。「火の属性」も持っており、指先から火をともすこともできるそうだ。
加計呂麻島で民宿を営む中村隆映(62)も学生のころ、山の尾根伝いにいくつもの火が隊列のように連なっているのを何度も見た。
・海上で、赤々といさり火をともしたモーレイ(船幽霊)もケンムンの仕業なのだろうか。その火は蜃気楼のようにいくつにも分かれ、集まってくることもあると伝わる。
海岸で塩炊きやイザリ(夜の磯漁)をしていると、いつのまにかケンムンが近寄ってくるという話も耳にした。「大きな貝殻が無数に散らばっていることがあったそうです。ケンムンが食べたのでしょう」と奄美市在住のイラストレーター辻幸起(50)。
<UFO伝説をたどって>
<核の脅威を考えた三島由紀夫>
・だが作家の三島由紀夫は表明していた。「空飛ぶ円盤の実在か否かのむずかしい議論よりも、現代生活の一つの詩として理解します」
1955(昭和30)年7月に結成された「日本空飛ぶ円盤研究会」のメンバーだった。名簿の職業欄は「文士」、会員番号は「12」。2002年まで活動を続けたこの会は、作家の星新一や「日本の宇宙開発の父」とよばれた糸川英夫も加わり、一時は1千人の会員を擁したともいわれる。
・三島は「円盤が現れるかもしれない」という情報が入ると、自宅の屋上に上り、双眼鏡を手に空を観測。57年6月、日比谷の日活国際会館屋上で行われた「第3回国際円盤観測会」にも参加した。
翌58年、米国から帰国。夕刊紙「内外タイムス」の取材に答えた。「アメリカでは円盤を信じないなんてのは相手にされないくらい、一般の関心も研究も盛んですよ。ラジオでも午前1時の深夜放送に円盤の時間があるからね」
・みずからの人生と肉体をもって思想を現実化させようとした三島。およそ純文学の世界になじまないように思われる空飛ぶ円盤に本格的な興味を抱いたのは、フランスの新聞記者A・ミシェルが書いた『空飛ぶ円盤は実在する』(56年、邦訳)を読んでから。だが宇宙に関する「ファンタスティックな興味」はすでに少年時代、新感覚派の稲垣足穂の小説によって養われていた、という。
「空にはときどき説明のつかぬふしぎな現象があらわれることはまちがいない」と三島。
・64年4月、円盤観測の仲間でもあった劇作家の北村小松が亡くなったとき、朝日新聞に寄せた弔文に書いた。「空飛ぶ円盤も無駄ではなく、これら飛行物体が、氏の、人間に対する澄んだ鳥瞰的な見方を養ったのであろう。北村さん、私は今あなたが、円盤に乗って別の宇宙へ行かれたことを信じている」
『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』など数々の作品に隠れ、目立たないかもしれないが、三島には異色のSF小説『美しい星』(62年)がある。埼玉県飯能市に住む資産家一家が円盤を目撃したことから、実は自分たちが別の天体から飛来した宇宙人だったことに気づくという物語だ。そして、人類を核戦争の脅威から救うため、さまざまな活動を始める。
当時は東西冷戦下。破滅に向かって突き進もうとする人類に警鐘を鳴らそうとしたのが『美しい星』だった。作品には、日本空飛ぶ円盤研究会の存在が深くかかわっていた。三島はUFOを探しながら核戦争のことを考えていたのではないか。
<理解されない「高遠なる趣味」>
・熱海(静岡県)でも夏、三島はホテルに双眼鏡を携え、毎晩、夜空を観察していたそうである。「ついに目撃の機会を得ませんでした。その土地柄からいっても、ヘタに双眼鏡に凝っていたりすると、疑われて困ります。世間はなかなか高遠なる趣味を解しません」。
