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阪神タイガース選手名鑑2010年版 本日は2年ぶりに支配下登録されたイッセーを紹介します。 69:森田 一成 愛称:「イッセー」 ポジション:内野手(育成選手) 生年月日:1989年8月4日 出身地:岡山県岡山市 プロフィール:小1の時にソフトボールを始め、小3からは軟式野球を始める。高校時代の1年秋からレギュラーに座ったものの、この年の岡山県大会決勝で右肩を脱臼し手術。この影響で当初は代打での出場が多かった。3度の甲子園出場を果たし3年春の大会ではベスト8に進出した。高校通算本塁打は25本。2007年の高校生ドラフト3巡目でタイガースに入団。2008年シーズン後、ケガの影響から保留選手名簿から外され、昨年は育成選手としての契約になった。その年は2軍戦で活躍、今季、再び支配下登録されるかが期待されていたが、7月20日に支配下に再登録された。 通算成績(2009年現在):1軍出場なし。
背番号:64(2008年)・122(2009年〜2010年7月19日)・69(2010年7月20日) |
阪神タイガース選手名鑑
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阪神タイガースに在籍している選手を紹介致します!
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92:久慈 照嘉 愛称:「テルさん」 役職:守備走塁コーチ 生年月日:1969年4月19日 出身地:山梨県甲府市 現役時代のポジション:内野手(遊撃手、二塁手) プロフィール:1991年のドラフト2位でタイガースに入団。堅実な守備と勝負強い打撃で1年目から活躍し開幕戦にも先発出場しオールスターゲームのセリーグ遊撃手部門ファン投票選出され打率.245で新人王を獲得。本塁打0本で新人王に選ばれた野手は史上初。1997年オフ、交換でドラゴンズに世紀のトレードで移籍。二塁手に転向。しかしシーズン後半からは遊撃手を務めた。1999年にはレギュラーの座こそ譲ったものの、当時守備に不安があった福留に代わり試合の後半に出場する事も多かった。その後若手の台頭により出場機会が減少し、2002年シーズン後に自由契約。2003年から古巣のタイガースに復帰し、背番号32を付け、持ち前の抜群の守備力で同年のリーグ優勝に貢献した。2005年も守備等の脇役で優勝に貢献するも次期指導者育成の一環として二軍コーチ就任の打診があったが拒否、話し合いの結果自由契約となり合同トライアウトにも参加したが名乗りを上げる球団がなく引退。2006年春にメジャーリーグのブレーブスで短期のコーチ研修を受け2007年からサンケイスポーツ専属評論家となりまたNHK-BSのメジャーリーグ中継でも解説を務めた。2009年守備走塁コーチとして復帰、背番号は「くじ」を文字って92を使用。抜群の守備能力をはじめとした指導が期待されている。余談だが、2003年・2004年には藤川球児が「きゅうじ」を文字って同じ92を使用していた。 通算成績(1992年〜2005年):3826打数 811安打 6本塁打 153打点 51盗塁 打率.257 背番号:8(1992年〜1997年)・6(1998年〜2002年)・32(2003年〜2005年)・92(2009年〜) 93:海老野 貴勇 愛称:「エビさん」 役職:一軍トレーニングコーチ補佐 生年月日:1965年7月1日 出身地:香川県高松市 現役時代のポジション:プロ経験無し。ただし高校時代に野球経験有り。 プロフィール:福岡工業大学へ進学し、卒業後ユタ州立大学へ進学し、運動生理学と心理学を専攻。1993年から2007年までスワローズにてコンディショニングコーチを務め、スワローズの黄金時代を支える。2007年度に早稲田大学大学院人間科学研究科修了。修士論文の題目は「プロ野球選手の筋形態の特徴」。米国留学を経て、2009年より一軍トレーニングコーチ補佐。 95:遠山 奬志(本名:昭治) 愛称:「遠山の金さん」・「遠山桜」 役職:育成コーチ 生年月日:1967年7月21日 出身地:熊本県葦北郡芦北町 現役時代のポジション:投手・内野手 プロフィール:1985年ドラフト1位でタイガースに入団。1年目に先発として8勝をあげるが、広島の長冨に及ばず新人王を逃す。翌1987年に故障し以降低迷。1990年オフ、1番打者を必要としていた阪神の意向でトレードが成立しマリーンズ(当時はオリオンズ)へ移籍。マリーンズでも投手として結果を残せず1995年より打者転向を図り、1996年にイースタン・リーグ最多安打を記録するなど非凡さを見せるが、1997年は一軍出場無くシーズン終了後に自由契約。