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路線の思い出 第312回 三江線・伊賀和志駅 〔広島県〕
伊賀和志駅
もうちょっと工夫して撮ればよかったよ・・ 《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’16) 廃止年月日 転換処置
江津〜三次 108.1km 46 / 1109 ’18/4/1 備北交通・大和観光
邑南町営・石見交通
など区間によって分担
運行本数(’17)
江津〜三次 下り2本・上り1本 , 江津〜石見川本 上り1本 , 江津〜浜原 3往復
石見川本〜三次 上り1本 , 浜原〜三次 2往復 , 口羽〜三次 1往復
〔廃止日までの残り2週間〕
※ 廃止日までの残り2週間は昼間便の浜原〜口羽の通し運行を実施した
江津〜三次 下り4本・上り3本 , 江津〜石見川本 上り1本 , 石見川本〜三次 上り1本
江津〜浜原 1往復 , 浜原〜三次 1往復 伊賀和志駅(いかわしえき)は、広島県三次市作木町伊賀和志下原にあったJR西日本・三江線の駅である。 三江線の廃止に伴い、2018年(平成30年)4月1日に廃駅となった。
三次方面に向かって、右側に単式ホーム1面1線を持つ停留所規格の駅であった。 駅舎は存在せず、ホーム上にブロック造の待合室があるのみのであった。 浜田鉄道部管理の無人駅で、自動券売機等は設置されていなった。 2015年の一日平均の乗車人員は0人(1人以下)との事。
駅はトンネルとトンネルの間のやや高いところに設置され、下の駅前をゆく道路よりスロープと階段を上がって直接ホームに入る形となっている。 スロープを上った階段の脇に、自転車置場とトイレが設置されていた。 県境付近を線路が通っており、当駅の両隣の駅はいずれも島根県に所在していた。 口羽からの列車は、当駅の直前で県境となる江ノ川を渡って、広島県内に所在する当駅に進入してくる。 当駅を発車した列車は、隣駅の宇都井の直前で再び江ノ川を渡って島根県に至る。 これは新線区間がトンネルと橋梁を多用しての直線的で高速運行が可能の高規格建設が成された為であろう。 この時の悔しいできごとに遭わなければ
この駅付近は掲載”坊主”となっていた 《三江線・最後の一年》より・・
実を言うと、この伊賀和志駅は廃止当日の(’18年の)3月31日まで、掲載写真が上の駅待合室のみの掲載”坊主”駅であったのである。 それは、この駅付近の『撮り鉄』の”お立ち台”である『第四江ノ川橋梁』があまり写真映えがしない『トラス橋梁』であった事と、隣駅にあの有名な『天空の駅』・宇都井が控えていたからである。
トラス橋の正面撮りは上手く合わせないと
『顔面袈裟斬り』となっちまうし・・ しかも、ただでさえ4往復と運行本数の少ない新線区間で、唯一のディライト時間帯に行き交う列車は石見川本行きの上り列車しかなかったのである。 要するに、貴重なディライト時に運行するこの便の撮影を他の撮影場所に回せば、この駅では撮るチャンスが皆無となったからである。
そして、最終日を迎えての朝の1便も前日カメラの調子が悪く(もう、御年25歳を経たロートルカメラなもんで・・ でも、写りは今のデジタルが束になっても足元にも及ばぬ銀塩リバーサルフイルムだしィ・・)、不安に感じて「宇都井での抑え」として撮ってしまった為に、いよいよ掲載”坊主”が確定となる運びであった。 だが、宇都井の「抑え撮り」が余りにも手応えがなく(不安を抱いた最初に撮ったモノの方が断然良かったりする・・)、「無駄打ちした」と少し悔いを抱きながら、急いで次の撮影場所の《尾関山公園》に向かう。
その途中て伊賀和志の駅筋に通りかかったのだが、ちょうどその時に後悔に打ちのめされるような光景を目にする事になったのである。 それは、『トラス橋』という事で眼中になかった『第四江ノ川橋梁』の橋桁の下に、昇りたての朝日が輝く光景であった。
だが、明日はもう列車の運行のない最終日の今日・・。 もう、二度と朝日をバックに三江線列車は撮れないのである。 まぁ、20分位前の列車の橋梁通過時に朝日がどうなっているのかは解らないし、どギツい逆光の中での撮影となるだろうから、恐らく1回コッキリのチャンスでは「逆光・黒潰れ」になるなど、上手く仕留めきれなかっただろうけど、コレを目にした時は正直”痛かった”し、この後も『後悔』として引きずってしまう事だろう・・と思う。
後ろにこぶしが咲いてたので
振り返って後追いしたけど少し流れたね ホント・・、「思い込み」ってのは、後悔するハメに至る事が多いよね。 でも、これを目にしたおかけで、どうにかやりくりして『第四江ノ川橋梁』の撮影を組み入れて、平凡なデキだけれど駅の足跡を残す事ができたよ。
