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4.割り役

陣屋の役人たちの仕事はろくになかったと思います。というのも、陣屋には割り役とよばれる総名主のような人がいて、実務のほとんどをしきっていたからです。江戸時代、支配し階級である武士たちはできるだけ民事にはかかわりたくないというのが本音でしたから、割り役は秩父だけが特別というのではなく全国各地の藩にいたと思います。

割り役というのは、大宮郷11人の名主の筆頭で、秩父領全体を実質的にまとめる世話役といったところです。代官が、忍からの指示を割り役を通して領内の各村々に伝えるのであれば、割り役は領内の村々の要望を代表し、代官を通じて忍に伝えたようです。ですから、当時の秩父領は、代官とこの割り役が相談しながら治めていました。そして、たぶん実際は代官よりこの割り役の方が力があったと思います。要するに、支配者である武士階級は、領内の仕置きは領民たちの自治にまかせ、在地は年貢を滞りこりなく納めてくれればよいという態度だったと思います。

割り役の仕事は広範囲に及び、一見すると今の市長のように見えますが、法的強制力を持っていません。ですから、いわば長老的権威で物事を処理していました。したがって割り役の権威は法以上の力があったと思います。

割り役は忍藩の武士ではなく、大宮郷の有力者が藩から任命されました。士分ではありませんが、苗字帯刀が許され、一人扶持(一日玄米5合)の給米が支給され、士分の待遇を与えられました。もっとも、この一人扶持というのは、割役にとってはなんの意味もなく、フランス人がいうところのノブレスオブリッジ、つまり名士としての義務のような感じがします。

割り役の主な仕事は次のようでした。
1.藩の命令を代官から受け取り村の名主に伝える。また、村の様子を代官に伝える
2.年貢割付
年貢は毎年決まっていましたから、何もなければ前年通り。不作になれば、村から
願書を提出させ、それを代官を通して忍の城に伝える。
3.絹市の管理
4.戸籍(結婚離婚を含む)の管理
5.訴訟の立ち会い、

これらの仕事内容を見ると、この割り役というのはひじょうに重要な役職であるのがわかります。したがって、一人ではなく複数いたようです。それも、一代交代でなく、月番か年番かはわかりませんが、たぶん短期でしょっちゅう交代していたと思います。

大宮郷では、割り役はだいたい松本、高野、新井、久保という四家から選ばれていました。もっとも割り役が自分一人で事務処理をするはずもありませんから、おそらく自分の家の使用人を何人か、その仕事に従事させたと思います。その費用はおそらく割り役の個人負担でした。

5.土地の有力者

江戸時代の大宮郷には、こういう割り役とよばれる飛び抜けた有力者、それから名主になる有力な家がありました。このことについて考えたことがあります。

秩父の人に聞くと、秩父の資産家はみな絹織業で財をなしたようなことを言います。
しかし、これは明らかにまちがいです。というのも、秩父で工場を設置して絹織業が盛んになるのは明治になってからで、江戸時代には絹織りは農家の主婦の副業にすぎなかったからです。しかし、秩父の有力者は江戸時代にすでに資産家でした。彼らは確かに明治以降機織り業の事業を展開していますが、それは元々ある財力を使って機織り業に手を広げたのであって、機織りで財をなしたのではありません。

では、江戸時代のどこかで、経済感覚の鋭い人物が出て有力な家になったのかというと、これもちがいます。というのも、彼らは江戸時代がはじまった時にすでに資産家だったからです。したがって、考えられるのはひとつしかありません。それは元々彼らは秩父の領主層だったということです。はっきり言うと、鎌倉室町時代にこの地の小領主である武蔵七党の武士だったということです。

