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4.北条氏の北武蔵進出

二つの力が拮抗して静止して見える状態も、ほんの少し均衡がくずれると変化します。その変化は最初はゆっくりですが、ある臨界点を越えると急激に一方に傾きます。これを自然科学ではカタストロフィ現象といいます。歴史でも似たようなことが起こります。戦国時代の北武蔵にもこのカタストロフィがやってきます。それは北条氏と両上杉古河公方の連合軍が戦った川越城をめぐる戦争でした。

川越は地図で見ると関東平野の真ん中にあります。しかし、ここは北武蔵の南端です。ここからさらに南部をみると、東側には低湿地帯が広がり、西側はいくら井戸を掘っても水が出ないという台地です。ですから、昔から川越は豊かな北武蔵と不毛の南武蔵の境界になる戦略上の要地でした。

川越城はもとは扇谷上杉の持ち城でした。その川越城を関東征服をめざす北条氏が占領します。しかし、川越を北条氏にとられては北武蔵全体が危うくなります。そこで扇谷上杉は山内上杉と古河公方に加勢を頼み大軍で川越城を囲みました。1546年のことです。

戦いの経過は省略しますが、夜の奇襲作戦が功を奏し北条が圧勝します。これが川越夜戦とよばれる戦いでした。少ない兵力で大軍を打ち破った戦いとして、信長の桶狭間の戦い、毛利の宮島の戦いと並んで有名です。しかし、実際は組織化した軍隊と地侍をたくさん集めただけの軍隊の戦いで、この結果は当然の帰結でもありました。

この戦いで扇谷上杉は滅亡し、古河公方も古河におしこめられます。山内上杉も本拠の鉢形に引き上げました。しかし、今までの戦いとちがって、北条は追及の手をゆるめず一気に北武蔵に押し寄せました。
これを北武蔵の土豪や豪族が見ていました。当然彼らは動揺します。しかし、長瀞寄居に広い領地を持つ地元の豪族の藤田氏は、「もう上杉の時代ではない」と痛感し、率先して北条にしたがいます。これを機に北武蔵の土豪たちがいっせいに北条方につきました。

こうなると管領山内上杉氏といえども北武蔵にはいられません。上杉憲政は鉢形を放棄し、上州に落ちのびます。こうして、北条氏の北武蔵攻略が成功しました。

ただ、秩父の土豪たちは簡単には北条氏に従いませんでした。彼らは最後まで北条氏に抵抗し、今の皆野町の日野沢にある高松城にたてこもりました。しかし、北条氏は篭城する秩父軍をたくみに説得して降伏に導きます。

鉢形城に入った北条氏邦は北武蔵の土豪たちを再編し、鉢形北条軍の中核にします。そのうちでも、秩父の兵は秩父衆とよばれ、秩父孫次郎という人が頭領となります。秩父衆は兵数も多く、保有する鉄砲も多く、その後は鉢形北条軍の最精鋭部隊として武蔵から上州の地で戦うことになります。

ちなみに鉢形から逃れた上杉憲政は上州の伊勢崎に逃れます。しかし、今度は武田信玄に攻撃され、とうとう越後に落ちのびていきます。そして、越後の領主長尾景虎に上杉の姓と管領職を譲ります。これが上杉謙信です。そして、この長尾氏は最初に取り上げた長尾景春の同族です。こうして長きにわたって関東に君臨した上杉家は消滅しました。

また、「風土記稿」によると、北条滅亡後、秩父衆の頭領秩父孫次郎の次男は旗本にとりたてられ幕臣となったが、孫次郎自身は彦久保と姓を変え、旧阿熊村に帰農したとあります。

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丹党について、埼玉大百科事典には46の氏名をあげています。それを見てすぐに気づくのは、丹党の諸氏の姓がほぼ江戸時代の村落名と同じになることです。たとえば秩父郡を選んでみると次の14氏になります。

