|
『私の訪ねた路線』 第134回 三江線 〔島根県・広島県〕
桜の駅・粕淵にて
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
江津〜三次 108.1km 469 / 1109
運行本数(’13)
江津〜三次 下り2本・上り1本 , 江津〜石見川本 上り1本 , 江津〜浜原 3往復
石見川本〜三次 上り1本 , 浜原〜三次 2往復 , 口羽〜三次 1往復
《路線史》
三次と江津を江ノ川沿いに結ぶ『陰陽連絡線』として建設されたが、全通年が1975年と遅く高速道路網も完成していたので、この目的に供する事なく地方閑散線へと転落していった路線である。
路線の建設は江津・三次の両端から開始され、江津側の北線は1930〜37年にかけて浜原までが開通した。 一方、三次からの南線は、1955〜63年にかけて口羽までが開通した。 未通区間の建設はスローペースで進められ、建設開始から45年もかかってようやく未通区間が開通して全線開通となる。
その数年後に国鉄再建法が施行されて地方線建設の大半が凍結されるなどしたので、未通区間の開通は奇跡的に間に合ったと捉えてもいいかもしれない。 もし、南線と北線に分断されたままであったならば、500人キロ/kmを切る輸送量からしても、恐らく廃止対象候補に名を連ねて廃線の憂き目に遭っていた事であろう。 路線上で有名なのは、階段116段の駅・宇都井駅であろう。 この駅は両端が山に囲まれた谷を高架で跨ぎ、その真上に駅が設けられた為、駅ホーム上に立つには谷にある集落から30m・116段の階段を昇る必要がある構造となっている。 沿線は江ノ川の流域に沿う事もあり、周囲が山で囲まれた地形である為、沿線の至る所で渓流や瀑布をかけているのが見られる。 『日本の滝100選』で落差126メートルの常清滝を筆頭に、観音滝や竜頭ノ滝、千丈渓などの名爆が潜んでいる。 江ノ川を渡る
《乗車記》
三江線は路線名の通り、広島県の三次と島根県の江津を結ぶ路線だ。 路線建設の目的は前述の如く陰陽連絡であったが、路線の全通年が’75年と遅く、この頃は既に高速道路網が完成しつつあった事や、路線が江ノ川沿いに沿って無駄に迂回するなど、陰陽連絡の用に供する事は全くなかったようである。
そして、国鉄時代に『ローカル線』と称された路線のほとんどが廃止・淘汰され、そして辛うじて残った岩泉線や只見線も災害で路線が寸断され、復旧せぬまま放置されてやがては廃止されるであろう流れとなっている今、この三江線が我が国の路線で最もローカル線で、そのローカル線の最後の生き残りという事になるだろう。 それでは、その奇跡的に現代に生き残ったローカル線に乗ってみよう。
春が野山のキャンバスを
彩る頃がいいだろう
江津駅の3番線が、三江線の発着ホームとなる。 山陰本線の長大編成の優等列車の発着に供された1・2番ホームに比べて、3番線はこじんまりとして短いホームなので、すぐに判るだろう。
その江津を出ると、すぐに右に折れて江ノ川の川縁に出る。 程なく江津本町だ。
江津本町は駅名からは市街地の中に置かれた駅に感じるが、駅の周囲を見渡しても穏やかに流れる江ノ川のみで民家はほとんど見当たらない。 この駅まで江津から僅か1.1kmだが、ここまで人の気配がないとは驚きである。 何でも、ここ数年の1日の利用者はゼロとの事である。
もちろん、駅は待合室のみの棒線駅だ。
次の千金も、待合室のみの棒線駅。 だが、周囲に民家が数件ある分、江津本町より駅らしい。
駅前は細い2m道路が通るのみで、江ノ川対岸にある街からすると隔世の感がある。
千金で少し川から離れるが、すぐに川縁に戻る。 やがて、川平に着く。 木造駅舎の駅舎があるが無人駅。 元は交換設備のある相対ホーム駅だったが、跨線橋と対面ホームは放棄・閉鎖されている。
線内の多くの駅で交換設備が撤去されて・・
粕淵にて
次の川戸は、旧桜江町(現 江津市)の中心だった駅だ。 元は町の中心だったので、周囲にはそれなりに民家がある。 かつては交換設備のある有人駅だったが今は無人駅となり、交換設備も前駅の川平同様に廃棄されている。 この川戸駅から5kmほど南に、美しい渓谷美を魅せる千丈渓がある(詳細はリンク先へどうぞ)。
木漏れ日が宝石のように輝いて
千丈渓・三三ノ滝
次の田津は待合室がホーム上に乗る棒線無人駅で、相変わらず江ノ川の畔にある。
田津の次は、モルタル駅舎の建つ石見川越だ。 駅舎がある事や近くに郵便局がある事などから、小集落前の駅である事が伺える。 駅の南2kmに龍頭ヶ滝という滝がある。
岩に染み入る落水の音に心が和む
龍頭ノ滝
次の鹿賀は、前出の田津と同じような待合室の棒線無人駅。 この駅の南1kmに観音滝がある。
この辺りは滝の宝庫である。
岩肌を踊る飛沫が美しい
観音滝
次の因原から江津市より川本町に入る。 因原駅前には広島方面に抜ける国道261号線が通るが、乗客と思しき人影は近くの『道の駅・かわもと』にあるバス停に集まるようだ。 一方の因原駅は交換設備は廃され無人駅となり、駅事務室は地元の運送会社に払い下げられている。
次の石見川本は、川本町の中心駅だ。 江津からの途中駅全ての無人化と交換設備の撤去で、この駅が最初の交換可能駅となっている。 駅は常時閑散としているが、駅前にある広島や太田市方面へのバス停は乗客で賑わっている。
石見川本を出ると木路原・竹と小集落にある小駅に止まっていく。 何でも、この両駅の1日の利用者数はゼロとなったとの事である。 次の乙原も同じようなシチュエーションの駅だか、集落が少ししっかりしているのか、1日の利用者が2人と前2駅よりはマシのようである。
春うららかな江ノ川流域をゆく
石見川本を出てから少し離れていた江ノ川は、次の石見簗瀬で再び寄り添ってくる。
石見簗瀬は木造駅舎があり、かつては島式ホームの交換駅だったが撤去されている。
駅舎のある駅の周りは、それなりの小集落が確立しているようだ。
次の明塚は江ノ川付近の小さく開墾された田畑にある棒線駅。 ホーム上の待合所は、囲いがなく庇があるだけだ。 この駅も数年前から利用客ゼロとの事である。
『国鉄バス』に『丸ポスト』
良き時代の雰囲気が漂っていたかつての粕淵駅舎 次の粕淵は美郷町(かつては邑智町)の中心駅である。 今は洋風の建物に建替えられたが、以前は鹿鳴館レトロの雰囲気漂う駅舎だった。 そして、春は桜並木のある花見の駅であったが、今はどうなっているのであろうか?