同年シーズンオフに野手としてタイガースの入団テストを受け、投手として合格。当時の吉田義男監督と古沢憲司コーチから最後のチャンスをもらい古巣に復帰。投手に再転向するために1998年はシーズンの大半を二軍での練習に費やした。サイドスローに転向し、1999年には「奬志」に登録名を変更。同年より監督に就任した「野村再生工場」こと野村克也監督のもとでシュートを習得して復活し、左の中継ぎエースとして活躍した。横手投げの変則モーションを生かして主に左打者へのワンポイントとして活躍。特に「松井キラー」と呼ばれ、この年、10年のブランクを経て勝利投手となり、史上最長ブランクの勝利記録となった。野手経験もある事から、継投の際に一塁を守る事もあった。2000年には右横手投げの中継ぎ投手・葛西稔と、交互に「遠山・葛西・遠山・葛西」と一塁と投手とを交代しあって登板するワンポイント継投がしばしば行われ、「遠山・葛西スペシャル」と呼ばれ野村監督の必殺技とも言われた。2002年、世代交代を理由に引退。引退後は、野球解説者を務め、2005年から2軍投手コーチとしてタイガースに復帰、今年から育成コーチ。 通算成績(1986年〜2002年) 投手時代(1986年〜1994年、1998年〜2002年)=16勝 22敗 5S 283奪三振 防御率 4.38 打者時代(1995年〜1997年)= 14安打 0本塁打 0盗塁 打率 1.56 背番号:21(1988年〜1990年)・16(1991年〜1994年)・49(1995年〜1997年)・52(1998年〜2002年)・ 75(2005年〜2009年)・95(2010年〜) 96:筒井 壮 2軍守備走塁コーチ 愛称:「壮やん」 役職:育成コーチ 生年月日:1974年11月1日 出身地:大阪府茨木市 現役時代のポジション:内野手・外野手 プロフィール:1996年のドラフト7位でドラゴンズに入団。闘志あふれるプレーと、内外野のどちらも守れる守備で貴重な控え野手として活躍。2003年には59試合に出場し打率.291、2本塁打を記録。特に9月12日〜14日のタイガース戦でドラゴンズに3連勝をもたらし胴上げ阻止の立役者となり、同年のタイガース最終戦で決勝3ランを放ちタイガースの完全優勝を阻止するなどの阪神キラーぶりが目だったが、翌年のシーズン終了後に突然の戦力外通告を受け、タイガースに入団。星野のコネで入団したのではなく、実力を評価されての入団だったと言われている。しかし、チ−ムの層が厚いためか、なかなか出番に恵まれず2006年10月6日、現役引退を発表。育成コーチとなる。明治大学時代に乱闘騒ぎを起こすなど、熱血漢として知られる。若手時代、選手名鑑の愛車の欄に「黄色い自転車」と書いていた。今年から2軍守備走塁コーチに就任。 通算成績(1997年〜2006年):61安打 2本塁打 18打点 1盗塁 打率.232 背番号:37(1997年〜2004年)・46(2005年)・99(2006年)・79(2007年〜2009年)・96(2010年〜) 98:立石充男 愛称:「タテミツさん」 役職:育成チーフコーチ 生年月日:1957年12月6日 出身地:大阪府和泉市 現役時代のポジション:内野手 プロフィール:1975年ドラフト3位ホークスに入団。控え選手であることが多かったが、パ・リーグ初の背番号0を背負った1984年には三塁手のレギュラーを獲得し、好成績を収めた。1986年をもって現役を引退。その後、ホークス・ドラゴンズ・和信ホエールズ(台湾)・旧バファローズの守備・走塁コーチをつとめ、現在は2軍野手総合兼守備コーチである。2009年時点でコーチ業23年となるベテランであり、ノックの上手さは球界でも定評がある。2006年は島野育夫2軍監督が病気療養の為、監督代行を務めウ・リーグ優勝に導いた。今年からは育成チーフコーチ。知名度を全国区に押し上げたのは、1984年5月29日の対ライオンズ戦で、三塁走者の駒崎幸一を隠し球でアウトにした場面。この年のフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で珍プレー大賞に輝き、以後同番組で繰り返し放送された。 通算成績(1976年〜1986年):463打数 110安打 11本塁打 49打点 7盗塁 打率.238 背番号:41(1976年〜1982年)・1(1983年)・0(1984年〜1986年)・84(1987年〜1992年)・99(1993年〜1994年)・98(1995年)・74(1996年〜1997年) ・85(2000年〜2004年)・88(2005年〜2009年)・98(2010年〜) いかがだったでしょうか?選手名鑑2010年版。今回が最終回です。今年、タイガースが5年ぶりのV、25年ぶりの日本一を目指して頑張ってください!