上中村(旧秩父市の荒川近くの地名。秩父大宮の旧名)
下中村(旧秩父市の荒川近くの地名。秩父大宮の旧名)
秩父 (児玉党にもある。ただ、北条氏邦麾下の秩父衆の頭領は秩父孫二郎という人)
 薄 (旧両神村の地区名。旧秩父郡の一村)
小鹿野(旧秩父郡の一村。現西秩父市)
横瀬 (旧秩父郡の一村。現横瀬町)
藤矢淵(旧秩父郡の一村)
野上 (旧秩父郡の一村。現長瀞町)
井戸 (旧秩父郡の一村。現長瀞町)
岩田 (旧秩父郡の一村。現秩父市)
三沢(旧秩父郡の一村。現皆野町)
黒谷(旧秩父郡の一村。現秩父市)
岩田(旧秩父郡の一村。現長瀞町)
山田(旧秩父郡の一村。現秩父市)

これらの村落の多くは、「風土記稿」を見ると、江戸時代の後半になっても人家数が100から200くらいの村です。この人家数は、山間部の村では戦国時代も江戸時代もあまり変わらず、平地部の村では戦国時代には人家数はもっと少なかったと思います。ですから、こういうことを考慮すると、戦国時代にそれぞれの丹党武士が動員できる兵力も、最大でも10〜20人程度の小さなものだったと思います。したがって、丹党といっても、大勢の兵を従える豪族というよりは、いったん事がおきると土地の若者や郎等を引き連れて駆けつける土豪というほうがふさわしいように思います。ただ、薄村の薄氏などは、村の面積も広く、人家数も多かったと思われますから、こういう村ではある程度軍隊らしい体裁を整えていたかもしれません。

丹党は丹治党の略で、丹治氏の末裔ということになっています。丹治氏は平安時代に武蔵の国司だった人です。ですから当然京都出身の高級官僚です。そして、この人の子孫が武蔵各地に開発領主として住みつき、その子孫の連合体が丹党ということになっています。

しかし、この説は一種の貴種流離で作られた神話で事実ではないと思います。ある村の領主が丹治氏の子孫で、隣の村の領主も、その隣の村の領主も丹治氏の子孫というのはどう考えても変です。実際は、自分で丹治氏の子孫だと称し、周囲もそうだと承認すれば丹党になるという一種の疑似血縁集団だったと思います。丹党を含む武蔵七党ぜんぶにそれらしい家系図もありますが、とても事実とは思えません。とはいえ、それでも一応血縁組織ですから宗家があります。それは大宮郷の中村氏になっています。

秩父を歩き回ればすぐにわかりますが、秩父には山に囲まれた小さい谷間が無数にあって、そこに小さな集落が散在しています。そして、それらの集落がいくつか集まって村をつくっています。この村の最有力者の家が丹党になったのだと思います。その実態はわかりませんが、想像してみると次のようだったと思います。

彼らは村内で領主のように振る舞っていました。広い土地を持つ地主ですが、山間狭隘の地形のため、土地はあちこちに散在していたと思います。そして、それを小作農民に小作させたり、奴隷身分の農民たちを所有して直接農地を耕作させていました。しかし、江戸時代以降とちがって、たぶん小作農より奴隷身分の農民の方が多かったと思います。というのも、丹党は地主であると同時に武士でもあります。村内農民を兵士として働かせるにはどうしても奴隷的農民でなければならないからです。あるいは逆だったかもしれません。こういう奴隷的農民を所有していたから、武士としても活動できたのだと思います。また、彼らは分家を持つ本家でもあったと思いますから、分家の人たちも動員できたと思います。

当然、村にはほかに独立した農民もいました。しかし、村内には、共有地である入会地の利用や宗教行事など村全体で動くことも多く、そういう時には、こうした農民は丹党の土豪的農民の指図にしたがうことになります。また、大きな戦争が起こり、自分の村だけでなく近隣の村全部が参戦せざるをえない場合には、こういう独立した農民も当然加わることになり、その場合は、この丹党土豪の指図に服することになったと思います。前に説明した、長尾景春のような武将たちの軍は、こういう人たちで構成されていたのだと思います。

ですから、丹党の武士団は強制的に狩り出された兵士ではなく、有力武将たちに頼まれて参戦したのだと思います。したがって戦場でどの程度の真剣さで戦うかは彼らの自由意志です。当然軍隊としての強固な規律は期待できなかったと思います。

しかし、こういう丹党の武士団を考えると、今度は彼らが戦争に参加する動機というのがよくわかりません。というのも、上杉と長尾の戦いも見ればわかりますが、当時の北武蔵での戦いの多くは役職や待遇をめぐる争いです。戦国時代特有の領地をめぐる戦いではありませんから、戦争に勝っても恩賞として領地がもらえるということはなかったはずだからです。それに、かりに戦争に勝利し、たとえば丹党のだれかが、恩賞としてある村の領地をもらっても、それは武蔵七党のだれかの領地であり、そこの村の人たちがおとなしく新しい領主の支配に服することなどありえません。ここが平安末の源平の戦いと大きく違うところです。

