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4.北条氏の北武蔵進出

二つの力が拮抗して静止して見える状態も、ほんの少し均衡がくずれると変化します。その変化は最初はゆっくりですが、ある臨界点を越えると急激に一方に傾きます。これを自然科学ではカタストロフィ現象といいます。歴史でも似たようなことが起こります。戦国時代の北武蔵にもこのカタストロフィがやってきます。それは北条氏と両上杉古河公方の連合軍が戦った川越城をめぐる戦争でした。

川越は地図で見ると関東平野の真ん中にあります。しかし、ここは北武蔵の南端です。ここからさらに南部をみると、東側には低湿地帯が広がり、西側はいくら井戸を掘っても水が出ないという台地です。ですから、昔から川越は豊かな北武蔵と不毛の南武蔵の境界になる戦略上の要地でした。

川越城はもとは扇谷上杉の持ち城でした。その川越城を関東征服をめざす北条氏が占領します。しかし、川越を北条氏にとられては北武蔵全体が危うくなります。そこで扇谷上杉は山内上杉と古河公方に加勢を頼み大軍で川越城を囲みました。1546年のことです。

戦いの経過は省略しますが、夜の奇襲作戦が功を奏し北条が圧勝します。これが川越夜戦とよばれる戦いでした。少ない兵力で大軍を打ち破った戦いとして、信長の桶狭間の戦い、毛利の宮島の戦いと並んで有名です。しかし、実際は組織化した軍隊と地侍をたくさん集めただけの軍隊の戦いで、この結果は当然の帰結でもありました。

この戦いで扇谷上杉は滅亡し、古河公方も古河におしこめられます。山内上杉も本拠の鉢形に引き上げました。しかし、今までの戦いとちがって、北条は追及の手をゆるめず一気に北武蔵に押し寄せました。
これを北武蔵の土豪や豪族が見ていました。当然彼らは動揺します。しかし、長瀞寄居に広い領地を持つ地元の豪族の藤田氏は、「もう上杉の時代ではない」と痛感し、率先して北条にしたがいます。これを機に北武蔵の土豪たちがいっせいに北条方につきました。

こうなると管領山内上杉氏といえども北武蔵にはいられません。上杉憲政は鉢形を放棄し、上州に落ちのびます。こうして、北条氏の北武蔵攻略が成功しました。

ただ、秩父の土豪たちは簡単には北条氏に従いませんでした。彼らは最後まで北条氏に抵抗し、今の皆野町の日野沢にある高松城にたてこもりました。しかし、北条氏は篭城する秩父軍をたくみに説得して降伏に導きます。

鉢形城に入った北条氏邦は北武蔵の土豪たちを再編し、鉢形北条軍の中核にします。そのうちでも、秩父の兵は秩父衆とよばれ、秩父孫次郎という人が頭領となります。秩父衆は兵数も多く、保有する鉄砲も多く、その後は鉢形北条軍の最精鋭部隊として武蔵から上州の地で戦うことになります。

ちなみに鉢形から逃れた上杉憲政は上州の伊勢崎に逃れます。しかし、今度は武田信玄に攻撃され、とうとう越後に落ちのびていきます。そして、越後の領主長尾景虎に上杉の姓と管領職を譲ります。これが上杉謙信です。そして、この長尾氏は最初に取り上げた長尾景春の同族です。こうして長きにわたって関東に君臨した上杉家は消滅しました。

また、「風土記稿」によると、北条滅亡後、秩父衆の頭領秩父孫次郎の次男は旗本にとりたてられ幕臣となったが、孫次郎自身は彦久保と姓を変え、旧阿熊村に帰農したとあります。


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