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凡例 駅名のみの記載、駅名の前の数字は掲載回を表す、廃止駅は赤文字、休止駅は青文字
JR北海道 管内
153花咲、155栄丘、160弘道(仮)・小向、166夕張、168苫小牧、170様似、175縫別、179瀬越、
183湯ノ岱、185勇払、187銀山、189豊ヶ岡、192天塩中川、194鹿ノ谷、198厚床、200斜内
JR東日本 管内
154利府、156青海川・鯨波、157土合、161新島々、162奥多摩、163浜川崎、164阿仁前田、
172玉川口、173大川、177小坂、182毘沙門、188東京・上野、190北森、197月崎
JR東海 管内
191中菰野
JR西日本 管内
151山守駅跡、152山崎、159川戸、169神岡鉱山前、174油木・三井野原、176欅平、178小奴可、
181乙原、193仙崎、196沢谷
JR四国 管内
167堀江、199海部
JR九州 管内
158竜ヶ水、165北里、171宗太郎、180石橋電停、184漆生、186麻生釣、195大行司
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路線の思い出 151〜200
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路線の思い出 第200回 興浜北線・斜内駅 〔北海道〕
鉄道から気持ちが離れた頃に
ふと立ち寄った思い出の駅・斜内駅跡
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度(’79) / 営業係数(’83)
浜頓別〜北見枝幸 30.4km 111 / 2201
廃止年月日 転換処置 廃止時運行本数
’85/ 7/ 1 宗谷バス 6往復
斜内駅(しゃないえき)は、北海道枝幸郡浜頓別町字斜内にあった旧国鉄・興浜北線の駅(廃駅)である。 興浜北線の廃線に伴い1985年7月1日に廃駅となった。 駅名は所在する地名からで、その地名はアイヌ語の「ソー・ナイ」(滝の川)に由来する。
廃止時点で単式ホーム1面1線を有する棒線型の無人駅であった。 駅舎は線路の東側に位置し、ホームに接していた。 有人駅時代の駅舎は改築され、豊牛駅と同型の駅舎となっていた。
現在はホームなどは残っていないが廃線時の駅舎は残存している。 だが、駅舎は残存してはいるが、個人所有となっている為に中に入る事はできない。 いち時期は所有者の別宅として再利用されていたようで、現在は物置となっているようである。
この岬も「我が青春のローカル線」の一つだった
白糠線の上茶路や北進駅跡と共に、若きローカル線を追っかけていた時の事を懐かしんで時折訪れるのが、この興浜北線の斜内駅跡と北見神威岬である。 列車は斜内の駅を出ると岬を馬蹄形のような急カーブで周り込んで枝幸の町へ向かっていった。
目梨泊から眺める北見神威岬
かつて岬の裾を興浜北線の鉄路がめぐっていた
そう・・、その列車が通る事のできる限界に近い岬の周回では、車輪が「キン・・キンッ」と悲鳴を上げ、それは廃線間際のこの線が奏でる『鎮魂歌』(レクイエム)のように聞こえた。
ローカル線の追っかけに熱中していた小僧時代のワテは、一発でこの情景に絆されたのである。
岬の限界ギリギリのカーブを
ゆく車輪の軋み音は
消えゆく路線が奏でる
『鎮魂歌』(レクイエム)のようだった
だが、ワテが学校を出て比較的自由に旅に出れるようになる前に、この路線は廃止になってしまった。 廃止になったその時のワテは受験期に遭遇していて、状況的には「最後の別れ」に行けそうにない状況だった。 でも、ガキの頃から懲りないワテは、幾度も「受験を放り出してでも興浜北線に逢いにいこう」と思ったものである。 普通の人の感覚からは、不謹慎・・どころか「コイツは救いようがない」と思われるかもしれないけれど、真剣に行く事を目指して実行計画まで立てていた位である。
受験なんかかなぐり捨ててでも
この路線にお別れにいこうとしてたワテ
でも・・、行けなかった。 なぜなら、受験を控えてアルバイトなどを辞めてしまったから、逢いに行くために必要な金が無かったのだ。 「最後のお別れ」に行けなかった事で、「この時に最後の別れに行けていたら・・」という後悔が今も頭の片隅に残っている。