『第四江ノ川橋梁』での午後の便の撮影を終えてから近くの神社(菅原道真公を祀った天満宮との事)に立ち寄って、今回の『三江線・ファイナル訪問旅』で魅せられた素晴らしき春情景への感謝の手を合せる。
そういえば菅原道真公の紋所
『梅鉢』が掲げてあるね
かなり貴重な建築物のようで・・
※ ウィキペディア画像を拝借 また、この地域では、艶やかな碧い羽を広げる『森の宝石』・プッポウソウ(鳴き声が仏・法・僧に聞こえる事から名付けられたが、実際は違うとの事)のつがいの数が、全国で最も多く確認されているという事である。
駅から数分の所にある観察小屋
駅から数分の所に観察小屋があってちょっと立ち寄ってみたが、これでプッポウソウが魅れたなら宝くじなみに確率がいいと思うワテ。 こういうバードウォッチングとかは、ひたすら「待って何ぼ・・」だと思うし。 『森の宝石』・プッポウソウ
※ 2枚いずれも三次市のウェブサイトより拝借
当然、滞在時間15分やそこらでは、観察小屋に掲げてある展示パネルでしか『森の宝石』を確認できなかったのであるが・・。 |
路線の思い出
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路線の思い出 第311回 標津線・中標津駅 〔北海道〕
ネガを入れたサブカメラで
『B級写真』として撮ってた中標津駅
:
メインのカメラで撮ったのは
「フイルム間違い」で全ボツなので
北海道のファースト旅は
『B級写真』しかなかったりして・・
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
標茶〜根室標津・厚床〜中標津 116.9km 391 / 1366
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’89/ 4/30 阿寒バス・根室交通バス 〔西春別線〕 標茶〜根室標津 6往復
標茶〜中標津 下り1本
中標津〜根室標津 上り1本
〔厚床線〕 厚床〜中標津 4往復
中標津駅
「さよなら標津線」スタンプ 中標津駅(なかしべつえき)は、北海道標津郡中標津町東2条南2丁目にかつてあったJR北海道・標津線の駅である。 標津線の廃止に伴い、1989年4月30日に廃駅となった。
廃止時点で。単式ホーム1面と島式ホーム1面の計2面3線の国鉄型配線とホームを有する駅であった。 駅舎は、構内の北側(標茶に向かって右側)にあった。
あぁ・・ こんな情景だったなぁ・・
※ ウィキペディア画像を拝借
その他に、南側に3本の主要側線が有った。 1984年2月の貨物及び荷物取り扱い廃止までは貨物積降場が2ヶ所有り、1箇所は北側(駅舎側)根室標津方面にあって切欠ホームへ貨物積降線が敷かれ、もう一つは南側根室標津方面の貨物ホーム後方のコンテナ取り扱い場へ敷かれていた。
その他に根室標津方面は本線左右に2本、標茶方面は南側に1本の計3本の留置線(引き上げ線)があり、また根室標津方面の本線と南側貨物ホームの間に転車台と車庫へ向かう入出区線が1本有った。 貨物取り扱い廃止後は、これらの内の南側2本に新たに車庫が設けられた。 駅名の由来は所在の自治体名からで、日本語の「中」とアイヌ語の「シ・ペツ」(大きな川)を組み合わせた合成語であり、駅所在地が標津川の中流域に存在することに由来している。 この中標津って所は、真に原野の中に突如現れるオアシスの感覚がある。
標津線の列車は、広大な根釧原野を地勢そのままのアップダウンで越えてゆき、その車窓風景は真に『北海道の旅』そのままの情景だった。
原野の長大なアップダウンをゆく・・
そう・・、その地勢に応じたアップダウンの最中は、家屋や建物は全くと言っていい程に見当たらず、ともすれば不安にも感じる情景だ。 そんな不毛な大地を行き交う中で、唯一の人の生業を確認できてホッとできる所が駅だった。
人の生活姦を感じる所は駅周辺だけ・・
それが標津線沿線の光景だった
駅の周りにひと固まりの民家や牧場のサイロがあり、駅を過ぎると再び何もない原野を地勢に逆らわぬようにアップダウンで乗り越える。
広大な平原をとにかく真っ直ぐ・・
地形の変化に逆らう事なく アップダウンで乗り越える・・
その情景に慣れて「当たり前」に感じる様になった時に、砂漠のオアシスの如く突如都市機能をもった「自分の住んでいるのと同じような街」が現れるのだ。
原野からいきなり
「百貨店アリ〜の」は戸惑うよ
※ ウィキペディア画像を拝借
そう・・、百貨店アリ〜の、信号アリ〜の・・、そして北海道に上陸してから久しく目にしなかった「信号待ちする歩行者」や、バス停でバスを待つ乗客、ショッピングセンターで駐車場の誘導を行う警備員などが駅に近づく列車の車窓に映っているのである。
駐車場待ちの車を警備員が捌く
都会では見慣れた光景に
カルチャーショックを受けたよ
※ ウィキペディア画像を拝借
