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ウエイトトレーニングが楽しくなってきた。
これまでできなかったことや気付けなかったことに、気付き始めたからかなあと思う。
最近お世話になっているジムが、本気モードの方々で囲まれていて、それもまた気合が入ってよい。
私がやるべきウエイトトレーニングは、極限の力をバンっと出すという必要がある。
そのタイミングに合わせて声をかけてくれるだけで、その音に反応し、スピードが変わることをまざまざと実感してる。
常日ごろ、私はしゃべる割には、そういった時に声が出せていない。そのことを言ったら、「極限に行ったら出さざるを得なくなりますよ」と言われた。
つーことは、まだ、極限を出せていないんだな。
ぎゃーっという叫びも、本当に苦しくなったら発せざるを得ない。その声を出すにも、それなりの力がいるけど。
音で反応の件については、一昨日だったか、スタートダッシュの練習をしている時、パンと一発手をはたいてもらったことで、動きが変わったという。
音ってさまざまな効能があるんだなって思った。
音、声、そして音が連なってできている言葉。すごいものだなあとあらためて感じさせられた。
ヨハネの福音書の最初のところが好き。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
In the begginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
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無題
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昨日、仲の良いいとこたちの子ども3人(7歳、6歳、2歳)といとこ夫婦と城山公園に遊びに行った。
私はウエイトトレーニングを普段しているため、力持ちなので、このくらいの年齢の子どもだと2人くらいを担ぎ上げたり、ぐるぐる回したりすることは容易だ。乱暴に振り回したりすると子どもは喜ぶ。
一緒に過ごすと結構楽しいと思うからか、子どもも寄り付いてくる。
若い頃は子どもになど興味がなかったけど、年を取ったせいなのか、子どもに近寄るのが興味深くてたまらず、何よりも自分自身が癒やされる。
それにしても、同じ環境で育ったとしても、本当に一人ひとり性格が違うし、表現や訴える方法とかも違うものなんだなあと、子どもを見ていると思わされる。
その子の特性を受け止めて(面白がって)いると、子どもが寄り付いてくるように思う。
秘められた力は、それぞれにある。
だれかがそのことを見守ってあげ続けたとしたら、とてつもなく力を発揮するのではないか、と、感じたりする。
なのに、特に日本の社会は、はみ出すことを嫌い、画一化させていきたがる。
そりゃあ息が詰まって当然だと感じる。
画一化させることが当たり前な世の中になっているせいか、指導する側も個々が持っている良さを生かすことがへたくそになっているんじゃないかと思う。
(画一化はある意味、人々をだますことと一緒なのでは?)
こうして、主張の強い者に、優しい心の人たちはふみにじられ、神様からもらった良さを、生かしきれずに終わっていくケースが多いんじゃないかとも。
なんともったいないこと!!!
子どもに向けた目を、自分が普段かかわる大人に移したら、小さな変化が起こるかも?!
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過日、人間ドックを受けたところ、去年よりも身長が1センチ伸びていた。
縮むことはあってもこのところ伸びることは少なかったので、ちょっと驚いた。
もしかして、ちょっとだけ姿勢がよくなったのかなとは思った。
最近、少しからだのイメージが変わってきていて、それに伸びたということもあって、このイメージを続けていったら、来年、もう1センチくらい伸びるのではないかと期待してるんだけど。
そのイメージってのは、背骨のひとつひとつの椎の間のスペースを感じ、頭頂からつり上げられている感じなこと。
頭では何となくわかっても、身体で感じ取れることって少なかったので、何となくつかんだ感覚が良い感じ。
これができてくると、肩の力は間違いなく抜けることだろう。
そこからスペースって言葉がずっと気になっているのだけども、心理面でもスペースをつくっておくことは案外重要なんじゃないかと最近思っている。どうでもいいときっていうのは、作ろうと思わなくてもスペースがある。
こうしたいああしたいと、思いが強いときに、スペースを持つことはなかなか難しいけど何となく、そのコツってのが分かり始めたような気がしたりして。
余裕とはちょっとニュアンスが違う。スペースなのである。
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昨日、競技場でトレーニングしたのだけど、風が強くて、グラウンドを南へ向かってジョグしていたら、押し戻されるくらいの強い向かい風を受けた。
いつもなら、もうやめたくなるのだけど、ふと、あらがわずに、体を風にもたれかけてみたら、風に預けた体の重さが自然と足を前に進めてくれるような不思議な感覚に妙な陶酔感を感じ取った。
よくわからないけど、人生にも応用できるような感覚なのかなと思った。
このところ、自分がどう生きて行きたいのかということを、一生懸命に考えようとしているらしい私だけども、考えようとすればするほどに、混乱してくる。一体自分は何がやりたいんだろうか?!深いところに問うてみているのだけども。
心の奥底というか、自分の意識の深い部分にのみ、耳を傾けることが今の自分のテーマ。自分の環境とか、他人の反応とか、外側で起きている現象につい、目を取られたり、心を奪われたりしてしまうことは多いのだけども、そこにとらわれないようにしなければと思ってる。
外側で起きていることが、今日感じた向かい「風」だとするならば、それに寄りかけた体は「私」で、すんなりと進んだ感覚が、自分の深いところと共鳴している本当の「流れ」=思いがけない素晴らしい何か「やりたいこと」〜を創る道につながっているのかもなあと、ふと、頭をよぎった・・・
今、私は、自分の気持ちにも、思いが通せない環境に対しても、無理やりに抗わず、体を預けてみたほうが、いいみたい。
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一カ月前まで描いていた自分の将来が、前回ブログを書いた日を境にすっとんだ。
あまりにも衝撃が大きかったため、言葉が出ず、神に祈り続け、叫んでいたら、4月ももう、半ばを過ぎようとしている。
根拠はないが、あの震災(3・11)から、何かが変わった。
エネルギーの質が変わったと思う。それに伴って、自分の計画も、変えられた。
これからどうなっていくのか、全くわからない。
将来を描くことは大切なことかもしれないけど、もっと大事なことは、人の声でも、自分の思い=エゴな声でも、世の中の風評でもなく、自分自身の深い深いところのコアな声(=神様の声ともいう)に耳を傾け、それが、自分の意(エゴ)に添わなくても、従わなくてはならないときもあるということであることを、痛感させられている。
理由はないし、楽しいわけでもないが、「これでいい」と思えている。
何か、シフトチェンジが私の内部で起こっているらしい。
「何か」に向けての準備が始まっているらしい。それをさっき確信した。なので、ようやく書く気になれた。
エレミヤ29・11
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−−主の御告げ−−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
と神は仰せられている。私は聖書の神、万物の創り主を信じる。イエスキリストを信じている。
信じる信じる信じる。主よ、信じる力をもっともっとください!!!
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