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4.武士のいない町

しかし、江戸時代の大宮郷はよその町とはちがう側面もありました。このことも、大宮郷の雰囲気に大きな影響を及ぼしていたと思います。
ひとつには、大宮郷が武士のいない町だったということです。当時、大宮郷には陣屋にわずかの役人がいるだけで武士層の人たちはほとんどいませんでした。ですから解放的というか気楽な気分が町をおおっていたと思います。
ふつう大宮郷くらいの町は城下町です。すると、城下町では、武士とその家族のほか、その使用人たちもいて、だいたい町の半分近くを占めるのだと思います。すると、商店などもそういう武家を相手にすることが多く、店の格式などにも敏感になり町全体が重厚な空気につつまれます。しかし、大宮郷の場合、陣屋にわずかの役人がいるだけで武士層の人たちはほとんどいませんでした。
その上、秩父は、札所の巡礼者や絹商人などのよその人が頻繁にやってくる土地柄でした、巡礼者の多くは物見遊山の気分の人も多かったと思います。(もっとも、熱心な宗教心と気楽な行楽気分というのは両立しますから、まじめな巡礼者とそうでない巡礼者の区別があるわけではありません)
大宮郷はそういう武士はいなく、町人と郡内の農民、それから旅でやってくる人という、いわばよそ者の集まりでした。活気があるといえば活気がありましたが、おそらく風紀も緩やかで猥雑な町だった、と思います

5.大宮郷の町役

江戸時代の大宮郷には、城下町のかたぐるしさもなく、他国の人たちが頻繁に出入りする大宮郷でしたが、では商業や工業にたずさわる町人たちが自由を謳歌する町だったかというと、それはなかったと思います。というのも大宮郷の町は、こういう自由な商人たちによって運営される町ではなく、限られた少数の人たちが取り仕切る町だったからです。そういう意味では、大宮郷もやはり当時の江戸時代という前近代的な束縛というか規制のようなものが強くはたらく町だったと思います。
江戸時代の大宮郷の仕組みは11人の名主がいて、その上に総名主とも言うべき割役(わりやく)と呼ばれる人がいます。名主になる家は当然地元の有力者ですが、割役も同じで大宮郷の四つの旧家から選ばれ、月番か年番の交代制でした。そして、この割役と陣屋の代官が合議して町の運営に当たりました。
この割役や名主とよばれる人たちは大宮郷の地主でした。大宮で店を営む多く人たちはたぶんこの地主たちの借家か借地だったと思います。
秩父は養蚕や絹織物業が盛んで、その上、秩父事件の印象が強烈です。そのため、秩父の人たちも、秩父のいわゆる有力者は、明治以降に織物や金融業で財をなしたように考える人がいますが、それはちがいます。彼らは確かに明治以降にはそういう仕事もしていましたが、この人たちは、秩父で養蚕織物が盛んになるずっと前から広い土地を持つ地主で、土地の有力者でした。
江戸時代には、大宮郷を含め秩父の村々には広い土地を持つ地主の人たちがいました。彼らの多くは、江戸時代の初めから大地主でした。その人たちは、たぶん武蔵七党の丹党とよばれる人たちの末裔だと思います。武蔵七党の歴史は古く、鎌倉時代あたりまでさかのぼります。したがって、その頃から本当に連綿と家系が続いていたかどうかはわかりませんが、戦国時代になっても、彼らは鎌倉時代から続いていると信じていたし、周囲の人たちもそれを認めていました。そういう丹党の人たちは、中世には自分の領地と家来をもつ独立した土豪でした。そして、彼らは戦国時代の末期には北条氏の家臣となり、北条軍団の武士として活躍しましたが、北条氏滅亡とともにまた在地にもどったのです。そして、この丹党やその有力な家臣たちが、江戸時代になってもそのまま秩父の地主になったようなのです。こういう人たちは一種の領主的立場でもあったと思います。この人たちが、昔からの権威と地主としての力で大宮郷を含む秩父を仕切るというのが江戸時代の旧秩父郡だったと思います。
ですから、この大宮郷で店を構える商工業者の人たちも、いわばこういう有力者たちの承認をえて営業していたのですから、独自のアイデアや才覚で奇抜な商法に走るとか、利潤追求のためにはなにをしてもよいということにはならなかったと思います。