彼らはたぶんこの武蔵七党の子孫だったと思います。武蔵七党の人たちは、それまで旧秩父郡の村々の土豪でした。村全体を直接支配する力は持たなかったが、広い土地を持ち村を差配していました。その彼らは、戦国末期に一時在地を離れます。それは鉢形城の北条氏の家臣となって職業武士になったからです。そして、北条氏が滅ぶとまた地元にもどったのだと思います。そして、昔通り村内で有力者になったのだと思います。というのも、彼らの多く多分戦国時代の北条氏の家臣の末裔でした。家臣といっても、小田原から来た北条譜代の家臣ではなく、昔から秩父各地に根をはり、中世には武蔵七党とよばれ、小さないながらも領地を持つ土豪たちでした。それが、北条滅亡とともに在地にもどり地主化した人たちでした。こういう人たちは、一種の領主的立場でもあった、と思います。大宮郷に広い土地を持つ地主でした。こういう中世以来脈々と続いた権威と地主ということで、大宮郷の運営に当たっていたのだと思います

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江戸時代 秩父の民政

1.江戸時代の秩父郡
江戸時代の旧秩父郡は、幕府の直轄地である天領と忍藩領、それから譜代大名や旗本領に分かれていました。

戦国時代、関東を支配していた北条氏が滅び、家康が江戸に入府すると武蔵国は徳川領になります。その後、徳川幕府が成立し、幕府は武蔵国の一部を大名や旗本たちに与えました。

旧秩父郡も最初はすべてが天領でしたが、幕府は秩父盆地の主要部を忍(おし)藩に与え、また外秩父の村々や小鹿野あたりの平地は譜代大名の飛び地や旗本の領地としました。したがって、こう言ってはなんですが、江戸時代の秩父は、秩父盆地は忍藩領で、盆地の外縁部のうち、地味がよい村や交通の便がよく開けた所は譜代大名や旗本領、そして、山間地にあって条件の悪い村々が幕府領ということになりました。

2.忍藩

旧秩父郡のうち、もっとも広い範囲を領地にしたのは忍藩でした。忍藩はさきたま古墳で有名な行田市に城がありました。忍城は石田三成が水攻めにしたので有名です。ここは北は利根川、南は荒川が流れ、この大きな二つの川に挟まれた低地です。

城のあるところを忍といい、忍の城下を行田といいます。この区別は室町時代にはすでにありました。どうして、こう分けるのかわかりません。福岡市も城のある所を福岡といい、それ以外を博多といいます。しかし、福岡という名称は領主の黒田氏が出身地の名をとったといういきさつがありますが、行田の場合はこういうこともありません。そういえば、ここの古墳も国宝の剣が出土しよく研究されていますが、ではどうして、ここにこんなに大きな古墳があるのかがわかりません。巨大古墳がたくさんあっても、肝心の古墳を作った人たちの生活の跡がないのです。考えるとよくわからないことが多いのが行田市です。
それはともかく、忍藩の領主は阿部氏です。阿部氏が入る前には、家康の息子の松平忠吉。その忠吉の後は、老中として有名な松平信綱が領主でした。この信綱の後に領主になったのが。阿部忠秋でした。そして、阿部氏は1639年から1823年まで領主でしたから、江戸時代の忍藩はずっと阿部氏の領地であったと考えてもさしつかえないと思います。

阿部忠秋という人は旗本の出身です。それが、将軍家光の側近になって出世し、一代で忍八万石の大名になりました。このあたりは柳沢吉保や田沼意次に似ています。しかし、忠秋の場合、はさほど目立った業績は何一つないのですが、その後老中になり、八万石の大名になりました。ふつう、こういう人は浮き沈みが激しいのですが、忠秋は沈むことなく円満に引退しました。しかも、忍藩はその後二万石加増され、十万石になりました。忠秋の後継者も三代続いて老中職に就いています。

忠秋もその後の後継者たちも、とくに優れた政策能力があったということでもなかったようです。強いていうと、「あの人にまかせておけばまずは安心」というようなタイプの人たちだったようです。ですから、見方によっては、柳沢吉保や田沼意次などより、はるかに処世術に長けていたような気がします。今でも、大きな会社などで大して能力があるわけでもないのに、やたら昇進する人がいますが、たぶんそんな感じの人だったようです。

忍藩は十万石でした。大名というと、ふつう金沢の前田百万石とか仙台の伊達六十万石のような大きな大名を想像します。それで、十万石くらいだと小さいというイメージがあります。しかし、そうではありません。忍藩でいうと、今の行田市、熊谷市、秩父市、それと周辺の町村が武蔵本国領。それに関西の摂津に一万石ありましたから、十万石といっても藩域は広大です。

