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浦山村のこと(2)

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3.浦山村の昔と今

旧浦山村は、「風土記稿」によると、さっき言ったように人家180とあります。1戸あたり5人とすると、江戸時代末期の1800年頃には人口が900人くらいの村であったのがわかります。また、浦山口に資料館があり、ここで戦後の人口の推移がわかります。それによると、昭和30年(1955年)には、262世帯で1244人の人がいました。明治以降の150年間で人口が300人くらい増えました。ところが、昭和60年(1985年)には、164世帯494人になり、平成12年(200年)には89世帯212人まで減少してしまいました。戦後のわずか50年足らずで、5分の1以下になってしまいました。急激な人口減少です。たぶん、浦山村の人口が回復することはないと思います。

私も、秩父のあちこちを回りましたが、浦山ほど平地の少ない所はないと思います。土地はすべて崖のような急傾斜です。かつて畑として利用された土地も今はススキの野原です。畑であった時にも、これでは腰に綱でもつけなければ安心して農作業もできないのではないかという気がしました。現在耕されている農地はほとんどありません。畑が耕されなくなっただけではなく、家そのものが移転してしまった所もたくさんあります。

実は、浦山は秩父の市街地から、浦山村の入り口近くで5キロ、奥地でも15キロの距離しかありません。ですから、道のりだけをみると、小鹿野町や吉田町よりも秩父の街にはるかに近いところにあります。ところが、土地がありません。たぶん、家を建てる土地を確保するのも困難だったと思います。こういう村の地形では家を構えても、車が走る道に出るだけで大変です。離村もやむを得ないのかなと思います。

私が行ったのは、十一月の紅葉の季節でした。川俣の集落近くに山に入る道があります。その先がどうなっているのかと行ってみました。

山の麓を沢が流れ、そのそばに廃屋が二軒ありました。庭には、収穫する人もないのにユズが実をたわわにみのり、楓が赤く紅葉していました。二階建ての屋根の一部が崩れ、もうだいぶ前に廃屋になっているのがわかります。

ふと見ると家の脇に新しい墓石がありました。墓誌には4人の名が刻まれていました。
昭和40年  男性83歳
昭和40年  女性76歳
昭和47年  男性63歳
平成14年  女性84歳
たぶん前の二人は先代夫婦で、後の二人はこの夫婦の息子夫婦だと思います。先代夫婦はおそらくこの村で生まれ、この村で生き、そうしてこの村で一生を終えたと思います。しかし、二代目の夫婦はそうはいかなかったような気がします。そうして、二代目の母親をここに葬った遺族の方の心中を想像するとさまざまの感慨が去来します。

ふとこんなことを考えます。文明が進めば人々の生活は便利になる。しかし、それで人々が幸福になるかというとは決してそうではない。新しい発明がなされれば、たしかに仕事の時間が短縮され、効率はよくなる。しかし、人間というのは不思議なもので、では余った時間で人生を豊かにするかというとそんなことはない。必ずまた新しい義務的仕事を見つけ、前よりいっそう濃密で神経をすり減らすことになる。そうして過酷な労働を自らに課し、孤独な状況に自らを追いやる。現代人は息絶え絶えの状況に呻吟しているが、それは誰のせいでもなく自ら招いた、いわゆる人間の自業自得というものでしかないのではないのか。

4.山村の風景

浦山川の下流は荒川の川筋に近く、したがって秩父往還沿いになります。また、旧秩父郡の中では比較的賑わっていた旧日野村のすぐそばに位置しています。しかし、昔からこの下流の川岸には人は住みませんでした。

このことは浦山村に限らず、秩父の山岳地すべてにあてはまります。奥深い山の中にも人は住んでいますが、人家はたいてい山腹か頂上付近にあり、麓の川沿いにはありません。私は最初に東秩父のいわゆる外秩父(そとちちぶ)の山間地を車でまわった時、山を登るにつれてだんだん人家が増えてくるのを見て非常に不思議でした。しかし、いろいろ考えてようやくわかりました。

険しい山も斜面のどこも同じように険しいというわけではありません。傾斜がもっとも急なのがふもとの川のところです。ですから、ここには人は住みません。しかし、中腹のあたりから傾斜もゆるやかで、狭いながらも畑にできるような所があります。すると、ここに人は家を作り住みつきます。畑にできる斜面がもっとも多いのは頂上付近です。そこで、頂上付近には比較的多くの人々が住み着くことになるのだと思います。とくに外秩父の山は、高いといっても海抜千メートルくらいです。畑地になりそうな土地も多くあります。

それと秩父では、冬になると、盆地の底の平地より標高400から600メートルの山間地の方が気温が5、6度高くなるという気温の逆転現象がおこります。ですから秩父の高地は平地より比較的温暖で人々が十分暮らしていける所なのです。

話はそれますが、落人部落というのが各地にあります。しかし、あれはすべて事実ではないと思います。山中の奥深くに突然集落が現れると、知らない人は驚きます。しかし、あれは単にそこが人々の生活できる場所だから住んでいるだけのことで、別に世間から隠れているわけではありません。山村の生活は意外と恵まれていて、平地の上層農民のような豊かさは無理ですが、いわゆる水呑百姓とよばれる下層農民の悲惨さとも無縁だったように思います。また、山村の労働についても、詳しいことは知らないのですが、平地の農民に比べとりわけ過酷ということはなかったのではないかという気がしています。

考えてみると、山村の利点は二つあります。一つは、山村に住む人々は借金をしません。山村は思いの外貨幣経済に組み込まれていますが、山村では金を借りようにも、貸してくれる所がないのと、担保に差し出す資産がありません。ですから借金とは無縁です。したがって、借金に追い回されるということはありません。明治になって起こる秩父事件は、たしかに農民の借金がもとですが、事情はちょっとちがうように思っています。

それとこれが山村の最大の利点ですが、こういう奥深い山に住む人々は、昔はだいたい租税が免除されるか、非常に軽い税で済んでいたことです。

江戸時代の農民をみると、平地の農民が没落するのはだいたい借金です。
年貢が払えなくて借金をし、一度借金をすると今度は借金の返済と年貢の重さで身動きとれなくなるというのがもっとも多いパターンだったようです。そして、この上に家族の誰かが病気になり、そのため医者にかかるということになればまちがいなく破産です。その点、借金と租税の心配がない山村生活は、家族が健康であれば生活に不安を持つということはまずなかったと思います。

ただ、今の私たちとちがって、昔の人にとって税を払わなくてもよいというのは単純に喜ばしいことではなかったようです。「風土記稿」の中津川村の記述に、この山村は免租だったが村人が課税を願い出た。徴税しても仕方ないが村の顔を立てて微税を課した、というような内容のことが書いてあります。ですから、昔の人にとって租税免除というのは、ちょうど戦前の徴兵検査で不合格になった若者が、男として失格の烙印を押されたような屈辱を感じるのと同じようなものだったようです。


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