6.市(いち)について

江戸時代の大宮郷は商業の盛んな土地でした。このことは、一見すると、秩父が江戸時代には珍しく先進的な地域のような印象を持ちます。しかしこれもちがうように思います。むしろ、商業の繁栄は、秩父の先進性ではなく後進性の表れだと見ることもできます。
秩父の歴史をみると、ここはよそに比べていつも一時代も二時代も遅れているという気がします。たとえば、秩父で長いこと主産業であった養蚕についてもそうです。
養蚕は、世界経済からみて大正時代のはじめにすでにピークに達し、その後は斜陽化するばかりでした。そのため、先進国では養蚕業から撤退しはじめています。しかし、日本だけはその後も養蚕生糸にこだわりました。それでも、さすがに太平洋戦争が終わった頃には、ほかの所ではそのことに気づき地域を工業化したり、農業も米作とか他の作物に転換します。ところが秩父はその後も養蚕を続け(これは秩父だけではありませんが)、なんと昭和30年代まで続けることになります。
こういう保守性は、明治以降に限らず江戸時代も同じでした。すでに見てきたように、秩父は、江戸時代から商業がさかんでした。そして、市が発達し、とくに11月の絹市は内外から多くの絹商人を集めたいへんな賑わいぶりでした。しかし、こういう繁栄も実は秩父の後進性の表れといえなくもありません。
江戸時代の秩父は、租税が米の物納ではなく金納でした。このことについて、最初、私もふつう言われるように、秩父は米作が不適だからと考えていました。たしかにそうこともあります。事実、秩父のような米作不適の山間部では、秩父以外でも金納による年貢でした。しかし、この金納というのは、実は室町時代の税制でもありました。ですから、江戸時代になって米の物納という新しい石高制に変わったが、秩父をふくむ山間部では昔の税制がそのまま残ったという面もあります。
室町の戦国時代、領主が税をとるのは軍事費の調達ですから、お金のほうがよいに決まっています。また直接お金が入る金納は手間がかかりません。それで、金納でした。これを貫高制といいます。これは一種の見なし税です。たとえば北条氏のやり方を見ると、田んぼ1反(10アール)は500文の収穫があると見なします。畑は165文です。そして田畑の種類と面積をからその農家の生産高を決めて、それを税率にしたがって現金で徴収します。非常にわかりやすくスッキリしています。そのため、武士の領地も俸禄もこれで表示するようになります。
しかし、金納にするには農民がお金を調達する必要があります。そこで生まれるのが市です。市は最初は自然発生的に生まれましたが、戦国時代になると、農民がお金を入手できるようにと領主が政策的に作りだします。ですから、市は租税を金納にすると必然的にできてくる仕組みでした。
さらに、この市は、領主にとって重要な財源にもなります。というのも、領主にとって農民は税を納めてくれる財源であると同時に、戦争の時の大切な兵力でもあります。重税を課し農民を苦しめれば、当然農民は兵として働くはずはありません。うっかりすると領内の農民が敵国である他領に逃亡してしまいます。ですから、金納にしても、農民からとる税もどうしても軽くなってしまいます。そこで、領主も農民から取る直接税以外に収入源を求める必要があります。それが、鉱山の開発と市からの収入でした。鉱山から採取する金銀、市を開き市の参加者にから場所代をとる、それが戦国領主の主な収入でした。ですから、秩父の市もこういう室町時代の市の延長上にあります。
ところが、江戸時代も進んでくると、室町時代に活発だった市は全国的にだんだん廃れてきます。それは税制が米による物納に変わったこともありますが、最大の理由は、常設の店舗が増え市を維持することがむつかしくなったためです。
江戸時代は商工業が発達した時代ですから、物資の流通は以前にまして活発になります。すると、物納になっても農民にとってお金を入手する場は必要です。また、自給できない商品を購入する場がひつようです。
しかし、江戸時代になると、六歳市のような定期市は必要でなくなりました。というより、むしろ市は常設店舗の営業を束縛しますから、むしろじゃまになり消滅していきました。
市というのは意外と不自由です。市という機能を支えるには、市以外での商取引を規制する必要があります。市の日には常設の店舗には営業をさせないばかりでなく、市以外でも店舗営業を規制する必要があります。
市の参加者は手数料を払って営業するわけですから、当然そのコストは商品価格に上乗せされます。農民に売る商品の価格は高くなります。また、反対に、農民から購入する価格は安くなります。すると、市の日に、市の近くで店を開く商人を排除しなくてはいけません。また、細かいことですが、市での市場価格を使って、市日以外の日に売買することがないようにしないといけません。つまり、市にまつわる違法行為や脱法行為を起きないように目を光らせなくてはいけません。こういうことを法律で規制し実効を持たせることは非常に労力がいりますし、そして、そういう規制は結局は市に参加する特定の商人を保護することになり公平に欠けます。それで、室町時代にはあれほど盛んだった市が江戸時代になると廃れていきました。
ところが秩父の場合は、江戸時代になっても市がそのまま続きました。それは町の有力者たちの力が強く、商行為にかんするさまざまな規制を設けることが可能だったからです。そういう点では、秩父の商業はきわめて政治行為に近い存在だったと思います。

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江戸時代の秩父の商業

1.大宮郷の商店街

江戸時代から秩父は商業の盛んな土地でした。当時も秩父の中心は、今の秩父市の市街地のあるあたりで、昔は大宮郷といいました。大宮というのは秩父神社に妙見宮があったからで、江戸時代には、秩父の人も秩父神社は秩父神社とよばず、妙見様とか大宮明神とよんでいました。
大宮郷の中心は、当時熊谷通りとよばれた道の両側です。この道は今もそのままありますが、戦後、バイパス道路として国道140号ができてからはややさびれつつあります。新しく道路ができるとまず商店が敏感に反応しますから、町というのは急速に賑わったり衰退したりしてしまいます。
熊谷通りは、江戸時代には秩父往還とも呼ばれ、平野部の熊谷と山梨の塩山方面を結ぶ幹線道路でした。この秩父往還の大宮部分は「風土記稿」を見ると、長さ約九町半、道幅約六間とあります。ですから、1800年頃のことになりますが、この道はメートルで長さ約1キロ、道幅約11メートルであったのがわかります。長さはともかく、道幅は江戸時代としては大きい道でした。
江戸時代の道は、ふつうは三尺道といって1メートルくらいです。幹線道路でもその倍の2メートルくらいしかありません。それが町場や宿場になると急に広くなります。ですから、この往還も皆野の方から道幅2メートルくらいの狭い道が伸びていて、この大宮に入ると道幅11メートル広がって1キロほど続き、大宮郷をすぎると、また2メートルの狭い道にもどって旧荒川村の方に続いていたと思います。
ここで順序が逆になりましたが、秩父市の市街地である、大宮郷の地形を整理して説明しておきます。秩父盆地の真ん中を荒川が南北に流れています。この荒川は河岸段丘を作っていて、段丘の平らな部分を段丘面といいますが、この段丘面にあるのが大宮です。段丘面は荒川の両岸にありますが、左岸にあたる西側の段丘面は狭く、そのため広い右岸の東側に町ができました。しかし、町のさらに東には羊山丘陵という大きい河岸段丘の丘陵があります。ですから、大宮郷は、西は荒川、東は羊山丘陵という山にはさまれた、ウナギの寝床のような細長い町です。
「風土記稿」では、大宮郷の町場は、上町、中町、下町、社領の4区画だとしています。そして、当時の大宮郷にはこの往還沿いに二百五十の民家が集まっていて、そのほか往還から離れたあちこちに五百近くの人家が散在しているとあります。ですから両方あわせると750。1軒あたり5人とすると、約3500人の町だったことになります。少ないようですが、町の面積を考えると人口稠密なにぎやかな町だったと思われます。
上町は大宮郷の南に位置し、忍藩の代官所である陣屋がありました。この陣屋のある上町から北に向かって中町、下町、社領と続いていたのが昔の大宮郷です。今は下町は本町と名称が変わり、社領は秩父神社領のことで今は宮側町になっています。
現在、秩父市の繁華街は、秩父と飯能を結ぶ国道299号が通っている本町や秩父鉄道の秩父駅のある宮側町あたりになっています。しかし、299号の前身である吾野通りは、昔はもっと南の方にありました。また、秩父鉄道の秩父駅のあたりは、当時は秩父神社の境内でした。ですから、昔の中心地は今より少し南の中町の方に寄っていたと思います。
江戸時代も、大宮郷は道の両側に店舗が並ぶ商業地域でした。先にいったように「風土記稿」には家数二百五十とあります。この「風土記稿」の記述は約1800年頃の様子ですが、それより100年前の元禄時代の絵図を見ると、往還の長さが1キロではなく、1.5キロくらいになっています。しかし、211軒の店が並んでいます。ですから、この大宮は江戸時代のはじめから商業の町として栄えていたのがわかります。
元禄時代の絵図を見ると、面白いことに道の東西両側の店数は同じではなく、東側に71軒、西側に139軒と西側に偏っています。これについては、一つには西日の問題があるということです。私も、東側で店を構えている人に聞いてわかりました。
「客が買い物に来るのは午後の夕方です。ところが、夕方になると西日がさします。西側の店はそのままでよいのですが、東側の店は商品がいたむので、すだれをかけて店を囲うことになります。これでは客に店の中が見えませんし、入りにくくなります。どうしても西側の方が有利になります。うちも西側に店があったらとよく思います」
聞いてなるほどと思いました。何の道にも、門外漢にはわからない苦労というものがあるようです。
しかし、店が西に偏っているのは、これだけではないと思います。東側には代官所の陣屋、惣円寺、秩父神社があります。つまり、東側は高台なので西側より格式が高いのです。ですから、こちらは、店舗を構える商人たちに土地を貸している地主の屋敷が多かったのではないかと思います。もっとも、これも調べたわけではなく単なる推測です。