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86:和田 豊 愛称:「和田さん」 役職:1軍打撃コーチ 生年月日:1962年9月10日 出身地:千葉県松戸市 現役時代のポジション:内野手 プロフィール:1984年ドラフト3位でタイガースに入団。同年限りで引退した藤田平がつけていた背番号6を与えられる。翌年、新人選手ながらチームの日本一達成に控え内野手として貢献。1988年、この年遊撃手としてレギュラーに抜擢されると56犠打を記録した。また翌年にも最多犠打となりチームの中心選手となった。当初、打順は2番が多かったが徐々に1番に定着しチームリーダーとして引っ張った。1992年から3年連続同ポジションでゴールデングラブ賞を受賞、また、同年はチームの優勝争いに貢献しベストナインにも選ばれる。芸術的な流し打ちや初球から余り手を出さないものの追い込まれてからの勝負強さを武器に安打製造機として1993年には最多安打を獲得し通算1739安打を記録した。特に通算安打は阪神史上第3位にあたる。一方、1991年から3年連続0本塁打であった。1994年に自己最高の成績を残し首位打者争いにも加わったがシーズン最終戦で自打球を当てたために足を骨折、翌年は不振に陥り2番を打つことが多くなった。1996年は開幕スタメンを7番でスタートするが5月下旬には1番に戻り成績も復調し11月に行われた日米野球にも出場。特に甲子園のゲームでは野茂から3ベースを放ち5打点を上げる活躍をみせた。1997年はシーズン当初から好調を維持し24試合連続安打を放つ。しかし7月の中日戦で死球を受け左手人差し指と中指を骨折二ヵ月間戦線を離脱する。1998年には結膜炎にかかり一時期眼鏡をかけてプレーしていた。2001年に選手兼任で打撃コーチに就任し同年引退。2002年からは背番号を86に変更して、コーチとしての優れた観察眼と指導で2003年のリーグ優勝に貢献した。2006年10月から内野守備走塁コーチに配置転換。2007年から同級生である広澤克実の打撃コーチ就任に伴い、内野守備走塁コーチに配置転換された。昨年からは1軍打撃コーチに配置転換。また、公式サイトにおける日記「虎の意地」は、書籍化もされた。選手からの信頼も厚い。 通算成績(1985年〜2001年):1739安打 29本塁打 93盗塁 403打点 打率 .291 背番号:6(1985年〜2001年)・86(2002年〜) 87:中村 豊 1軍打撃コーチ 愛称:「豊」 生年月日:1973年4月23日 出身地:大阪府堺市中区 現役時代のポジション:外野手 プロフィール:1995年のドラフト1位でファイターズに入団。ファイターズ時代はケガに泣きレギュラーを取る事が出来なかったが強肩俊足の外野手でパンチ力もあり2003年にトレードでタイガースに移籍後は主に守備固めとして数多く起用され、リーグ優勝に貢献した。しかし2004年は3試合の出場にとどまり、2軍コーチ就任の打診を受けたが、これを断り現役続行を決断、2005年9月7日のドラゴンズ戦で終盤に代走で出場してそのままライトの守備に就き11回表に実に3年ぶりとなる決勝ホームランを放ち優勝に導くきっかけを作った。2007年は開幕一軍スタートだったが桜井らの台頭や投手陣の関係で抹消。6月に右ひじの手術を行なったこともありシーズンの大半を二軍で過ごした。現役続行へのこだわりもあったがシーズン終了後に球団から再び二軍コーチへの就任を打診され最終的にはこれを受諾。10月22日現役引退と同時にコーチ就任した。2008年までは二軍守備走塁コーチ、2009年からは1軍打撃コーチを務める。サービス精神が旺盛で2003年には試合が雨でノーゲームになった際に沖原(現在:イーグルス職員)と共に泥だらけのグラウンドを走り回り、ファンを楽しませた。彼らは『宇宙決死隊』と呼ばれていた。 