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4.割り役
陣屋の役人たちの仕事はろくになかったと思います。というのも、陣屋には割り役とよばれる総名主のような人がいて、実務のほとんどをしきっていたからです。江戸時代、支配し階級である武士たちはできるだけ民事にはかかわりたくないというのが本音でしたから、割り役は秩父だけが特別というのではなく全国各地の藩にいたと思います。
割り役というのは、大宮郷11人の名主の筆頭で、秩父領全体を実質的にまとめる世話役といったところです。代官が、忍からの指示を割り役を通して領内の各村々に伝えるのであれば、割り役は領内の村々の要望を代表し、代官を通じて忍に伝えたようです。ですから、当時の秩父領は、代官とこの割り役が相談しながら治めていました。そして、たぶん実際は代官よりこの割り役の方が力があったと思います。要するに、支配者である武士階級は、領内の仕置きは領民たちの自治にまかせ、在地は年貢を滞りこりなく納めてくれればよいという態度だったと思います。
割り役の仕事は広範囲に及び、一見すると今の市長のように見えますが、法的強制力を持っていません。ですから、いわば長老的権威で物事を処理していました。したがって割り役の権威は法以上の力があったと思います。
割り役は忍藩の武士ではなく、大宮郷の有力者が藩から任命されました。士分ではありませんが、苗字帯刀が許され、一人扶持(一日玄米5合)の給米が支給され、士分の待遇を与えられました。もっとも、この一人扶持というのは、割役にとってはなんの意味もなく、フランス人がいうところのノブレスオブリッジ、つまり名士としての義務のような感じがします。
割り役の主な仕事は次のようでした。
1.藩の命令を代官から受け取り村の名主に伝える。また、村の様子を代官に伝える
2.年貢割付
年貢は毎年決まっていましたから、何もなければ前年通り。不作になれば、村から
願書を提出させ、それを代官を通して忍の城に伝える。
3.絹市の管理
4.戸籍(結婚離婚を含む)の管理
5.訴訟の立ち会い、
これらの仕事内容を見ると、この割り役というのはひじょうに重要な役職であるのがわかります。したがって、一人ではなく複数いたようです。それも、一代交代でなく、月番か年番かはわかりませんが、たぶん短期でしょっちゅう交代していたと思います。
大宮郷では、割り役はだいたい松本、高野、新井、久保という四家から選ばれていました。もっとも割り役が自分一人で事務処理をするはずもありませんから、おそらく自分の家の使用人を何人か、その仕事に従事させたと思います。その費用はおそらく割り役の個人負担でした。
5.土地の有力者
江戸時代の大宮郷には、こういう割り役とよばれる飛び抜けた有力者、それから名主になる有力な家がありました。このことについて考えたことがあります。
秩父の人に聞くと、秩父の資産家はみな絹織業で財をなしたようなことを言います。
しかし、これは明らかにまちがいです。というのも、秩父で工場を設置して絹織業が盛んになるのは明治になってからで、江戸時代には絹織りは農家の主婦の副業にすぎなかったからです。しかし、秩父の有力者は江戸時代にすでに資産家でした。彼らは確かに明治以降機織り業の事業を展開していますが、それは元々ある財力を使って機織り業に手を広げたのであって、機織りで財をなしたのではありません。
では、江戸時代のどこかで、経済感覚の鋭い人物が出て有力な家になったのかというと、これもちがいます。というのも、彼らは江戸時代がはじまった時にすでに資産家だったからです。したがって、考えられるのはひとつしかありません。それは元々彼らは秩父の領主層だったということです。はっきり言うと、鎌倉室町時代にこの地の小領主である武蔵七党の武士だったということです。
彼らはたぶんこの武蔵七党の子孫だったと思います。武蔵七党の人たちは、それまで旧秩父郡の村々の土豪でした。村全体を直接支配する力は持たなかったが、広い土地を持ち村を差配していました。その彼らは、戦国末期に一時在地を離れます。それは鉢形城の北条氏の家臣となって職業武士になったからです。そして、北条氏が滅ぶとまた地元にもどったのだと思います。そして、昔通り村内で有力者になったのだと思います。というのも、彼らの多く多分戦国時代の北条氏の家臣の末裔でした。家臣といっても、小田原から来た北条譜代の家臣ではなく、昔から秩父各地に根をはり、中世には武蔵七党とよばれ、小さないながらも領地を持つ土豪たちでした。それが、北条滅亡とともに在地にもどり地主化した人たちでした。こういう人たちは、一種の領主的立場でもあった、と思います。大宮郷に広い土地を持つ地主でした。こういう中世以来脈々と続いた権威と地主ということで、大宮郷の運営に当たっていたのだと思います
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