ちなみに、阿部忠秋の時ですが、それでも藩士の数は家老から足軽、中間といった最下級の武士まで入れてたったの1300人くらいです。行田市の市役所の方が人数が多いくらいです。この人数で広い領域を統治し、江戸屋敷を運営し、阿部氏の場合、なおかつ老中職という幕閣の中枢をつとめたというのですから、いったい本当に可能だったのかという素朴な疑問が湧いてきます。しかし、忍藩についてはこれ以上立ち入らないことにします。

3.忍藩秩父領の陣屋役人
忍藩秩父領は今の旧秩父市、長瀞町、横瀬町,皆野町、旧吉田町、小鹿野町、旧荒川村で石高でいうと約9千石でした。ただ、後の三町村は一部幕領や大名旗本領でした。また、長瀞町の一部は、同じ忍藩でも秩父領ではなく鉢形領になっています。

忍藩秩父領を統治するのが、大宮に陣屋のある代官でした。陣屋は今の秩父市の市街地である上町の裁判所近くにありました。

私は陣屋の代官というから、テレビの水戸黄門に出てくるような代官を想像していました。大勢の部下をしたがえ、善悪はともかく強大な権力を持って領民にのぞむ代官です。だから、代官は城下を離れた出先の役人であっても、士分としての格は藩中でも上位で、家老の下くらいかなと思っていました。
しかし、どうやら、まったくちがうようでした。詳しいことは調べきれてませんが、秩父領の代官は、忍藩では下級武士の部類に入ると思います。

忍藩の役職表を見ると、代官が13人いて、秩父の代官はこの中に入ります。代官職は30俵3人扶持でした。1俵は米60キログラムですから、30俵で1800キログラム。1人扶持というのは、1日に米5合給与するというものです。1年を360日で計算すると1800合になり、270キログラムです。3人扶持なら710キログラムです。そして、両方あわせると2510キログラムで、石高でいうと17.4石にすぎません。忍藩では200石当たりが上士の下限ですから、17.4石の代官職ははっきりいって下級役職です。

ついでに、代官の上役は忍にいる郡奉行ですが、この郡奉行でも150石くらいですから中級の部類です。一般に、江戸時代の藩の仕組みでは、小姓組のように主君のそばで働く人や、番役といって戦争の時精鋭部隊として働く人たちが厚遇されますが、郡奉行とか代官職という民政に従事する人たちは恵まれてなかったような気がします。

しかし、代官に限らず陣屋の役人たちは、役職がら贈り物や祝い金などの収入が多かったと思いますので、給与は低くても結構恵まれていたと思います。ただ、一言言っておきますが、これらは賄賂ということではありません。賄賂とか汚職という言葉が出てくるのは、近代ヨーロッパの政治仕組みの中から生まれてくる倫理観意識で、江戸時代には別に職業倫理にそむく悪という観念ではなかったと思います。
大宮陣屋の代官は二人一組で陣屋に常駐する、交代勤務だったようです。代官は複数で任にあたるので独裁的に権力を振るうということはできない仕組みでした。というよりも、代官の仕事は、忍の郡奉行から出てくる指示命令を地元に伝えるのが主な仕事で、独自の裁量権などはほとんどなかったようなのです。ですから、陣屋の役人たちも、常時10人程度で細々と事務処理にあけくれる毎日だったのではないか、と思います。

秩父領の陣屋には、代官のほかに、秩父山廻り(定員6人、20俵供与)、秩父賄人(まかないにん)(人数、仕事の内容不明)、在忍秩父中間(ちゅうげん)(180人で180人扶持)というのがありました。

ここで気になるのは在忍秩父中間です。180人という人数は、これだけで忍藩の1割を越えます。先に述べたように忍藩の総人数は1300人くらいですから、180人はどうも多すぎます。それに、1人扶持というのは1日に玄米五合ですから、石高に直すと1.8石です。これは農民でも下層農民の部類で、とても家族を養って生活できる家禄ではありません。そこで、この在忍秩父中間というのは、藩領の有力農民を士分待遇にするためにもうけた役職でほとんど実質がなかったのではないか、という気がしています。もっともまったく根拠はありません。