通算成績(1996年〜2007年):709打数 176安打 8本塁打 63打点 12盗塁 打率.248 背番号:7(1996年〜2002年)・0(2003年〜 ) 88:片岡 篤史 愛称:「あっちゃん」 役職:1軍打撃コーチ 生年月日:1969年6月27日 出身地:京都府久世郡久御山町 現役時代のポジション:内野手 プロフィール:1991年のドラフト2位指名でファイターズに入団。1年目からレギュラーポジションを奪取し、独特の打法から繰り出されるヒットや、走り打ちと呼ばれる外角球の捌きでビッグバン打線の不動の3番打者として活躍。ホームラン数は21本が自己最多であるものの、東京ドームの2階席まで飛ばすほどの飛距離を秘めた長打もあり、最多四球を2回記録するなど選球眼の良さは抜群で、さらに最高出塁率のタイトルも獲得するなど、チームの柱となる存在であった。ファイターズ時代は、選手会長としてチームを引っ張る立場だった。また、小笠原道大がまだルーキーだった頃、その才能を見抜いて熱心に指導を行い後に小笠原がFA宣言し、ファイターズに残留するかジャイアンツに移籍するか迷ったときに、最初に相談した相手は片岡であった。1999年4月7日のライオンズ戦で、プロ初先発の松坂大輔が投げた155km/hの直球に、片岡は豪快な空振りをしたが松坂を得意としており、2000年6月30日のライオンズ戦で、9回裏に松坂のノーヒットノーランを阻止するヒットを打っている。2001年オフにFA宣言し、タイガースに入団する。このオフに結婚。夫人は当時大学4年だった。その後2児をもうける。移籍初年度の2002年はセ・リーグのバッテリーの配球に苦しみ不振に陥ったが、翌2003年には規定打席には到達しなかったものの勝負強い打撃で復活し、リーグ優勝に貢献した。チームが優勝を決めた日のカープ戦では、途中出場の8回裏に同点ソロホームランを放ち、9回裏にも1死1塁からライトへのヒットで1、3塁として赤星憲広によるサヨナラ勝ちを引き出した。2004年以降は相次ぐ故障で代打での出場が多くなったものの、2005年には代打で6打席連続ヒットを記録するなど、ここぞという時の切り札として活躍し、この年のリーグ優勝に貢献した。2006年はポジションを奪われ、さらに相次ぐ故障からホームランがわずか1本にとどまるなど打撃不振に陥り、体力的な限界からこの年をもって現役を引退した。引退試合となった10月12日のドラゴンズ戦では6番サードでスタメン出場し、盟友の立浪が守るレフトを越える二塁打を放つなど2安打で有終の美を飾った。胴上げにはタイガース選手のほか、中日から立浪、谷繁元信、井上一樹、PL学園の後輩である福留孝介、ファイターズ時代のチームメイトである奈良原浩、上田佳範も加わり、引退セレモニーでは立浪が花束を贈呈し、片岡と熱く抱擁を交わした。2007年に野球解説者に就任。またファイターズOBということで、STVラジオの解説者として北海道のラジオでも解説を担当していた。今年シーズンからタイガースの一軍打撃コーチに就任する。 通算成績(1992年〜2006年):5272打数 1425安打 164本塁打 717打点 35盗塁 打率.270 背番号:38(1992年)・8(1993年〜2006年)・88(2010年〜) 89:山脇 光治 愛称:「ヤマコーさん」 役職:1軍守備走塁コーチ 生年月日:1962年10月13日 現役時代のポジション:外野手 出身地:大阪府四條畷市 プロフィール:1980年ドラフト外でタイガースに入団。目立った成績はないが1980年代後半から、1990年代前半までバイプレーヤーとして活躍した。1992年9月11日の日本プロ野球史上最長試合の最後のバッターでもある。その後、桧山、新庄剛志らの台頭により出場回数が激減、1995年オフに戦力外通告を受け、そのまま引退。