まぁ、結果論であるが、学歴は無くてもなに不自由なく楽しく暮らしているが、この後悔はあれから30年以上もの間ずっと『悔い』として頭の片隅に残っているのだから・・。 最も、真面目に学業に励んでいても、結果はそれなりだっただろうし・・ね。
その時成し得なかった『悔い』が
30年経った今もワテの足を向けさせる
興浜北線という思い入れの大きい路線の回顧で少し熱くなってしまったが、路線在りし時の出来事を語っていこう・・と思う。 最初の北海道への『撮り鉄』旅で室内用の『タングステンフイルム』を使っちまう・・という痛恨の「フイルム間違い」をしでかして、今回のアタックは『リベンジ心』で気合が入っていたのである。
で・・、『リベンジ心』で”罹り気味”となったタワケ小僧は、夜行列車を音威子府で降りて、興浜北線へ車両を送り込む為の4時過ぎ発車の早朝便に乗り継ぐ。 この列車では抱く目論見から、終点の北見枝幸までいって折り返す『乗り鉄の儀式』も端折って、朝の6時に斜内の駅に降り立ったのである。
その目論見とは、北見枝幸からの折り返し列車も撮る為だ。 要するに、1本でも多く撮影チャンスを得る為である。
でも、このお陰で北見枝幸駅での写真が撮れず終いで全くなく、タングステンの失敗作品を白黒化する・・という『サルベージ』しなけりゃならなくなったんだけど・・ね。
リベンジの気合が入ると
岬を撮るだけにしても
魅惑的なのが撮れるみたい
岬灯台の下をめぐる興浜北線列車
わが国でも屈指の鉄道風景であった
:
そしてワテの所蔵写真の中でも
『お宝写真』となった
線路を剥がされた現在でも
その周回のカーブのキツさが忍ばれる
そして、目論見通りの朝の折り返しの1本目を、ひと目見て虜になった《北見神威岬》で撮る。
これが我が『お宝写真』の一枚となったのである。 だが朝は快晴だったのが、1時間も経った8〜9時台の上下列車の時はチラチラ雪が舞い出し、程なく小吹雪状態となってきたのである。
上の写真と同じアングルで見た
北見枝幸側の情景
この天候で岬の大岩の前でつっ立っていると命の危険とも成り得るので、とりあえず基地の斜内駅に戻るか・・とトボトボと歩く。 《北見神威岬》より斜内駅までは、近いようで約2kmほど離れているのである。 これを吹雪く状況で歩くのは、結構"くる"モノがあるのだ。 それに、吹雪くのは『西高東低』の冬型で『低気圧』様がオホーツク海に張り出すので、モロにアゲインストで風が向かってくるし・・。
1時間もたたずに雲行きが怪しくなり・・
で・・、風を避けながら歩いていると、駅付近に住むおばちゃんが「どこいくの? 外は吹雪いているから危ないよ」と声をかけてきて、それに「斜内駅に避難しに・・」と答えると、「駅は寒いから吹雪が収まるまでウチさ・・来な」という『神展開』となってきたのである。
そう・・、『神展開』はこの時と同じような展開が大いに期待されるのである。
その家の中は広く居間には漫画雑誌が高積みしてあり、そして『神展開』そのものの温かい『お昼ごはん』も出されて、「遠慮」という言葉が”マイ辞書”に存在しないこのタワケガキは、当然の如く「3杯目はそっと出し・・」をしていたよ。
その後は居間にある漫画雑誌を読みながら吹雪が弱くなるのを待ち、吹雪がやや収まった昼過ぎに温かい『お昼ごはん』で腹いっぱいとなったこのタワケは、13時台の列車を撮るべくこの好意でお世話となった『陣地』を出撃する。 でも、やや収まってきたとはいえ吹雪いてたので、岬まで行けなかったよ。
収まってきたとはいえまだ吹雪いていたので
岬まで行くのは自重した
今思えば行っておけばよかったよ
そして、最後の『撮り鉄』チャンスとなる15時台は収まっていた吹雪がぶり返して、コレも岬まで行けなかったよ。 で・・、その途中で撮ったのが下に掲載するコレ。 そして、コレが興浜北線の”ラストショット”となったのである。
ぶり返した吹雪の中を岬まで行くのは無理だった
それでコレが興浜北線のラストショットに・・
興浜北線の『撮り鉄』はラストを迎えたが、先程からの『神展開』はまだ終わってなかった。
15時台のラストショットを終え、この折り返しの上り列車に乗って稚内へ向かうべく斜内の駅で待機していると、先程にお世話となったおばちゃんが駅に現れ、「夜食だよ、持っていき・・」といって折詰め弁当を渡してくれた。 何と、お弁当を作って持ってきてくれたのである。
