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日本人の宗教意識


日本人の宗教意識

1.霊魂

鎌倉時代の歌人、式子内親王の恋歌に「魂の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば忍ることの弱りもぞする」という有名な短歌があります。わが命よ、絶えるなら絶えてしまえ、このまま生き永らえれば、人に知られないよう秘めている私の恋心が明らかになってしまうから、という意味です。
この「魂の緒」というのは生命のことです。昔の日本人には、人には魂というのがあって、魂はひもで結ばれ体内にとどまっている、と考えました。そして、このひもが切れて魂が抜け出ることが死という現象だと考えました。確かに、死んだ人間を見れば、人間を人間たらしめている何か大切なものがなくなって、不謹慎ですが、まるで蝉の抜け殻のような印象を持ちます。また、生から死への生理的変化は、たぶんに心臓停止にともなう肉体の発作的運動なのでしょうが、いかにも魂が抜け出るようにも見えます。そういう意味で、昔の日本人が、霊魂の存在を認めたのは自然のような気がします。
昔の日本人は、生きている限り、だれもが魂を持っていると考えました。その意味では、魂はかけがえのないたいせつなものです。
しかし、また、この魂とか霊というのは、その人自身のことでもないようです。むしろ、魂というのは、その人にとって、自己の内部に巣くう他者のイメージもあります。確かに、死は不意に訪れるものであり、生きている人間が自由に決められるものではありませんから、魂は厄介な他者でもあります。
源氏物語の中に、若い源氏が、新しい愛人を荒れ果てた屋敷に誘う場面があります。この愛人は夕顔という女性ですが、二人が眠っていると、源氏の夢の中に、別の愛人の生霊が現れます。「私をかえりみず、このような人を愛するのはなんとも恨めしいことです」と言って夕顔にとりつき、死なせてしまいます。この女性は六条御息所(ろくじょうみやすところ)といって、先の皇太子の未亡人で、教養も気品もある女性です。
六条御息所は、自分の霊が睡眠中に体内から抜け出して、このような恐ろしい行為に及んでいることは、最初、まったく知りませんでした。後、そのことを知り、自分でもコントロールできない霊の存在に恐れおののきます。彼女は、その後一人娘が伊勢神宮の斎宮になったのを機に、娘とともに都を離れます。しかし、六条御息所の霊は、彼女の死後も、今度は死霊となって長くこの世に存在します。そして、源氏の最愛の妻、紫の上が死ぬ時にも現れ、老いを迎えた源氏に大きな打撃を与えます。
このように、霊とか魂というものは、その人の内部に宿り、生きている間はもちろん、死後も、その人の意思とは無関係にさまざまの人に不幸をもたらしたりします。こういうのを、昔の人は祟り(たたり)とよびました。したがって、生きている人間は、人間の内部に存在するこの霊魂というのを恐れざるをえません。
生きている人間が死ねば、霊魂が離れてしまいます。というより、霊魂の離脱が死を導きます。すると、では離脱した霊魂の行き先はどこなのか、ということが問題になります。
奈良時代以前、天武持統朝の歌人、柿本人麻呂の短歌に「秋山の黄葉を茂み惑ひぬ妹を求めむる山道知らずも」という短歌があります。秋の山には、もみじの木々がうっそうと生い茂っているので、さまよっているであろう亡き妻を会いに行こうにも、その山道もわからないことだ、という意味です。この人麻呂の短歌には、死者の霊魂は不滅であり、具体的には、人の死とともに深い山中に入っていくという考えがあります。
また、記紀神話に、イザナギが亡き妻のイザナミを訪ね黄泉(よみ)に行くという有名な物語があります。この場合の黄泉とは地下の世界で、たぶん墓の中です。しかし、ここにも、霊魂がこの現実の世界に存在し続けるという観念があります。
昔の日本人には、霊魂は不滅であって、常にこの世に存在し続けるという観念がありました。これが仏教やキリスト教という、外国の宗教と決定的なちがうところだと思います。
神道というか、日本人の宗教意識が、仏教やキリスト教とちがう最大のものは、日本人の想定する世界が、この現実の世の中一つだけだということだと思います。例えば、キリスト教では、死後の世界として天国と地獄があります。仏教でも極楽と地獄があります。仏教やキリスト教では、この世とあの世というように二つの世界をもうけています。したがって、人間は、生きている者はこちらの世界、死者はあちらの世界というように住み分けることができます。また、悪人も、地獄という隔離された別世界に閉じ込めることができますから、わりと平気で悪人と善人とを区別します。
ところが、日本ではそういうことができません。世界がこの世一つしかありませんから、生きている人も、死者も、そして霊や魂も、すべてこの世でなんらかの折り合いをつけて生きていくしかないということになります。そこはすべての存在が認められる世界です。

2.精霊

さらに日本人の宗教観を複雑にしているのには、自然界に精霊を認めていることです。気まぐれで、それでいてすさまじい破壊力をもたらす自然は、確かに人間の力を超越した、ある種の意志の存在を感じさせます。その代表は雷で、雷とは神鳴り、つまり神の力の発現だと昔の人は考えました。
こういう力の前に、人々はただ己の無力さを思い知るだけです。それを予知することも、人間の都合で変更してもらうこともできません。ただ、恐れひれ伏すしかありませんでした。
また、はるか遠くの高みにそびえ立つ、高峻な山々は、確かに人々に、神聖にして侵すべからざる神の領域の存在を予感させます。
この神の領域にはじめて入ったのが、修験者とよばれる人たちでした。彼らは神の前では人として振る舞い、人の前では神として振る舞うというヌエ的存在ですが、彼たちの預言は、神に対する昔の人々の意識を増幅させました。
私は、以前、うっすらと春霞にけむる武甲山を見たことがあります。地にはうように家が立ち並ぶ街の向こうに、武甲山の黒い輪郭がくっきりと浮かび上がりました。山の稜線が、鋭い線になって縦に走り、天空に屹立する武甲山には、確かに聖なる精気を内包する山に見えました。
この精気は、神社神道の神とはちがうように感じました。また、霊とか魂とかいう、人間界に存在して、常に人間を煩わせるものともちがいます。精霊という表現がぴったりよさそうです。
たぶん、昔の日本人には、この世の中は、私たち生きている人間のほかに、死者、霊魂、自然の精霊と、さまざまなものが混在する世界でした。そして、この中で、もっとも弱い者なのが私たち生者です。つまり、生きている人は、死者や霊魂の理不尽な力の前に、息を潜め、ひっそり生きていくしかないということになります。ここに、私たち日本人の生きる姿勢というのが決まります。
たぶん、人として生きることは、神の恩寵でもなく、それは

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「バーバラ・アン・ブレナン(=元・NASAの科学者で、現在はヒーラー;超能力者)の、視点も参考にして、日本の神々を論じた方が、建設的ではないか?」という感じがしました。「光の手(=上下巻;河出書房新社の翻訳本)」です。
私は、「情報の紐」という考え方は、高橋信次の視点から、知った」のですが、「古代から同様の視点がある」ことは初めて知りました。

2013/12/8(日) 午前 5:12 [ tjr*ds*320* ]


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