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浦山村のこと(1)

浦山村のこと
1.浦山への道

国道140号を秩父の市街地から山梨方面に車を走らせると、旧荒川村との境でそれまでまっすぐだった道が急なカーブの下り道になります。しかし、その手前で左に折れる県道があります。

その道もはじめは下りですが、やがて長い登り道に変わり、途中短いトンネルやむき出しの崖地を見ながら道なりに行くと前方に大きなダムが見えてきます。この道路は立派に舗装されていて、ダムの所で曲がり、細長い湖をはるか右下に見ながらずっと先まで続いています。これが旧浦山村に行く道です。
ダムは浦山ダム、湖は秩父さくら湖です。この湖は浦山川をせきとめて作った人造湖です。国道のさっきのカーブの所は、この浦山川が荒川と合流するする場所で、「浦山口」(うらやまぐち)といいます。昔は秩父から旧浦山村に行く入り口でした。

ダムに沿って走る道は、短いトンネルを三ケ所次々と通りぬけます。道は緩やかな坂道です。三つ目のトンネルを出ると、左手の傾斜地に家が五六軒ある集落に出ます。「大谷」(おおげ)の集落です。しかし、大谷をすぎると、また無人の景色が広がり、やがて長いトンネルが現れます。「寄国土」(ゆすくど)トンネルです。このトンネルをくぐると、眼の前に浦山大橋という大きな橋が見えます。ダムの所からここまでで、旧浦山村の半ばを通り過ぎました。この間、眼に映った人家は大谷の集落だけです。湖の対岸にも家は見えません。左手には、くすんだ黄色や赤に染まる雑木の山肌がせまり、右下には、絵の具の青の原色を塗ったような湖面が見えるだけです。

しかし、実は大谷の集落を過ぎたすぐの所に、山の頂上に向かって伸びる細い道がありました。昔の道です。この道の先には山の頂上近くまで起伏に富んだ地形が広がっており、ここにも人家がポツリポツリあります。そして、ここも旧浦山村です。「日向」(ひなた)、「岳」(だけ)、「巣郷」(すごう)「、茶平」(ちゃだいら)、「武士平」(ぶしたいら)。そして、トンネルのある「寄国土」も旧浦山村の地名です。

地名は、山や川や峠の名でなければ、それは人が住んでいる所の名前です。昔の人は一軒でも家があれば名前をつけています。それは小字(こあざ)というより屋号といったほうがふさわしいのですが、「風土記稿」では、秩父大宮の中心地の「上町」も、山間の寒村のたった一軒か二軒の地名にも同じように小名とよんでいます。

昔はトンネルはもちろんこのダム沿いの道路もありませんでした。ですから、村人はふもとの浦山口から、浦山川沿いの急斜面の道をほとんど山登りでもするように、この大谷まで歩き、そしてまた、あの山の道を登っていたのです。道はそこから、さっきの日向などの集落を通り、さらに大きく弧を描いて「大神楽」(おかぐら)という所に出ます。大神楽で、道は再び下りになり、この橋のずっと先にある「毛付」(けづけ)という所でこの県道と合流します。

今の道は湖岸の道路で寄国土のトンネルを抜け、浦山大橋を渡ります。このあたりが湖のはじまりで、本来の浦山川がその姿を現します。驚いたことに橋の上から釣りをしている人がいました。聞いてみましたところ、橋から水面までの距離は65メートルだそうです。

浦山橋を渡ると、川は道路の左側に変わり、川も道路の高さにぐっと近づきます。川の対岸を「山掴」(やまつかみ)といいます。昔は山津神と書きました。昔の道は、その山掴の方にあります。川岸は険しい崖になっていて、その岩壁に貼りついたように家が何軒かありますが、それはすべて廃屋です。そういう捨てられた人家を過ぎると「毛附」(けづけ)の集落に着きます。この毛附とそのすぐ先の「川俣」が、いわば旧浦山村の中心地です。毛附には昌安寺という寺があり、川俣には小学校があります。浦山口から、毛附までは直線で約10キロ。そう長い距離ではありませんが、いかにも遠くに来たという感じがします。そして、この毛付と川俣の先には人家はありません。また、大神楽からさらに東南に上れば、「冠谷」(かんむりだに)という所があって、ここが浦山村の奥の奥になります。ここには、昔は二三軒ありました。しかし、今はどうなっているかはっきりしません。