そう・・、今まで見続けていた・・、ともすれば「刷り込み」に近い位に原野の情景を魅せられた目には、小さな『カルチャーショック』さえ感じる光景である。 普段は見慣れた「当たり前」の光景であるにも拘わらず・・。
自分の住む街ではこれでも
足りない位の情景だったが・・
:
それは原野風景に慣れた目には
蜃気楼のような光景だった・・
※ グーグル画像を拝借
でも、ガキの頃のローカル線を必死に追いかけていたワテには、この光景が標津線という路線を語る鍵になるとは想像だにできなかったのである。 だから、乗り換えの合間に降りて、列車の時間待ちの間に駅前にあったほか弁屋で、から揚げ弁当を買い込んで駅待合室で食った記憶しかない。
もし、原野風景から突如として現れる蜃気楼のような街・中標津をキチンと追いかけておけば、もっとしっかりした標津線のりボートができたのに・・と思うが、この時の齢18〜19のガキにはムリな事か・・。 鉄道が廃止にて訪れたのは
廃のから20年経った後だった
※ ウィキペディア画像を拝借
そして鉄道が廃止となって、『ローカル線』という追っかけるモノが無くなって鉄道から心が離れていた頃・・、次の生涯のターゲットとして熱中していた山や秘境を踏破する放浪旅の最中に立ち寄ったのがこの中標津の街だった。
鉄道を追っかけていた小僧の時に体験済みとはいえ、今まで行く手を阻む事が全くなかった原野から、いきなり着陸態勢に入ったプロペラジェット機が頭上を低空で飛来し、高速バスや路線バスで渋滞となり車が停まる状況は、やはり小さなカルチャーショックを感じるのである。
中標津の街から空港まで僅か4km・・
原野から進入する飛行機が
頭上を低空で飛来するのは
あまり気持ちのいい光景ではない
そう・・、この中標津に寄った時は、ワテの旅人生における最大のプロジェクトである《知床岬》踏破に挑むべく羅臼へ赴く最中だったのだ。 だから、普段よりこのカルチャーショックがナーバスに響いたよ。 まぁ、その為かどうかは解らないが、第一弾は波に巻かれて血まみれとなる大失敗に終わったよ。 まぁ、血まみれは少し大げさだけど・・。
血まみれな目に遭っても
踏みたかった“地ノ涯テ”
でも、まだこの頃はリベンジ精神旺盛で、その2年後に大潮という暦の知識を得てキッチリとリベンジを果たして、「この国で最も辿り着く事が困難な・・、何の変哲もないタダの灯台」にタッチする事がかなったよ。 その冒険記に興味がある方は、コチラをどうぞ。 でも、非合法に近いのでチャレンジは止めた方が無難です。
野生のウサギギクを掻き分け
「遥かなる」タダの灯台へ・・
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路線の思い出 第310回 長良川鉄道・湯ノ洞温泉口駅 〔岐阜県〕
こんな駅だったかなぁ・・
平屋屋根だったような記憶があるのだが・・
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
営業区間と営業キロ 運行本数(’12)
美濃太田〜北濃 72.1km 美濃太田〜美濃市 区間30〜60分毎
(旧国鉄・越美南線線からの第三セクター移管線) 美濃市〜美濃白鳥 区間上下各12本 美濃白鳥〜北濃 区間上下各 9本 湯ノ洞温泉口駅(ゆのほらおんせんぐちえき)は、岐阜県美濃市にある長良川鉄道越美南線の駅である。 プラットホーム1面1線の駅で、駅舎内に待合室とトイレが設置されている。
’13年の一日の平均の乗降人員は41人との事。
1926年に 国鉄・越美南線が美濃町駅(現 美濃市駅)〜当駅間が開通した時に、板取口駅として開業する。 翌年には、当駅と美濃洲原駅(現 母野駅)間が延伸開業して途中駅となる。
1956年の美濃立花駅への改称を経て 1986年12月11日の国鉄越美南線の長良川鉄道への経営移
管によって、同社の駅と同時に湯の洞温泉口駅に改称された。
当駅で折り返す列車もある。また、かつては交換設備があったと思われる敷地が残っているが、設備については撤去されている。 ホームには藤の木が茂っており、シーズンになると花の屋根がホームを覆う。
国鉄時代に撮ってから
30年近く御無沙汰だったよ
長良川鉄道は御存知な人は御存知な通り(御存知な人はたぶんテツ)、旧国鉄の越美南線の第三セクター移管路線である。 そして筆者は、この路線は越美南線の時以来、遥か30年近くの長い間訪れた事がなかったのである。 まぁ、この路線の付近を通った事はあったが、通った目的は滝であったり白川郷の合掌造りの撮影であったりで、この地を通るこの路線に30年近くの間、触れる事はなかったのである。
長良川鉄道の沿線に立ち寄ったのは
白川郷の合掌造であったり
ストレートの美麗瀑・阿弥陀ヶ滝
への訪問だったりした
でも、ふと「桜と鉄道でも撮ろうか」と思い立ち、夜の10時前から車を駆って”ふらり”と出たのである。