これには、厚顔無恥なワテでも思いっきり感動したよ。 半分嬉し涙が出たかも・・。
おばちゃんの好意に小僧が思いつくばかりの礼を尽くして、16時半の浜頓別行に乗り込む。
お弁当は稚内までの天北線の車内で頂くべく開けてみると、おにぎりまで握ってくれていたよ。
この弁当を見て、またウルッとなったあの時のワテを今でも憶えている。
・・そして時が経ち、廃止になってから20年という時を経た時、その時は鉄道から離れて山に向かっていた時だが、松山湿原の探勝の帰りに美幸線の仁宇布駅跡にあった石碑に絆されて、「かつてときめいた廃線の跡をめぐろう・・」と思い立ってこの斜内駅跡に訪れる。
名も無き野花が切ないまでの
時の無常観を漂わせていた
その久方ぶりに訪ねた懐かしい駅跡にはマーガレットの花が咲き乱れ、夏でも冷たい海風に揺れていた。 その情景は切ないまでの時の無常観を漂わせていた。
荒れ狂う冬の荒波が捨てられた
鉄路と道が奏でるレクイエムなのか・・
冬季は訪れる人もなく
閉鎖されていた岬めぐりの道
その岬をめぐる道も、国道238号線の《斜内山道》を貫く『北オホーツクトンネル』が完成すると岬めぐりの観光道に落とされ、住居もすべて『北オホーツクトンネル』よりも浜頓別寄りに移転してしまったようだ。
岬灯台の建つ高台からの風景が
無常観を魅せているようだった
駅舎は個人所有の別宅から物置になっていた
そして周囲は資材置場になっていて
雰囲気を壊すそれを入れないで撮るのに苦労したよ
そして、斜内駅は抱いていた『無常観』も消え去って、資材置き場の脇に物置としてポツンとたたずんでいた。
※ 関連記事として、『撮影旅行記集』より
『”オホーツク縦貫鉄道の夢めぐり”のハズが・・』もどうぞ。
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路線の思い出 第199回 牟岐線、阿佐海岸鉄線・海部駅 〔徳島県〕
無粋なコンクリート高架駅に
『撮り鉄』の夢破れ・・
海部駅
《路線データ》
牟岐線
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数 (’83)
徳島〜海部 79.3km 3835 / 335
運行本数 ('17)
徳島〜阿南 毎時2本(内 1往復特急)
徳島〜牟岐 毎時1本(内 3往復特急)
牟岐〜海部 12往復
阿佐海岸鉄道
営業区間と営業キロ 運行本数 ('17)
海部〜甲浦 8.5km 海部〜甲浦 下り15本、上り14本
海部〜宍喰 下り2本、上り3本
宍喰〜甲浦 下り1本、上り2本
海部駅(かいふえき)は、徳島県海部郡海陽町奥浦字一宇谷にある、JR四国と阿佐海岸鉄道の駅である。 1992年3月の阿佐海岸鉄道の開業以降は、JR四国の牟岐線と阿佐海岸鉄道・阿佐東線が乗り入れる接続駅となっている。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅であるが、開業当初は単式ホーム1面1線の構造であった。
その後、1992年3月の阿佐東線の開通時にホームが増設されている。 このように後付けでホームが増設された為に跨線橋などは設けられず、高架駅であるにもかかわらず高架上に構内踏切が設置され、2番線ホームへは線路を下りてこの構内踏切を渡る珍しい形態となっている。
高架下の駅舎には、海陽町観光案内所がある。JR四国・阿佐海岸鉄道ともに簡易委託駅であり、海陽町観光案内所が両社の乗車券の販売を受託している。改札業務は行っておらず切符の回収と運賃収受は乗務員が行う。
牟岐線の完乗は
キハ58の急行【むろと】で・・
この駅・・というか、牟岐線に乗ったのは今から30年以上も前の中坊時の『初めての四国完乗の旅』出の事である。 この旅は日程9日間という初めての長期『撮り鉄行』で、全て夜行列車泊(初日だけ岩国駅のベンチで座ってた)で、その9日間1日も風呂に入らなかった・・という、中坊ならではの”コケティシュ”な内容の旅だった。
