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5.焼き畑農業
「風土記稿」は、秩父の焼き畑について、中津川村の「白井差」(しらいさし)とこの浦山村の欄で説明しています。
それによると、焼き畑には、春に火を入れその年の秋に蕎麦を作る「応」(まさ?読み方不明)と、秋に山野を焼き翌年の春に播種する「差」(さし)があります。差では粟、稗、豆などを作るとあります。また、「風土記稿」では秩父には「さし」とか「さす」という地名が多いのは、この焼き畑にちなむのだろうといっています。
そこで、「風土記稿」では浦山村の村人の話として、次のように書いています。
「焼き畑は、二十年くらいたった山野を、まず草木を刈り取り、よく乾くのを待って火を入れて畑にする。焼いた後の灰が肥料になるので、焼き畑は普通の畑より収穫は多い。しかし、畑は四五年しか使わず、それをすぎれば、また新しい所に畑を作る。
耕作者は春から冬のはじめまでは、それぞれの畑地に小屋をたてて移り住み、畑の手入れをする。大変なのは実が熟する頃で、昼は猿、夜は猪や鹿が荒らしに来る。そこで、家族が手分けして、昼夜を問わず畑を見張ることになる。獣がくれば大声をあげ、もしくは木をたたいて音を出して追い払うので、一晩中寝るひまもない。とくに猪鹿の食害が多いので、藩から鉄砲54丁が与えられている。
これを読むと、焼き畑というのは、一つの農地に限ってみれば、最初の五年間を畑として使い、その後二十年間休ませる、そして二十年たてばまた畑にするというもので、いわば二十五年を一つのサイクルとするローテーション農法ということになります。ですから、焼き畑そのものは、原始的な農業というのではなさそうです。むしろ、江戸時代は、平地の農村は田畑の肥料となる山の刈り敷を確保するのに苦労していますから、そういう制約から解放されているという点では、焼き畑はすぐれた農業だったような気がします。
ただ、問題は焼き畑農業では広い農地を必要とするところにあったようです。浦山村も中津川村も食料を完全に自給できませんでしたが、それはおそらくは農地不足によるものだったと思います。
浦山村の場合、家族が手分けして畑の番をしていますから。一戸の家で一ヶ所の畑ではなかったのがわかります。実際、地形的に見ても、まとまった広い土地を確保するのは無理だったと思います。ですから、こちらの山に畑が一面、あちらの山に畑が一面というように畑が分散していたと思います。
そこで浦山村について、次のようなおおざっぱな思考実験をしてみました。
かりに、浦山村では一戸あたり三ヶ所の畑を毎年耕していると仮定してみます。それで二十五年ローテーションで持続可能な焼き畑農業を行うには、計算してみると、一戸の農家で約15ケ所の畑地にできる土地が必要になります。約としたのは、ぴったり三カ所にならない年があるからです。計算方法は省略します。
15ケ所の畑地があれば、5年耕作20年休耕でも毎年3カ所の畑を確保できます。畑にできる土地を一戸あたり15ケ所持つとすれば、浦山村の180戸の全部の農家が焼き畑をするには2700ケ所の畑になる土地が必要になります。
一方、浦山村の領域は、北は浦山口からで、東は武甲山と鳥首峠までです。西と南ははっきりしませんが、住居から遠く離れた所で焼き畑はしないと思いますから(そうであれば出作りではなく、そこに住み着きます。そうなれば新しい地名がつきますがそれがありません)、地図を見た限り、一辺が約10キロの正方形になります。すると、面積はおおよそ百平方キロメートルです。
この面積の中でさっきの2700ケ所の畑用地を確保するには、一平方キロメートルあたり27ケ所になります。これでもピンときませんが、もっとわかりやすく言うと、100メートル四方の土地に畑になる土地を2.7ケ所もつということです。しかし、浦山村の急峻な山岳地形を考えると、100メートル四方の土地に畑地を2.7ケ所もつということはとてもできません。家の近くは常畑になりますから、そういう所をはずすと、ざっとみて1ケ所くらいです。10キロ四方の土地に農家が180軒ということだけ見れば、江戸時代の浦山村には十分余裕がありそうですが、現実は土地不足だったと思います。
したがって、実際は一戸の畑地は三ケ所ではなく二ケ所だったり、あるいは一つの畑を複数の家で耕すというようにしていたと思いますが、いずれにしても畑地は不足します。「風土記稿」によれば、必要な食料の半分くらいしか自給できないとあるのも、この土地不足が原因だったと思います。ですから、浦山村の農民は焼き畑だけでは生活できません。そこで前に説明したさまざまな副業をすることになります。
これは、浦山村だけでなく、秩父地方のすべて村にあてはまることなのですが、全体に、昔の秩父の村々は農民が農地だけを耕して生活するには人口が多すぎるという印象を持ちます。しかし、そのために生活が苦しいとか、秩父の地を離れ流浪する農民が大量に発生するというようなことはなかったように思います。最大の理由は、旧浦山村のように、農民には畑を耕作する以外にもさまざまな収入口があったということが大きいのではなかったのかと考えています。
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