平安末の源平の戦いは東西日本の争いでしたから、戦争に勝てば相手の領地を恩賞としてもらえる期待がありました。事実、頼朝は気前よく、西日本の平家領を武蔵武士に恩賞として与えました。しかし、戦国時代の北武蔵の戦争は内部抗争でしたから、源平の時のように恩賞として領地をもらったり、負ければ領地をとられたりということはなかったはずです。ですから、土地の土豪にすぎない武蔵七党の人たちの動機というのがわかりません。

私もいろいろ想像してみましたがよくわかりません。考えられることは次のことくらいです。
ひとつには同じ丹党仲間の動向だと思います。上杉や長尾という有力武将が各村に参戦の要請がきても、丹党の土豪たちは10人くらいの兵しか持っていませんから、単独で判断することはなかったと思います。ほかの村の有力土豪たちが相談して、何となく方針が決まるのだと思います。そして、そういう大勢にしたがって、参戦したり見送ったりするのだと思います。

そしてもうひとつは名誉です。うまく勝ち戦で活躍すれば、上杉家中、あるいは長尾家内で相応の地位を与えられるだろうという期待です。その地位が得られても実益はあまりないのですが、そういう名誉は土豪たちには大変魅力的だったと思います。

そもそも、この丹党というのも、外敵から共同して立ち向かう同盟というものではなかったと思います。それよりも、村の土豪たちがお互いに村での領主的立場にいることを認め合うものだったと思います。
それと丹党の分布を見ると、奥秩父の両神あたりから、外秩父のさらに外の飯能、日高、越生あたりまで非常に広範囲に及んでいます。これはたぶん婚姻範囲だと思います。丹党の土豪たちは村では領主的立場にいましたから、村内で通婚することはできません。同じくらいの家格の相手と結婚しなければならないということもあって、範囲が広がったのだと思います。そして、こういう婚姻を通じてさらに同族のつながりを深めていたのだと思います。

ですから丹党には頭領というべき存在はいません。先にあげた秩父大宮の中村氏が宗家になっていますが、これはほとんど名目だったと思います。これはほかの武蔵七党についても当てはまると思います。
武蔵七党の頭領ということでしいてあげれば、関東管領の上杉氏ということになると思います。権威だけは重々しく、実質的な力を持たないこの名家は、丹党の土豪たちにとって非常に都合のよい存在でした。たぶん納税の義務はなく、せいぜい寄進、つまり臨時的な寄付くらいですむからです。戦争に参加を命ぜられてもさほどの強制力などなかったからです。

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しかし、戦争のこういう姿は,室町時代には全国的に見られたとですが、武蔵国はとくに顕著だったと思います。

戦国時代というと、戦争につぐ戦争で日本中が荒廃したイメージがあります。しかし、中国の戦国時代や中世ドイツの三十年戦争の頃の様子を見ると、これらの国でははげしい内戦で人口が激減してしまいました。ところが日本の室町時代では、むしろ人口が増加しています。ということは、この時代は確かに戦争
が多く、世の中は混乱しましたが、それは社会の上層だけのできごとで、ふつうの人々にとっては案外生きやすかったのだろうと思います。

足利公方や上杉管領、長尾という人たちは、ちょうど吹き流しの鯉のぼりのようなものでした。中身がありません。うまく風にのれば勢いが出て、大勢の兵が集まりますが、パタリと風がやむと見るも無惨ということになります。しかし、なにかのきっかけで風が吹くと、また勢いよく泳ぎ出すというわけです。そこで、こういう古い時代の戦争は、内容に乏しい、したがっていつまでも決着のつかない戦争が延々と続くことになります。

当時の北武蔵の戦争はすべて小規模の戦いだったと思います。室町時代も後半になると、上杉、長尾というような旧勢力は、その活動の領域が北武蔵に限られます。そして、この狭い地域での争いですから動員できる兵力も小さくなります。