だけど、国鉄時代からの『乗り鉄』でさえ知らない人が多い”幻の国鉄航路”といわれる『仁掘航路』に乗って四国に渡った事(でも、費用を惜しんで切符買わなかったよ・・残念)を始め、DF50を撮ったり・・とか、シブいヘッドマーク付の四国DC急行を撮りまくった・・とか、この時の旅の体験や『撮り鉄写真』は我が人気のないブログの主力客引きネタとなっているのである。
当時のヘッドマーク付のDC急行は
カッケーかった・・
この海部駅も、ある『撮り鉄』のヤボーを心に秘めた中坊が”ターゲット”として狙いを定めた駅であったのだ。 その”ヤボー”とは、雰囲気満点の『田舎の終着駅』で『撮り鉄』する・・という事だ。
この小僧が妄想した『田舎の突端駅』は
こんな感じの突端駅か・・
東海道本線・赤坂支線 美濃赤坂駅にて
こんな感じの昼下がりが似合う
長閑な駅風景か・・
旧国鉄明知線(現 明知鉄道) 明知駅にて
願望としてはこんな”美味しい”建付けの
木造駅を期待してたよ
旧国鉄妻線・杉安駅
まぁ、普通中学に上ったばかりの歳ならばブルートレインや特急なのだろうけど、このガキは今のアウトロー大好きなロクデナシになっちまう事が予見できるような”変なガキ”で、特急よりも普通や急行を好んで撮っていたのである。
そして、駅や撮影のロケーションも、田舎の無人駅や何もない無人荒野を好んで”マイ撮影適地”にしていたのである。 そして、建設途中で建設放棄された阿佐線の事もあって、海沿いの長閑な雰囲気にある木造駅舎の突端駅で、その先に建設途中で放棄された阿佐線の路盤が続く北海道の美幸線や九州の妻線のような情景を空想していたのである。
妄想だけで撮れなかった長閑な終着駅の情景は
数年後に撮る事が適ったよ
旧国鉄・妻線 杉安駅
こういう感じも建設途中で
放棄された路線らしくていいかな
旧国鉄高千穂線・高千穂駅
まぁ、まだこの時は北海道の冬に駅寝するなど想定すらできない運痴の肥満児で、北海道の美幸線も九州の妻線も、『鉄道ジ▽ーナル(オタ過ぎて危険なので一部伏せ字)』のローカル線紹介記事で見ただけだったけど・・。
で・・建設途中で放棄された路盤に
こんなのがあれば目に涙が溢れるよ・・
旧国鉄美幸線・仁宇布駅の先にあった
『終』の表示が入った車止め
・・で、頭をその『長閑な田舎の突端駅』の妄想で一杯にして、撮影地を海部駅に決め打ちして牟岐駅を出る。 牟岐駅は南国・四国らしい雰囲気で、これを目にした限りでは、まだ見ぬ『田舎の突端駅』・海部駅への期待は高まるばかりであった。
フェニックスが植樹されて
南国の雰囲気漂わす牟岐駅と急行【むろと】
そして、列車はつづがなく海部駅へ・・。 その海部駅に着いた時は、無粋なコンクリートの高架の上に庇のある棒線ホームがあるだけの途中駅が視野に入ったのである。
ホントに”途中駅”然の駅だった
阿佐海岸鉄道開業前の海部駅
※ グーグル画像より拝借
これを見て「まだ途中駅だ、次が海部かな?」と言う様に意識が飛んでいた。
そう・・、この小僧は、視野に入る無粋なコンクリート高架上に庇だけで駅舎すらない棒線駅が、『田舎の突端駅』の空想でお腹いっぱいにしていた海部駅だとは”認めたくなかった”のである。
山が宅地開発で切り崩されて
『坊主トンネル』のみが残り
これがこの駅を有名にしている・・らしい
でも、お約束のように、車掌が終着駅でいったん下車するように促しにきたので、この無粋なコンクリート駅が海部駅だと認めざるを得なかったのである。 駅の階段を下りると、高架の軒下に簡易委託で切符販売をする駅窓口があり、そこでは回数券同様の紙切符のみを販売していたので、取り敢えず1枚買ったけど・・。 今まで購入してた事も忘れてたよ。
一応買ってたのね
海部駅に立ち寄った証明の軟券切符
階段を下りてこの窓口へ着いた途端に『長閑な突端駅』の夢空想は破れ、当然ここで『撮り鉄』する妄想も立ち消えとなってしまったのである。 ・・で、仕方なしに、折り返しの列車に乗って、適当に田園の広がる『撮り鉄』が出来そうな駅に降りた。 それが、この牟岐線の撮影地となった辺川駅であった。
『長閑な田舎の突端駅』の夢破れて
牟岐線の代替え撮影地となった辺川駅
※ ウィキペディア画像を拝借
ウィキペディアによると、この辺川駅は国鉄時代には廃屋然の駅舎があったらしく、中坊のワテが訪れた頃にはまだ駅舎が取り壊されずにあったようだが、当時の小僧には当然ながらその価値を見出す眼力などあるわけがなくスルー(撮り逃し)していたよ。 撮ってれば、かなり価値があったかもね。