2.店で売る商品

それはともかく、江戸時代には、この熊谷通りに200以上の店がありました。ではどんなものを売っていた、ということが気になります。それで、時代はずっと下りますが、秩父市で一番の老舗で万業(よろずぎょう。今のデパート)の矢尾商店が明治12年に役場に届けた営業品のうち、明治になってから現れたであろう商品をのぞくと、次のようになります。
絹毛(よくわからない)、木綿、麻、織物、金物、鋳物、紙、筆硯、薬、古着、古金物、農具、諸油、提灯、元結(髷を結ぶ紐)、合羽(かっぱ。雨具のこと)、砥石、鰹節、乾物、茶、索麺(そうめん)、海苔、諸麩、刷毛、袋物、鼻緒、風紐(不明)、 骨薬(漢方薬?)肥物(ヒノキで作った曲げ物?)、荒物(ざるや箒)、紐類、小きれ(上質の布の端切れ?)、莫大(不明)、綿真綿、足袋、畳表、笠 傘、筵、生麻、草履草鞋、線香、灯心、火口附木(火打ち石で火をつける木切れ?)、硫黄、蝋燭、団扇、染草、明?(?の字が不明)、砂糖、塩、鉄物、葬具、穀物、杓子柄杓、股引脚絆、馬具、炭、繭、
また、秩父の南にあたる高麗郡の飯能の市史を見ると、上の表にないものをさがしてみると、次のようなものがあります。これらは当然、大宮でも売られていたと思いますので掲げておきます。
生糸、酒、魚、麹、豆腐、薪、下駄、醤油、箪笥、菓子、陶器、漆器、薬種染料、呉服、機織り道具、
以上のようなものが売られていたのだと思います。
そして、こういう商業通りには、小売りの店ではありませんが、次のような店もあったと思います。
髪結い、煙草商、居酒屋、料理屋、旅籠、医者、質屋、絹買継、蚕種業、桶屋、鍛冶屋、大工、建具、左官屋、馬方