ずっと後に徳川家康が関東を領有します。その時の武蔵国全部の石高は確か80万石でした。また、江戸時代の幕府領、川越藩、忍藩、前橋藩松山領という領地をあわせても、北武蔵の石高は多く見積もって半分の40万石です。そして、江戸時代の藩を動員可能兵力で見ると、10万石でだいたい1500人くらいです。すると、この地域の動員数は6千人くらいにしかなりません。戦争という非常時を考慮しても、この地域で一度に調達できる兵力は1万人を越えることはなかったと思います。それが敵と味方に分かれ、しかも戦場を限定しての戦いですから、長尾上杉の戦いなどは、どう考えても500人以下の戦闘だったと思います。ですから、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島のように、1万人を越える軍団の激突というような華々しい戦いというのはまずありえなかったと思います。

話は少しそれますが、後に、両上杉と古河公方が8万人を越える連合軍で、北条氏が守る川越城を囲んだという史実は信じられません。おそらく、その10分の1くらいの8千人でも多すぎます。また、この時の北条軍が1万人強で、城には3千人の城兵が籠もっていたとされますが、狭い平城の川越城を考えと、これだけの城兵が1月以上籠城するのはとても無理だと思います。ですから、こちらの方ももっと少なかったろうと思います。

一般的に、当時の北武蔵の戦争というのは、農作業が終了した秋に集められた200人前後の農民兵が敵味方に分かれて小競り合いをくりかえすというものだったと思います。

もっとも、これらの戦争は、軍事的決着をつける戦いではなく、当事者の政治地位を決める戦争です。ですから、戦争自体は地味でもそれなりに高度な政治戦でした。それはある意味では、近代戦争の理論家クラウゼビッツが、「戦争とは政治の一つの手段である」と言ったように、細かい駆け引きと複雑な合従連衡を組み合わせた神経戦でした。

3.北武蔵の後進性と丹党

北武蔵が古い伝統勢力の争いの場になったのは、一言でいうとこの地域が後進地域だからでした。足利公方、関東管領、その執事という高位の人たちは、元々は鎌倉にいて関東全域を統治するはずでした。それが北武蔵や上州、下総北部(古河公方は茨城の古河に逼塞します)に移るのは、ちょうど池の魚が干上がるにつれだんだん隅に集まるように、新興勢力の北条や武田という戦国大名に追いやられたからです。古い勢力には生きのびる場所はここしかなくなっていました。逆にいうと、この地域は古い伝統勢力が昔ながらのスタイルで活動できる素地がまだ残っていたということです。

鎌倉、室町前半までは中央(ここでは鎌倉ですが)の政治権力は社会の表層にとどまっていて、社会を作っている底まで足を下ろして支配することはしませんでした。しないというよりできなかったのだと思います。それはたぶんあまりに岩盤が固すぎたからです。岩盤とは具体的にいうと村落です。この村という人々の生活単位の機能があまりに強すぎて、権力者が直接人々を支配することができなかったのだと思います。それが、室町時代後半の戦国時代になると、関東以西では権力がまがりなりにも、直接人々を支配ができるようになりました。それが戦国大名です。ところが、北関東では戦国時代になってもこれが実現せず、古い仕組みが残ることになったのだと思います。

北条氏が支配する前までの武蔵には武蔵七党とよばれる武士団が各地にいました。この武蔵七党は、ある歴史上の人物の子孫たちの同族組織です。ですから、あくまで同族間の横のつながりで君臣という縦の関係ではありません。そして、地理的にまとまった地域に分布しています。

武蔵七党は数え方によって、党の名がちがったりするくらいですから、その実態はよくわかりません。また、鎌倉時代まではどの党も同じような活動をしていたと思いますが、時代が下ると、地域によっては実質解消してしまったのもあると思います。

おそらく平野部の党は早くになくなったと思います。たとえば猪俣党の藤田氏は今の長瀞あたりを勢力とし、領地も広く後に北条氏邦を女婿としています。こうなると、ほかの猪俣党の諸氏とは力がちがいますから、おそらく対等の関係ではなく実質的に主君になっていたと思います。また、横山党の成田氏は行田の忍に城を構え、後に鉢形城の北条氏邦や八王子城の北条氏照と共に前線司令官の役割をしています。たぶん戦国時代の早い時期に、豪族というよりは小さな戦国大名に成長していたと思います。こうなると、とても武蔵七党の武士団の一人ということにはなりません。