浦山村のこと(3)

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5.焼き畑農業

「風土記稿」は、秩父の焼き畑について、中津川村の「白井差」(しらいさし)とこの浦山村の欄で説明しています。

それによると、焼き畑には、春に火を入れその年の秋に蕎麦を作る「応」(まさ?読み方不明)と、秋に山野を焼き翌年の春に播種する「差」(さし)があります。差では粟、稗、豆などを作るとあります。また、「風土記稿」では秩父には「さし」とか「さす」という地名が多いのは、この焼き畑にちなむのだろうといっています。

そこで、「風土記稿」では浦山村の村人の話として、次のように書いています。
「焼き畑は、二十年くらいたった山野を、まず草木を刈り取り、よく乾くのを待って火を入れて畑にする。焼いた後の灰が肥料になるので、焼き畑は普通の畑より収穫は多い。しかし、畑は四五年しか使わず、それをすぎれば、また新しい所に畑を作る。

耕作者は春から冬のはじめまでは、それぞれの畑地に小屋をたてて移り住み、畑の手入れをする。大変なのは実が熟する頃で、昼は猿、夜は猪や鹿が荒らしに来る。そこで、家族が手分けして、昼夜を問わず畑を見張ることになる。獣がくれば大声をあげ、もしくは木をたたいて音を出して追い払うので、一晩中寝るひまもない。とくに猪鹿の食害が多いので、藩から鉄砲54丁が与えられている。

これを読むと、焼き畑というのは、一つの農地に限ってみれば、最初の五年間を畑として使い、その後二十年間休ませる、そして二十年たてばまた畑にするというもので、いわば二十五年を一つのサイクルとするローテーション農法ということになります。ですから、焼き畑そのものは、原始的な農業というのではなさそうです。むしろ、江戸時代は、平地の農村は田畑の肥料となる山の刈り敷を確保するのに苦労していますから、そういう制約から解放されているという点では、焼き畑はすぐれた農業だったような気がします。

ただ、問題は焼き畑農業では広い農地を必要とするところにあったようです。浦山村も中津川村も食料を完全に自給できませんでしたが、それはおそらくは農地不足によるものだったと思います。

浦山村の場合、家族が手分けして畑の番をしていますから。一戸の家で一ヶ所の畑ではなかったのがわかります。実際、地形的に見ても、まとまった広い土地を確保するのは無理だったと思います。ですから、こちらの山に畑が一面、あちらの山に畑が一面というように畑が分散していたと思います。

そこで浦山村について、次のようなおおざっぱな思考実験をしてみました。

かりに、浦山村では一戸あたり三ヶ所の畑を毎年耕していると仮定してみます。それで二十五年ローテーションで持続可能な焼き畑農業を行うには、計算してみると、一戸の農家で約15ケ所の畑地にできる土地が必要になります。約としたのは、ぴったり三カ所にならない年があるからです。計算方法は省略します。

15ケ所の畑地があれば、5年耕作20年休耕でも毎年3カ所の畑を確保できます。畑にできる土地を一戸あたり15ケ所持つとすれば、浦山村の180戸の全部の農家が焼き畑をするには2700ケ所の畑になる土地が必要になります。

一方、浦山村の領域は、北は浦山口からで、東は武甲山と鳥首峠までです。西と南ははっきりしませんが、住居から遠く離れた所で焼き畑はしないと思いますから(そうであれば出作りではなく、そこに住み着きます。そうなれば新しい地名がつきますがそれがありません)、地図を見た限り、一辺が約10キロの正方形になります。すると、面積はおおよそ百平方キロメートルです。