3.店舗風景と商人

しかし、「風土記稿」の大宮郷の絵を見ると、店舗はふつう想像するような立派なものではなく、屋根は板葺きか麦わらや杉皮かなんかでふいた粗末な店舗だったのがわかります。当然、平屋でした。ですから、外見からは店舗なのか、ふつうの民家、いわゆる仕舞た屋なのか、はっきりしなかい店も多かったと思います。この粗末な店舗というのは、江戸や大坂はともかく、当時は秩父だけでなく全国でそうだったと思います。
ちなみに、あちこちの郷土博物館には、瓦葺きで藏作り風の大きな店舗がよく紹介されていますが、あれは明治以降にできたものです。小高い丘にあったはずもない天守閣の城があって、そのふもととは重厚な土蔵の店が並ぶ城下町というのは、どうも江戸時代と明治時代の都合のよい所だけをとりだし観光用につくったという印象を持っています。
また、商店も毎日営業していたとはかぎらないと思います。月のうち、たとえば10日は店を開いているが、後の20日は農業というところもけっこうあったと思います。当然札所の巡礼客で賑わう秋だけ店をだすとか、秩父夜祭の間だけ村から物売りにでてくるというのも当然あったろうと思います。さらには、ここの店は実際は倉庫代わりで、商売は行商が主というような店もあったと思います。
江戸時代の大宮郷はたくさんの店舗が並ぶ商店街でしたが、ここで店を構えていた人たちは、身分としてはたぶん商人ではなく農民だったと思います。
最初、私は、農民というのは農村で農業をしていた人で、町の商店主たちは商人だと考えていました。だから、大宮郷で店を営んでいる町人たちは、当然士農工商の商工だと思っていましたが、そういうことではなさそうです。これは、さっきの飯能市史を見て気づきました。一口に士農工商といいますが、城下町や江戸大阪の都会に住む商人や職人たちだけが商工の身分なのであって、それ以外で商業や工業を営む人たちは、農業をしていようがいまいがすべて農民身分だったのだと思います。というのも、飯能市の市史を見ると、ここも商業の盛んな土地でしたが、店を営んでいて人たちはすべて農民身分だからです。実際、飯能の町部に戸数52の真能寺村があります。そのうち兼業農家の、農隙の職種を見ると、これは明治4年の調査ですが、
穀炭、乾物、医師、小間物、薬物、荒物、木工、鍛冶、紺屋、建具、陶器屋(2軒)、煙草、大工、桶屋、縞屋、居酒屋、酒造・太物・小間物、仕立て屋
というように、さまざまな職業がでてくるのです。そして、所有農地は3,4反しかありません。こうなると、農業は完全な副業ですが、身分としては農民ということになります。ですから、大宮でも熊谷通りに店を構える商人たちも身分としては、百姓、つまり農民身分だったと思います。
私たちは士農工商の身分制度というと、「侍の子は侍、農民の子はどんなに能力があっても農民」というように、インドのカースト制度のように考えがちですが、そんなに厳格に固定したものではなかったようです。
ちなみに、江戸時代、秩父札所参りは江戸の市民にとって格好の行楽で、たくさんの人がやってきています。しかし、その巡礼者たちが宿泊する場所は専業の旅籠もありましたが、多くは農家だったと思います。それは農家の副業の場合もあったし、旅館業が主で農業が副業というのもあったと思います。また、札所の近くには茶店もありましたが、これは農家の人の経営だったと思います。さらには、ここで客に物売りをする人もいましたが、これも農民です。とにかく、江戸時代の農民というのはたくましいというか、めざといというか利が得られそうな所には必ず登場する旺盛なエネルギーがありました。
ですから、農民といってもかなり、江戸時代の農民はかなり流動的でした。すると、当然よそから秩父にやってきて商売をはじめる人もいました。江戸時代の他国者の店はわかりませんが、大正末の調査があります。それを見ると、熊谷通りに面する240の店舗のうち、近江商人の店が10、越後出身者の店が5、そのほかの他国9です。それから県内他地域出身の店が19ありました。こういう県外者はすでに江戸時代後半には秩父に入ってきていたと思いますから、江戸時代の大宮郷も意外と外に開かれた町だったのがわかります。

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新編武蔵風土記稿と江戸時代の知性


新編武蔵風土記稿

私は、秩父の風物が気に入り、よく秩父に行くようになりました。そのうち、ただ行ってボウッと暇つぶしするだけでは能がないと思い、郷土史のたぐいの本を少し読むようになりました。すると、「新編武蔵風土記稿」という書物からの引用がひんぱんに出てくるのに気づきました。地名の由来とか、史実に関する記述になるとだいたいこの本が元になっています。それで、この「新編武蔵風土記稿」とはどんな本なのか興味を持ち、市立図書館でさがしました。そこで「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の書物で全二百六十五巻からなる膨大な地歴誌であるのがわかりました。

「新編武蔵風土記稿」は、冒頭に編纂の経過と目的が書いてあります。それによると、「新編武蔵風土記稿」は林大学守衡という人が提案して、徳川幕府の事業としてはじまりました。この人は、徳川家康の学術顧問であった林羅山の子孫で、今の文部科学大臣と東大学長を併せたような人です。編纂は文化7年()から約二十年かけて行われました。対象地域は武蔵国。今の東京、埼玉、神奈川の一部です。

この書物は題名からわかるように、一種の資料集のスタイルをとっています。冒頭の記述によると、どんな内容をどういうスタイルで編纂するか大いに迷った、とあります。奈良時代の「風土記」を参考にしたが、現存する「風土記」を読むと国によって出来不出来が大きい。多分、奈良時代の「風土記」も、地方に資料集として提出させ、いずれ都の学者の手でできちんとした「風土記」の成史を作成するつもりであったのだろうと述べ、そこで、この「新編武蔵風土記稿」も、集められる資料は全部集め、漏らさず記載したから、後世の人が成史として完成してくれることを期待するとあります。そこで「風土記」とはせず「風土記稿」としました。もうすぐ江戸幕府がつぶれるというのに、なんとも優雅な仕事でした。

ついでながら、この「武蔵風土記稿」後、執筆者たちは「相模風土記稿」に取り組みました。こちらは「武蔵風土記稿」の経験を生かし約半分の時間でできました。幕府がつぶれなければ、もっとあちこちの風土記を作るつもりだったのかもしれません。

執筆者たちは、とにかく徹底して調べています。たとえば、秩父関係でいうと、城峰山の群馬県側に、神泉村という小さな村があります。そこに「矢納」という小集落があります。これについても、昔、日本武尊が社に矢を納めたからこの地名がついた、とか、平将門に矢を献上したからこの名がついた、と二説を紹介しています。そして、両方ともとても本当とは思えないが、土地の人がそう言っているから一応ここに載せておくとあります。さらに、江戸からの距離、村の位置を説明し、戸数百十七、生業は畑作と山仕事と養蚕。水田はなく陸田ばかりで焼畑もある。産品は絹煙草干し柿、というようにこと細かく記述し,村内にかかる山と川から、村の神社仏閣まですべて網羅しています。神社についても、建物がある神社はもちろん、村人の誰かが建てた小さな祠まで漏れなく記載してあり、その詳細さにはただ驚くばかりです。

また、吉田町には万葉歌碑があります。これについても、その由来と碑が絵図入りで掲載してあり、本の図では実物の大きさがわからないだろうからと、碑の寸法まで書いてある徹底ぶりです。

この書物が、いったいなんのために編纂されたのかはわかりません。目的は、一応奈良時代の「風土記」の江戸時代版ということになりますが、それでは非常にあいまいです。最初は、今の国勢調査のようなもので行政の資料にするためだろうと考えました。しかし、それにしては、政治や経済以外の記述が多すぎます。

「新編武蔵風土記稿」は、まず武蔵国の概略を述べ、ついで郡ごとの説明があって、それから村ごとの記述があります。ところが、武蔵国の総説には、国の歴史のほか、たとえば武蔵野や隅田川という語が使われている著名人の短歌を、万葉集をはじめ平安鎌倉の歌集をすべて調べあげて載せています。中には個人の歌集のようなものまであります。