・・でも、これらも結構レアものですよ。
キハ20とキハ55の組み合わせ
結構レアでそ・・
特急よりカッケー
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路線の思い出 第198回 根室本線・厚床駅 〔北海道〕
果てしなく広がる『北海道』が見えた
《路線データ》
営業区間と営業キロ 輸送密度 / 営業係数(’83)
滝川〜根室 446.8km 2302 / 464
釧路〜根室 運行本数
釧路〜根室 6往復(うち下り2本、上り1本 快速)
釧路〜厚岸 2往復
厚床駅(あっとこえき)は、北海道根室市厚床にあるJR北海道・根室本線の駅である。
かつては標津線が分岐していたが、1989年に廃止、バス転換された。
1面1線のホームを有する駅で、現在は無人駅となっている。 かつては単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する列車交換可能な交換駅であった。 駅舎側単式ホームの1番線が根室本線の下り本線、島式ホーム内側の2番線が標津線、外側の3番線が根室本線の上り本線となっており、互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム西側を結んだ構内踏切で連絡していた。
その他、1963年時点では3番線の外側に貨物側線を3線有していた。
かつての標津線ホームから望む
厚床駅舎
標津線廃止の際に2番線の線路が撤去され単式ホーム2面2線となり、3番線が新たに2番線に改称された(貨物側線の撤去時期は不明)。 その後、2016年3月25日までは、当駅にて列車交換がある場合のみ釧路方面行上り列車が2番線を使用していたが、同年3月26日のダイヤ改正に伴う減便で当駅での交換設備の運用を終了した。 現在は2番線の線路及びホームは残っているが、構内踏切跡の階段部分に蓋がされ立入禁止となっている。
現在の駅舎は1989年の標津線廃止後にバス待合所兼用として建て替えられたものであり、窓口は根室交通厚床案内所として営業する。 標津線廃止と同時の簡易委託化によりJR乗車券の発売も行っていたが、現在はバス乗車券のみ発売する。
戦前は馬市で活気づき、根室管内全域の馬が集まるほどだった。 戦後、軍馬の需要がなくなると、酪農が台頭。 1960年代は毎年約20万人が乗降するにぎわいを見せた。
駅が所属する路線は根室本線であるが、ワテの『路線の思い出』では、1989年に路線廃止となった標津線の駅なのですね。 だから、撮っている写真は1枚を除いて、全て標津線だけである。
かつてあった路線は
『墓 モニュメント』となっていた
※ ウィキペディア画像を拝借
その標津線であるが、支線系統の〔厚床線〕は1日僅か4本の運行しかなく、しかも最果ての根室地域で、アプローチにも時間と手間がかかり、鉄道乗って『撮り鉄』をしていた当時のワテをして『攻略困難路線』の称号(ゴメン・・、この言葉今思いついた)を得ていた路線である。
それは、当時は札幌から夜行急行の【まりも】が釧路まであったが、この列車から釧路で急行【ノサップ】に乗り継いでも厚床にほ7時過ぎと、標津線の僅か4本しかない路線では乗車必須となる6:33発の始発列車に乗れなかったのである。 要するに、この路線の始発列車に乗るには、厚床で駅寝するか、近くのあるかどうか分からん宿を見つけて泊まる以外に無かったのである。
まぁ、当時高校生の小僧にエトランゼな土地で宿を見つけるなんて、費用的にも実情的にも不可能だったし、当時は『駅寝猛者』になりつつはあったが、何の補給もない(当時はコンビニなんて便利なモノなかったし・・)標津線の原野にある駅で駅寝する程に練度(どんな練度や?)が高かった訳でもなかったので、10時前発車の2番列車に乗って”無理矢理”『撮り鉄』する以外に術がなかったのである。
標津線専用ホーム・2番線で発車を待つ標津線列車
1日4回の標津線列車の発着の時は
根室本線の接続列車も到着して駅は活気づいていた
でも、1日4本しかない路線の2番列車に乗って『撮り鉄』するのって、かなり”無理矢理”だよ。
この厚床駅を10時前に発車する列車で撮影地の奥行臼に向かったとしても、当然乗って来たこの列車を『撮り鉄』するのは不可能で、その次は14時過ぎまで列車の運行・・即ち『撮り鉄』する列車がないのである。 ・・つまり、奥行臼の駅に降り立った途端、4時間の『待ち』が発生するのである。