以降もチームを離れることなく、コーチを務めるが2002年にスコアラーに転じて現場を離れ、2005年から昨年まで2軍守備走塁コーチ、今年から1軍守備走塁コーチとなり現在も影ながらチームを支えている。 通算成績(1981年〜1995年):425打数 110安打 3本塁打 33打点 15盗塁 打率.259 背番号:64(1981年〜1987年)・36(1988年〜1990年)・4(1991年〜1995年)・78(1996年〜2001)年)・71(2002年)・79(2005年〜) 90:続木 敏之 愛称:「つづさん」 役職:トレーニングコーチ 生年月日:1958年7月4日 現役時代のポジション:捕手 出身地:愛媛県新居浜市 プロフィール:1976年のドラフト2位で阪神に入団。期待されたが、一度も一軍に出場することなく1983年に現役引退。引退後は、阪神に残りブルペン捕手を勤めていた。その後、ブルペン捕手から昇格しブルペンコーチに就き、現在は、一軍トレーニングコーチをつとめる。 通算成績(1977年〜1983年):一軍出場なし。
背番号:30(1977年〜1981年)・60(1982年〜1983年)・91(1984年〜1988年)・79(1989年〜2003年)・90(2004年〜) |
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81:吉田康夫 愛称:「康夫さん」 役職:バッテリーコーチ 生年月日:1961年6月11日 出身地:福島県岩瀬郡鏡石町 現役時代のポジション:捕手 プロフィール:1984年のオフにドラフト外で、ジャイアンツが交渉に来るが拒否。翌年のドラフト5位でタイガースに入団。正捕手争いにはなかなか加われなかったが、木戸克彦・嶋田宗彦に続く第3の捕手として、貴重な戦力だった。打撃はあまり得意ではなかったが、守備に関しては定評があった。二軍では投手として1イニング投げたことがある。その後、山田勝彦、関川浩一等の捕手の台頭により出場機会が激減、1997年に戦力外通告を受け引退。その後はさまざまなコーチに就いた。現在は、一軍バッテリーコーチをつとめる。矢野輝弘の前に39番を付けていた。 通算成績(1986年〜1997年):21安打 0本塁打 1打点 4盗塁 打率.167 背番号:39(1986年〜1996年)・29(1997年)・86(1998年〜2001年)・81(2002年〜) 82:岡 義朗 愛称:「義朗さん」 役職:一軍野手チーフコーチ 生年月日:1953年11月22日 出身地:岡山県玉野市 現役時代のポジション:内野手 プロフィール:1972年ドラフト5位でカープに入団。遊撃手であったが、層の厚い野手陣の中で、レギュラー定着はできず、主に終盤の守備固めでの起用が多かった。内外野どこでも守れる守備のスペシャリストとしてその名を知られ、特に外野守備に優れ、1979年4月7日、対タイガース戦で掛布雅之の放ったホームラン性の打球をフェンスによじ登りもぎ取ったプレーから「塀際の魔術師」「守備の切り札」の異名をとるるまでに至った。「江夏の21球」の際も守備固めで出場しレフトを守っていた。1980年に交換でホークスに移籍、1984年金銭トレードにてタイガースに移籍。1985年限りで現役引退。引退後は、1986年〜1989年にカープ内野守備走塁コーチ、1990年〜1995年にタイガース内野守備走塁コーチ、1996年〜1998年にタイガーススコアラー、1999年〜2001年に野球解説者、2002年〜2003年に旧ブルーウェーブ一軍守備走塁コーチ、2004年〜2008年にカープ二軍内野守備走塁コーチ兼「大野寮」の寮長を歴任し、昨年からタイガース野手チーフコーチ。経験豊富で数多くの選手を育成した球界屈指の指導力には定評がある。 