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江戸時代 秩父の民政
1.江戸時代の秩父郡
江戸時代の旧秩父郡は、幕府の直轄地である天領と忍藩領、それから譜代大名や旗本領に分かれていました。
戦国時代、関東を支配していた北条氏が滅び、家康が江戸に入府すると武蔵国は徳川領になります。その後、徳川幕府が成立し、幕府は武蔵国の一部を大名や旗本たちに与えました。
旧秩父郡も最初はすべてが天領でしたが、幕府は秩父盆地の主要部を忍(おし)藩に与え、また外秩父の村々や小鹿野あたりの平地は譜代大名の飛び地や旗本の領地としました。したがって、こう言ってはなんですが、江戸時代の秩父は、秩父盆地は忍藩領で、盆地の外縁部のうち、地味がよい村や交通の便がよく開けた所は譜代大名や旗本領、そして、山間地にあって条件の悪い村々が幕府領ということになりました。
2.忍藩
旧秩父郡のうち、もっとも広い範囲を領地にしたのは忍藩でした。忍藩はさきたま古墳で有名な行田市に城がありました。忍城は石田三成が水攻めにしたので有名です。ここは北は利根川、南は荒川が流れ、この大きな二つの川に挟まれた低地です。
城のあるところを忍といい、忍の城下を行田といいます。この区別は室町時代にはすでにありました。どうして、こう分けるのかわかりません。福岡市も城のある所を福岡といい、それ以外を博多といいます。しかし、福岡という名称は領主の黒田氏が出身地の名をとったといういきさつがありますが、行田の場合はこういうこともありません。そういえば、ここの古墳も国宝の剣が出土しよく研究されていますが、ではどうして、ここにこんなに大きな古墳があるのかがわかりません。巨大古墳がたくさんあっても、肝心の古墳を作った人たちの生活の跡がないのです。考えるとよくわからないことが多いのが行田市です。
それはともかく、忍藩の領主は阿部氏です。阿部氏が入る前には、家康の息子の松平忠吉。その忠吉の後は、老中として有名な松平信綱が領主でした。この信綱の後に領主になったのが。阿部忠秋でした。そして、阿部氏は1639年から1823年まで領主でしたから、江戸時代の忍藩はずっと阿部氏の領地であったと考えてもさしつかえないと思います。
阿部忠秋という人は旗本の出身です。それが、将軍家光の側近になって出世し、一代で忍八万石の大名になりました。このあたりは柳沢吉保や田沼意次に似ています。しかし、忠秋の場合、はさほど目立った業績は何一つないのですが、その後老中になり、八万石の大名になりました。ふつう、こういう人は浮き沈みが激しいのですが、忠秋は沈むことなく円満に引退しました。しかも、忍藩はその後二万石加増され、十万石になりました。忠秋の後継者も三代続いて老中職に就いています。
忠秋もその後の後継者たちも、とくに優れた政策能力があったということでもなかったようです。強いていうと、「あの人にまかせておけばまずは安心」というようなタイプの人たちだったようです。ですから、見方によっては、柳沢吉保や田沼意次などより、はるかに処世術に長けていたような気がします。今でも、大きな会社などで大して能力があるわけでもないのに、やたら昇進する人がいますが、たぶんそんな感じの人だったようです。
忍藩は十万石でした。大名というと、ふつう金沢の前田百万石とか仙台の伊達六十万石のような大きな大名を想像します。それで、十万石くらいだと小さいというイメージがあります。しかし、そうではありません。忍藩でいうと、今の行田市、熊谷市、秩父市、それと周辺の町村が武蔵本国領。それに関西の摂津に一万石ありましたから、十万石といっても藩域は広大です。
ちなみに、阿部忠秋の時ですが、それでも藩士の数は家老から足軽、中間といった最下級の武士まで入れてたったの1300人くらいです。行田市の市役所の方が人数が多いくらいです。この人数で広い領域を統治し、江戸屋敷を運営し、阿部氏の場合、なおかつ老中職という幕閣の中枢をつとめたというのですから、いったい本当に可能だったのかという素朴な疑問が湧いてきます。しかし、忍藩についてはこれ以上立ち入らないことにします。