4時間待って撮れるのは
この1本のみ
そして、脱出しようにも路線バスは皆無で、駅間距離も隣駅の厚床・別海共に10km以上離れていて、到底歩いて脱出できる距離ではなかったのである。 そして、4時間の待ちで14時台の上り(厚床行)を撮ったとしても、この地を脱出できるのは中標津方面が16時前、厚床方面が18時前と、ほぼ半日何もない所での待機を迫られるのである。
春遠からじ・・
何もない荒野にも遅き春の訪れが・・
・・と言う訳で、食糧の持ち込みが必須の撮影地だったのである。 といっても、この路線に列車に乗って『撮り鉄』しにくる奴はワテ以外に見当たらず、ほとんどの『撮り鉄』が車できていたけど・・。
車で来たなら、上で書き連ねた『心配』は全て霧散解消するのだし。
かつて日本にはこのような所に
列車を走らせる“体力”があったのだ
これで幸運だった事といえば、国鉄当時には20日間フルで急行(後には特急も)乗り放題・・で、しかも北海道限定で冬季割引と学割を合わせると、ワテが住む大阪からの往復運賃込みで20日間特急を含めて乗り放題で、価格は3万円を切っていたのである。
そして、釧路・稚内・網走と三方向に夜行急行列車が運行され、根性を発揮すれば『夜行列車のリバース』で宿代を浮かせる事も可能だったのである。 ホント、今のJR北海道を見れば考えられないほどに、若者の鉄道旅に理解があって優しい制度だったよ・・、国鉄時代は。
急行【ノサップ】サボ
で・・、札幌から急行【まりも】で釧路まで出て、急行【ノサップ】に乗り継いで終点根室へ。
何故に根室まで向かったかというと、厚床で急行【ノサップ】を下りてしまうと、10時前発車の標津線2番列車まで2時間以上の待ちが発生しまう為である。
そういえば、最初に行った時は標津線は後回しにして、納沙布岬に流氷を見に行ったっけなぁ。
その納沙布岬の流氷はまた次の機会にこのブログの『日本百景』の書庫で語るとして、根室折り返しの急行【狩勝2号】(この列車は、根室〜滝川〜札幌のロングランだった)で厚床へ着く。
かつての駅は旅客への
思いやりで溢れた暖かい場所だった
当時の厚床駅は標津線を分岐する『ジャンクション駅』で、駅員の他に保線要員や運転要員も含めて多くの駅職員が所属し、木造の立派な駅舎があった。 待合室内も広く、常時ストーブが2台焚かれていて暖かい駅だったのを憶えている。
でも、JRになってから駅務の廃止によって運転要員のみの配置となって、同時にストーブも撤去された事も・・。 小僧だった当時は国鉄からJRへの経営移管を好意的に見ていたが、このような現実を見てから違和感を感じるようになったよ。 利益や採算を重視する事で、旅客への思いやりが次々とカットされていく現実に・・である。
話は脱線するが、何かにつけて『商売』って、利用客への隠れた心配りが後々になって活きてくるモノなんじゃないかな?って思うよ。 でも、だから・・といって赤字を垂れ流していた旧国鉄が正しいのか・・と言われると言葉が詰まるけど・・。
しかし、採算重視で切りつめるだけ切りつめても、JR北海道は更に「利用し辛く」なって、旧国鉄時代はまだ維持が可能だった『本線格』の根室本線でさえ存廃問題が浮上しているのだ。
利用客の利便を度外視して切りつめた結果、より経営不振を増大させているのある。
全てを取っ払われて棒線駅となった厚床駅
旅客への利便さえ切りつめた結果
更に営業不振に・・
※ ウィキペディア画像を拝借
この事からも思うのだ。 北海道の地域性を鑑みて、この地で鉄道業で利益を上げるのは不可能に近く、それなら採算は二の次にして、かつての旅客に対して思いやりが溢れて『良かった、利用しやすかった』国鉄時代に戻すのがベターと考えるのは、ワテ個人のエゴだろうか?
国鉄時代の駅は
今よりもずっと”活きて”いた
「採算は二の次」とはいったけど、ある程度の努力を見せればいいと思う。
いけないのは、無策のまま落ちていく現状を「嘆いている」「見ている」だけ・・なのである。
北海道に住む日本国民の為に使う北海道の鉄道が出す赤字額の補填400億が無駄なのなら、一部の土建屋の利権の為に日本の食を壊す豊洲市場の建設費5800億は無駄ではないのか!