桜の駅・粕淵を発車する気動車
花見の宴会ができる駅
粕淵駅
花見の臨時列車も運転されていた 次の浜原は、1975年に三江線が全通するまでは北線区間の終着駅だった所だ。
駅前には全通を祝す石碑がある。 交換設備のある駅で、運行の数本がこの駅を折り返す運行形態を取っており、運用面では主要駅となっている。 だが利用客は、近年1桁に落ち込むなどジリ貧という。
浜原からは’75年開通の新線区間となる。 開通年が若く、今までの江ノ川に沿って蛇行していた線形から、川を橋で山をトンネルで貫いた直線的な線形となる。 駅も沢谷・潮・石見松原と、ブロックで囲った待合所の乗る棒線駅と規格された内容の駅が続く。
江ノ川を渡る三江線列車
続く石見都賀は、現在は合併により美郷町となった大和村の中心駅・・のはずなのだが、田圃に囲まれた築堤上に囲いすらない待合所のみの無人駅だ。 だが、島式のホームで交換設備は設けられている。
次の宇都井はTVで取り上げられた事もあるなど、線内では最も有名となった駅である。
それは地上から30mの高さに駅があり、高い塔状に設けられた116段の階段を伝う必要のある駅であるからだ。 これは山間のトンネルの間にある小集落に駅が計画された為に、地上から30mの高架上に駅を設けざるを得なかった為である。 だが、この駅も、近年は利用者がゼロとなってしまったようである。
筆者はこの駅で駅寝をした事があるが、その日は夏祭りがあったようで、打ち上げ花火を駅から見物できたラッキーな思い出がある。 次の伊賀和志も、沢谷駅などと同様のブロック待合所の駅。 路線が島根・広島県境の江ノ川を串刺し状に貫いている事から、新線区間ではこの駅だけ広島県に属している。
この駅も、利用客ゼロのようである。
次の口羽は、新線が開通するまでの南線区間の終端駅。 また、旧羽須美村(現 邑南町)の中心駅であった駅である。
従って木造駅舎と島式ホームの交換設備もあるが、無人化されてからは、駅舎の事務室が完全撤去されてがらんどうとなっている。
口羽を出ると、可愛(えの)川と呼び名を変えた江ノ川に沿ってゆく。 江平・作木口と庇のみの棒線駅に停まっていく。
←可愛(えの)川と名を変えた
江ノ川沿いをゆく
いずれの駅も所在地は島根県だが、集落のある川の対岸は広島県となっている。
作木口駅の東2.5kmに、日本百名滝に指定された常清滝がある。
秋の雨天の時に訪ねて・・
常清滝
次の香淀は、六角形のログハウスの駅舎が建てられている。 だがこれは後に建設されたようで、ホーム上は庇のみの待合所があるのみだ。 次の式敷は島式ホームの交換可能駅で、ログハウスの駅舎と駅前に大きな駐車スペースがある。
その後も可愛川の畔をゆき、信木・所木と庇のみの棒線駅に停まっていく。 次の船佐も前2駅と同じ格の棒線駅だが、ホームより離れた所に待合所があるだけマシだ。
以前は時刻表にも載らなかった
秘境駅・長谷に進入する三江線列車 次の長谷は、元仮乗降場からの昇格駅で、今も半数が通過する。 これは、地元の小中学校の廃校により三次に通学を余儀なくされた生徒の為に設けられた駅で、利用する生徒の安全の為に駅待合室も設けられている。 だが、もうこの駅を通じて通学する生徒はいなくなった様だ。
後は庇のみの棒線駅・粟屋と、桜の名所・尾関山公園の近くにある尾関山を経て、終着三次駅に着く。
かつては三次駅の広島寄りは端にあった切欠きホームの0番線より発着していたが、0番線は三次市の公共事業に供する為に収用されて、現在は島式ホームの3番線発着となっている。 |
私の訪ねた路線
[ リスト | 詳細 ]
|
『私の訪ねた路線』 第133回 大隅線 〔鹿児島県〕
桜島と大隅線列車
もう二度と狙えぬ情景となった今・・あの時の下手さが悔やまれる
大隅麓付近にて
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83) 廃止年月日 転換処置
志布志〜国分 98.3km 702 / 1082 ’87/ 3/14 鹿児島交通バス
廃止時運行本数
志布志〜国分 5往復【内 下り1本 鹿屋〜国分、上り1本 全区間 快速】
志布志〜大隅境 上り1本
志布志〜垂水 下り2本・上り1本 志布志〜古江 1往復
志布志〜鹿屋 下り2本・上り4本【内 快速1往復】
垂水〜国分 下り1本 大隅境〜国分 上り1本
《路線史》
大隅線の歴史は、軽便鉄道を始まりとしていて少々複雑だ。 まず、1915年に路線の中央部である鹿屋〜高須が、『南隅軽便鉄道』によって開通した。 軽便鉄道という事で、軌間は762mmであった。
その翌年、『大隅鉄道』に社名を変更し、1923年までに鹿屋から先は串良まで、高須の先は古江まで延伸する。 そして、1935年に762mm軌間のまま国有化され、『古江線』と称された。 同時に、国鉄自らにより志布志〜東串良を開通させ、翌年の1936年には串良まで延伸を果たし、形の上では志布志〜古江が全通した。 しかし、国鉄買収と同時に改軌工事に着手したのだが、その完成が1938年までかかり、この2年間は串良で乗換を余儀なくされる不便な運用となっていたようである。 従って、改軌完成までは志布志〜串良までを『古江東線』、それ以西を『古江西線』と呼び分けていたようである。 以降は1961年に海潟まで、そして1972年にようやく国分までが全通した。 しかし、その頃は国鉄の赤字が慢性化の兆しを見せかけた時期で、『赤字83線の廃止バス転換勧告』によって路線が消え始めた時期と重なるのである。 そのような訳で1980年には、全通後10年と経たずに国鉄再建法により『廃止転換候補の第二次路線』に指定されてしまうのである。 九州地方の廃止路線に関しては、全体的に“諦めムード”が漂っていてあまり廃止反対運動は盛り上がらなかったようで、国鉄からJRに移行する直前の1987年3月に“JRに引き継がせない”という国鉄の目論む“予定通り”といっていい程のタイミングで廃止された経緯がある。 そして今は、転換を引き受けたバス会社も不採算を理由に撤退を表明しているとの事である(現在はJR九州バスは撤退し、鹿児島交通の系列会社である三州自動車バスが運行している)。 路線は南国のシンボル『桜島』を望みながら走る区間があり、この区間は誰もが“優れた鉄道情景”として推したとの事である。 そういう意味では、下の写真でも記したように、あの頃の腕の未熟さが悔やまれるのである。 また、桜島の噴火による降灰を受け、線路は常に灰に埋もれていた記憶がある。 《乗車記》