また、秩父郡についていうと、秩父市の市街地である大宮郷(江戸時代にはこうよんでいました)に関する記述は、寺社分を除くとわずか1ページです。ところが、民戸わずか27戸の奥秩父の中津川村については5ページを割くという熱の入れようです。推測ですが、大宮郷は、田舎に行けば、どこにでもある賑わいのある町。しかし、中津川村は、日本中どこをさがしても他にはない、ということだと思います。実際、この村に行くには谷沿いの崖道を蟹のような格好をしなければならないとか、人々は焼畑の生活で、焼畑のやり方はこうだと、非常に細かく記述しています。

おそらく、執筆者の中で一番文章の上手な人が秩父郡を受け持ち、そうでない人たちは都内や平地の平凡な農村を割り当てられたように思います。中津川村や同じ秩父郡の浦山村を担当した人は、さぞかし楽しかったろうと思います。

思うに、この「新編武蔵風土記稿」は、当時の幕臣の中の、学問好きな武士たちが、単純に知的好奇心を満足させるためにはじめた事業だと思います。簡単に言うと、都会の教養人の暇つぶしというか遊びです。好きなことを遊びの気分でやるのだから、熱が入ります。編纂者たちには、非常におもしろい仕事だったと思います。だからこそ、これだけのすばらしい書物が完成しました。

この「新編武蔵風土記稿」は完成後、将軍に献上され、正式文書になりました。しかし、書物として刊行されることはありませんでした。その後、明治政府に引き継がれましたが、徳川幕府を否定する明治政府は当然のように無視し、内務省の倉庫でほこりをかぶっていました。ところが、埼玉県の大里村出身者に根岸武香という貴族院議員がいて、この人が内務省に圧力をかけ、明治十七年に刊行させました。当時の製本技術では八十冊にもなる大作でした。この根岸武香という人もユニークな人ですが、その父親はそれに輪をかけた傑物でした。この父子をとりあげるのも面白いのですがここでは省略します。

江戸時代の学問

昔の出来事や書物について疑問が出てきて、自分なりに少し研究してみようとすると、まず問題になるのが江戸時代です。この時代の人たちはよほど暇だったと見え、これらの疑問についてはほぼ研究しつくしてしまいました。ですから、史実や文献に疑問が生じても、江戸時代の文献を調べるとだいたい答えが書いてあります。

万葉集なども、すでに平安時代に万葉仮名が読めなくなってしまい、長らく幻の歌集でした。ところが、江戸時代になると契沖という人が出てきて解読してしまいました。歴史の研究もさかんで、有名な前方後円墳も、四角が前で円が後ろということになっていますが、こう決めたのは江戸時代の人たちでした。どちらが前でどちらが後ろかというのは重大な問題ですから、江戸時代の人たちも懸命に調べました。しかし、いくら研究してもわかりません。それで、結局有名な学者が出てきて、「たいした根拠もないけれど、四角は前で円を後ろにしよう」ということで落ち着いたのだと記憶しています。そして、江戸時代の研究でもわからないのだから、その後はだれが研究してもわかるはずがないというので、今でもこの名称が使われています。

日本語の文法もほぼ研究しつくされました。たとえば、動詞に「射る」という動詞があります。上一段に活用するのですが、ア行かヤ行かはわかりませんでした。段がわかっても行が不明では文法になりません。それで江戸時代の人たちもさんざんの頭を悩ませたのですが、これも結局誰かが「これはいくら考えてもわからない。射るのは矢だから、ヤ行にしよう」というのでヤ行の動詞になったという話を聞いたことがあります。乱暴と言えば乱暴ですが、辞書を引くと「射る」は今でもヤ行になっています。

とにかく、江戸時代の研究は「ものすごい」の一言に尽きます。規模がちがうのです。現代では、歴史や文学の研究は大学の先生くらいしかやりません。ところが、江戸時代は、学者はもちろん町人や田舎の農民までやっています。一種の人海戦術です。現在の天文学では、学者は高性能の望遠鏡で遠くの星を観測し、アマチュア天文家は少々性能が落ちるが、愛用の望遠鏡で一晩中近くの空を見張って、どんな星の動きも見逃さない体制ができています。ちょうどあんな感じです。とくに文献については、江戸時代ですべて研究済みといってよいと思います。ですから現代の私たちがいくら熱心に研究しても何も出てこないと思います。めぼしい鉱脈はすべて掘りつくされてしまいました。

新しい発見があるとすれば、考古学の分野だけだと思います。江戸時代の人たちは、文献とか伝承については微に入り細をうがって研究しますが、どういうわけか、地面を掘って物証を探しだすという荒っぽいことはしませんでした。こういう手法を導入したのは、明治になって日本にやってきた外国人です。モースが貝塚の跡を発掘したのが考古学の最初だということはだれでも知っていることです。
江戸時代の人たちが考古学をやらなかったのは、学問の後進性というのではなく、知性のちがいだと思います。

例えば、江戸時代は医学も進み、杉田玄白が最初に人体解剖をしました。しかし、考えてみると、あれも西洋の医学書に書いてあるのが本当かどうか確かめただけで、研究というものではなかったと思います。
彼の本を読んでも、オランダ語の医学書の解読の苦労はよくわかりますが、肝心の解剖については、恐る恐るやったような印象を受けます。だから、その後も玄白が人体解剖を何度も重ねて、西洋流の医学研究に情熱を注いだということはありませんでした。

それに、玄白のオランダ医書の解読の苦労も、ちょうど万葉集や古事記を解読する国学者のようで、とても自然科学者の研究という感じはしません。

要するに、人間の体を切り刻んで真実を探求するとか、地面を掘って過去の事実を力ずくで引っ張り出すということは、江戸時代の人たちの知性では考えられないことだったという気がします。

江戸時代の人たちは、趣味で学問に打ちこんでいました。それと、研究それ自体に面白さを感じるというより、研究対象そのものに愛着を感じ、対象と自己と一体化させる傾向があります。そういう点で、対象を突き放して客観的に分析するというヨーロッパ流の学問にはなじまなかったのだと思います。

