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しかし、戦争のこういう姿は,室町時代には全国的に見られたとですが、武蔵国はとくに顕著だったと思います。
戦国時代というと、戦争につぐ戦争で日本中が荒廃したイメージがあります。しかし、中国の戦国時代や中世ドイツの三十年戦争の頃の様子を見ると、これらの国でははげしい内戦で人口が激減してしまいました。ところが日本の室町時代では、むしろ人口が増加しています。ということは、この時代は確かに戦争
が多く、世の中は混乱しましたが、それは社会の上層だけのできごとで、ふつうの人々にとっては案外生きやすかったのだろうと思います。
足利公方や上杉管領、長尾という人たちは、ちょうど吹き流しの鯉のぼりのようなものでした。中身がありません。うまく風にのれば勢いが出て、大勢の兵が集まりますが、パタリと風がやむと見るも無惨ということになります。しかし、なにかのきっかけで風が吹くと、また勢いよく泳ぎ出すというわけです。そこで、こういう古い時代の戦争は、内容に乏しい、したがっていつまでも決着のつかない戦争が延々と続くことになります。
当時の北武蔵の戦争はすべて小規模の戦いだったと思います。室町時代も後半になると、上杉、長尾というような旧勢力は、その活動の領域が北武蔵に限られます。そして、この狭い地域での争いですから動員できる兵力も小さくなります。
ずっと後に徳川家康が関東を領有します。その時の武蔵国全部の石高は確か80万石でした。また、江戸時代の幕府領、川越藩、忍藩、前橋藩松山領という領地をあわせても、北武蔵の石高は多く見積もって半分の40万石です。そして、江戸時代の藩を動員可能兵力で見ると、10万石でだいたい1500人くらいです。すると、この地域の動員数は6千人くらいにしかなりません。戦争という非常時を考慮しても、この地域で一度に調達できる兵力は1万人を越えることはなかったと思います。それが敵と味方に分かれ、しかも戦場を限定しての戦いですから、長尾上杉の戦いなどは、どう考えても500人以下の戦闘だったと思います。ですから、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島のように、1万人を越える軍団の激突というような華々しい戦いというのはまずありえなかったと思います。
話は少しそれますが、後に、両上杉と古河公方が8万人を越える連合軍で、北条氏が守る川越城を囲んだという史実は信じられません。おそらく、その10分の1くらいの8千人でも多すぎます。また、この時の北条軍が1万人強で、城には3千人の城兵が籠もっていたとされますが、狭い平城の川越城を考えと、これだけの城兵が1月以上籠城するのはとても無理だと思います。ですから、こちらの方ももっと少なかったろうと思います。
一般的に、当時の北武蔵の戦争というのは、農作業が終了した秋に集められた200人前後の農民兵が敵味方に分かれて小競り合いをくりかえすというものだったと思います。
もっとも、これらの戦争は、軍事的決着をつける戦いではなく、当事者の政治地位を決める戦争です。ですから、戦争自体は地味でもそれなりに高度な政治戦でした。それはある意味では、近代戦争の理論家クラウゼビッツが、「戦争とは政治の一つの手段である」と言ったように、細かい駆け引きと複雑な合従連衡を組み合わせた神経戦でした。
3.北武蔵の後進性と丹党
北武蔵が古い伝統勢力の争いの場になったのは、一言でいうとこの地域が後進地域だからでした。足利公方、関東管領、その執事という高位の人たちは、元々は鎌倉にいて関東全域を統治するはずでした。それが北武蔵や上州、下総北部(古河公方は茨城の古河に逼塞します)に移るのは、ちょうど池の魚が干上がるにつれだんだん隅に集まるように、新興勢力の北条や武田という戦国大名に追いやられたからです。古い勢力には生きのびる場所はここしかなくなっていました。逆にいうと、この地域は古い伝統勢力が昔ながらのスタイルで活動できる素地がまだ残っていたということです。
鎌倉、室町前半までは中央(ここでは鎌倉ですが)の政治権力は社会の表層にとどまっていて、社会を作っている底まで足を下ろして支配することはしませんでした。しないというよりできなかったのだと思います。それはたぶんあまりに岩盤が固すぎたからです。岩盤とは具体的にいうと村落です。この村という人々の生活単位の機能があまりに強すぎて、権力者が直接人々を支配することができなかったのだと思います。それが、室町時代後半の戦国時代になると、関東以西では権力がまがりなりにも、直接人々を支配ができるようになりました。それが戦国大名です。ところが、北関東では戦国時代になってもこれが実現せず、古い仕組みが残ることになったのだと思います。
北条氏が支配する前までの武蔵には武蔵七党とよばれる武士団が各地にいました。この武蔵七党は、ある歴史上の人物の子孫たちの同族組織です。ですから、あくまで同族間の横のつながりで君臣という縦の関係ではありません。そして、地理的にまとまった地域に分布しています。
武蔵七党は数え方によって、党の名がちがったりするくらいですから、その実態はよくわかりません。また、鎌倉時代まではどの党も同じような活動をしていたと思いますが、時代が下ると、地域によっては実質解消してしまったのもあると思います。
おそらく平野部の党は早くになくなったと思います。たとえば猪俣党の藤田氏は今の長瀞あたりを勢力とし、領地も広く後に北条氏邦を女婿としています。こうなると、ほかの猪俣党の諸氏とは力がちがいますから、おそらく対等の関係ではなく実質的に主君になっていたと思います。また、横山党の成田氏は行田の忍に城を構え、後に鉢形城の北条氏邦や八王子城の北条氏照と共に前線司令官の役割をしています。たぶん戦国時代の早い時期に、豪族というよりは小さな戦国大名に成長していたと思います。こうなると、とても武蔵七党の武士団の一人ということにはなりません。
しかし、秩父盆地から西の秩父郡では、土豪たちが狭い山間地にそれぞれが割拠し、独立意識も強かったと思いますから、その中から藤田や成田のような大きな勢力が成長するはずもなく、鎌倉時代あたりの古い党意識が室町時代後半の戦国時代になっても続いていたと思います。
そこでこの武蔵七党について、旧秩父郡をとりあげてその姿をまとめてみます。旧秩父郡の大半は丹党です。
丹党は今の皆野町あたりから秩父市の全域と小鹿野町の旧秩父郡に分布しています。しかし、秩父郡の東の高麗郡や入間郡にも丹党がいます。秩父郡でも、吉田氏(旧秩父郡の一村。現秩父市)、大淵氏(旧秩父郡の一村)、金沢氏(旧秩父郡の一村)、阿佐見氏(旧秩父郡大宮郷にこの姓の割役がいました)は児玉党に入っています。これらの四村は赤平川の北岸にありますから、児玉党に入るのは理解できます。先にいったように武蔵七党は地理的にまとまっているのが特徴です。
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