しかし、秩父盆地から西の秩父郡では、土豪たちが狭い山間地にそれぞれが割拠し、独立意識も強かったと思いますから、その中から藤田や成田のような大きな勢力が成長するはずもなく、鎌倉時代あたりの古い党意識が室町時代後半の戦国時代になっても続いていたと思います。
そこでこの武蔵七党について、旧秩父郡をとりあげてその姿をまとめてみます。旧秩父郡の大半は丹党です。

丹党は今の皆野町あたりから秩父市の全域と小鹿野町の旧秩父郡に分布しています。しかし、秩父郡の東の高麗郡や入間郡にも丹党がいます。秩父郡でも、吉田氏(旧秩父郡の一村。現秩父市)、大淵氏(旧秩父郡の一村)、金沢氏(旧秩父郡の一村)、阿佐見氏(旧秩父郡大宮郷にこの姓の割役がいました)は児玉党に入っています。これらの四村は赤平川の北岸にありますから、児玉党に入るのは理解できます。先にいったように武蔵七党は地理的にまとまっているのが特徴です。

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後北条氏前の北武蔵

1.長尾景春

北条氏が入ってくる前の秩父は、非常に遅れていてたぶん鎌倉時代とあまり変わらなかったような気がします。このことは秩父に限らず、武蔵国全体にあてはまりますが、とりわけ秩父は古い時代の仕組みがそのまま残っていたような感じがします。そこで、ここではそういうことをふくめて、室町時代後半の、いわゆる戦国時代の北武蔵について考えてみます。

京都で応仁の乱が起こった1400年代の中頃、秩父をふくむ武蔵国もすさまじい下克上(げこくじょう)の時代でした。下克上というのは、下が上に克(か)つという意味です。当時の武蔵の権門や豪族たちにとって、最大の敵は家来であり、同族の身内であるというありさまで少しの油断もできませんでした。中世のイタリアでは、領主が人に会う時には、暗殺を警戒して体育館のような広間で相手を何十メートルも離して大声で会話したといいます。心理的にはほぼそれと同じでした。
私もこの頃の様子を本で読んでみましたが、同じような名前の人が何人も出てきて、その人たちの離合集散がめまぐるしく、何がどうなっているのかさっぱりわかりませんでした。その上、史実も断片的でまちまちです。おそらく正確なところはだれにもわからないのだと思います。
それでも、当時のことをおおざっぱにまとめると、ほぼ次のようだったと思います。

15世紀半ば北武蔵で動乱の渦中にいたのは、長尾景春という人でした。長尾氏は関東管領の山内上杉氏の執事になる家柄で、同族の中には越後の守護代の長尾氏もいました。ですから、長尾氏は武蔵に割拠する豪族というよりは、関東から越後にかけて、広い範囲に勢力をもつ権門でした。そして景春の父は関東管領の山内上杉家の執事でした。執事というのは、当主に代わって主家をとりしきる役職です。
景春の父はかなりの実力者で、越後守護であった傍流の上杉家から顕定という人を本家に迎え入れ管領にしました。管領になった顕定は、荒川が平野部にでる出口の寄居町の鉢形に住みました。この鉢形は戦国時代、北武蔵最大の要衝で、すべての政治軍事的事件はここで起こったといっても言いすぎではありません。

しかし、その後景春の父が亡くなると、顕定は執事の職に景春ではなく、景春の弟を任命します。そこで景春はこの人事に不満を持ち、主家の上杉氏に反旗を翻しました。具体的には主家の顕定を鉢形から追放してしまったのです。この時、山内上杉は同族の扇谷上杉と良好な関係にありました。そこで景春は顕定のほかに扇谷上杉とも戦うことになります。扇谷上杉はもとは弱小勢力でしたが、太田道灌を家宰にしてから急速に力をつけてきていました。そこで景春も道灌が駿河に出陣したすきをねらって謀反をおこしました。1476年のことです。

景春は長尾氏の嫡流で、しかも上杉家の主家にあたる古河公方が景春に加勢しましたから、上杉顕定にとって景春は強敵でした。この戦いは、長尾上杉一族も敵味方に分かれたばかりでなく、各地の土豪や豪族を巻き込んでの抗争になりました。戦局は、初めは景春の方が優勢でしたが、まもなく逆転し、戦上手の道灌が活躍すると景春はあちこちの戦いに敗れます。こうなると、味方であった古河公方の助けもなくなり、景春はとうとう秩父の日野城に追いつめられ降伏せざるをえませんでした。これが1500年の頃です。