なぜ、「桜と鉄道を撮ろうか」と思い立ったか・・というと、ウェブサイトでたまたま越美南線と北線を例題にした『桜と鉄道』の撮り方指南の記事を目にした事と、「正月にカメラをいじってから全くカメラをいじってないなぁ」と思い返したからである。
ち・つ・わ・・、桜と鉄道など撮った事もなかったのである。 まぁ、筆者自体が鉄道撮影に赴いて、「重いから・・」と時刻表を持たない心底『ナンチャッテ』なタワケなので、事前調査とかロケハンとかいっさいナシの『出たとこ勝負』な撮影行である。
こんなにいい加減なのに
なぜか天や気候はタワケに味方する
それゆえに、成り行き任せに出かけたのが先程にも述べた夜の10時過ぎで、例の撮り方指南のウェブサイトで掲載されていた駅の近くにある『道の駅』に着いたのが午前2時過ぎ。
着いて車の中で仮眠する。 まぁ、年齢が中年の域に入った野郎の行為としては、計画性が無さ過ぎるなぁ・・と我ながら思う。 ウェブサイトに掲載されている過去に撮られた『桜と鉄道』の写真を目にしただけで、桜が咲いてるかの下調べもせずのズタボロ必至の撮影行を企画するのだから・・。
要するに、「このウェブサイトの掲載写真が4月のいつ頃なのか?」という下調べも無くやってきてるので、「やって来たわ、桜が全く咲いてない坊主だったわ」って事も、最悪桜の木が存在しない事も有り得るのである。 だが、「桜と鉄道を撮りに来て桜が坊主」という『最悪の事態』を想定するよりも、とりあえず寝る事を優先する。
まぁ、この勢いでは「寝過ごしてしまったよ」というもう一つの『最悪の事態』も想定されたが、「そうなればそうなってもいいや、寝れれば・・」というように、自分の欲望に忠実なタワケだった。
なぜなら後者の『最悪の事態』は、ワテにとっては何度も体験済みの失態なのであるから。・・
無計画の「寝坊ドンマイ」なヘタレでも
それなりに味のある写真が撮れる不思議・・
・・でも、なぜか運良く、6時前に目覚める事ができた。 そして、仮眠した『道の駅』から5kmほど離れた例のウェブサイトに掲載されていた写真の駅である大矢駅に向かう。 着いて、まずしなければならない大切な事が、“桜があるか、無いか”の確認である。 ・・良かった。 桜は咲いてたよ。
七分咲だったが。 これで、最低でも『桜を撮りに来て坊主』の最悪のムダ行は回避できたのである。
後は、いろいろと足場やアングルを取っ換え引っ換えしながら撮影を楽しむ。
それでは、『成り行き任せ』の『出たとこ勝負』の戦果をごろうじろ。
猿が撮っても絵になります
足場を取っ換え引っ換えしても、同じ所では飽きてくる。 そして次の列車まで2時間の空きがあるという事で、撮影場所を移動する。 次の撮影場所も、例の撮影指南のサイトに出ていたこの駅である。 もちろん、先程に撮った大矢駅同様に桜が咲いている保証も確証もない。
あるのは、「大矢駅より10kmほど南に位置して暖かいだろうから、たぶん咲いているだろう」という見込み願望だけである。
幸い、ここも咲いていた。 桜の勢いも満開に近いレベルだった。 これを確認して安心を確保したなら、取り敢えず車に戻って、自らの願望を満たすべく寝る。 ここでも、「寝過ごしたら、それでもいいや」という勢いで・・である。
初めての『鉄道と桜』は
アングルが思い浮かばずに・・
それでも、なぜか列車到着の15分前にキッカリと目が覚めて、眠気まなこでノソノソと適当に撮影場所と決め打ちしていた所に立ち、そこでの『行き当たりバッタリ』、『ドンブリ勘定』な写真を撮る。
それでは、その『行き当たりバッタリ』、『ドンブリ勘定』な写真をごろうじろ。
まぁ・・ 最初なので仕方ないか・・
やっはり『鉄道と桜』は場数を踏まないと
いいアングルが思い浮かばないね
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路線の思い出 第309回 石勝線〔夕張支線〕・夕張駅、鹿ノ谷駅(廃止を控えた夜) 〔北海道〕
雪降る夜の夕張駅で
折り返しの時を待つ最終列車
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
南千歳〜新得・新夕張〜夕張 148.5km 4413 / 288
〔夕張支線 新夕張〜夕張 16.1km〕 〔夕張支線単独の輸送密度は118人キロ/km(’13)〕
運行本数
夕張支線内は1日5往復
夕張駅(ゆうばりえき)は、北海道夕張市末広2丁目にあるJR北海道・石勝線の駅である。
石勝線夕張支線の終着駅で、単式ホーム1面1線の駅である。 1998年頃に一度無人化された。
2007年より簡易委託による乗車券の販売が再開され、駅構内ではなく駅舎の背後にあるホテルのフロントで取り扱っていたが、現在は取り扱っておらず新夕張駅管理の無人駅となっている。
主要産業の変化に伴い、駅は路線を短縮する形で1985年・1990年と2度移転された。