藤倉村

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藤倉村

江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」を手に、旧秩父郡の村々をあちこち回りましたが、昔の秩父の面影をもっとも残しているのは旧藤倉村だと思います。ここも過疎の村ですが、人家も昔の地名の所にそのままあり、変な表現ですが畑も比較的よく耕されていて、江戸時代の秩父の山村風景を考えるには格好の村です。

旧藤倉村は、秩父の北西の端にあって群馬県と境を接する山村です。今は小鹿野町に所属して倉尾といいます。倉尾というのは、藤倉村の南に旧日尾村があり、両方の村を一字ずつとった合成語だと思います。
藤倉村の西には二子山、東には父不見山(ててみずやま)という高い山があって、この山並みが秩父盆地に向かって平行して延びています。藤倉村はこの間に挟まれた山村です。
 
村の真ん中を藤倉川という小さな川が流れています。この川は、その後吉田川に合流して赤平川になり、さらには荒川へと注いでいます。

この藤倉川に沿って道が山の方にのびていて、その道沿いに人家が四五軒ずつかたまって、ポツリポツリとあります。これが旧藤倉村です。今は道幅も広がり、立派に舗装されていますが、土地の年配者に聞くと、戦前までは、川の水うち際が道になっていて、その川のすぐそばまで畑でした。大雨が降ると道がなくなって、学校に行くにも大人が付き添い、それも無理だとその日は学校も休みだとか言っていました。
この道はくねくねと折れ曲がった道で、少し行くと道は山陰に消え、その山陰に出るとちょっとした平地が現れて民家があるのが見えます。昔のような板屋根に石を載せた粗末な家はさすがにありませんが、秩父特有の横に細長い作りです。そして、家の周りの傾斜地には狭く細長い畑があちこちにあって、屋敷地や畑地の上の方は、杉やヒノキが混じった雑木の森が山の尾根まで続いています。

ここは標高が高いので、山を見ても高いという感じはしません。しかし、道路から見ると角度は急です。地元の人が「冬になると、日の出が遅く日没が早い。その上、降るときは雪が四五十センチも積もってなかなか解けない。これでは若い人がいなくなるのも仕方がない」と半ばあきらめ顔で話していました。
私が行ったのは四月の中旬でした。民家の庭先には、鮮やかな黄色のレンギョウが咲き、真紅のボケの花と真っ白な雪柳が日の光を受けて輝いていました。山も雑木がうっすらと色づき、ところどころに山桜や岩ツツジが山の精のような花をつけていました。しかし、冬の藤倉村は、私が見た穏やかで美しい春とはまるで反対の、耐えがたいほどのさびしい山村風景になるのだろうと思います。

「風土記稿」によれば、藤倉村は民家190とあります。そして、江戸時代の藤倉村は、水田はなく陸田と山林だけとあります。男は農作業の合間に薪採りと炭焼き。女は絹や太織りなどを織り出し、冬から春までは紙漉き。産物は絹・煙草・こんにゃく玉・黒白青の大粒の豆とあります。

「風土記稿」に出てくる小名を見ると、
馬上、 池原、 長久保、強矢、八谷、富田、長澤、中平、大石津、房、唐竹、太駄、宮澤、森戸、柳生
と15あります。ですから、江戸時代の藤倉村はこの藤倉川に沿って15の集落があったことがわかります。集落の数はたぶん今でも変わらないと思います。

「風土記稿」では地名はだいたい順番に並んでいます。旧藤倉村の南の入り口が馬上で、北の端が柳生です。全部の地名は確認しませんでしたが、道筋のバス停の名が馬上、池原、八谷、長澤、森戸 柳生の順でしたから、ほかも同じだと思います。馬上は「もうえ」と読みます。一般に秩父の地名は変則読みが多く、この村も、馬上以外の地名もふつうの漢字読みとはちがっています。

柳生は峠のある所で、峠も今は矢久峠と呼んでいますが、昔は柳生峠でした。また、地元の人は、「柳生は、昭和のはじめに麓の家の新宅ではじまった」というようなことを言っていましたが、そうではなく昔からありました。この柳生は藤倉村の北のはずれですが、峠を反対に降りれば群馬の万場です。森戸の人も、昔は万場までよく買い物に行ったことがあると言っていましたから、藤倉村が秩父盆地の北の端だからといって、この村が秩父の中でもとりわけ不便な所というのでもありません。

土地の人の話では、明治17年の秩父事件の時には、人々はこの道を通って長野県に落ちのびていったそうです。また、藤倉川の山向こうには、藤倉村と平行して旧河原沢村があります。この村の先も志賀坂峠という峠で、峠に近い集落の人の話では、群馬から嫁を迎える家が多いような話を聞きましたから、こういう県境の山村は意外と他国との交流が多く、昔はそれなりに賑わっていたような気がします。

藤倉村の中心は村の入り口にある馬上(もえ)です。ここには家が十軒ほどあり、駐在所もあります。藤倉村は藤倉川が流れる細長い山あいの村ですが、川は西側の山のふもとに偏っています。ところがこの馬上だけは、川は平地の真ん中を流れています。川には橋があり、家が川の両岸にあります。「風土記稿」には、村には板橋が二つとあります。たぶんそのひとつがこの橋だと思います。

また、「風土記稿」には、この馬上から道が二つあると書いています。ひとつは西の方の牛首峠を通って旧飯田村に至る道です。旧飯田村は小鹿野町の中心地に近い村で、「風土記稿」にもはっきり、この道は小鹿野の市(いち)に行く道だとあります。もうひとつは、やはり同じ西の方の胡桃差峠を通って旧三山村に行く道です。この道は、今は合角(かっかく)ダムができて大きく地形が変わり、当時の道筋がどうなっているかはまったくわかりません。

もっとも道といっても両方とも完全な山道ですから、今の道とは比べものになりません。「風土記稿」によると、小鹿野の市に通じる牛首峠越えの道でも、道幅は50センチくらいしかありません。今のハイキングコースの道の方がはるかに立派な道です。昔はこういう狭い道を馬の背に荷物を載せ、あるいは人が背中にせおってよその村と行き来していたのだと思います。