しかも、やるべき汚染対策を手抜きして『毒物の肥溜め』の地下空間を放置して、専門家を金で買収して「この地下空間は安全」と、以前の答弁とは180度違う詭弁を出す犯罪・詐欺への金に比べたら、その地域に住む日本国民の為に使う鉄道の赤字補填なんて安いモノなのである。
あらら・・、脱線して熱くなっちまった。 この”無理矢理”追いかけた1日4往復の路線が廃止となって30年近くの時が経ち、ブリバリでなりふり構わず廃止路線を追いかけてたクソガキも、クソ野郎となった。 ・・で、追いかける目標も、鉄道から自然風景や野生動物となっていったのである。
大方30年の時が流れ
小僧だったワテのターゲットも
ローカル線から自然風景に変わっていた
春国岱にて・・
・・で、根室の自然風景を訪ね周る旅の寄り道に、この厚床駅に立ち寄ってみる。
建て替えられてかつての面影が皆無な駅舎に、何か胸が熱くなったよ。
現在の厚床駅
駅舎の変わり様に胸が熱くなったよ
※ ウィキペディア画像を拝借
あの時のこの駅のキヤッチフレーズ「地平線の見える駅」というのはそのまま継承されていたようだけど、何故かあの時に魅せられたあの地平線とは別物のような気がして、この時は駅から望む地平線風景は撮らなかったよ。
厚床駅のスタンプ
『地平線の見える駅』でなかったのね・・
その内、駅舎の実質所有者である根室交通の路線バスがやってきて、駅舎内にいた数人を吸い込んで去っていった。 それを見届けて、久しぶりに標津線跡を訪ねてみる事にした。
※ この駅を取り上げた項目に
『オホーツク縦貫鉄道の夢・標津線編』があります。 宜しければ、どうぞ。
このブログの書庫にある『オホーツク縦貫鉄道の夢』もオススメ!←但し、筆者基準
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路線の思い出 第197回 小湊鉄道・月崎駅 〔千葉県〕
月崎駅と単行列車
のどかな『山里』にある
小僧の時に目にした駅の原風景だ
《路線データ》
営業区間と営業キロ ’12年・運行本数
五井〜上総中野 39.1km 五井〜上総中野 下り3本・上り4本(土・休日は6往復)
上総牛久〜上総中野 下り1本(土・休日は五井始発) 五井〜養老渓谷 下り4本・上り5本(土・休日は3往復) 五井〜里見 1往復(土・休日上り1本運休) 五井〜上総牛久 下り19本・上り18本(土・休日は11往復) 月崎駅(つきざきえき)は、千葉県市原市月崎にある、小湊鉄道線の駅である。
駅舎に接して単式ホーム1面1線がある駅で、奥には使用されていない島式ホーム1面2線が残っている。 2013年度の乗車人員は1日平均11人との事。 駅舎は古くからの木造であるが、無人駅となった現在では、内部は待合所のみとなっており出札口などは残っていない。 2009年11月、ログハウスの公衆トイレが設置された。
1967年に無人化以降は長らくの間乗車券の発売は車内のみであったが、2014年8月15日に駅前にある商店への簡易委託による硬券乗車券の発売が開始された。 小湊鉄道線内の普通乗車券と月崎駅普通入場券のみの取扱いで、JR東日本線の連絡切符など他の乗車券類は取扱わない。
毎年クリスマスの時期になると、付近にある『いちはらクオードの森』のクリスマスイベント開催に合わせてイルミネーションライトが駅舎に装飾点灯されて、訪れる者を幻想的な世界に誘ってくれる。
首都圏から2時間圏内でこれほどまでに情景が一変する所は貴重であり、そして都会生活の煩雑さに疲れた精神を保養するには打ってつけの所であろう。 この小湊鉄道沿線は・・。
でも、春は満開の桜が咲き誇り、菜の花の黄色いじゅうたんが広がるなど、関東圏の”春のお薦め場所”として周知されているので、花の沿線を彩る春を求めてやってくる観光客は元より『撮り鉄』が大挙としてつめかけて、写真を撮ろうにもおしかけたカメラマンの車や人の頭が入ってしまって写真撮影もままならない程・・という。
このような状況では、せっかく訪れても思う様に写真が撮れずに、疲れを癒しに来たのに反ってストレスを溜め込んでしまう結果となるのである。 なので、ワテは季節外れの冬や春先に訪れる事にしたのである。
のどかな雰囲気の中で
忙しない都会生活での疲れを癒しにいこう