以前は石炭の運び出しの便を図るため、市の奥地である夕張市福住の現在は石炭の歴史村の来客駐車場敷地となっている所に駅があった。 その当時は駅員が配置され、夜間滞泊も行われていた。
だが、相次ぐ炭鉱閉山の影響により過疎化が急速に進行、夕張市は観光を主要産業に位置付け開発に乗り出し、1985年に市の中心部夕張市本町4丁目の夕張市役所及び夕張市民会館裏の夕張鉄道・旧夕張本町駅構内跡地に移転した。 これが2代目夕張駅である。
駅移転後も《石炭の歴史村》の
管理事務所として使用された初代夕張駅舎
※ グーグル画像より拝借 初代夕張駅の駅舎は、駅移転後は《石炭の歴史村》の管理事務所に転用されていたが、管理事務所が歴史村敷地内部に移転した為、2006年に解体された。
2代目夕張駅の駅舎は3両の貨車を改装し連結したものであった。 貨車はワフ29500形2両ととワム80000形1両の3両連結で、車輪を付けたまま駅舎に改造された珍しい例であった。
この駅舎は、「町の玄関口として貧弱である」という声も強かった。 ”二代目”夕張駅
:
貨車を車輪も取らずに
そのまま待合室として使っていた
グーグル画像より拝借 市政方針の転換(石炭産業から観光への返還)によるリゾート開発に伴い、夕張市末広2丁目のホテル前に新駅を設置する構想が浮上した。 しかし、勾配と駅間距離の短さから実現せず、1990年に夕張駅自体が新駅の予定地点へと移転する事となった。 これが現在(3代目)の夕張駅である。
2代目旧駅舎は《石炭の歴史村》のSL館と遊園地「アドベンチャーファミリー」の間に長らく設置されていた。 2度の駅の移転にあたり、「歴史的背景を無視している」、「路線短縮がゆくゆくは路線廃止につながる」という反対意見もあった。 鹿ノ谷駅舎
「鉄道は必要ない」と断を下した町のハズレに
ホツンとあった大きな”廃屋”
鹿ノ谷駅(しかのたにえき)は、北海道夕張市鹿の谷三丁目にあるJR北海道・石勝線(夕張支線)の駅で、単式ホーム1面1線を有する。 無人駅である。
北海道炭礦汽船(通称・北炭=三井財閥系の炭鉱運営会社で現在は所有した炭鉱の全閉山により国内石炭産業から撤退し、石炭輸入販売、ガラス加工業となっている)の全盛期は、駅周辺の鹿の谷地区は幹部用住居が存在する高級住宅地であり、夕張北高等学校・夕張工業高校に通学する学生で賑わった。
かつての夕張鉄道線との接続駅で、広い構内には同鉄道の車両区・保線区などを有し拠点となっていた。 平和炭鉱(夕張炭鉱の1つ)の閉山により夕張鉄道線が廃止となり、構内は大幅に縮小された。
なお、沿線自治体の夕張市が、鉄道施設の無償供与と鉄道廃止に伴うバスターミナルの整備など、バス利便の向上等を条件に夕張支線の廃止に同意した事で、’18年春以降に夕張支線廃止が予定されている。 それに伴い当駅も廃駅となる予定である。
『かつての栄光』から幹線指定されていた
夕張支線も廃止転換対象に・・
この月の末で、かつては石炭輸送で賑わい旧国鉄でも五指に入る黒字線だった石勝線の夕張支線が路線廃止となる。 この事からも「鉄道が活きる為に必須なのは、旅客輸送より貨物輸送である」という事が明らかになった。
その石炭産業もエネルギー施策の時代の移り変わりと共に寂れて、ほぼ全ての炭鉱が閉山となってしまった。 石炭産業に携わる者は次々と流出し、今まで賑わっていたのが夢幻の如く、夕張の街だけが炭鉱跡を残したまま取り残されたのである。
石炭産業の衰退と共に取り残された夕張の街は、人も金も流失して街が窮乏していったのである。 それを取り繕う為に、融資を受ける金融機関の心証を良くするべくの不正な決算操作・・、いわゆる『ヤミ起債』問題を引き起こして『財政再建団体』(現在は『財政再生団体』)に指定されてしまったのである。
石炭の歴史村の施設もNPO法人に下げ渡し・・
かつてあった遊園地施設は
撤去されるまでの数年間は
風雪に野ざらしだったそうだ・・
※ 上下ともウィキペディア画像を拝借
その夕張市は、”町おこし”策でも迷走している。 石炭産業の遺構を活用したガラス工芸に失敗し、夕張メロンでも思ったように税収が上がらず、映画祭の開催でも招へいしたメディア側に主催権を奪われて撤退するなど、尽く失敗しているのだ。 こうして窮乏から抜け出せぬまま、今度はリゾート開発に乗り出したのである。
『幸福の黄色いハンカチ』のロケセットを
再現したという『思い出広場』も
雪に埋もれて放置されていた
:
観光客誘致を謳いながら
商売道具を放置する心根が
何をやっても失敗する原因なのだろうね・・
だが、これも海外資本・・、特に強欲なシナの資本介入を招き、結果は安く買い叩かれて”勝ち組”は《夕張リゾート》を買収して運営するシナ資本のみ・・となっている現状にある。
リゾート産業も外国資本に
安く買い叩かれて失なった
この街の再生はあるのだろうか?