3.忍藩秩父領の陣屋役人
忍藩秩父領は今の旧秩父市、長瀞町、横瀬町,皆野町、旧吉田町、小鹿野町、旧荒川村で石高でいうと約9千石でした。ただ、後の三町村は一部幕領や大名旗本領でした。また、長瀞町の一部は、同じ忍藩でも秩父領ではなく鉢形領になっています。
忍藩秩父領を統治するのが、大宮に陣屋のある代官でした。陣屋は今の秩父市の市街地である上町の裁判所近くにありました。
私は陣屋の代官というから、テレビの水戸黄門に出てくるような代官を想像していました。大勢の部下をしたがえ、善悪はともかく強大な権力を持って領民にのぞむ代官です。だから、代官は城下を離れた出先の役人であっても、士分としての格は藩中でも上位で、家老の下くらいかなと思っていました。
しかし、どうやら、まったくちがうようでした。詳しいことは調べきれてませんが、秩父領の代官は、忍藩では下級武士の部類に入ると思います。
忍藩の役職表を見ると、代官が13人いて、秩父の代官はこの中に入ります。代官職は30俵3人扶持でした。1俵は米60キログラムですから、30俵で1800キログラム。1人扶持というのは、1日に米5合給与するというものです。1年を360日で計算すると1800合になり、270キログラムです。3人扶持なら710キログラムです。そして、両方あわせると2510キログラムで、石高でいうと17.4石にすぎません。忍藩では200石当たりが上士の下限ですから、17.4石の代官職ははっきりいって下級役職です。
ついでに、代官の上役は忍にいる郡奉行ですが、この郡奉行でも150石くらいですから中級の部類です。一般に、江戸時代の藩の仕組みでは、小姓組のように主君のそばで働く人や、番役といって戦争の時精鋭部隊として働く人たちが厚遇されますが、郡奉行とか代官職という民政に従事する人たちは恵まれてなかったような気がします。
しかし、代官に限らず陣屋の役人たちは、役職がら贈り物や祝い金などの収入が多かったと思いますので、給与は低くても結構恵まれていたと思います。ただ、一言言っておきますが、これらは賄賂ということではありません。賄賂とか汚職という言葉が出てくるのは、近代ヨーロッパの政治仕組みの中から生まれてくる倫理観意識で、江戸時代には別に職業倫理にそむく悪という観念ではなかったと思います。
大宮陣屋の代官は二人一組で陣屋に常駐する、交代勤務だったようです。代官は複数で任にあたるので独裁的に権力を振るうということはできない仕組みでした。というよりも、代官の仕事は、忍の郡奉行から出てくる指示命令を地元に伝えるのが主な仕事で、独自の裁量権などはほとんどなかったようなのです。ですから、陣屋の役人たちも、常時10人程度で細々と事務処理にあけくれる毎日だったのではないか、と思います。
秩父領の陣屋には、代官のほかに、秩父山廻り(定員6人、20俵供与)、秩父賄人(まかないにん)(人数、仕事の内容不明)、在忍秩父中間(ちゅうげん)(180人で180人扶持)というのがありました。
ここで気になるのは在忍秩父中間です。180人という人数は、これだけで忍藩の1割を越えます。先に述べたように忍藩の総人数は1300人くらいですから、180人はどうも多すぎます。それに、1人扶持というのは1日に玄米五合ですから、石高に直すと1.8石です。これは農民でも下層農民の部類で、とても家族を養って生活できる家禄ではありません。そこで、この在忍秩父中間というのは、藩領の有力農民を士分待遇にするためにもうけた役職でほとんど実質がなかったのではないか、という気がしています。もっともまったく根拠はありません。
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