・さて、取材を進めるうちに、実際に空飛ぶ円盤を見たという人に会った。元建設機械メーカー社員の小林一三(81)。75年5月5日夜、妻と2人の子どもを連れ、マイカーで自宅に帰るときだった。前方に、ものすごく大きな赤い光が点滅していた。パトカーかと思い、車を路上に止め、様子を見に行った。
「距離にして数百メートル。浮いていて、大きな窓が三つありました。車に戻ってパッシングすると、物体は急に夜空のかなたに消えていきました」
<空飛ぶ円盤、光るわけは>
・2017年9月、私は福島市飯野町にある「UFOふれあい館」を訪ねた。資料約4千点。「日本空飛ぶ円盤研究会」の会長を務めた荒井欣一(故人)が寄贈した蔵書や、UFOの模型もあり、愛好家にはうれしい。作家の三島由紀夫が双眼鏡を手に、観測会に参加している貴重な写真も展示されている。
福島市に合併する前の飯野町がUFOでの町おこしをめざし、92年、ふれあい館をオープンした。場所は町の北側にそびえる「千貫森」(標高462メートル)という山の中腹。きれいな円錐形の山で、ピラミッドなどの人工建造物のようにも見える。場所によってはコンパスが正常に働かない磁場があるそうだ。
・「ひかりもの」という発光体が目撃される場所としても知られていた。
木下は館長を10年にリタイアしたあとも、UFO研究家として子どもたちに科学の楽しさを教えている。
<茶色い顔で「キュルキュル」と>
・木下が目撃したという物体は帽子のようにも見える「ヘルメット型」である。
25歳だった1972年の夏、安達太良連峰の箕輪山を登っていたときのことだ。山頂付近に銀色に光る物体が30秒ほど空中で停止していた。だが目をそらしたすきに、物体の姿は消えていたという。
・別荘地の管理人などの仕事をしながらUFOの研究をしていた木下は93年、館長として「UFOふれあい館」に招かれた。館内には「主要目撃事件全国図」と書かれた大きな日本地図が展示されている。
<函館市(北海道)S25・8・3 函館駅 助役が青白い光を目撃>
<羽咋市(石川県) S62・6・10 沖合を蛍光灯のように光る葉巻型のUFO目撃>
場所と日付、そのときの様子が説明されている。UFOが現れた場所は全国に散らばっているものの、やはり人口が少ないところでは、目撃情報もまばらになるようだ。
・甲府市では75年2月23日、小学生が宇宙人に肩をたたかれるという事件があったそうだ。館内を案内してくれた飯野町振興公社の事務局長・菅野利男(67)に聞くと、「甲府事件です」。その日の午後6半ごろ、地元の小学生2人がブドウ畑の近くに着陸しているUFOを目撃したという事件である。
当時の証言をもとに再現すると、物体の大きさは直径約2.5メートル、高さ1.5メートル。扉が開き、中から「宇宙人」が降りてきたという。顔は茶色、深い横じわがあり、銀色の牙が生えていたという。「キュルキュル」というような声で話しかける。1人は後ろから肩を2回たたかれた。
怖くなった2人は慌てて家へ逃げ帰る。しばらくして父親と一緒に現場に行くと、すでにUFOはいなかった。何かが着陸したような複数の穴が開いていたという。
・もちろん、この話をそのまま信じていいのかどうかは分からない。70年代は全国で円盤の目撃情報が飛び交い、マスコミ報道も過熱していた。一種のUFOブームの中では、ひとつの目撃談が別の目撃情報を呼ぶようなことが起きたのかもしれない。
・この時代の「伝説」として、いまも語られているのが高知の「介良(けら)事件」。田んぼに落ちていた小型UFOを中学生たちが捕獲したという事件である。
<中学生が捕まえた小型物体>
・高知県東部の介良地区で、1972年8〜9月に起きたとされる「介良事件」である。