※ ウェブサイト・じゃらんの画像を拝借
その他も町おこし策を『観光客の誘致』としながら、温泉施設はポンプの故障で1年以上放置するわ・・、『道の駅・ゆうばり』のトイレは豪雨災害で壊れたまま放置で24時間の使用(昼間時は農協スーパーのトイレの間借り)ができないわ・・、歴史的に貴重な遺構である三弦橋をダム湖に水没させるわ・・と、観光客誘致どころか自爆行為に走っているのである。
1年以上閉鎖が続いている
夕張温泉・ユーパロの湯
:
閉鎖を知らずに訪れた時は
前のアーチ門の大半が雪で埋まっていたよ
※ グーグル画像を拝借
正直言うと、夕張支線の廃止問題がなければ、風呂もなく、『道の駅』も使えず、歴史的景観を水没させるような街を観光で訪れようとは思わないのである。 夕張で唯一訪れる目的となる、花の名峰・夕張岳も既に登頂済だしね・・。
この貴重な文化遺産を
ダム建設の公共事業費
欲しさに水没させるとは・・
※ ウィキペディア画像を拝借
その『町おこし策』がメチャクチャな夕張の街が、次に支援を受ける為にやった事は石炭輸送を失って赤字となった鉄道の廃止で、夕張支線を廃止にするその思惑は廃止をせがむJR北海道からの無償の用地下げ渡しと、バス転換におけるバスターミナル建設の為の国や道からの資本投入や融資である。
でも、観光でなりわうのなら、”使えない”と断じた鉄道をも活用しての観光客誘致が必要なのである。 鉱山が閉山となった街でも、栃木の足尾銅山は旧足尾線の《わたらせ渓谷鉄道》とタイアップして観光客誘致に成功している。 なぜなら、道の細い山奥に所在する鉱山街ではバスでの観光客輸送は安全面に問題があり(特に冬季)、観光客の心証も「訪れるのが危険な所は避ける」ようになるからだ。
こんな貴重な建築遺産を
水没させるような街・・
:
道路の安全を問う以前に
観光客の心証は最悪となろう・・
※ ウィキペディア画像を拝借
それに、マイカーでやってくる観光客の動向ほど当てにならないモノはないのである。
しかも、夕張までの道のアクセスもそれほどに良くなく、しかも風呂も『道の駅』も壊れたままで放置・・とくれば、(マイカーの)観光客に「来てください」という方が無茶なのである。
お定まりの撮影地で
それなりのモノも撮れたし・・
:
これで夕張支線を終えようと思っていた
そんな夕張の街への疑念もあって、ワテも「夕張支線の『撮り鉄』を終えたら、早々に引き上げよう」と考えていたのである。 そして、お定まりの撮影場所でそれなりに満足できるショットが撮れて、「夕張支線は廃止となるから、これで終わり・・」とドライな気持ちで引き上げたのである。
撮れた写真とは裏腹に
ドライな気持ちが先行していた
だが、根室の《春国岱》や《温根沼》、層雲峡の氷瀑などをめぐっている内に、「夕張支線はアレで足りたのかな?」と思うようになってきたのである。 「路線廃止となる・・」それは、もう二度と撮れなくなる事なのだ・・と今更に気が着いたのである。
普通なら訪れて撮れただけでも
幸運この上ない事なのだが・・
:
若き日に追い求めた情熱の熱さが
このような感情を呼び覚ましたのだろうね・・
それは、かつての廃止ローカル線で何度も味わった「口惜しさ」なのである。
そう・・、いくら撮っても「もっと撮ってればよかった」、「あのアングルを試せていたらなぁ・・」という、”ないモノねだり”の贅沢な後悔である。 まぁ、他の人から見れば、「訪れる事ができて、写真を残せただけでも幸運」なのだけれど・・。
それで、宗谷ラッセルを撮る予定を変更して、急遽夕張支線の方へレンタカーを向かわせたのである。 でも、風呂もなく、『道の駅』も使えず・・の悪条件は変わりなく、訪れるにあたって「食事の予定」と「泊る(もちろん車寝)場所」は、夕張に向かう道中で念入りに計画を練ったよ。
撮影地はこの場所と決めたよ
:
向かっている最中は撮影イメージより
今晩の夜食の方が気になって・・(笑)
それで、層雲峡温泉で早めに風呂に入り、今晩の夜食は夕張のセイコーマート(できたてのカツ丼が美味い!)と決めて、高速を飛ばして岩見沢から夕張に入る。 その時ふとイメージで思い浮かんだのが、「消えゆく路線を惜しむ感情の表現方法」だったのである。
