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書庫卑弥呼

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(25) 天照大神の子孫の埋葬地

 天照大神ーー天忍穂耳尊ーー瓊瓊杵尊
        ーー彦火火出見尊(火折尊、火遠理命、山幸彦)
      ーー鸕鶿草葺不合尊ーー神日本磐余彦尊

 卑彌呼の冢はどこにあるのでしょうか。
 私は、卑彌呼は天照大神の子孫と考えています。
 そこで、卑彌呼の冢のありかを探る前に、天照大神の孫やひ孫の埋葬地について、確認しておきたいと思います。なお、天照大神とその子の天忍穂耳尊は、頭に「天」とあり、高天原である壱岐から出ていないようです。

 まず、天照大神の孫である瓊瓊杵尊については、先述のとおり、ニニギを祀る天降神社が糸島に集中していますので糸島に上陸して糸島平野を侵略し住みついたと考えられます。

 したがって、書紀に記述されるニニギの埋葬地にかかる記事「因葬筑紫日向可愛此云埃之山陵」(よりて筑紫の日向の可愛に葬る。これを埃(あい)の山陵という。)の「筑紫」は、「筑紫州」とは記述されていないので、九州島全体の意味ではありません。北部九州の筑紫です。

 「日向」とは糸島と福岡の間にある日向峠に代表される高祖山から高地山の峰のあたりです。ここにニニギは葬られています。

 次に、ニニギの第三子である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(『古』:火折尊(ほおりのみこと)、山幸彦)は、書紀に「葬日向高屋山上陵」(日向の高屋山の上の陵に葬る)とされます。この「日向」もニニギが葬られたのと同様に北部九州の日向です。高屋山は高祖山から高地山までの峰にあたるでしょう。

 さらに、彦火火出見尊の子である鸕鶿草葺不合尊も「崩於西洲之宮、因葬日向吾平山上陵」(よりて日向の吾平山上陵に葬る)とありますから、この「日向」も同様に北部九州です。吾平山も高祖山から高地山までの峰にあたるでしょう。

  これらの「日向」は、通説で言うところの宮崎県などの南九州ではありえません。
 日向国は、律令制の成立に伴って成立したもので、その時期は7世紀中期以降ですから、南九州にある地名は、神話に合わせた後代の名づけと理解してよいでょう。
 「日向」は北部九州です。

 北部九州では、平原遺跡の1号墓のように弥生時代には既に王クラスの巫女が出現していたと考えられています。平原遺跡の1号墓では、瑪瑙の管玉とガラス製の耳璫すなわちネックレスとピアスなどの副葬品が出土しており、これらを身に付けていたとするならば、破鏡などと合わせて主体は女性で巫女と推測され、豊富な副葬品から王クラスの墓とされます。

 ただし、この平原遺跡の1号墓の大きさは、14m×10.5mの長方形で平面的ですから、その大きさは短歩説の径30m程度としても卑彌呼の冢としては不釣合いに小さく、また形状も冢という高さのある墓とは違い、さらにはその形状も円形ではありません。したがって平原1号墳は卑彌呼の冢としては該当しません。

 九州説の主張者の多くは、この墓が天照大神の墓であって天照大神を卑弥呼と同一視し、平原遺跡1号墳を卑弥呼の冢としますが、私は、先に示したとおり平原遺跡1号墳は、大きさ、高さ、形状いずれにおいても卑彌呼の冢にはマッチしないと考えます。なお、平原遺跡は弥生時代の終わりのころの築造とされます。

 いわゆる卑弥呼の時代にあたる遺跡としては、三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、吉野ケ里遺跡があります。

 三雲南小路遺跡では男王と女王の墓が並列して埋葬され、墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定されています。1号甕棺は銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1の三種の神器を有し、男王の墓とされます。2号甕棺の副葬品は、銅鏡22面以上、碧玉製の勾玉1個、ガラス製の勾玉1個、ガラス製の管玉2個、ガラス製の垂飾1個などで巫女王の墓とされます。銅鏡はすべて中国製で合わせて60面近くになります。
 男王と巫女王としてよいのか疑問が残ります。男王とその女王の組み合わせという形態と捉えたほうが適しているように思います。

 須玖岡本遺跡の大石下甕棺墓では、剣・鏡・玉の3種の神器が出土し、副葬品には、銅剣・銅矛・銅戈のほか、破鏡の前漢鏡32面以上、瑠璃壁、ガラス勾玉、ガラス管玉などがあり豊富な副葬品です。この墓は周溝墓と想像されていましたが、その後の調査で墳丘墓であったとされます。
 破鏡や瑠璃壁・ガラス小玉等から巫女の女王墓であったとしても不思議ではありません。ただ、残念ながら破壊される前の大きさ、高さ、形状の詳細は不明です。

 また、吉武高木遺跡では、110号墓のように銅剣を伴わない銅製腕輪・勾玉・管玉のみの副葬品の墓や100号墓のように銅剣だけを副葬する墓、3号墓のように、細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈・銅鏡・勾玉・管玉の3種の神器を有する墓もあります。
 この吉武高木遺跡には珍しい古墳があります。樋渡古墳(考古学者は樋渡墳丘墓という。)考古学者は箸墓古墳を特別扱いし、箸墓古墳より以前は古墳時代ではないと仕切っています。すなわち弥生時代と仕切って、樋渡古墳わざわざ墳丘墓といいます。しかし形状からは、古墳と墳丘墓に違いはありません。私は箸墓古墳を古墳時代の始まりと位置付けること自体が間違っていると考えています。

  もし、卑弥呼の冢が糸島や福岡にあったとすれば、平原遺跡の方形周溝墓より須玖岡本遺跡の墳丘墓のほうがまだ可能性が高いと思います。
 しかし、・・・・                (つづく)

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