当時の証言を総合するとこうなる。事件の中心は13〜14歳の中学生の少年たち。1人が夏の日の午後、田んぼの上にふわふわ浮かんでいる物体を目撃した。翌日、数人で確かめに行くと、田んぼの真ん中に落ちていたという。1人が袋に詰めて家に持ち帰り、保管した。だが、あとでふと中を見ると消えていた。
どこに行ったのか。捜すと、物体はまた田んぼに落ちていた。再び袋に入れて自宅に持ち帰ったという。
物体は手に載るほどの大きさ。捕まえては逃げられるということが、何度か繰り返された。そのうち最後はどこかへ消えてしまった。事件にかかわった少年は全部で9人という。
・介良事件があった70年代は空前のオカルトブームが起きた時代。作家の五島勉が書いた『ノストラダムスの大予言』がベストセラーとなり、スプーン曲げの「超能力者」ユリ・ゲラーや、「人か猿か!」で話題になったオリバー君も来日し、日本中を騒然とさせた。
<天の災い? 漂着の「うつろ舟」>
・UFOはしばしば世の中をにぎわせてきた。米国のメディアが目撃談を報じた「ケネス・アーノルド事件」が起きたのは、第2次大戦後の1947年である。だがこれより、140年以上前の日本でも、不思議な物体の存在が人々の間でうわさになっていた。
「常陸国うつろ舟奇談」と呼ばれる。1803年、円盤のような「乗り物」が現在の茨城県の海岸に漂着。異様な服装の女性が箱を抱え、中から現れたという事件である。
言い伝えによると、乗り物の幅は約5.5メートル。上部にガラスとみられる窓があり、下部には鉄板が施され、中には不思議な文字も書かれていた。驚いた村人たちは「天の災いだ」と思ったのだろうか。女性を再び乗り物に乗せて沖に押し流し、幕府の役人には内緒にしていたという。
だが事件は注目を集める。きっかけは1825年(24年とも)、江戸で開催された「兎園会」。一流の文人たちが不可思議なうわさ話を持ち寄って披露する風変わりな会だ。その中で紹介されたのが「うつろ舟奇談」だった。
会の主宰は、伝記小説「南総里見八犬伝」の作者で知られる滝沢馬琴。馬琴が編者になったとされる風聞集「兎園小説」の中でも、この話は「うつろ舟の蛮女」として絵入りで紹介された。
民俗学者の柳田国男は論文「うつぼ舟の話」(1926年)の中で、絵に描かれた文字が世界のどこにも存在しないことから「駄法螺」と切り捨てた。だがその後、同じような内容を伝える江戸時代後期の古文書がこれまでに約10点あちこちから見つかっている。しかもほとんどの文書に「舟」と「箱を抱える女性」、解読不能の謎の「異形文字」という3点セットが描かれているのだ。
UFOマニアの中には「宇宙人が乗り物に乗っていた」と言う人もいるが、さすがにそれは荒唐無稽だろう。とはいえ、何かしらあったのだろう。事件が起きたのは、江戸幕府が鎖国政策を敷いていた時代。開国前だったが、日本近海では外国船がしきりに現れ、日本との通商を求めていた。異国船打払令が出されたのもこのころである。
・科学的立場から「うつろ舟奇談」を研究している岐阜大名誉教授の田中嘉津夫(70)は「仮に作り話であったにしても、このような奇怪な形の舟を江戸時代の人たちが空想だけでここまで具体的に描くことは、難しいのではないか。何らかのモデルがあったのではないか」と指摘する。
乗り物が茨城県のどこに漂着したのか。場所の特定は難しいとされてきたが、実在の地名が記載された史料が、甲賀流忍術を伝える古文書とともに保管されていたことが2014年にわかった。
そこには「常陸原舎り濱」とある。伊藤忠敬が江戸時代後期に作った地図「伊藤図」にも記された地名で、現在の茨城県神栖市波崎の舎利浜にあたる。鹿島灘の南部。利根川を挟んで、千葉県銚子市にも近い。
私は現地に向かった。
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