撮りながら思った事 それは・・
:あと何回街に向けて
テール灯をかざすのだろう・・
あと何回・・
街から戻ってこれるのだろう・・
せっかく再度夕張を訪れても、前と同じくお定まりの撮影地で撮るのでは計画変更までして来た意味が無いのであるから。 ・・で、思いついたのが、「去りゆくテールランプ」の情景である。
かつては炭鉱経営者など富裕層が居住する鹿ノ谷から夕張の街へと向かう列車のテール・・、「この情景をもって、夕張支線とお別れする事にしよう」と思いながら、静かにレリーズを落とした。
観光客を呼び込むには
あまりにも雑な夕張という街・・
:
恐らくこのテール灯が
ワテ最後の『夕張』だろうな・・と
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路線の思い出 第308回 奥羽本線・山形駅 〔山形県〕
上空から俯瞰した山形駅
※ ウィキペディア画像を拝借
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’15) 福島〜青森 484.5km 5140 / 156
運行本数('19)
山形新幹線【つばさ】福島〜山形 上下とも9本
山形〜新庄 上下とも10本
奥羽本線・山形発着の普通列車 福島〜山形 下り18本・上り17本
(上り始発の1本を除き全列車米沢〜山形の運行)
山形〜新庄方面 下り18本・上り17本
(村山・天童止りの区間運行も含む)
仙山線 仙台〜山形 快速 7往復、普通 11往復
左沢線 山形〜左沢 12往復
山形〜寒河江 下り4本・上り6本
寒河江〜左沢 1往復
山形駅(やまがたえき)は、山形県山形市香澄町(かすみちょう)一丁目にあるJR東日本の駅である。 駅構造は3面7線を有する駅で、橋上駅舎となっている。 直営駅(駅長・助役配置)で、管理駅として奥羽本線・ 羽前中山駅〜袖崎駅間、仙山線・面白山高原駅〜楯山駅間の各駅を管理している。
2017年度(平成29年度)の1日平均乗車人員は10,759人との事で、山形県内では最も乗降人員が多い駅である。
新幹線ホームは単式・切欠きホーム1面2線(1・2番線)で、1番線の新庄方が行き止まりとなっていて、新庄発着列車は2番線を使用する。 ホームの長さはどちらも山形新幹線7両分である。
ホームの新庄寄りに新幹線乗換改札口がある。
在来線ホームは2面5線である。 3・4番線は島式ホーム1面2線で、標準軌の奥羽本線が使用する。5〜7番線は島式・切欠きホーム1面3線で、狭軌の左沢線・仙山線が使用する。
6番線は、5番線新庄方面の一部を切り欠いたものである 。3・4・7番線ホームの長さは在来線10両分あるが、沿線の他の駅の長さが6両分である事から、最高編成は6両となっている。
各ホームにエレベーターとエスカレータ(常時上りとして使用)が設置されている。
当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は奥羽本線のみである。 だが、当駅は奥羽本線上を走るミニ新幹線である山形新幹線の停車駅であり、奥羽本線の在来線と2つの路線が存在しているように見える。 また、羽前千歳駅を終点とする仙山線、北山形駅を起点とする左沢線の列車も当駅まで乗り入れている。
この両路線は軌間1,435mmの標準軌の線路を使用する山形新幹線及び奥羽本線の在来線とは異なり、一般的なJR在来線と同様に軌間1,067mmの狭軌である為、両路線の列車は当駅〜北山形駅〜羽前千歳駅間では、標準軌と並行して設けられた狭軌の単線を走行する。
イメージとしては
マイナーな県庁所在地駅だけど・・
※ ウィキペディア画像を拝借
イメージとしては東北の県庁所在地駅でも最もマイナーな評価を受け、首都圏はともかく関西からだと真に『みちのく』のイメージが被さる山形駅だが、イメージとは逆に関西からでも東北の各県では仙台と同様にアプローチの容易な県なのである。