大隅半島を周回していた大隅線は、今は周辺の町と合併して霧島市となっている旧国分市の国分駅から出ていた。 周辺の町を併合して県境の霧島山域までの行政区となった霧島市は、県都についで鹿児島県第二の都市となっているらしい。 そのせいか、駅も鉄筋コンクリート造の“町の代表駅”の風格のある駅である。
その国分駅の駅母屋側の宮崎方向に、『0番線』という切欠ホームがあり、そこが大隅線の専用ホームであった。 国分駅を出ると、宮崎側に進みだす。 程なく日豊本線と分れて90度右に折れて南下していく。 カーブを終えて進路が南になると、金剛寺に着く。 駅はホームのみの棒線駅で、形態は南国仕様の庇だけの待合ボックスであった。 駅名の由来は、薩摩藩の藩祖・島津義久の墓のある寺からきている。
続く銅田・敷根・大隅福山と、先程の金剛寺と同じく南国仕様のブロック塀に庇が乗るだけの棒線駅が続く。 しかも、駅名標の錆具合の酷さも“同じく”である。 特に大隅福山は、霧島市に合併前は福山町という行政区でその町の中心駅であったにも拘らず、この体たらくであった。
次の大廻はシラス台地上の高台にあり、先出の駅と同じくの南国仕様の棒線駅であった。
大廻を出ると垂水市に入り、大隅境に着く。 この駅は前後をトンネルで囲まれており、海沿いのシラス台地上に駅にも拘らず、山中の雰囲気を醸し出していた。 また、国分から垂水までの36.7kmの区間で唯一の交換可能駅でもあった。 だが、駅員がいない無人駅で、しかも駅舎はおろか南国仕様の待合所さえなく、雨避けの庇のみの島式ホーム1面だけの“浮島駅”であった。
この粗末な交換駅を出ると大隅二川・大隅辺田・大隅麓と、再び南国仕様の庇とブロック塀の待合所のある棒線駅に停まっていく。 駅だけを見ると全く変わり映えがなく、列車が全く進んでいない錯覚を覚えそうだ。 だが、シンボルの桜島が一駅毎に車窓に大きく浮かび出し、進んでいる事が確認できる。
今なお噴煙をたなびかせる桜島
最も桜島に近づく大隅麓では、常時噴火する桜島の火山灰が線路を埋め尽くし、列車が通る毎に線路に積もる火山灰土を巻き上げていた。 大隅麓を出ると、少しづつ桜島より離れていく。
次の海潟温泉は駅名を聞けば温泉を控えた大きめ駅を想像しがちだが、先出の駅同様のシラス台地上の高台にある南国仕様の待合所の乗っかる棒線駅でしかなかった。
これまでの区間の駅と駅舎で見れば、ほぼ全てが同じで全くもってつまらないが、次の垂水は別格だ。
素朴で味のある木造駅舎で、南国の民家を見ている様である。 だが、垂水市の代表駅としては、かなり物足りない規模の駅でもある。
垂水を出ると、浜平・柊原・諏訪・新城と更に待合所が粗末な造りとなった南国仕様の棒線駅が続く。
車窓からの眺めは今までの桜島に変わって、錦江湾対岸の指宿の街と薩摩半島側のシンボル・開聞岳が霞んで見えてくる。 錦江湾沿いに国道220号線と並走しながらゆくと、鹿屋市に入って最初の駅の古江に着く。
古江駅は交換可能駅で、委託の駅員もいた。 762mm軌間の軽便鉄道として開通した路線の創世記は、この古江が終着駅であった。 そして、軽便鉄道の762mmからの改軌は、国鉄編入の1935年から1938年までと3年かかっている。 なお現在は、鉄道記念館として駅舎が保存されている。
古江から先は路線建設の違いからか、駅舎が各駅毎にバラエティに富むようになる。
次の荒平は海を望む高台に駅が設けられ、路線廃止後も隣接する菅原・荒平天神の参詣者休憩所として使用されていたが、近年取り壊されたという。
線路は次の大隅高須まで海沿いをゆく。 大隅高須は倉庫のような建付けの駅舎と駅舎から離れた所にあるホームと、かつて交換設備があった様相のある棒線駅である。 大隅高須を出ると、線路は大きく左へ折れて大隅半島を横断していく。
次の大隅野里は、旧日本海軍の鹿屋飛行場の海上自衛隊鹿屋基地が近くにある。
駅の開設理由も鹿屋飛行場への物資輸送にあったといい、以前は飛行場までの専用の引込線があったという。 駅はコンクリートブロック造の箱型駅舎で、現在はサイクリングロードの休憩所として使われている。
大隅野里の次は、線内最大の駅の鹿屋に着く。 駅に入る前に線路は大きく湾曲して、列車が走行できるギリギリのΩカーブをついて鹿屋駅に入線する。 これは元々この駅がスイッチバック駅だった名残で、それを解消するべく路線を付替えた結果が湾曲とΩカーブである。
この駅は路線最大の駅という事で、国鉄直営の駅員配置駅で列車交換設備も有していた。
また、駅舎も2階建てで、駅舎より高台にあるホームに隣接して貨物ヤードも有していた。
なお駅跡には、鹿屋市役所が移転しているとの事である。
鹿屋を出ると大隈川西・永野田と南国仕様の待合所のみの棒線駅が続く。
だが、待合所は細長くなり、路線建設をした大隅鉄道という軽便鉄道の志向が出ている。
永野田を出ると、旧吾平町(現 鹿屋市)の中心である吾平に着く。 交換設備のある国鉄直営の有人駅であった。
次の論地は棒線無人駅であるが、待合室は『南国仕様の庇だけ』ではなく、囲いのあるモノであった。
続く大隅高山は戦時は軍事物資、戦後は戦後復興産業の物資貨物が大々的に取り扱われた駅であったという。 もちろん交換設備も有し、旅客の他に側線が数本敷かれ、前述の貨物受渡しの貨物専用ホームもあった。 また、内之浦の宇宙観測所のロケット打ち上げ時には、ステーション建設やロケットの資材がこの駅を通じて運ばれたという。
次の下小原は棒線無人駅だが、先出の論地同様に囲いのある待合室を有していた。
鹿屋を出てからの大隅線は吾平町や高山町(現 肝付町)を迂回していたが、鹿屋から直線的に大隅半島を短絡する国道220号線と合流して串良に着く。 この駅は旧串良町(現 鹿屋市)の中心駅だが、木造の駅舎はかなり朽ちていて、廃倉庫のようであった
この串良は、大隅線の建設を担った軽便鉄道の大隅鉄道の終着駅で、1938年の改軌工事完了までは762mm軌間であった。 また、この駅以遠は国鉄に路線開設が成された為に軌間が1067mmで、この駅が軌間幅の違う路線の中継駅となっていた。