しかし、景春の反抗はその後も続きました。さらに、景春の脅威が小さくなると、山内上杉と扇谷上杉との骨肉の争いが再燃します。顕定は策謀をめぐらし、扇谷の当主に道灌を殺害させるという事件が起こります。この間のいきさつはわかりませんが、その後景春は扇谷上杉と結んで山内上杉と争うようになります。

一方この頃、管領顕定の弟で、越後の守護だった上杉家の当主が、守護代の長尾為景(景春の同族。後の上杉謙信の父)に殺害される事件が起こりました。そこで、顕定はこちらでも戦争をはじめ、その戦いで戦死してしまいます。すると、景春は為景に呼応して上州でまたあらたに戦いを起こし、後継者の管領と戦いをはじめます。それが1510年の頃です。

この頃には、戦線は北武蔵の南端の川越や上州越後というように拡散し、北武蔵は主戦場ではなくなりますが、景春と管領家との抗争はまだ続くことになります。この頃には、景春もそうとう高齢だったはずですが、老いは景春から気力を奪うこともなかったようです。すさまじい執念でした。

2.室町時代の名家、権門

室町時代にこのように君臣同族間で対立抗争が起こるのは、関東に限らず全国的傾向です。その原因も一つではないと思いますが、最も大きい原因は、この時代は権力の上層になればなるほど政治軍事力が薄まるということにあったように思われます。

一般的に、室町時代では身分が高くなると支配地域も広くなりますが、その代わり支配力が弱くなります。反対に低い身分で支配地域も小さくても、そこで強固な支配力を持てば、場合によってはこちらの方が有利になります。

たとえば、当時の関東で最高身分は公方(くぼう)です。公方は足利尊氏の子孫で、その支配地は関東全域です。しかし、よく見ると公方には、はっきりした自分の領地というのがなかったようです。というのも、関東はいくつもの国に分かれ、それぞれに守護大名がいて、そこでは公方よりも守護大名の支配力の方が強かったからです。つまり、公方は関東を支配するといっても、それは守護大名たちを間においた間接支配にすぎません。ですから、公方には、関東全域から徴兵して軍団を組織したり、直接徴税してそれを自己の財源にするというようなことはできませんでした。

この点は京都の足利将軍も同じです。たとえば八代将軍の義政は、官位をほしがる田舎大名たちを朝廷に斡旋して、そこから入る謝礼が大口の収入源でした。また、妻の日野富子にいたっては、京に関所をもうけて関銭をとったり、高利貸し、それから米を買い占めて相場でもうけるというように、およそ将軍夫人にふさわしくない利殖活動を盛んに行い、夫の義政より金満家でした。

それでも将軍の場合はこういう収入源がありました。しかし、関東にいた公方がどうやって財政をまかなっていたのかよくわかりません。

したがって、考えようによっては、公方より家臣の上杉氏の方が有利でした。上杉氏は室町幕府の創始者足利尊氏の実母の家です。上杉家は足利家の家臣というより縁戚です。その上、伊豆、上野、越後の三ヶ国の守護でした。ですから、この三ケ国を支配する上杉氏が、ほかの何人かの守護大名と結べば、公方は何もできません。後に、関東の将軍といもいうべき公方が、上杉氏の手で鎌倉から北関東の古河に追いやられたのも、優勝劣敗ということでは自然の成り行きでした。

しかし、公方のこういう姿は、実は関東管領の上杉氏にもあてはまります。関東管領というのは元々は公方をさす職名でした。ところがこの言葉には将軍の家臣という意味があり、鎌倉府の足利管領はこれを嫌い、公方という新しい称号を使いました。そして、関東管領の職名を執事であった上杉氏に与えたのです。すると、上杉氏もそれまで自分の職名であった執事の職名を自分の筆頭家臣に与えます。それが山内上杉の長尾氏であり、扇谷上杉の大田氏です。