この面積の中でさっきの2700ケ所の畑用地を確保するには、一平方キロメートルあたり27ケ所になります。これでもピンときませんが、もっとわかりやすく言うと、100メートル四方の土地に畑になる土地を2.7ケ所もつということです。しかし、浦山村の急峻な山岳地形を考えると、100メートル四方の土地に畑地を2.7ケ所もつということはとてもできません。家の近くは常畑になりますから、そういう所をはずすと、ざっとみて1ケ所くらいです。10キロ四方の土地に農家が180軒ということだけ見れば、江戸時代の浦山村には十分余裕がありそうですが、現実は土地不足だったと思います。

したがって、実際は一戸の畑地は三ケ所ではなく二ケ所だったり、あるいは一つの畑を複数の家で耕すというようにしていたと思いますが、いずれにしても畑地は不足します。「風土記稿」によれば、必要な食料の半分くらいしか自給できないとあるのも、この土地不足が原因だったと思います。ですから、浦山村の農民は焼き畑だけでは生活できません。そこで前に説明したさまざまな副業をすることになります。

これは、浦山村だけでなく、秩父地方のすべて村にあてはまることなのですが、全体に、昔の秩父の村々は農民が農地だけを耕して生活するには人口が多すぎるという印象を持ちます。しかし、そのために生活が苦しいとか、秩父の地を離れ流浪する農民が大量に発生するというようなことはなかったように思います。最大の理由は、旧浦山村のように、農民には畑を耕作する以外にもさまざまな収入口があったということが大きいのではなかったのかと考えています。

浦山村のこと(2)

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3.浦山村の昔と今

旧浦山村は、「風土記稿」によると、さっき言ったように人家180とあります。1戸あたり5人とすると、江戸時代末期の1800年頃には人口が900人くらいの村であったのがわかります。また、浦山口に資料館があり、ここで戦後の人口の推移がわかります。それによると、昭和30年(1955年)には、262世帯で1244人の人がいました。明治以降の150年間で人口が300人くらい増えました。ところが、昭和60年(1985年)には、164世帯494人になり、平成12年(200年)には89世帯212人まで減少してしまいました。戦後のわずか50年足らずで、5分の1以下になってしまいました。急激な人口減少です。たぶん、浦山村の人口が回復することはないと思います。

私も、秩父のあちこちを回りましたが、浦山ほど平地の少ない所はないと思います。土地はすべて崖のような急傾斜です。かつて畑として利用された土地も今はススキの野原です。畑であった時にも、これでは腰に綱でもつけなければ安心して農作業もできないのではないかという気がしました。現在耕されている農地はほとんどありません。畑が耕されなくなっただけではなく、家そのものが移転してしまった所もたくさんあります。

実は、浦山は秩父の市街地から、浦山村の入り口近くで5キロ、奥地でも15キロの距離しかありません。ですから、道のりだけをみると、小鹿野町や吉田町よりも秩父の街にはるかに近いところにあります。ところが、土地がありません。たぶん、家を建てる土地を確保するのも困難だったと思います。こういう村の地形では家を構えても、車が走る道に出るだけで大変です。離村もやむを得ないのかなと思います。

私が行ったのは、十一月の紅葉の季節でした。川俣の集落近くに山に入る道があります。その先がどうなっているのかと行ってみました。

山の麓を沢が流れ、そのそばに廃屋が二軒ありました。庭には、収穫する人もないのにユズが実をたわわにみのり、楓が赤く紅葉していました。二階建ての屋根の一部が崩れ、もうだいぶ前に廃屋になっているのがわかります。

ふと見ると家の脇に新しい墓石がありました。墓誌には4人の名が刻まれていました。
昭和40年  男性83歳
昭和40年  女性76歳
昭和47年  男性63歳
平成14年  女性84歳
たぶん前の二人は先代夫婦で、後の二人はこの夫婦の息子夫婦だと思います。先代夫婦はおそらくこの村で生まれ、この村で生き、そうしてこの村で一生を終えたと思います。しかし、二代目の夫婦はそうはいかなかったような気がします。そうして、二代目の母親をここに葬った遺族の方の心中を想像するとさまざまの感慨が去来します。