2.昔の浦山村

「風土記稿」によると、浦山という村名は武甲山の裏にあるからついたとあります。確かに浦山村は武甲山の裏手にあたりますが、実際には、この武甲山の西側には高い山々が波打つように広がっていて、この山間部の急な斜面にポツリポツリと人家が点在しているのが浦山村です。

「風土記稿」を見ると、当時の浦山村の戸数は180とあります。そして、浦山村の人々は主に焼き畑で生活していました。しかし、焼き畑農業では必要な食料の半分も自給できず、そのため、男は山木の伐採、薪の切り出し、白箸削り、鋤の柄作り、鍛冶炭(クリの木を焼いた炭)。鳥獣魚の狩猟。女は麻、絹、藤太布の機織りとあります。

もっとも頼りとなる副業は薪の切り出しだったようで、村には馬が17,8頭いて、この馬の背に薪を積み秩父の町まで売りに行き、帰りには米粟を買ってくるということが書いてあります。この17頭の馬というのは浦山村の小名の数と同じです。ですから、集落ごとに馬が共有されて、一種の組合みたいな形で運営されていたのかなと思います。

ちなみにこの薪というのはなかなか有力な副業でした。というのも、薪は燃料ですが、昔は木の薪というのは貴重品だったからです。たとえば、農家でも囲炉裏に木の薪を使うのは来客があった時か、盆や正月の晴れの日くらいでした。ふだんは蔓性の細い枝木や桑の細い枯れ枝を、家中を煙だらけにして燃やしていました。村から秩父の町に持っていけばそれなりの収入になっていました。 
浦山村が旧秩父郡でも特異なのは、村への入口が北の浦山口しかなく、村の三方が閉ざされていることにあります。東は武甲山、西は川浦山などの高い山、南は有馬山という険しい山でさえぎられ出入り口がありません。この三つの山地に囲まれた細長い谷底を浦山川が流れています。

「風土記稿」はこういう村の様子を、中国の有名な伝説、川の上流をさかのぼり洞窟の向こうに突然現れる桃花源にたとえています。

現在は浦山の毛付から南の方角に林道が走っていて、この道は有馬山を越えて飯能市の旧名栗村に通じています。しかし、昔はこの道はありませんでした。この林道も、私は実際に車で走ってみました。二時間くらいかかりました。私が通ったのは11月の平日でしたが、驚いたことにこの二時間の間、対向車が来たのはたった1台でした。日本にもこういうところがあるのだと驚きました。

道路がある現在でもこうですから、昔は有馬越えで名栗村やそのすぐ隣の東京都の青梅方面と往来するのはとてもできなかったろうと思います。そういう意味で、この浦山村というのは袋小路の村です。
「風土記稿」には、同じ秩父の辺境の村に、奥秩父の中津川村があります。戸数二十七の小さな村です。しかし、ここは秩父からすれば西の果てですが、その果ての先には長野県の梓山村という村落があります。中津川の人たちはこの村と交流し、嫁取りもこの村からしていました。ですから、中津川村は辺境の地といっても、秩父と信州を結ぶ細い糸の間にあります。
  
ところが、この浦山村には浦山口への道を除くと道がありません。ですから、浦山村の外からこの村にやってくる人はいません。「風土記稿」では、浦山口に近い所は他の村々と同じだが、奥地は風俗もちがっている。髪を結う習慣もなく、短い衣服で一年中過ごしているとあります。ただ、人々は素朴実直で「風土記稿」の執筆者がこの村を訪れた時には、村人が道に転がっている石や木の枝を取り除きながら案内するので、そういう心遣いは無用だといったところ、「道を歩く人が歩きやすいようにするのは当然のこと。自分は先に江戸まで行った折にも往復の道すがら同じことをしていた」と言って執筆者を感心させています。


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