前述の如く、串良からは国鉄による開設区間となる。 次の東串良は志布志から国鉄が建設した区間の終着駅だった所で串良駅とは600mしか離れておらず、列車に乗り遅れても走って追っかければ間に合った・・という逸話があるという。 駅舎は木造モルタル造で交換設備と側線を有していたが、末期は交換設備や側線は放棄されて棒線駅と化していた。
次の三文字は妻面に入口のある木造駅舎を有する棒線駅だが、建物につっ支え棒が必要な程に傷んでいたようである。 次の大隅大崎は大崎町の中心駅だが、駅舎はかなり古い木造駅舎だった。
だが、交換設備を持つ国鉄直営の有人駅であったとの事である。
大隅半島を周回した長い路線も、次の菱田で漸く太平洋側の海際に出る。
菱田は交換設備のあった木造駅舎を有する駅だが、無人化と共に撤去されている。
菱田駅を出ると、海から昇る朝日を美しく望める菱田川の河口を渡り、左側より同じく廃止となった志布志線と合わさって志布志に着く。
以前の志布志駅は機関区や保線区を有し、貨物操車場も稼動していた鉄道の要衝であったが、この大隅線と志布志線の廃止によって日南線のみの棒線突端駅となってしまった。 そして機関区や保線区、貨物ヤードは全て廃され、駅舎の向きは突端駅を示すが如く、線路に垂直の向きに移設され建て直されている。
その駅舎建て直しの際には無人化もされていて、機関区跡の広い空地と共に鉄道の地位低下が如実に示されていた。
また、メインサイトより『桜島』もどうぞ。
|
|
『私の訪ねた路線』 第132回 標津線 その2 厚床線 〔北海道〕
何もない原野を1日数本往来していた
開拓鉄道の名残 通称『厚床線』
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
標茶〜根室標津・厚床〜中標津 116.9km 391 / 1366
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’89/ 4/30 阿寒バス・根室交通バス 〔西春別線〕 標茶〜根室標津 6往復
標茶〜中標津 下り1本
中標津〜根室標津 上り1本
〔厚床線〕 厚床〜中標津 4往復
《路線史》
根釧原野の抱く林野資源と鉱山資源の開発を目的とした、典型的な北海道開拓路線として建設された路線である。 当時、北海道庁により殖民軌道(主として動力は馬)が敷設されていたものの、その輸送力には限界があり、また馬の維持などの問題やそれに絡む離殖者の増加も問題に挙がり、開拓民によって鉄道建設が切望されていたのである。 従って、開拓民の利便を図るべく原野に軌道が敷かれる事となった訳である。
標津線の駅名入り硬券乗車券
根室標津より先、知床半島の付け根を横断して斜里まで至る『根北線延伸構想』もあり、実際には斜里〜越川間に『根北線』が一部営業運行をしていた時期もあった。 だが、時は既に遅く、北海道の開拓事業は戦前の事であり、また過疎化も進んだ事から、この『根北線』は営業不振により、開通から僅か13年で早々と廃止(廃止年月日は1970年11月末)となり消え去っていったのである。
野付・トドワラの観光案内を兼ねた
根室標津駅の記念入場券 そして、この標津線も先程に記述した通り、開拓民の利便を図るのを主目的に“何もない原野”に鉄路が敷かれた為、利用者はジリ貧の様相を呈していた。 こうして、国鉄再建法により第2次廃止転換対象路線に指定される。 この路線も、天北線や名寄本線などと同様に長大路線という事で一時承認が保留されたものの、並走する国道の整備などで問題はクリアされたとして廃止承認が正式になされ、1989年4月末に廃止された。
国後島を望むこの場所で
標津線列車を撮れなかったのが心残りだ
「標津線」オレンジカードより
標津線は“本線”格の標茶〜中標津〜根室標津と、“支線”格の中標津〜別海〜厚床の通称『厚床線』からなる“T字型”の路線である。 運行本数も標茶〜根室標津の6往復強に対して、『厚床線』は僅かに4往復のみの運行となっていた。 だが、建設の目的からいうと、開拓路線として開拓民の強い要望を受けたのは“支線格”の『厚床線』であり、“本線”は釧路への短絡ルートを目しての建設という付随路線であったのである。
野付半島の風物詩
トドワラ
終点の根室標津は、国後島の望める『国境の街』である。 また、尾岱沼や野付半島への観光資源も豊富にある。 また、知床・羅臼への起点とも成りうる位置でもある。
昔、釧路から急行【しれとこ】が中標津まで運行していた時期もあったが、これらの豊富な観光資源を少しでも取り込んでの“観光鉄道”として成り立つ事ができなかったのかな・・という思いが募る路線でもある。 不毛の無人荒野に
空気を運ぶ列車が行き来する
《乗車記》
標津線は標茶から根室標津へ向かう本線格の〔西春別線〕と、中標津から分かれて別海町の原野地帯を横断して根室市の厚床に至る〔厚床線〕があった。 今回は、その〔厚床線〕の在りし日の《乗車記》を語ろうと思う。
路線敷設の目的は、前述した《路線史》にも記した通り原野開拓における開拓路線であり、入植者からの要望が強かったのは本線格の〔西春別線〕よりも、こちらの〔厚床線〕であったのである。
だが、開拓という一時代を担うという使命を終えると、「人煙稀な原野に敷かれた運ぶべきモノのない鉄路」という現実だけが残ったのである。 そして、廃線を控えた末期は、1日僅か4往復のみの運行の廃止対象路線の支線格となっていた。 それでは、その果てしない原野の中をゆく使命を終えた開拓路線の情景をみてみよう。
根室市の“字”集落である
厚床が始発駅だ
その駅はキャッチフレーズが『地平線の見える駅』
と云う程の原野に位置していた 原野をゆく開拓鉄道〔厚床線〕の始発駅は、根室市の“字”厚床という原野の中の小集落であった。
その厚床駅の真ん中のホーム・2番線が、〔厚床線〕の発着ホームであった。
このホームから1日僅か4便の列車が発車していたが、〔厚床線〕の列車の全てが根室本線の列車に接続しており、〔厚床線〕列車の発着時は静まり返った原野の中の駅が生気を取り戻す瞬間でもあった。
厚床駅の“2番線”は