一方、上杉氏は三代目になると四家に分かれます。嫡流があって残り三家が傍流なら、本家と分家です。しかし、四家とも対等意識を持ち、鎌倉の所在地で山内とか扇谷というようにお互い区別し、しかも四家の中でも多くの分家が生まれる状況になります。そして、上杉氏はそのたくさんある上杉家の間で、管領職とか守護職という役職を分けあうことになりました。その結果、総帥の上杉家には、管領という権威のみであまり実のない地位しかなくなってしまいます。それはまったく足利公方がおかれた状況と同じです。一言で言うと張り子の虎になってしまったのです。そうなると、主君の公方に家臣の上杉氏がいうことを聞かなくなったように、傍流の上杉諸家、それから執事をはじめとする家臣たちも、総帥の上杉家に遠慮せずに自分の都合で勝手に動きます。

したがって、戦国時代の関東は非常に流動的で不安定になります。関東の支配者は公方かと思うと、その中から上杉という実力者がでてきます。それでは上杉が実質の支配者かと思うと、今度はその中に長尾や大田という実力者の姿が現れてきます。このあたりはまるでロシア人形の、人形の中から小さな人形がいくつもでてくるマトリョーシカの人形のようです。

しかし、さらに大局的に見れば、公方、上杉諸家、長尾大田氏という名家は、明確な自領と軍を持たないということでは同じです。ここが、関東以西の戦国大名と決定的にちがいました。

たとえば、前にあげた長尾景春の反乱ですが、彼は北武蔵の各地で戦いを繰り広げています。しかし、その戦場を見ると地理的連続性がありません。ふつうは、ある場所で戦いそこで負けるとその後方に引いて戦線を整えまた戦うということになります。ところが、彼の戦いはある場所で負けると、そこからとんでもなく遠く離れたところでまた戦いをはじめています。ですから、景春の軍もあるまとまった軍団があって、それがそのまま移動して戦ったのではないと思います。

景春の戦いは、たとえば平野部の坂戸で戦うことに決めると、わずかの近臣を連れて坂戸に乗り込み、そこで兵を集めて戦うというようなやり方だったのだと思います。そして、坂戸の戦いがうまくいかないと、景春は軍を放棄して山間部の秩父日野に移動し、ここでまた兵を募って戦います。景春は最後に秩父の日野城に籠もりますが、この城も景春の持ち城ではなく、地元の土豪の城だったと思います。その際彼にしたがう兵士も当然地元でかき集めた農民兵でした。

ですから、こういう人たちにとって距離は問題としません、公方、管領、執事という伝統的権威があればどこにでも味方になってくれる土地の兵がいるからです。神出鬼没の行動が可能になります。
しかし、こういう軍は当然規律もなく士気も低かったと思います。戦争といっても死者がたくさん出るような激戦はなかったはずです。激戦になりそうだと思えば、優勢であっても加減するし、劣勢になれば勝手に逃亡してしまいます。場合によっては指揮官が最初に逃げ出すというようなこともあったと思います。

荒川と秩父往還(3)

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7.多摩方面との関係

このように秩父氏の進出先は荒川流域に限られているのがわかります。千葉は荒川水系ではありませんが、荒川の延長と見ることができます。また、東海道が現在のように神奈川と東京が直接結ばれたのはずっと後の時代で、平安時代になってからです。それまでは、今の神奈川の三浦半島の突端走水(はしりみず)から千葉に上陸し、千葉から東京に至るというふうになっていました。ですから、奈良時代までは千葉そのものが武蔵国の一部みたいだったと思います。

秩父の市街地のすぐ南は横瀬町です。この横瀬から正丸峠を越えると飯能市になります。この道は前に説明した吾野通りです。飯能市の隣は青梅市で、この青梅の先には昔の武蔵国の国府である府中市があります。

この正丸峠は今はトンネルで車で二三分で通れますが、昔は難所でした。しかし、正丸峠を越えなくても、その手前に生川沿いに道があります。この道で山伏峠を越えれば名栗村になり、名栗の先は青梅です。名栗村は今は飯能市の一部ですが、昔は秩父郡でした。ですから、秩父の武士や人々ももっと多摩方面との交流があってもよさそうな気がしています。それがまったく希薄なのです。

秩父の地理を見ればすぐわかりますが、秩父から山を越えてすぐ南に青梅市があります。ここは多摩川の上流ですから、秩父氏も荒川水系だけでなく多摩川水系沿いに相模(神奈川)方面に進出してもよさそうなのですが、それがまったくないのです。