通算成績(1972年〜1985年):257打数 54安打 2本塁打 19打点 27盗塁 打率.220 背番号:46(1972年〜1973年)・45(1974年〜1980年途中)・16(1980年途中)・32(1981年〜1983年)・ 2(1984年〜1985年)・70(1986年〜1989年)・75(1990年〜1995年)・86(2002年〜2003年)・ 74(2004年〜2008年)・82(2009年〜) 83:嶋田宗彦 愛称:「宗さん」 役職:2軍バッテリーコーチコーチ 生年月日:1962年2月17日 出身地:和歌山県有田市 現役時代のポジション:捕手 プロフィール:1984年のオフにドラフト4位でタイガースに入団。また、この年のドラフトで、タイガースとカープに1位指名され、抽選の末阪神に入団することになった嶋田章弘は弟。木戸克彦と正捕手争いをするが、正捕手にはなれなかった物の控え捕手として1985年に数試合に出場しリーグ優勝に貢献。中でも日本シリーズ第3戦では9回裏に高校時代の先輩である東尾修からプロ入り初のホームランを放った。翌1986年には91試合に出場し、弟とバッテリーを組んだ事もある。しかし、1987年頃を境に出場機会が激減、若手の台頭もあり出場機会が更に激減、1992年オフに引退。以後ブルペン捕手をつとめ、1998年からは、ブルペンコーチ・バッテリーコーチ・スコアラーとさまざまな役職についた。2007年は一軍のバッテリーコーチを務める。 通算成績(1985年〜1992年):591打数 123安打 13本塁打 53打点 打率.208 背番号:27(1985年〜1992年)・97(1993年〜2000年)・83(2001年〜) 84:久保康生 愛称:「康生さん」 役職:一軍チーフ投手コーチ 生年月日:1958年4月8日 出身地:福岡県柳川市 現役時代のポジション:投手 プロフィール:1976年ドラフト1位で旧バファローズに入団。入団4年目にプロ初勝利を挙げ主戦投手の仲間入りをし、1982年には12勝をマーク。その後も先発ローテーションの谷間で活躍。1988年5月にタイガースに移籍。移籍当初は先発要員として完投勝利を挙げることもあったが1990年以降は中継ぎに専念し同年セ・リーグ最多登板をマークする。1996年途中で旧バファローズに復帰し翌年引退。その後は同チームで投手コーチを勤めるも、2004年の球団消滅に伴いタイガースに移籍、翌年のリーグ優勝に貢献した。一軍投手コーチとしてチームを支えている。妻との間に長男、長女、双子の姉妹の計4人の子供がおり双子の姉・久保啓子はプロゴルファー、また双子の妹・久保宣子もプロゴルファーを目指している。 通算成績:(1977年〜1997年):72勝62敗30S 837奪三振 防御率 4.32 背番号:16(1977年〜1988年途中[旧バファローズ第1次])・48(1988年途中〜1996年途中[タイガース第1次])・6(1996年途中〜1997年[旧バファローズ第2次])・80(1998年〜2004年[旧バファローズ第3次])・84(2005年〜[タイガース第2次]) 85:山口高志 愛称:「高さん」 役職:一軍投手コーチ 生年月日:1950年5月15日 出身地:兵庫県神戸市長田区 現役時代のポジション:投手 プロフィール:1972年10月突然プロ入り拒否を宣言するも同年のドラフト会議でアトムズ(現・スワローズ)が4位にて強行指名。指名を受けたが意志は変わらず入団拒否し、翌年春に松下電器産業(現・パナソニック)に入社。同社野球部に入部。1974年のドラフト会議で旧ブレーブスから1位指名され入団。小柄ながら形容された豪速球で新人王を獲得。1978年にはリリーフに転向し、最優秀救援投手のタイトルを獲得する。しかし、その年の日本シリーズで打撃練習中に腰を痛め、1979年以降は左アキレス腱の故障にも泣き、それでも速球にこだわり続けたために成績が低迷、1982年に引退した。その後は1983年より旧ブレーブス、2003年からはタイガースで投手コーチを務め、2005年からは西日本地区のスカウトとして働いた。昨年から再び投手コーチを務めている。 通算成績(1975年〜1982):50勝43敗44S 600奪三振 防御率 3.18