1日4本の列車のための専用ホームだった
このように、原野の中の駅が息を吹き返した瞬間が、〔厚床線〕列車の発車時刻である。
その2番線で車体を振るわせている列車に乗り込む。 厚床駅を発車すると、程なく根室本線より離れ原野の中に飛び込む。 根釧原野の湿地帯がおりなす本当に何もない不毛の原野をゆくのだ。
これ程までに何もないと、何を基準に語っていいか戸惑ってしまう。
厚床より11.5km、時間にして16〜17分の間、人煙どころか全く建物のない原野湿地帯を行くと、ポツリポツリと開拓農家と酪農に供されるサイロが見えてくる。 程なく奥行臼だ。
周囲は酪農を生業とする農家だけで、お隣さんまで数キロ離れているというような所だ。
入場券も売っていた
奥行臼入場券
だが、そんな利用客が期待できない原野の小集落の駅でも、廃止が諮問される1980年代の中盤まで委託であるが駅員がおり、入場券も販売していたのである。 そして、外から見れば廃屋と思しき木造のバラック駅舎であったが、中は清掃が行き届いて塵一つ落ちていなかったのが印象的であった。
ほとんど廃屋・・だった
奥行臼駅
その駅の向いに《奥行臼駅逓》という史跡があり、鉄道在りし時の“現駅”であった奥行臼駅舎の朽ち具合に対し、史跡である《奥行臼駅逓》の立派さがヤケに対比的であった。
駅の真正面にある北海道重要文化財
『奥行臼駅逓所』
こちらの方が立派だ
当然だが・・ 奥行臼を出ると、再び原野の中に舞い戻る。 戻るといっても、奥行臼にしても数件の民家が存在しただけであるから、それがなくなっただけである。 再び12kmという長い区間、変化のない原野をゆくが、周囲の情景が不毛の湿地帯よりサイロの点在する広大な牧草地に変わる所に、重苦しさから開放された心地となる。
春遠からじ
何もない荒野にも遅き春の訪れが・・
牧草地から小オアシスでも到着したが如く、町集落が見えてくると別海駅に着く。
駅は、以前最も人口密度が低い町として有名だった別海町の中心にあって、交換設備がある駅員常駐駅だった。 そして、両端駅を除く〔厚床線〕の利用客の大半が、この駅の乗降であったとの事である。
別海を出ると、更に開拓農家のパイロットファームのサイロが点在する眺めとなる。
牧草地帯で草を食む牛達を眺めながらゆくと、棒線ホームと物置のような朽ちた待合所のある平糸に着く。 駅は国道から小道に入った中にあり、廃駅後は草むらと化しているという。
平糸を出ると、また相変わらずの牧草地帯をゆく。 厚床からずっと原野地帯をゆくが、厚床から離れるに従って開拓農道が現れるなど、開拓が整然と行われていたのが判る。
広大な原野を運ぶべきモノのない
『空気輸送』の列車がゆく
これが開拓の使命を終えた鉄路の末路なのか・・
程なく、別海町の小集落である春別に着く。 駅舎は味のある木造駅舎で、ホーム及び駅建物周辺が土場で広く、駅を扱うドラマのロケ地のような情景を持つ駅だった。 ちなみに、この駅も廃止が諮問される1980年代中盤まで駅員がいた・・との事である。
春別からは、春別原野という湿地帯の開拓地をゆく。 だが、『別海』から『春別』に名称が変わっただけで原野である事には変わりなく、同じような眺めが続く。 程なく、サイロがポツリポツリある農場前に、板張りの乗降場然とした協和駅に着く。 この駅を見ると、この農場の専用駅のように思えるのである。
開陽台を紹介した中標津駅スタンプ
原野の中のパラレルワールドな町
の方がしっくりとくるのだが・・
協和を出ると、また元に戻って牧草地となった原野をゆくが、ある時突然・・という形容詞が当てはまるが如く、パラレルワールドの中にハマり込んだ感覚を見る事になる。 学校や商店に続き、東武や長崎屋という大都市資本の百貨店などの商業施設や、車が数百台駐車できる大店舗用駐車場を目にする事になるのだ。 それらパラレルワールドな情景にハマり込んだ戸惑いを抱きながら、終点の中標津に到着する。
中標津市街から10km程離れた所に
“地球が丸く見える”という景勝地・開陽台がある その通り、飛行場もあるなど施設の整った中標津は、根室市を差しおいての根室支庁の実質的な中心であるのだ。 そして観光地としても、地平線が見える開陽台や国境の町・標津や摩周地域への空港拠点として重宝されている。
〔西春別線〕は、『第131回 標津線 その1 西春別線』を御覧下さい。 また、旅行記として『オホーツク縦貫鉄道の夢』もどうぞ。 |
|
『私の訪ねた路線』 第131回 標津線 その1 西春別線 〔北海道〕
原野の長大なアップダウンをゆく
泉川〜光進
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
標茶〜根室標津・厚床〜中標津 116.9km 391 / 1366
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’89/ 4/30 阿寒バス・根室交通バス 〔西春別線〕 標茶〜根室標津 6往復
標茶〜中標津 下り1本
中標津〜根室標津 上り1本
〔厚床線〕 厚床〜中標津 4往復
《路線史》
根釧原野の抱く林野資源と鉱山資源の開発を目的とした、典型的な北海道開拓路線として建設された路線である。 当時、北海道庁により殖民軌道(主として動力は馬)が敷設されていたものの、その輸送力には限界があり、また馬の維持などの問題やそれに絡む離殖者の増加も問題に挙がり、開拓民によって鉄道建設が切望されていたのである。 従って、開拓民の利便を図るべく原野に軌道が敷かれる事となった訳である。
標津線各駅の入場券
根室標津より先、知床半島の付け根を横断して斜里まで至る『根北線延伸構想』もあり、実際には斜里〜越川間に『根北線』が一部営業運行をしていた時期もあった。 だが、時は既に遅く、北海道の開拓事業は戦前の事であり、また過疎化も進んだ事から、この『根北線』は営業不振により、開通から僅か13年で早々と廃止(廃止年月日は1970年11月末)となり消え去っていったのである。 根室標津駅
「さよなら標津線」スタンプ