それは近鉄の夜行高速バスが大阪〜山形を毎日運行していて、価格も新幹線で関西圏から東京に出るだけ・・よりも安いからである。 また、仙台は観光地としてはコレといったモノもなく、東北の各県への中継点として素通りしてしまう事が多い(但し、ワテ基準)が、山形は温泉や山を中心とする自然公園、城郭などの史跡が多くあり、「着いたその地が観光地」の様相を呈しているのである。
関係ないけど・・
山形県の山での『一番星』はコレ・・
:
この記事でワテが撮ったの
コレを含めて3枚だけだしィ
だから、ワテも朝日連峰や出羽三山の月山へ訪れるのによくこの山形を降り立って、山旅の起点にしているのである。 それに『○鉄』の目からしても、左沢線や米坂線など『撮り鉄』の対象路線が近くにあるので、ワテのスタイルである「山から下りて時間が余ったら、チョコっと『○鉄』」ができる所もいい。
駅の東西を結ぶ
開放感あふれる駅回廊『アピカ』
※ ウィキペディア画像を拝借
その山形駅であるが、結構センスがいい・・というか、歳の中心駅にしては洒落た造りなのである。
それは駅の東西を結ぶ『アピカ』とかいう駅回廊のデザインが秀逸で、また駅の西口にあるワシントンホテルもギリシャ神殿を模したデザインで、この駅回廊と見事に調和しているからである。
都市建造物には全く興味のないワテだけど・・
コリは目を見張るものがあったよ
※ 山形市の観光案内ウェブより
・・都市圏のシンカンセン(コレだけはどこの駅でもデザイン的に浮いていて今イチ)の停まる駅で、ワテがデザイン的に感心したのは、この山形駅位だろうね・・。 でも、シンカンセンは、関東圏に居住する人でないと全く使えないけど・・。
それと、駅周辺観光の観点でも、この山形駅はワテ”イチ押し”なのである。 それは、駅の北北西に位置する旧山形城の『霞城公園』である。 ここのいい所は市民の憩いの場として『入場無料』な所もさる事ながら、県立の博物館や国の重文に指定された済生館病院本館を使用した郷土館、市営球場や武道館などがあって、一日楽しめる史跡公園だからである。 だが肝心の城の本丸は、区間整理で撤去されて城郭のみしか残されていないが・・。
霞城公園随一のお薦めスポット
『最上義光歴史館』
※ 最上義光歴史館のウェブより
その中でもお薦めなのが、山形の郷土の英傑・最上義光公関連の歴史探索と、桜の季節の城郭を染める桜回廊だろう。 ワテは残念ながら桜の季節にこの山形駅を訪れた事はないが、桜の季節になると傍を通る奥羽本線が、観桜の為に徐行運転のサービスをする程である。
これなら『撮り鉄』しに行きたいかも・・
※ グーグル画像を拝借
そして、ワテも見た事のある最大の”お薦め”が、最上義光公の銅像である。
それは・・、とにかく『カッケー』のである。 まぁ、ワテは元々日本史が好きで、大河ドラマの『独眼竜正宗』を視て絆されて、放浪旅の時(メインは東北の山登り)に最上義光公を訪ねてこの山形城址を訪れたのだが、その時に目にしたこの銅像でいっとき最上義光公に熱中したよ。
長谷堂合戦を指揮する
最上義光公銅像
:
コリはカッケー過ぎるわ・・
霞城公園には
この山の帰りに寄ったの・・
まぁ、大河ドラマの『独眼竜正宗』でも、渡辺謙演ずる伊達政宗より、原田芳雄演ずる最上義光が完全に『喰って』いたし・・。 それに史実で比べても、自ら扇動した大崎一揆を含めて度々領内で一揆を引き起こして領民からはあまり慕われてなかった伊達政宗に対し、治世の間は一回とも一揆をおこさず、「源五郎は役をばかけぬ」と領民に親しまれた最上義光公の方が、東北での功績も遥かに上なのである。
また関ケ原での功績でも、『第二の関ケ原』と云われる山形・長谷堂城合戦で上杉25000の軍勢を足止めにした軍功など、孫の代で家中不届きの廉で改易となって目立たないが東北随一の武将なのである。 現に、関ケ原の戦いも、最上氏が山形で足止めにしていた上杉勢25000の参戦があれば、恐らく結果は逆となっていたであろう。 昔の戦は、不利だと悟ると日和見参戦の武将はこぞって『勝ち馬に乗った』のだから・・。
あらら・・、駅の事を語る項目が、山形の郷土史になっちまったけど、まあいいか・・。
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