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4.百七十万年前の秩父(新生代の第四紀)
1)三つに分かれる秩父地方
今から百七十万年前になると、秩父の地殻は大きく変動し、現在の地形に近づきました。この時代は、新生代の第四紀とよばれ、現代に続く時代です。
この第四紀になると、秩父というより列島全体が、はげしい活動期に入りました。
その中で、秩父に関するもっとも大きな変化は、東秩父の山岳地帯が形成されたことでした。ここは、それまでは秩父盆地とたいしてかわらない地形でした。ところが、突然大地が隆起し、今まで通り平らな所と、地面が盛り上がり山になる所の二つの地域に分かれてしまいました。その境目にあたるのが、秩父市の東隣にある皆野町です。そのため、ここには大きな断層ができました。そして、この断層をはさんで、西側は秩父盆地、東側は外秩父(そとちちぶ)の山岳地帯というようになりました。さらに盆地の西側には元々奥秩父の山があり、そこも隆起しましたから、今の秩父市がある秩父盆地は、周囲を山に囲まれた皿かお盆の底のようになったのです。こうして、現在の秩父の大まかな枠組みができました。
2)秩父盆地の形成
さらに、この第四紀の地殻変動は、秩父盆地にも大きな影響を与えました。それは盆地内に河岸段丘を形成したことです。
この第四紀という時代は、別名氷河時代ともよばれています。完全に陸地になっていた秩父は、氷河の激しい侵食作用を受けることになりました。氷河は、一年に数百メートルしか動きませんが、その力は強大で、東西山地の山肌を荒々しく削りとりました。そうして、氷河は、これら削りとった土砂を、中央の秩父盆地に運ぶ一方、秩父盆地の土砂をも削りとりました。(もっとも、秩父には、周氷河はあっても、氷河があったという事実はないそうです。ついでながら、次の5行は専門家からみると全然デタラメだそうです。しかし、私の力ではどこがどうまちがっているのか、分かりませんのでそのまま載せておきます。)
しかし、盆地の中にも、氷河の浸食をまぬがれ、かろうじて残った所もあります。それは、秩父市の西方の荒川左岸の、大きな傘を広げたような地形の長尾根丘陵です。この丘陵は、五十万年前に氷河が削り残したところです。五十万年以上前は、この丘陵の表面を荒川が流れていました。この丘陵は、現在荒川より メートル高い位置にありますが、当時はもっと低いところにありました。(ここも簡単にそうとは言えないのだそうです。)
つまり、秩父盆地も隆起しているのです。盆地が隆起すると、荒川や赤平川の流れが変わり、新たな河道をつくります。そうして、岸辺を崖のようにえぐりとり、段丘崖(だんきゅうがい)をつくります。また、一方では、上流からの大量の土砂を堆積し、川床に平らな段丘面を形成します。こうして、秩父盆地は、地面が隆起するたびに段丘崖と段丘面をつくるということを、この五十万年間繰り返しているのです。(これも五十万年前より前はわからないだけで、五十万年前以上前からかもしれないということです。)
秩父盆地の河岸段丘がよくわかるのは、長尾根丘陵とは反対の荒川右岸です。右岸には、荒川から三キロ離れたところに羊山丘陵があります。この丘陵は、荒川と平行に走り、頂上部分が同じ高さでずっと続いていますから、いかにも河岸段丘という地形をしています。この丘陵はいまから十二万年前にできました。そして、丘陵の頂上の高さが荒川より メートル高い位置にあります。
次いで、この羊山丘陵の内側の、国道140号線が通っているあたりも段丘面で、これは五万年前〜一万年前にできました。
盆地の段丘はこれだけではありません。武州鉄道の秩父駅前から荒川に向かって、大きな道路がまっすぐに通っています。この道をあるけばすぐにわかりますが、なめらかな下り道ではなく、所々に段差があり、まるで階段のような道路です。この段差はいずれも荒川の河岸段丘崖で、ここ五万年の間に作られた新しい河岸段丘です。(これは低位段丘のことで、ここの表現は不適切なのだそうです。)
この河岸段丘は、荒川ばかりでなく、赤平川にもありますし、赤平川の支流である吉田川にもあります。つまり、秩父盆地にある丘陵は全部、これらの川によってつくられた河岸段丘です。
3)ますます高地化する秩父
川の浸食については、小学校か中学校の理科で習うことで、いわば常識です。しかし、私は、山あいを流れる小さな沢を見るたびの、はたしてこういう川にそんな力があるのか、と常々疑問に思っていました。ところが、調べてみて、そうでないことがわかりました。
川の力には、物理的に法則があります。一つは、川が山を削る力は流速の二乗に比例するということです。つまり、流れが二倍の速さになると、削る力は四倍になり、流れが三倍になると九倍になるのです。もう一つは、川が運ぶ岩石は流速の六乗に比例するということです。ですから、水量も流速も格段に増大する梅雨時や台風の時の激流は、私たちの想像を越えるすさまじい量の土砂と大きな岩を運んでいるのがわかりました。
武甲山の麓から南に流れる川に、高麗川という川があります。この川には、所々に川をふさぐような大きな岩があり、通るたびに不思議に思っていました。しかし、地学の勉強をして、川にはあのくらいの岩を楽々運ぶ力があるのを知り、感心もし、納得もしました。(しかし、これも山の側面が崩れた可能性のほうが大きいのだそうです。)
また、秩父市内に武甲山があります。山全体が石灰石の塊のようなこの山は、セメントや肥料の格好の材料ということで、明治以降さかんに採掘されました。そのため、今では山の形もすっかり変わり、まるでシルクロードにある、顔を削りとった磨崖仏のようになっています。自然破壊の代表例ですが、見ようによっては、神と人間との抗争のようにも見えます。そして、たぶん人間の勝利かなという気もします。
しかし、考えてみると、自然は、別に美しい自然を保つために努力しているわけではないし、美しいとか醜いとかいう尺度も、私たち人間が作ったものにすぎません。
秩父盆地をふくむ秩父地方は、この百七十万年の間にすっかり高くなりました。しかも、ここ数万年間は、さらに加速して急激に高山化しています。(私が読んだ本には、確かこう書いたあったのですが、専門家からみると?だということです。)
ですから、秩父の今の地形は、すでにできあがった安定した地形ではなく、急速に変化しつつある過程の一つの姿です。
こういうことを考えてみれば、無惨な姿の武甲山も、あと十万年もすれば、今の武甲山よりもはるかに高く峻険な山となり、かつて人間という生き物がこの姿に手を加えたという痕跡も残らないくらいのこうごうしい山容になっていると思います。
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