冬や春になる直前は、本来この地が魅せる長閑な雰囲気が、都会生活で慌ただしく周っていた心の秒針をゆっくりと元に戻してくれる。 ここは、この月崎駅を起点として、上手の”トトロの駅”上総大久保や、下手の飯給駅までウォーキングを兼ねて『撮り鉄日和』をしてみよう。
今日はそういったレクリエーションが主目的なので、「アングルがどうのこうの・・」とか「三脚がどうのこうの・・」といった撮影ウンチクは一切なしで、背負うのもカメラの他はお腹が空いたとき用のお弁当
を持っていく事にしよう。 レンズもいつも使っているモノ以外は持っていかないし、重く嵩張る時刻表も邪魔なだけの三脚も要らない・・。 そういった「上手く撮る為のグッズ」は、のんびりとしにきた心を尖らせるだけだから・・。
では、でかけよう。 旅行先からの夜行列車で東京に早朝に降り立ち、不要な荷物を東京駅のコインロッカーに預けて、先程に言った通りに「よく使うレンズとカメラ」と「おにぎり弁当」だけを持って総武本線の列車に乗り込む。 列車はつづがなく、この路線の始発駅の五井に着き、ここから長閑な『撮り鉄日和』が始まる。
車窓を眺めて降りる事を決めたのが
この月崎駅だった
※ ウィキペディア画像を拝借
どこに下りてもいいように終点までの切符を購入し、車窓を眺めながら思いつくままの所で降りる。 その思いついたまま・・の駅がこの月崎駅であった。 駅は元々有人駅だったようで、ペンキの塗られた木の柱に地元の小僧が刻んだであろう『相合傘』の落書きが刻まれていた。
駅周辺を紹介するパンフレットが置かれ、壁には地元の幼稚園児の絵が飾られていた。
そう・・、30年以上も前の小僧だったワテが見ていた「田舎の駅」の雰囲気がそこに漂っていた。
さっそく、駅に掲示してある時刻表で次の列車の時刻を確認したなら、駅の周辺を散策しながらこの長閑な雰囲気を撮れる所がないか・・と見渡す。
最初のショットは
取り敢えず撮っただけ・・
駅は駅舎寄りの線路のみが使用され、相対するホームは枯れ草に覆われていた。
取り敢えず、撮り始めは適当に駅に停車する単行気動車を撮る。 まぁ、最初から飛ばす必要もない撮影行だし、駅に着いた途端では「どう撮るか・・」の考えもまとまっていなかったから・・。
・・で、次の列車が来るまでの間に再び周囲を見渡すと、春は満開の花をつけるであろう・・今は坊主の桜の樹があり、これをオカズにする事にした。 でも、坊主の樹と撮っても面白みがないので、ちょっちアクセントをつけたのがコレでっす。 「結構いいかな・・」なんて思ってまっす。
坊主の桜を活かすべく列車を中途半端にすると・・
結構いい絵になったジャン!
次の上下列車は、撮る場所を探しながら上総大久保寄りに歩いていこう。
月崎と上総大久保の間には小さな峠があるみたいで、駅周辺の『人里』の雰囲気から『里山』へと入っていく。 約1km程歩いた上総大久保とのほぼ中間地点に、杉に覆われた掘割状の中を線路が敷かれている所があり、これを見て面白そうなアングルが頭に浮かんだ。
順光側は『山里』の
豊かな色彩を魅せてくれた
それは、順光側からやってくる下り列車と逆光側からの上り列車の対比である。
順光側は春が間近な山里を豊かな色彩で魅せてくれたし、逆光側は林立した杉の影で美味しい影のトーンと向かってくる列車のライトで魅惑的な情景となったよ。
林立する杉の影の中に
ヘットライトの光が差し込んできた
列車と影とレールに反射したライトが
美味しいシーンにしてくれた
この順光と逆光の対比を撮って、次は先程とは逆の飯給方向へ散策する。
コチラの方は逆に『里山』から『人里』へと下っていく雰囲気で、荒れた休耕田や線路に沿って続く砂利道や民家、踏切などの人の住む『里』の風景が広がってくる。
ムーミン谷に出てきそうな
変な樹をアテにして撮る
『山里』から『人里』の境界となる踏切にて・・
『人里』に下りてきた列車は
人の集まる『駅』へと走っていく
枝のない樹をアテにしたり、『里山』と『人里』の境界となる踏切で絵を創ったり・・と、今日一日を満喫できたよ。 楽しかったなぁ・・。 この思いは、また再びこの地を訪れたくなる動機となる。
※ この他にも『撮影旅行記集』の『滝と鉄道の旅・冬 房総編』や、
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