多摩川は荒川と同じく秩父の大滝村が源流です。もっとも、急峻な奥秩父山系ですから、秩父では小さな支流がたくさん流れていて、多摩川が多摩川らしくなるのは東京都の青梅市あたりからだろうと思います。

ちなみに青梅は今は東京都ですが、明治のはじめは神奈川県でした。それが東京の水源確保のために東京都に編入しました。ですから、元々はこの辺りは相模国に属していたと思います。

また、現在でこそ東京の中心は昔の江戸ですが、奈良平安時代の武蔵国の国府は、今の府中市にありました。すると、秩父の支配者である秩父氏も、当然府中と頻繁に往来していたと思います。この府中は多摩川からそう遠くない所にありますから、当然秩父氏がこの方面に進出してもよさそうです。しかし、それがありません。この理由がどうにもわかりません。考えられるのは、相模国には秩父氏と同格の桓武平氏の三浦一族がいました。この三浦氏は秩父氏の祖、平良文の弟が祖です。ちなみに源頼朝が関東を勢力範囲にできたのは、神奈川を支配する三浦氏と東京埼玉を支配する秩父氏が服従を誓ったからでした。そこで、三浦氏と秩父氏との間には、荒川水系は秩父氏、多摩川水系は三浦氏というように暗黙の協定のようなものがあったのかもしれないということです。しかし、昔の武士は意外と身勝手で、自分さえよければ平気で親戚や一族を裏切ったりしますから、こういう協定がかりにあったとしても果たして実効があったかどうかはかなり疑わしいと思います。

8.古代の道

それと平安時代以前も考えておく必要があります。
昔から武蔵国は東海道になっていますが、実は奈良時代には東山道に属していました。東山道というのは、現在の北海道がそうであるようにその地方を示しますが、それと同時にそこに至る道のことでもあります。ですから、東山道というのは、岐阜から長野、群馬、栃木にいたる本州の内陸部のことであり、そこに行く道のことです。

ですから東山道には、奈良の都から岐阜や長野を経て武蔵に通る公道があったことになります。すると、武蔵でもっとも都に近い所は秩父になります。したがって、奈良時代以前は、秩父は関東の奥地ではなく玄関であったということです。また、東山道は後の中山道になり、この中山道は東海道の裏街道のイメージになりますが、古代には東海道以上に重要な道だったと思います。というのも、この東山道は群馬につながる道だったからです。

奈良時代より前の大和朝廷のころ、関東地方で強大な力を持っていたのは、どうも群馬あたりの毛の国だったようです。(群馬を上野国、「こうづけ」といいますが、それは「上の毛の国」という意味です)
この毛の国は簡単には大和朝廷に服従しなかったようで、そのため大和朝廷にとって片時も目を離すわけにはいかない存在でした。したがって、この東山道は大和朝廷の時代から奈良時代にかけて、戦略的に非常に重要なルートになっていました。ですから、これに近接する秩父は、武蔵国でもっと都に近く先進的な地域であっただろうと思います。秩父が武蔵国中で一番早く開けたのは、おそらくこういう地理的利便性がもっとも大きかったのではないかと思います。

ある学芸員の方に、「古代の公道は規格があって、道幅が12メートルくらいありました。ですから、武蔵国でも群馬の新田から東京の府中に向かって幅12メートルの真っ直ぐな道が通っていました」と聞いた
ことがあります。私が信じられませんというと、「記録にそうあります。それに、東松山の先の吉見町で昔の古道の一部が見つかっています」ということでした。それを聞いても、私には今でも信じられませんが、実際はどうなのでしょうか。

また、大和朝廷時代よりはるか以前の縄文時代になりますが、関東地方で包丁ナイフ代わりに使われた石器は長野の和田峠で採取した黒曜石でした。この黒曜石は矢じりにもなりますから、縄文人にとってはどうしても必要なものでした。この和田峠は諏訪湖の近くにあります。すると秩父の小鹿野の先にある志賀坂峠の向こうは長野ですから、秩父は関東でももっとも地の利がもっともよい場所になります。この道はずっと時代は下りますが、明治17年の秩父事件でも政府に追いつめられた農民たちは、小鹿野町の志賀坂峠から十国峠を越えて長野に逃れました。さらにこの秩父事件では、秩父の農民たちは群馬や長野にもオルグを派遣し、そのため多くの群馬、長野の人々も加わっていました。ですから秩父と群馬や長野との結びつきは深いものがあったと思います。

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