ふとこんなことを考えます。文明が進めば人々の生活は便利になる。しかし、それで人々が幸福になるかというとは決してそうではない。新しい発明がなされれば、たしかに仕事の時間が短縮され、効率はよくなる。しかし、人間というのは不思議なもので、では余った時間で人生を豊かにするかというとそんなことはない。必ずまた新しい義務的仕事を見つけ、前よりいっそう濃密で神経をすり減らすことになる。そうして過酷な労働を自らに課し、孤独な状況に自らを追いやる。現代人は息絶え絶えの状況に呻吟しているが、それは誰のせいでもなく自ら招いた、いわゆる人間の自業自得というものでしかないのではないのか。

4.山村の風景

浦山川の下流は荒川の川筋に近く、したがって秩父往還沿いになります。また、旧秩父郡の中では比較的賑わっていた旧日野村のすぐそばに位置しています。しかし、昔からこの下流の川岸には人は住みませんでした。

このことは浦山村に限らず、秩父の山岳地すべてにあてはまります。奥深い山の中にも人は住んでいますが、人家はたいてい山腹か頂上付近にあり、麓の川沿いにはありません。私は最初に東秩父のいわゆる外秩父(そとちちぶ)の山間地を車でまわった時、山を登るにつれてだんだん人家が増えてくるのを見て非常に不思議でした。しかし、いろいろ考えてようやくわかりました。

険しい山も斜面のどこも同じように険しいというわけではありません。傾斜がもっとも急なのがふもとの川のところです。ですから、ここには人は住みません。しかし、中腹のあたりから傾斜もゆるやかで、狭いながらも畑にできるような所があります。すると、ここに人は家を作り住みつきます。畑にできる斜面がもっとも多いのは頂上付近です。そこで、頂上付近には比較的多くの人々が住み着くことになるのだと思います。とくに外秩父の山は、高いといっても海抜千メートルくらいです。畑地になりそうな土地も多くあります。

それと秩父では、冬になると、盆地の底の平地より標高400から600メートルの山間地の方が気温が5、6度高くなるという気温の逆転現象がおこります。ですから秩父の高地は平地より比較的温暖で人々が十分暮らしていける所なのです。

話はそれますが、落人部落というのが各地にあります。しかし、あれはすべて事実ではないと思います。山中の奥深くに突然集落が現れると、知らない人は驚きます。しかし、あれは単にそこが人々の生活できる場所だから住んでいるだけのことで、別に世間から隠れているわけではありません。山村の生活は意外と恵まれていて、平地の上層農民のような豊かさは無理ですが、いわゆる水呑百姓とよばれる下層農民の悲惨さとも無縁だったように思います。また、山村の労働についても、詳しいことは知らないのですが、平地の農民に比べとりわけ過酷ということはなかったのではないかという気がしています。

考えてみると、山村の利点は二つあります。一つは、山村に住む人々は借金をしません。山村は思いの外貨幣経済に組み込まれていますが、山村では金を借りようにも、貸してくれる所がないのと、担保に差し出す資産がありません。ですから借金とは無縁です。したがって、借金に追い回されるということはありません。明治になって起こる秩父事件は、たしかに農民の借金がもとですが、事情はちょっとちがうように思っています。

それとこれが山村の最大の利点ですが、こういう奥深い山に住む人々は、昔はだいたい租税が免除されるか、非常に軽い税で済んでいたことです。

江戸時代の農民をみると、平地の農民が没落するのはだいたい借金です。
年貢が払えなくて借金をし、一度借金をすると今度は借金の返済と年貢の重さで身動きとれなくなるというのがもっとも多いパターンだったようです。そして、この上に家族の誰かが病気になり、そのため医者にかかるということになればまちがいなく破産です。その点、借金と租税の心配がない山村生活は、家族が健康であれば生活に不安を持つということはまずなかったと思います。

ただ、今の私たちとちがって、昔の人にとって税を払わなくてもよいというのは単純に喜ばしいことではなかったようです。「風土記稿」の中津川村の記述に、この山村は免租だったが村人が課税を願い出た。徴税しても仕方ないが村の顔を立てて微税を課した、というような内容のことが書いてあります。ですから、昔の人にとって租税免除というのは、ちょうど戦前の徴兵検査で不合格になった若者が、男として失格の烙印を押されたような屈辱を感じるのと同じようなものだったようです。

