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丹党について、埼玉大百科事典には46の氏名をあげています。それを見てすぐに気づくのは、丹党の諸氏の姓がほぼ江戸時代の村落名と同じになることです。たとえば秩父郡を選んでみると次の14氏になります。
上中村(旧秩父市の荒川近くの地名。秩父大宮の旧名)
下中村(旧秩父市の荒川近くの地名。秩父大宮の旧名)
秩父 (児玉党にもある。ただ、北条氏邦麾下の秩父衆の頭領は秩父孫二郎という人)
薄 (旧両神村の地区名。旧秩父郡の一村)
小鹿野(旧秩父郡の一村。現西秩父市)
横瀬 (旧秩父郡の一村。現横瀬町)
藤矢淵(旧秩父郡の一村)
野上 (旧秩父郡の一村。現長瀞町)
井戸 (旧秩父郡の一村。現長瀞町)
岩田 (旧秩父郡の一村。現秩父市)
三沢(旧秩父郡の一村。現皆野町)
黒谷(旧秩父郡の一村。現秩父市)
岩田(旧秩父郡の一村。現長瀞町)
山田(旧秩父郡の一村。現秩父市)
これらの村落の多くは、「風土記稿」を見ると、江戸時代の後半になっても人家数が100から200くらいの村です。この人家数は、山間部の村では戦国時代も江戸時代もあまり変わらず、平地部の村では戦国時代には人家数はもっと少なかったと思います。ですから、こういうことを考慮すると、戦国時代にそれぞれの丹党武士が動員できる兵力も、最大でも10〜20人程度の小さなものだったと思います。したがって、丹党といっても、大勢の兵を従える豪族というよりは、いったん事がおきると土地の若者や郎等を引き連れて駆けつける土豪というほうがふさわしいように思います。ただ、薄村の薄氏などは、村の面積も広く、人家数も多かったと思われますから、こういう村ではある程度軍隊らしい体裁を整えていたかもしれません。
丹党は丹治党の略で、丹治氏の末裔ということになっています。丹治氏は平安時代に武蔵の国司だった人です。ですから当然京都出身の高級官僚です。そして、この人の子孫が武蔵各地に開発領主として住みつき、その子孫の連合体が丹党ということになっています。
しかし、この説は一種の貴種流離で作られた神話で事実ではないと思います。ある村の領主が丹治氏の子孫で、隣の村の領主も、その隣の村の領主も丹治氏の子孫というのはどう考えても変です。実際は、自分で丹治氏の子孫だと称し、周囲もそうだと承認すれば丹党になるという一種の疑似血縁集団だったと思います。丹党を含む武蔵七党ぜんぶにそれらしい家系図もありますが、とても事実とは思えません。とはいえ、それでも一応血縁組織ですから宗家があります。それは大宮郷の中村氏になっています。
秩父を歩き回ればすぐにわかりますが、秩父には山に囲まれた小さい谷間が無数にあって、そこに小さな集落が散在しています。そして、それらの集落がいくつか集まって村をつくっています。この村の最有力者の家が丹党になったのだと思います。その実態はわかりませんが、想像してみると次のようだったと思います。
彼らは村内で領主のように振る舞っていました。広い土地を持つ地主ですが、山間狭隘の地形のため、土地はあちこちに散在していたと思います。そして、それを小作農民に小作させたり、奴隷身分の農民たちを所有して直接農地を耕作させていました。しかし、江戸時代以降とちがって、たぶん小作農より奴隷身分の農民の方が多かったと思います。というのも、丹党は地主であると同時に武士でもあります。村内農民を兵士として働かせるにはどうしても奴隷的農民でなければならないからです。あるいは逆だったかもしれません。こういう奴隷的農民を所有していたから、武士としても活動できたのだと思います。また、彼らは分家を持つ本家でもあったと思いますから、分家の人たちも動員できたと思います。