江戸時代の藤倉村の生活の柱は畑でした。春から秋にかけて麦や稗の穀類と芋などを育て、その刈入れが終わればソバの種子をまき、晩秋に収穫します。これが当時の主食でした。

ただし、畑地は今よりずっと多かったようです。というのも、前に書いたように、藤倉川に沿って走る道は今は拡幅して立派な舗装道路になっていますが、戦前までは、川の水うち際が道になっていて、川のすぐそばまで畑だったからです。そして、現在はふもとから山の中腹にかけて、あちこち杉やヒノキの針葉樹でおおわれていますが、村の人の話では、ここも以前は畑だったそうです。それを、戦後畑をつぶし杉やヒノキを植えたのだそうです。

言われてみれば、ふつう山岳地帯では低い所が広葉樹で高地は針葉樹になるはずですが、ここでは逆です。ふもとから中腹までが針葉樹山で、中腹から頂上にかけてコナラやカシの広葉樹になっています。それは戦後の植林によるのだそうです。

再び村人の話になりますが、戦前は、麓の畑は麦や豆の畑、山の中腹は桑畑だったそうです。しかし、江戸時代には中腹の桑畑はなかったと思います。ふもとから中腹にかけて、麦や豆、それからタバコやこんにゃく玉など現金収入になる換金作物を栽培していたと思います。

江戸時代の藤倉村では養蚕はしなかったと思います。秩父というと絹と養蚕を連想しますが、両者は分けて考えた方がよいと思います。秩父が養蚕一色になるのは明治になってからです。明治以降は、秩父の村々では養蚕はしても絹織りはしなくなってしまいます。秩父銘仙などの高級絹織物は、明治になり、外国の技術者の指導で秩父市街の工場主たちが農家の女性たちを雇ってはじめました。

江戸時代には、養蚕は盆地の平地部で行われていましたが山村は養蚕はしなかったと思います。養蚕は平地の村で山村ではしなかった、というと秩父のどこに行っても信用されません。

1834年の天保郷帳によると藤倉村は267石の扱いです。一石は米に換算して180リットルです。
すると キロ。藤倉村では米が取れませんが、江戸時代は米による石高制です。ですから、江戸時代の藤倉村では米に換算すれば267石の生産があり、五公五民とすればその半分の133.5石が税です。そして秩父は金納でしたから、これに見合う金額を190軒の家で持ち寄って払ったということになりす。1軒あたりの租税負担一軒当たりの負担は0.7石強です。はっきり言って非常に軽い負担です。江戸時代は大雑把に言って、人口3000万人で、総石高が3000万石。一人当たり一石です。五人家族とすれば一軒当たり5石を生産し、半分の2.5石を税として納めていました。また、同じ旧秩父郡でも、平地の水田地帯の旧田村郷や旧大田村は一軒あたり3石の扱いです。ですから、藤倉村に課された税額の低さがわかると思います。

その上、この藤倉村は幕府領でした。「風土記稿」によると、代官は川崎平衛門という人です。この人は、秩父を遠く離れた関東平野の鶴ヶ島という所に陣屋がありました。一般的に、幕府領の代官所は十万石くらいの領地を200人くらいの役人で管理しており、支配も緩やかでした。ですから代官所も納税を厳しく督促するということはなく、反対に幕府から見れば、藤倉村のような山村の領有は収益より持ち出しの方が大きかったと思います。おもしろいことに旧秩父郡を見ると平地に近い村は大名領や旗本領で、農耕生活に不向きな山村は幕府領です。おそらく幕府の配慮が感じられます。

この267石というのがどうにもピンときません。それで、旧川越藩の武士の給料でみてみました。幕末の川越藩は約8万石で家臣が1000人強いました。そのうちの中老職や馬廻り役という上位の武士で、序列が100番目あたりの武士がだいたい300石です。こういうことを考えると、190軒の村の収入が中くらいの武士一人分しかないというのも変な気
がします。おそらく、実際ははるかに多かったように思います。

単純に計算してみると、
したがって、江戸時代の藤倉村では、働いて得た収入はほぼ全部自分のものなったと思います。そこで、畑作の傍ら、薪炭や織物を生産し、それを馬の背に乗せて牛首峠を越えて小鹿野の市に持っていって売却し、それで納税の現金を調達したり、村では自給できない生活用品や調度品を購入していたということのようでした

江戸の呉服商と西陣

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関東の絹織りものはローカル

秩父は昔から養蚕が盛んで、生糸の生産ばかりでなく秩父絹などの織物も有名でした。これは桐生織りで知られる群馬の桐生なども同じです。しかし、不思議に思うのは、秩父にしても桐生にしても、あれだけの産地でありながら、織物としてのブランド力は全国に通用するには至らなかったことです。秩父絹ももっぱら着物の裏地として使われ、洗練された京都の西陣織とはまるで比較になりません。最大の消費地江戸東京にこれだけ近い距離にありながら、それを生かすことができなかったのです。

このことについて、私は最初織りの技術が西陣に比べ劣っていたからだと思っていました。しかし、江戸時代の豪商三井高利を調べる中で、どうもそういう技術的な問題ではなかったのではないか、と考えるようになりました。たとえ秩父や桐生が西陣の技術を導入し、西陣に見劣りしない技術を確立したとしても、絹織物はやはり京都だったろうと思います。そこで、ここでは三井高利の商法をとりあげ、その理由を説明してみます。

三井高利

江戸時代、豪商と呼ばれる商人たちの業種で、もっとも多いのは材木商と呉服商でした。とくに木材は紀伊国屋文左衛門を例にあげるまでもなく巨利をもたらす商売でした。それは、材木だけが唯一の建設資材であった当時、材木は今の鉄とセメントを合わせたような建設資材だったからです。
それに比べ呉服商は小売り業ですから少々事情がちがいます。私はこういう小売り業者がどうして豪商になれるのか、疑問でした。しかし、高利のやり方を知りその理由がわかりました。