そして、この標津線も先程に記述した通り、開拓民の利便を図るのを主目的に“何もない原野”に鉄路が敷かれた為、利用者はジリ貧の様相を呈していた。 こうして、国鉄再建法により第2次廃止転換対象路線に指定される。 この路線も、天北線や名寄本線などと同様に長大路線という事で一時承認が保留されたものの、並走する国道の整備などで問題はクリアされたとして廃止承認が正式になされ、1989年4月末に廃止された。 鉄道百景にも推挙された原野のアップダウン
「さよなら標津線」オレンジカード
標津線は“本線”格の標茶〜中標津〜根室標津と、“支線”格の中標津〜別海〜厚床の通称『厚床線』からなる“T字型”の路線である。 運行本数も標茶〜根室標津の6往復強に対して、『厚床線』は僅かに4往復のみの運行となっていた。 だが、建設の目的からいうと、開拓路線として開拓民の強い要望を受けたのは“支線格”の『厚床線』であり、“本線”は釧路への短絡ルートを目しての建設という付随路線であったのである。 流氷を図案化した
ディスカバー・ジャパンの根室標津駅スタンプ
終点の根室標津は、国後島の望める『国境の街』である。 また、尾岱沼や野付半島への観光資源も豊富にある。 また、知床・羅臼への起点とも成りうる位置でもある。 沖に浮かぶ流氷と
水辺の王子・オオハクチョウがお出迎え
尾岱沼にて 昔、釧路から急行【しれとこ】が中標津まで運行していた時期もあったが、これらの豊富な観光資源を少しでも取り込んでの“観光鉄道”として成り立つ事ができなかったのかな・・という思いが募る路線でもある。
原野のアップダウンをゆく
泉川〜光進にて
《乗車記》
本線と云ってもローカル線然している釧網本線の標茶が標津線の分岐駅であった。
かつては急行【しれとこ】が、この標茶で分割されて根室標津まで急行運転で直行していた時もあったが、末期は本線接続のみで運行は線内のみであった。
標茶駅
「さよなら標津線」スタンプ その標津線の発車ホームは母屋より最も離れた3番線で、そのホームに停車している気動車に乗り込む。 標茶を出た列車は、釧網本線と平行して進む。 2kmほど並走して、原野の牧草地が広がる何もない所で釧網本線と分岐する。 分岐してすぐに乗降場の多和に着く。 ホームは枠から支柱から全て木製の板バリホームで、「これぞ乗降場」という造りであった。
標津線往時の多和の周辺は、本当に何もない牧草地が広がる原野であったが、今は『地平線が見える広大な北海道らしい丘・多和平』として、大いに観光アピールされている。 まぁ、その観光地の多和平展望台はこの乗降場から15km程離れていて、車や観光地で周る観光地なのだが。
多和を出ると、根釧国境に接する原野帯に入っていく。 この辺りは全く民家はなく、原生林が林立する峠を上っていく。 根釧国境の峠を越えると、林業に従事する入植者への利便と、根釧国境を越える長い区間に対しての交換設備の為に設けられた泉川に着く。
この駅は前述の理由から交換設備が稼動していて、入植者の離農・離村などで集落が衰退する廃止直前まで列車交換の職員が配置されていた。 駅舎にはポイント切替のコテが並ぶなど、鉄道の原風景がそこにあった。
泉川を出ると、標津線の醍醐味である原野のアップダウンが始まる。 広大な原野の起伏が成す50mの高低差を駅間を通じてゆっくりと上下していく情景は、鉄道百景の一つとして挙げられているという。
この原野の起伏を登りきると光進に着く。
広大な平原をとにかく真っ直ぐ・・
地形の変化に逆らう事なくアップダウンで乗り越える これよりアップダウンに挑む
エンジンの唸りを上げて上下する様に
人生の機微を見てるかの様な・・ 光進は元乗降場から昇格した駅で、ホームは乗降場規格の棒線ホームだが、木造プレハブの駅舎は待合室のみだが広くトイレもあった。 光進を出ると、広大な牧草地帯をゆく。
西春別駅
「さよなら標津線」スタンプ やがて国道243号と共に集落が見えてきて、西春別に着く。 西春別には、広大な面積の別海町の支所があり、別海町では2番目の集落規模となっている。 もちろん駅も、廃止時まで交換設備を有する有人駅であった。
西春別を出ると集落はすぐに過ぎ去り、再び原野の中を行くようになる。 原野に広がる牧草地帯に酪農民家と思しき数件の集落を見ると、上春別に着く。 駅は棒線ホームで、ホーム脇に小さな待合室があるだけの停車場規格の駅だ。
標津線利用でバスに乗換えて
駅より10km以上離れた養老牛温泉へ
湯治に行くお客さんいたのだろうか・・
上春別を出て暫く進むと、この地域の主要道道13号線が寄り添ってきて、並走しながら計根別に着く。
この駅周辺もまとまった集落があり、廃止時まで列車交換設備の稼動した有人駅であった。
なお、スタンプ図案の養老牛温泉は、最寄駅とは云うものの10km以上離れていた。
次の開栄は、開拓地らしい地名の乗降場だ。 牧草地広がる原野の丘陵地帯に、棒線ホームと脇に小さなトタンの待合室が設けられていた。 次の当幌は主要道道13号線上の小集落で、駅前の十字路に固まって民家があった。 古い木造駅舎の簡易委託駅であった。
中標津駅
「さよなら標津線」スタンプ そして、沿線最大の駅・中標津に至るが、今まで目にした広大な原野・牧草地から、百貨店やスーパー、ホテルなどの商業施設が並ぶ『街』に突入する。 その情景は『原野の中のオアシス』そのもので、原野に見慣れた目には、『パラレルワールド』に紛れ込んだような錯覚を覚える情景の変化だ。
中標津の駅舎はコンクリート平屋建ての大きな駅舎で、ホームも本線格の〔西春別線〕の上下線と〔厚床線〕と、方向行先別に全て専用ホームがあった。 その街風景も駅を出て程なく過ぎ去り、再び原野の丘陵帯に入っていく。 その光景は、真に夢幻の如しである。
空を見やると茜に染まった筋雲がたなびいていた
どうやら、明日は地吹雪となるかも・・
無我夢中になって撮っていたら
いつのまにか夕暮れとなっていた 原野の中をゆくが、再び広大な丘の起伏をアップダウンしながら越えていく。
左手に武佐岳を見ると、上武佐に着く。 雰囲気のいい木造駅舎で、映画のロケ地にも使われたとの事である。
標津線での思い出がいっぱいつまった駅
上武佐駅
キハ24がカーブに
身をよじりながらやってきた
上武佐を過ぎると再び丘陵地帯の起伏をアップダウンで越えて、標津原野の基線道路に広がる集落に設けられた駅・川北に着く。 ここは標津町の派生した市街地が形成されており、そこそこまとまった利用客がいたようである。