浦山村のこと(1)

浦山村のこと
1.浦山への道

国道140号を秩父の市街地から山梨方面に車を走らせると、旧荒川村との境でそれまでまっすぐだった道が急なカーブの下り道になります。しかし、その手前で左に折れる県道があります。

その道もはじめは下りですが、やがて長い登り道に変わり、途中短いトンネルやむき出しの崖地を見ながら道なりに行くと前方に大きなダムが見えてきます。この道路は立派に舗装されていて、ダムの所で曲がり、細長い湖をはるか右下に見ながらずっと先まで続いています。これが旧浦山村に行く道です。
ダムは浦山ダム、湖は秩父さくら湖です。この湖は浦山川をせきとめて作った人造湖です。国道のさっきのカーブの所は、この浦山川が荒川と合流するする場所で、「浦山口」(うらやまぐち)といいます。昔は秩父から旧浦山村に行く入り口でした。

ダムに沿って走る道は、短いトンネルを三ケ所次々と通りぬけます。道は緩やかな坂道です。三つ目のトンネルを出ると、左手の傾斜地に家が五六軒ある集落に出ます。「大谷」(おおげ)の集落です。しかし、大谷をすぎると、また無人の景色が広がり、やがて長いトンネルが現れます。「寄国土」(ゆすくど)トンネルです。このトンネルをくぐると、眼の前に浦山大橋という大きな橋が見えます。ダムの所からここまでで、旧浦山村の半ばを通り過ぎました。この間、眼に映った人家は大谷の集落だけです。湖の対岸にも家は見えません。左手には、くすんだ黄色や赤に染まる雑木の山肌がせまり、右下には、絵の具の青の原色を塗ったような湖面が見えるだけです。

しかし、実は大谷の集落を過ぎたすぐの所に、山の頂上に向かって伸びる細い道がありました。昔の道です。この道の先には山の頂上近くまで起伏に富んだ地形が広がっており、ここにも人家がポツリポツリあります。そして、ここも旧浦山村です。「日向」(ひなた)、「岳」(だけ)、「巣郷」(すごう)「、茶平」(ちゃだいら)、「武士平」(ぶしたいら)。そして、トンネルのある「寄国土」も旧浦山村の地名です。

地名は、山や川や峠の名でなければ、それは人が住んでいる所の名前です。昔の人は一軒でも家があれば名前をつけています。それは小字(こあざ)というより屋号といったほうがふさわしいのですが、「風土記稿」では、秩父大宮の中心地の「上町」も、山間の寒村のたった一軒か二軒の地名にも同じように小名とよんでいます。

昔はトンネルはもちろんこのダム沿いの道路もありませんでした。ですから、村人はふもとの浦山口から、浦山川沿いの急斜面の道をほとんど山登りでもするように、この大谷まで歩き、そしてまた、あの山の道を登っていたのです。道はそこから、さっきの日向などの集落を通り、さらに大きく弧を描いて「大神楽」(おかぐら)という所に出ます。大神楽で、道は再び下りになり、この橋のずっと先にある「毛付」(けづけ)という所でこの県道と合流します。

今の道は湖岸の道路で寄国土のトンネルを抜け、浦山大橋を渡ります。このあたりが湖のはじまりで、本来の浦山川がその姿を現します。驚いたことに橋の上から釣りをしている人がいました。聞いてみましたところ、橋から水面までの距離は65メートルだそうです。

浦山橋を渡ると、川は道路の左側に変わり、川も道路の高さにぐっと近づきます。川の対岸を「山掴」(やまつかみ)といいます。昔は山津神と書きました。昔の道は、その山掴の方にあります。川岸は険しい崖になっていて、その岩壁に貼りついたように家が何軒かありますが、それはすべて廃屋です。そういう捨てられた人家を過ぎると「毛附」(けづけ)の集落に着きます。この毛附とそのすぐ先の「川俣」が、いわば旧浦山村の中心地です。毛附には昌安寺という寺があり、川俣には小学校があります。浦山口から、毛附までは直線で約10キロ。そう長い距離ではありませんが、いかにも遠くに来たという感じがします。そして、この毛付と川俣の先には人家はありません。また、大神楽からさらに東南に上れば、「冠谷」(かんむりだに)という所があって、ここが浦山村の奥の奥になります。ここには、昔は二三軒ありました。しかし、今はどうなっているかはっきりしません。

