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書庫七支刀と「こうやの宮」の人形

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 前回、“七支刀と「こうやの宮」の人形の考察 その9” において、七支刀の金象嵌銘(きんぞうがんめい)文を次のとおり推測しました。

〔表〕
   泰始四年五月十六日丙午正陽造百練鋼七支刀生辟百兵填ゞ仝王■■■■作             
    泰始四年五月十六日丙午(へいご)の暑い正午に、何度も鋼を鍛練してこの七支刀を造る。出(い)でて百兵を辟(しりぞ)ける。誠に侯王にそなえ、ささぐのによろしい。■■■■作る。

〔裏〕           
   先世以来未有此刀百濟王世子奇生聖普故為倭王旨造傳示後世
   先世以来、未だこのような刀は有らず。百済王の世子は奇(く)しくも生まれながらの聖(ひじり)として普(あまね)く知れわたる。故に倭王の為に旨く造り、後世に伝え示さん。              

  この七支刀の裏面に刻まれた金象嵌銘文にある「生まれながらの聖である世子」が、どの百済王の幼少に該当するかを検討したところ、一人の王が該当しました。

 それは、第24代の東城(トウゼイ)王(在位:479年〜501年)が、まだ世子であったころの末多(マタ)王です。聖とは学徳があることで、書紀の記事により、末多王は聡明であり学があるとされ、また、『三国史記』の記事により、東城王は胆力(たんりよく)すなわち精神力が優れており、聖に通じると、先に示したところです。

 そして、末多王が王位に就く前(〜478年)にこの七支刀が造られたことを考慮すると、七支刀の〔表〕に陰刻された年号「泰始四年」は、468年である可能性が高いでしょう。

 この468年は、第21代の蓋鹵(ガイロ)王(在位:455年〜475年)の治世です。
  蓋鹵王の治世は、百済、新羅が同盟して高句麗に対抗するという関係にあった時代でした。

 高句麗の後ろ盾として北魏があり、北魏による宋への侵攻を牽制するため、宋は、倭と同様に百済にも爵号を与え支援しました。
 しかし、475年に高句麗が百済へ侵攻し、蓋鹵王は捕えられて処刑され、この蓋鹵王の死亡により、事実上、百済は滅亡しました。

  後を継いだ子の文周王は、熊津(ユウシン)を都としましたが、その後も百済は徐々に朝鮮半島の南西部に追いやられ、都はさらに南の泗沘へと移らざるを得ませんでした。

 このことは南朝の宋や倭の力をそがれたことを意味するでしょう。裏を返せば、これは高句麗と、その後押しをする北魏の力が増したことを表します。こうした北朝系の力が増すのと同時に南朝系の力が弱まる時代の経過途中にあたるのが、468年で、北朝系と南朝系が牽制し合っていた時代といってよいでしょう。

  こうした時代に蓋鹵王の孫にあたる末多王は、倭王に七支刀を贈ることで、倭とさらに強固な関係を築こうとしたのではないでしょうか。

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