高利は伊勢松坂の出身です。ですから彼は伊勢商人の一人です。高利は江戸に出て呉服商の越後屋を始めると、持ち前の商才でたちまち豪商にのし上がりました。その成功については、井原西鶴の「日本永代蔵」に出てくる、掛け売りなしの現金商売というアイデア商法が有名です。この商法は高校の歴史の教科書にもよく載っています。しかし、私はこの話については相当割り引きして考えたほうがよいと思います。

高利は越後屋が軌道にのるとすぐに江戸の店を息子たちに任せ、自身は京都に移り、呉服の仕入れに専念しました。そして高利の活動の場は終生京都でした。墓も京都にあります。だから、高利はこの京都暮らしの中で、当時流行作家だった西鶴と知り合いになった可能性が大きいのです。西鶴は京都の大きな商家の出で、高利と同時代の人物です。二人の接点はここにあります。ですから、「永代蔵」の話も、高利が店の宣伝のため西鶴に頼んで書いてもらった、というのが私の想像です。

高利の成功の秘訣は別の所にあったと思います。

高利の越後屋の最大の特徴は安売りです。売値が異常に安いのです。越後屋はその後、幕府の御用商人になり、入札にも参加します。しかし、その入札価格が他の呉服商に比べ異常に安いのです。それでも、江戸店を任された息子は「もっと安くてもよかったが、同業者の立場を考えてこの程度にした」と言っています。どうも呉服屋三井は、もうけゼロ、場合によっては仕入れ値を割りこんで売ってもかまわないという感じなのです。

呉服を扱いながらも呉服の利益は期待しない、これが高利の商法でした。では何でもうけるか、というと通貨です。これが高利の冨の源泉でした。

江戸時代の日本では、江戸で使われるお金が小判などの金貨なのに対し、京大阪は銀でした。商業が発達し、少額の取引が多い京大阪では金貨は単位が大きすぎて不便だったからです。したがって、江戸の呉服商たちには、江戸の店で販売し入手した金貨を銀に換え、その銀で京都の西陣から呉服を仕入れるという操作が必要になります。この機能を果たしたのが京店(きょうだな)です。ですから、京店は販売はしません。商品の仕入れと、仕入れに必要な銀の調達がその役割です。

しかし、当時金と銀の交換は固定制ではなく変動制でした。簡単にいうと相場で決まりました。ですから、江戸の呉服商が、金を使わない京大阪に小判を持ち込んでも、足下をみられ安く買いたたかれるだけで、損をしてしまいます。江戸の呉服商の商売のむつかしさはここにありました。ついでながら、江戸時代、呉服商をやろうという野心的な若者は、まず古着屋からはじめました。最初はどうしてなのかわかりませんでしたが、たぶん古着だと金銀の相場に関係なく、仕入れが簡単だったからだと思います。

しかし、京大坂にも、膨大に流入する銀を金貨に替えるのに苦労している所が一つだけありました。それは大坂城でした。

当時、幕府は全国から集めた年貢米を大坂に持ち込み、ここで販売しました。だから米を売れば銀が入ります。しかし、この販売代金は江戸の幕府で使うお金ですから、銀のまま送るわけにはいきません。銀を金に替え、それを江戸に送金することになります。この仕事をしていたのが大坂城でした。
高利はここに眼をつけました。彼は江戸の呉服販売で入手した金貨を、大坂城に持ち込みその差益を獲得するということにしたのです。高利は呉服の商売が軌道に乗り、御用商人の仲間になると、すぐに両替商の免許を取り両替商をはじめています。高利が両替商でどのくらい利益をあげたかはわかりません。しかし、相当なものであったはずです。

こういう高利の経済活動は、大阪城の役人たちにとっても都合のよいことだったと思います。彼らの職務は、年貢米を売れ残ることなく販売することと、販売した代金の銀をすべて小判に替えて江戸に送ることです。金と銀の交換は元々相場物ですから、高利が法外な差益をむさぼらないかぎりそれは許容範囲のうちです。

また、大坂城に流入する銀は膨大でしたから、この仕事を請け負っていたのは、高利のほかにもたくさんいたと思います。ですから、彼の商法が正義に反するということにはなりません。それどころか、高利という人は倫理感の強い人物でしたから、彼なりに考えた適正利潤だったと思います。もっとも、私は商売の経験がないので、いくら考えても適正利潤という観念が理解できませんが。

呉服商を営みながら、呉服ではもうけず、金銀の通貨でもうける。これが三井高利の商法でした。こう考えると、呉服店の越後屋の役割もだいぶちがってきます。

通貨の差益は、扱う額が大きければ大きいほど利益が大きくなります。これをスケールメリットと言います。呉服店越後屋の役割は、江戸で出来るだけ大量の金貨を獲得することです。呉服販売の利益は必要としません。利益を期待しなければ、大量に売れます。すると、多額の金貨が手許に集まります。これが最大の目標です。

元々、呉服の仕入先は西陣しかありません。越後屋も他の呉服商も仕入先は同じです。したがって、仕入価格もほぼ同じになります。同じ商品を同じ価格で仕入れて、自分の店だけもうけようとするのは無理があります。だから、呉服商でありながら、利益の源を別の所に求めるところに彼の商法の特色がありました。

もっとも、これは高利の独創的アイデアではなかったと思います。彼と同じようなことは、ほかの呉服商もやっていたと思います。ただ、高利の場合、両替商の仕事と融合させ、大々的にやったところにほかの呉服商とちがっていました。

高齢になって江戸に出てきた三井高利がほんのわずかの期間で豪商となり、江戸時代の呉服商の多くが富豪になるカラクリは、このようなことだったのだと思います。

話を最初にもどしますと、こういう呉服商たちから見れば、秩父をはじめとする関東の絹織物は魅力がまったくありません。江戸の呉服商をはじめ誰も、ここを織物の産地にしなかったのはこういう事情があったのだと思います。

西陣の職人たちは生糸は作りません。すでに糸になった生糸をどこからか調達して絹織物を織りました。秩父をはじめとする関東に期待されたのは、たぶんこういう西国の織りの産地で使う生糸や裏地としての絹だけだったと思います。


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