2.昔の浦山村

「風土記稿」によると、浦山という村名は武甲山の裏にあるからついたとあります。確かに浦山村は武甲山の裏手にあたりますが、実際には、この武甲山の西側には高い山々が波打つように広がっていて、この山間部の急な斜面にポツリポツリと人家が点在しているのが浦山村です。

「風土記稿」を見ると、当時の浦山村の戸数は180とあります。そして、浦山村の人々は主に焼き畑で生活していました。しかし、焼き畑農業では必要な食料の半分も自給できず、そのため、男は山木の伐採、薪の切り出し、白箸削り、鋤の柄作り、鍛冶炭(クリの木を焼いた炭)。鳥獣魚の狩猟。女は麻、絹、藤太布の機織りとあります。

もっとも頼りとなる副業は薪の切り出しだったようで、村には馬が17,8頭いて、この馬の背に薪を積み秩父の町まで売りに行き、帰りには米粟を買ってくるということが書いてあります。この17頭の馬というのは浦山村の小名の数と同じです。ですから、集落ごとに馬が共有されて、一種の組合みたいな形で運営されていたのかなと思います。

ちなみにこの薪というのはなかなか有力な副業でした。というのも、薪は燃料ですが、昔は木の薪というのは貴重品だったからです。たとえば、農家でも囲炉裏に木の薪を使うのは来客があった時か、盆や正月の晴れの日くらいでした。ふだんは蔓性の細い枝木や桑の細い枯れ枝を、家中を煙だらけにして燃やしていました。村から秩父の町に持っていけばそれなりの収入になっていました。 
浦山村が旧秩父郡でも特異なのは、村への入口が北の浦山口しかなく、村の三方が閉ざされていることにあります。東は武甲山、西は川浦山などの高い山、南は有馬山という険しい山でさえぎられ出入り口がありません。この三つの山地に囲まれた細長い谷底を浦山川が流れています。

「風土記稿」はこういう村の様子を、中国の有名な伝説、川の上流をさかのぼり洞窟の向こうに突然現れる桃花源にたとえています。

現在は浦山の毛付から南の方角に林道が走っていて、この道は有馬山を越えて飯能市の旧名栗村に通じています。しかし、昔はこの道はありませんでした。この林道も、私は実際に車で走ってみました。二時間くらいかかりました。私が通ったのは11月の平日でしたが、驚いたことにこの二時間の間、対向車が来たのはたった1台でした。日本にもこういうところがあるのだと驚きました。

道路がある現在でもこうですから、昔は有馬越えで名栗村やそのすぐ隣の東京都の青梅方面と往来するのはとてもできなかったろうと思います。そういう意味で、この浦山村というのは袋小路の村です。
「風土記稿」には、同じ秩父の辺境の村に、奥秩父の中津川村があります。戸数二十七の小さな村です。しかし、ここは秩父からすれば西の果てですが、その果ての先には長野県の梓山村という村落があります。中津川の人たちはこの村と交流し、嫁取りもこの村からしていました。ですから、中津川村は辺境の地といっても、秩父と信州を結ぶ細い糸の間にあります。
  
ところが、この浦山村には浦山口への道を除くと道がありません。ですから、浦山村の外からこの村にやってくる人はいません。「風土記稿」では、浦山口に近い所は他の村々と同じだが、奥地は風俗もちがっている。髪を結う習慣もなく、短い衣服で一年中過ごしているとあります。ただ、人々は素朴実直で「風土記稿」の執筆者がこの村を訪れた時には、村人が道に転がっている石や木の枝を取り除きながら案内するので、そういう心遣いは無用だといったところ、「道を歩く人が歩きやすいようにするのは当然のこと。自分は先に江戸まで行った折にも往復の道すがら同じことをしていた」と言って執筆者を感心させています。

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