そして、標津原野の湿地帯を避けるように周り込んでオホーツクの海辺に出る。
国境の町・標津だ。 オホーツク海沿いに出ると、標津の町中をめぐって程なく根室標津に到着する。
駅舎は中標津と同様のコンクリートの平屋建てで、構内は広くターンターブルもあった。
だが、旅客ホームは片面1面だけで、ターンテーブルから駅構内を見ると、寂しき果ての駅の情感が湧いてくる。 また、この先に計画があった根北線や知床への夢も思い描く事ができる。
近くて遠い島を望む駅
根室標津駅スタンプ
そして、駅から数分で、国後島浮かぶ国境の海・オホーツクの海辺に出る事ができる。
冬には流氷が接岸し、流氷が国境の島までの間を埋め尽くしてくれる姿が望めるだろう。
明けの空に茫洋と浮かぶ
“近くて遠い島”・国後島 〔厚床線〕は、『第132回 標津線 その2 厚床線』を御覧下さい。
また、旅行記として『オホーツク縦貫鉄道の夢』もどうぞ。 |
|
『私の訪ねた路線』 第130回 只見線 その2 会津川口〜小出 〔福島県・新潟県〕
雨の田子倉湖と
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
会津若松〜小出 135.2km 742 / 898
運行本数(’11)
会津若松〜小出 3往復 , 会津若松〜会津川口 3往復 , 会津若松〜会津坂下 1往復
小出〜只見 1往復(冬季 大白川〜只見 運休) , 小出〜大白川 1往復(土・休日運休)
《路線史》〔再掲〕
路線の建設に関しては、「沿線の様々な事情で延伸されたものの併合路線」という認識が最も適合するであろう。 会津若松〜会津柳津は、『軽便鉄道法』による地方地域輸送の単位の路線であった。
会津柳津より先は、『改正鉄道敷設法』により只見を経て新潟県・小出に向かうべくの計画路線として延伸が進められる事となる。 まずは、1941〜42年に会津若松側が会津宮下まで、小出側が大白川まで開通する。 その後、現在日本一の発電量を誇る『田子倉ダム』の建設が始まって、その資材輸送に供する為1956年に越後川口までが開業。 その先、会津川口から只見を経て田子倉ダムサイト建設現場までは、ダム運営会社の『電源開発』の専用鉄道として建設される事となる。
神秘的なたたずまいの田子倉湖 そして、ダムの完成までは完全な建設資材輸送路線として、1960年のダム完成とその翌年の付帯工事一式の完成まで供される事となる。 ダムの完成後の会津川口〜只見は、2年の歳月をかけて旅客鉄道使用に向けての改良工事が行なわれ、その工事の完成後国鉄に返還される。 この頃はダム資材建設輸送と大白川地区の珪石の採掘輸送で、只見線の歴史の中で最も“潤っていた”時期だったとの事である。 なお、全通はそれから8年後の1971年で、この頃から我が国の資源産業が斜陽化し衰退に向かうのである。
この只見線は、日本有数の豪雪地帯で平行する国道252号も冬季は閉鎖となる事から、冬季は只見地区から新潟県へ抜ける唯一の交通機関となる。 このような理由により、輸送量が特定地方交通線の廃止対象路線並ではあるが、国鉄再建法による廃止対象から除外されて廃止を免れている。
列車運行としては、まがいなりにも乗客輸送を目的として建設された会津柳津までの『軽便鉄道』区間の利用が全線で最も多いので、会津若松に向けて列車本数が厚く設定されている。 だが、多いとはいっても、最大上下各7本づつなのだが。 国境付近は、山深い里で冬季は“陸の孤島”ともなる事から、日に3往復と運行本数は激減する。 新潟県の地区内も利用は至って少なく、列車本数も4〜5往復程度である。
1988年までは、急行【奥只見】号が運行していた。 また、田子倉駅は“秘境駅”として有名で、冬季は並走する国道も雪で埋もれて閉鎖される事から、7年程前より冬季は完全休業の臨時駅扱いとなっている。 田子倉湖を見ながらゆく
※ 会津若松〜会津川口は、前回の『只見線 その1』を御覧下さい。
《乗車記》
会津川口から先であるが、只見までの間が’11年の豪雨災害により、以降現在まで1年半に渡って不通となっている。 1年以上の不通となる程に蒙った被害は甚大で、不通区間にかかる第五、第六、第七の3つの只見川橋梁が落橋流失、会津塩沢〜会津蒲生の第八只見川橋梁付近の路盤が地滑りにより崩壊するなど、現状では完全に運行再開不能となっている。
これは’05年に台風による豪雨により橋梁が流失するなど、壊滅状態となって廃止に追い込まれた九州の高千穂鉄道と同じ境遇である。 豪雨による河川の氾濫は、トラス補強された橋をいとも簡単に押し流すまでに凄ましいモノなのだ・・と改めて感じる。 自然の力は、先進と云われる人間の技量を軽く凌駕するのである。
これらの事で、不通区間の会津川口〜只見が代行バス輸送となり、乗車は適わない。
それどころか、「九州の高千穂線と同じ命運をだどる」との噂さえ出始めている。
もし噂が現実となったなら、不通区間に加えて、利用状況の思わしくない新潟側区間も巻き添えになる事も考えられるのである。 それは、超豪雪地帯である越後・会津国境を越える国道252号線の通年通行の可否が鍵となろう。
それは、実際の長さの10倍の『六十里越』と云われる国境峠越え区間の事であるが、豪雪地帯ゆえに12月〜5月中頃の積雪期は除雪される事なく通行止となる。 だが、通年通行を目指して改良中との事で、この改良工事が完成するまでに不通区間の復旧が成されないと、恐らく廃止となろう。
だが、現状では復旧の手が着けられる事がなく、廃止を見越して放置されているようだ。
在りし日の急行【奥只見】と
白銀まとう浅草岳
不通区間の分析はこの位にしておいて、乗車記を記していこう。 会津川口で到着列車の半数が折り返し、小出まで直通する列車は半減の3本となる。 つまり国境越えする列車は、僅かに3本しかないのである。 そう、只見線と名乗りながら、只見まで行く列車は僅かに3本のみなのである。
その貴重な3本の内の1本に乗り込もう。
会津川口を出た気動車は、只見川に沿って進んでいく。 区間のちょうど真ん中辺りで第五只見川橋梁(この橋が落橋・流失した)で川を渡って左岸(進行方向右手)に移る。 やがて川の前方に本名ダムの築堤が見えると本名に着く。 駅は待合室のみの棒線駅だ。 ホームは車輌1輌分強しかなく、前車両(只見線は全て2輌編成の運行のようだ)の運転席側のみの乗降となる。