当然、村にはほかに独立した農民もいました。しかし、村内には、共有地である入会地の利用や宗教行事など村全体で動くことも多く、そういう時には、こうした農民は丹党の土豪的農民の指図にしたがうことになります。また、大きな戦争が起こり、自分の村だけでなく近隣の村全部が参戦せざるをえない場合には、こういう独立した農民も当然加わることになり、その場合は、この丹党土豪の指図に服することになったと思います。前に説明した、長尾景春のような武将たちの軍は、こういう人たちで構成されていたのだと思います。
ですから、丹党の武士団は強制的に狩り出された兵士ではなく、有力武将たちに頼まれて参戦したのだと思います。したがって戦場でどの程度の真剣さで戦うかは彼らの自由意志です。当然軍隊としての強固な規律は期待できなかったと思います。
しかし、こういう丹党の武士団を考えると、今度は彼らが戦争に参加する動機というのがよくわかりません。というのも、上杉と長尾の戦いも見ればわかりますが、当時の北武蔵での戦いの多くは役職や待遇をめぐる争いです。戦国時代特有の領地をめぐる戦いではありませんから、戦争に勝っても恩賞として領地がもらえるということはなかったはずだからです。それに、かりに戦争に勝利し、たとえば丹党のだれかが、恩賞としてある村の領地をもらっても、それは武蔵七党のだれかの領地であり、そこの村の人たちがおとなしく新しい領主の支配に服することなどありえません。ここが平安末の源平の戦いと大きく違うところです。
平安末の源平の戦いは東西日本の争いでしたから、戦争に勝てば相手の領地を恩賞としてもらえる期待がありました。事実、頼朝は気前よく、西日本の平家領を武蔵武士に恩賞として与えました。しかし、戦国時代の北武蔵の戦争は内部抗争でしたから、源平の時のように恩賞として領地をもらったり、負ければ領地をとられたりということはなかったはずです。ですから、土地の土豪にすぎない武蔵七党の人たちの動機というのがわかりません。
私もいろいろ想像してみましたがよくわかりません。考えられることは次のことくらいです。
ひとつには同じ丹党仲間の動向だと思います。上杉や長尾という有力武将が各村に参戦の要請がきても、丹党の土豪たちは10人くらいの兵しか持っていませんから、単独で判断することはなかったと思います。ほかの村の有力土豪たちが相談して、何となく方針が決まるのだと思います。そして、そういう大勢にしたがって、参戦したり見送ったりするのだと思います。
そしてもうひとつは名誉です。うまく勝ち戦で活躍すれば、上杉家中、あるいは長尾家内で相応の地位を与えられるだろうという期待です。その地位が得られても実益はあまりないのですが、そういう名誉は土豪たちには大変魅力的だったと思います。
そもそも、この丹党というのも、外敵から共同して立ち向かう同盟というものではなかったと思います。それよりも、村の土豪たちがお互いに村での領主的立場にいることを認め合うものだったと思います。
それと丹党の分布を見ると、奥秩父の両神あたりから、外秩父のさらに外の飯能、日高、越生あたりまで非常に広範囲に及んでいます。これはたぶん婚姻範囲だと思います。丹党の土豪たちは村では領主的立場にいましたから、村内で通婚することはできません。同じくらいの家格の相手と結婚しなければならないということもあって、範囲が広がったのだと思います。そして、こういう婚姻を通じてさらに同族のつながりを深めていたのだと思います。
ですから丹党には頭領というべき存在はいません。先にあげた秩父大宮の中村氏が宗家になっていますが、これはほとんど名目だったと思います。これはほかの武蔵七党についても当てはまると思います。
武蔵七党の頭領ということでしいてあげれば、関東管領の上杉氏ということになると思います。権威だけは重々しく、実質的な力を持たないこの名家は、丹党の土豪たちにとって非常に都合のよい存在でした。たぶん納税の義務はなく、せいぜい寄進、つまり臨時的な寄付くらいですむからです。戦争に参加を命ぜられてもさほどの強制力などなかったからです。
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