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74:伊藤 敦規 愛称:「アツノリ」 役職:1軍トレーニングコーチ 生年月日:1963年5月29日 出身地:愛知県知多市 現役時代のポジション:投手 プロフィール:1987年のドラフト1位で旧ブレーブスに入団、先発ローテーションに座る。当時黄金時代を築いていたライオンズに強くライオンズキラーと呼ばれ、1992年には監督推薦でオールスターにも出場した。1995年に水尾嘉孝らとの2対3トレードでベイスターズに移籍するも成績は低迷。1996年オフに自由契約となり、「幼い頃からファンだった阪神の入団テストを受けてダメだったら諦めもつく」と入団テストを受けたところ合格し、タイガースに移籍。1997年から2001年まで史上7人目となる5年連続の50試合登板を果たすなど、連投もこなす中継ぎ投手として活躍。同じくサイドハンドの遠山奬志、葛西稔らとともに強力なリリーフ投手陣を構成し、2000年にはリーグ最多の71試合に登板した(防御率は1.86)。この年伊藤は37歳で、これはシーズン70試合登板の最年長記録。ヒーローインタビューでは「羽根を抜いては投げている」と自らを鶴の恩返しに例えた名言を残した。翌年も52試合登板で防御率1.79と活躍したが、2002年はキャンプ中から腰が悲鳴をあげるほど酷い状態で、更にシーズン中にはヒジ痛を発症。防御率5点台という移籍後最低の成績に終わり同年引退。その後は実家の建設業「伊藤建設」の営業主任を務める傍ら、毎日放送の野球解説者として活躍。2005年に三軍コーチとして復帰した。2005年からは三軍コーチとして辻本賢人の育成を担当、メディアに出る機会が増え、中継ぎ投手である藤川球児らJFKが登板数を重ねて結果を出し、伊藤の記録が再評価されることも多くなってきた。昨年1軍のトレーニングコーチに就任。 通算成績(1988年〜2002年):56勝51敗11S 352奪三振 防御率 3.76 背番号:16(1988年〜1996年)・47(1997年〜2002年)・74(2005年〜) 75:永尾 泰憲 愛称:「泰さん」 役職:二軍守備走塁コーチ 生年月日:1950年5月2日 出身地:佐賀県佐賀市 現役時代のポジション:投手 プロフィール:1972年ドラフト1でスワローズに入団。1977年レギュラーに定着し、初の2位躍進に貢献。翌1978年には、チーム初の日本一を体験したがその年のオフに交換トレードでチャーリー・マニエルと共に旧バファローズへ移籍。在籍3年間でチームの2度のリーグ優勝を体験。1982年1月、金銭トレードでタイガースへ移籍。主に代打で活躍。1985年に移籍した長崎啓二との左の代打2枚看板で代打打率が3割を越え、21年ぶりのリーグ優勝、そして日本一に渋い打撃で貢献した。1987年現役引退後は阪神のコーチを経て主に九州地区担当のスカウトとなった。スカウトとして獲得した選手には的場寛壱、喜田剛、野原将志など。今年からは二軍守備走塁コーチに就任。娘はレポーター・ナレーターとして活躍する永尾光湖。 通算成績(1973年〜1987年):2360打数 610安打 23本塁打 208打点 54盗塁 打率.258 背番号:6 (1973年〜1978年)・30 (1979年〜1981年)・37 (1982年〜1987年)・84 (1988年)・76 (1989年〜1990年)・87 (1994年〜1996年)・75 (2010年〜) 76:八木 裕 愛称:「裕さん」 役職:2軍打撃コーチ 生年月日:1965年6月8日 出身地:岡山県玉野市 現役時代のポジション:内野手 プロフィール:1986年ドラフト3位でタイガースに入団、背番号は14だった。