本名を出ると、本名ダムの築堤の前を第六只見川橋梁で渡る。 この橋も落橋・流失している。
川を渡って再び右岸に移るとトンネルに入る。 トンネルを出ると、ダムの築堤上を通り無事だった国道252号が寄り添ってきて、川と共に並走する。 程なく、会津越川。 この駅の冠に旧国名の『会津』が付いたのは、『廃止83線』で廃止となった北海道の根北線の終点・越川に譲ってのものらしい。
この駅も、本名同様に車輌1輌分しかない。
会津越川を出ても同じように国道を挟んで川と並走し、会津横田に着く。 駅は前出の2駅同様の車輌1輌分のホームと待合室の棒線駅だ。 次の会津大塩との間で再び只見川を渡るが、この第七只見川橋梁も落橋・流失している。 川を渡って暫く行くと、会津大塩。 この駅も前出と同じ設備の棒線駅だ。
この駅の周辺には天然の炭酸水が湧出し、大塩温泉や滝沢温泉といった炭酸泉の鄙びた温泉がある。
中でも大塩温泉の野湯は、川沿いに露天風呂が掘られ野趣深い。
会津大塩を出ると、蛇行する川とそれに寄り添う国道と離れて、トンネルで山肌を貫いていく。
トンネルで山を貫くと、蛇行した川と再び合流して会津塩沢に着く。 ここは、戊辰戦争の偉人である長岡藩士・河井継之介の終焉の地として、その記念館がある。
会津塩沢から只見川左岸の築堤上を進んでいく。 この区間に撮影名所の第八只見川橋梁があるが、この橋は直接川を渡っていないので崩落はなかったようだ。 しかし、その手前の土手の地滑りで路盤が崩壊している。 暫く川に沿ってゆくが、やがて川と離れて山里に入っていくと会津蒲生に着く。
沼ノ平へ 浅草岳避難小屋
“神秘の沼”・沼ノ平
コウホネ浮かぶ曲沼
この会津蒲生も前出の駅と全く同じ設備だ。 この駅から未通国道の国道289号線に沿って6kmほど上がっていくと、天嶮と云われる『八十里越』と会津・越後国境の名峰・浅草岳の沼ノ平登山口があるが、1日3本では筆者以外に利用しようとは思わないだろう。 また、叶津番所跡の史跡も近くにある。
浅草岳と田子倉ダムに囲まれた
只見駅のスタンプ
会津蒲生から只見川の支流・叶津川を長い橋梁で渡り、寄り添ってきた国道と並走すると街中に入って只見駅に着く。 駅はコンクリート平屋建てで、駅前には大きなロータリーがある。
奥会津に位置する只見町は、遠いながらも会津高原や尾瀬方面への玄関口で、その方面に向けての観光バス路線が設定されている。
駅は広い構内に、仮設ホームのような幅1mの島式ホームがある。 この広い構内は田子倉ダムの建設資材輸送のヤード跡だが、今は積雪期に通路を確保すべく除雪された雪の仮置き場となるらしい。
只見駅を出ると、田子倉ダムの巨大な築堤に向かって進んでいく。 やがて手前の只見ダム付近で田子倉トンネルに入る。 5.5kmの長い田子倉トンネルを抜けると、スノージェットの中に隠れた臨時駅の田子倉に着く。 スノージェット内の暗いホームから、坑道のような雪水が滴り落ちるコンクリートの階段を登ると、波板に覆われた仮設小屋のような駅舎から国道に出る事ができる。
白雪をまとう会津朝日岳と雪に輝く田子倉湖の“蒼
田子倉駅にて
周囲は田子倉湖が悠然と湖水を湛え、今は冬季の駅閉鎖で見る事は叶わないが、冬の雪に輝く会津朝日岳と青い湖面が印象的であった。 また、名峰・浅草岳の登山口があり、ホームにある名所案内にも記載されている。 だが、鉄道を使って浅草岳に登る酔狂な者は、筆者以外にはない・・と断言できよう。
浅草岳稜線より望む鬼ヶ面山
空を駆け抜ける雲と奥只見湖
浅草岳頂上にて
浅草岳直下の大草原
なお、この田子倉駅は、’13年3月のダイヤ改正で廃止となるらしい。 かつては急行【奥只見】も停車した秘境駅は、あと数日で終焉を迎える。 実質は冬季休業の冬眠駅であるので、去年の11月末が営業最終日という事になる。
田子倉駅を湖畔から見上げて・・
背後は名峰・浅草岳と鬼ヶ面山
スノージェットの田子倉駅を出ると、150mほどで六十里越トンネルに入る。 この延長6.3kmのトンネルで会津・越後の国境を越える。 トンネルを出ると、只見川沿いの急峻な地形に寄り添う会津の里とは雰囲気の違う越後の里風景が広がる。 越後側は総じて緩やかな傾斜にあり、その様子も何となくだが穏やかである。
浅草岳の登山口・大白川駅のスタンプ
緩やかな傾斜で峠から下っていくと、大白川に着く。 大白川の駅舎はペンション風の建物だ。
駅建物の様相通り、スキー・山菜取り・登山の拠点となっている。 私はスキーはしないが登山はするので、名峰・守門岳の写真を掲げようと思う。
迫力ある姿で迫り出る守門岳
山上を舞う強い風が
草原を獣の毛なみのように踊らせて 布引ノ滝
守門岳から続く大岩盤に
絹のように細い白布が掛けられていた
大白川を出ると、引き続き緩やかな傾斜を下っていく。 国道と並走しながら行くと、元乗降場だった柿ノ木に着く。 寄り添う川は国境の分水嶺を挟んで水系が変わり、魚野川水系の波間川となる。
波間川に沿って越後の里をゆくと、旧入広瀬村(現在は魚沼市)の中心・入広瀬に着く。
駅は旧村地区の物産会館との合築駅である。
次の上条駅まで下ってくると、峠地形から波間川に沿って緩くアップダウンする丘陵地形となる。
上条駅は快適な待合室のある棒線駅。 周囲には民家もチラホラと見え出す。 次の越後須原は、現在は合併して魚沼市となった旧守門村の中心駅。 駅舎はロッジ風の大きな構を持つコンクリート駅舎で、新潟側の最大駅である。 だが、今は交換設備は撤去された上に無人駅となっている。
越後須原を出ると、国内最高品種である『魚沼産・コシヒカリ』の田園地帯となる。
やがて、越後田中に着く。 プレハブの待合所のある棒線駅だ。 再び田園地帯の中をゆくと越後広瀬。 この付近で国道291号と352号が分岐するが、291号は中越地震で廃村となった山古志村へ、352号は未通道と、いずれも厳しい道程の道だ。
そのまま田園地帯をゆくが、終点手前の薮神までくると建物が増えて町らしくなる。
やがて、魚沼市の中心となった小出駅の母屋より最も離れた気動車ホームの4・5番線に入線する。
|