1988年に背番号3に変更、翌年6月ごろからレギュラーに定着。掛布二世とも呼ばれ、1990年に28本塁打、1991年に22本塁打、チームが優勝争いをしていた1992年に21本塁打を記録するなど長距離砲として活躍。その後は若手が台頭し、1992年を境に故障もあり次第と出番が減っていった。ついに一軍出場がなくなった1996年オフにはチームの戦力構想から外れかけたが残留。その後代打としての適性の高さを見せ、1997年には代打率4割、1998年には開幕からしばらく代打率5割以上をマークするなど、ここ一番の場面で登場する代打の切り札となった。その後も絶好の場面で好打を放つことから「代打の神様」と命名され「代打・八木」のコールで球場を大いに沸かせる選手となる。また、チームがリーグ優勝した2003年にはチーム事情もあり、勝負強さを買われて数試合で4番を任されそれに見合う活躍、それ以外の試合でも代打で力を遺憾なく発揮し18年ぶりの優勝に貢献した。この年は6月ごろからセ・リーグで独走状態となったが、ナインには同年入団した金本知憲なども含め、優勝争い経験が希薄だったので、優勝が現実に迫る中冷静でいられる方法を八木に聞いていた者も多いらしい。1992年に優勝争いをしていた当時のナインで、この年の星野仙一監督の胴上げに選手として加わったのは久慈・桧山と八木だけであるが生え抜きの当時の主力では八木だけになる。翌2004年も活躍したがドラゴンズ戦で「前の打者が2人連続で敬遠されて自分は三振に終わり、相手チームから自分が打てないと判断された」と感じたため現役を引退。10月10日、対ジャイアンツ最終戦が引退試合となった。この試合では8回裏に代打で登場し、ライト前ヒットを放った。タイガースがリードの9回表には一塁の守備に就き、ジャイアンツは3つのアウト全てが内野ゴロだったため全てのボールが八木のミットに収まり、ウイニングボールを直接手にした。翌年から毎日放送とサンケイスポーツの野球解説者に就任、2005-2006シーズンには大阪ロマンズの選手として参加、昨年から2軍打撃コーチに就任。 通算成績(1987年〜2004年):3728打数 817安打 126本塁打 479打点 33盗塁 打率.247 背番号:14(1987年)・3(1988年〜2004年)・76(2009年〜) 78:平田勝男 愛称:「カツオさん」・「ミッキー」 役職:2軍監督 生年月日:1959年7月31日 出身地:長崎県長崎市 現役時代のポジション:内野手(遊撃手) プロフィール:1981年ドラフト2位でタイガースに入団。当時、チーム事情もあって正遊撃手として定着し、1984年から1987年までゴールデングラブ賞を獲得する名手として活躍した。タイガースが21年ぶりのセ・リーグ制覇、そして初の日本一に輝いた1985年には打撃も好調で一時的ながら最終的には50打点以上をマークした。ショートのレギュラーを和田豊に譲った1988年からは出番が減ったが守備力とバントの技術で貴重な控えとして貢献し1994年に引退。その後評論家活動をしていたが、1997年よりコーチとして復帰。2002年監督専属広報に就任。2004年からヘッドコーチとして岡田彰布監督を支える。2006年10月から2軍監督就任。明るく外交的な性格で常に阪神ベンチのムードメーカーである。そのためか、同僚であったランディ・バースをはじめチームメイトにおもちゃのように扱われていた。現在でもファンに非常に人気が高く、広報時代でも当時の監督の星野仙一よりも歓声が大きかったため、星野が嫉妬したこともあった。中西清起・平田勝男・木戸克彦の3人を「NHKトリオ」と呼ばれていた。 通算成績(1982年〜1994年):2450打数 633安打 23本塁打 220打点 138犠打 19盗塁 打率.258
背番号:30(1982年〜1994年)・71(1997年〜2001年)・78(2004〜) |




