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4)関東造盆地運動

関東地方の地形については次のようなことが知られています。関東地方の西側には秩父を含む関東山地が走り、東側には房総半島の山並みが続いています。そして、真ん中に関東平野が広がっていて、この平野は両側が山地にはさまれた地形をしています。

このなかで、東西の山岳地帯では地盤が隆起し、平野部では沈下しています。沈下は埼玉の加須市あたりがもっともはげしく、年に0.2ミリくらい沈んでいます。そして、この平野部の沈下を補うように関東山地から土砂が流れ込み、平野部はますます広くなっています。これを関東造盆地運動といいます。関東造盆地運動は今も続いており、したがって気の遠くなるような長い時間がかかりますが、秩父の山岳地帯はますます高山化し、一方、関東平野の方はますます平地化します。これが関東の地殻運動の大まかな動きです。

それと、秩父とは直接関係ありませんが、多摩川についてもふれておきます。多摩川は、今は八王子を通って神奈川方面に流れていますが、はるか昔には、青梅から川越の方に流れていました。今の入間川の流れに近いのですが、当時の多摩川は入間川ではなく、そのそばを流れる霞川という小さな川昔の多摩川です。こういうのを名残川といいます。

そして、昔の多摩川が、青梅から平野部に向けて、広く扇形状に山間部の砂利や小石を押し流し、そのために台地ができました。これが武蔵野台地です。この台地の一部が半島のように平野部に突き出た先端が埼玉の川越です。その上、その後富士山が噴火し、その火山灰が台地上に分厚く堆積しました。これが関東ローム層です。

そのためこの武蔵野台地は、表面が水をためない火山灰層、その下も水をためない砂利や小石の地層で、結局水が滞留しない分厚い地層におおわれてしまいました。火山灰は武蔵野台地の外にも積もりましたが、そこは川の氾濫地域でもありましたので、川によってだいぶ削りとられてしまいました。
昔から、東京の多摩地方や埼玉西部の平野部に人が住まなかったのは、この武蔵野台地では水が得られなかったからです。その結果、武蔵国では、人々はもっぱら北部のいわゆる北武蔵でさまざまな歴史を刻むことになったのです。

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4.百七十万年前の秩父(新生代の第四紀)

1)三つに分かれる秩父地方

今から百七十万年前になると、秩父の地殻は大きく変動し、現在の地形に近づきました。この時代は、新生代の第四紀とよばれ、現代に続く時代です。

この第四紀になると、秩父というより列島全体が、はげしい活動期に入りました。

その中で、秩父に関するもっとも大きな変化は、東秩父の山岳地帯が形成されたことでした。ここは、それまでは秩父盆地とたいしてかわらない地形でした。ところが、突然大地が隆起し、今まで通り平らな所と、地面が盛り上がり山になる所の二つの地域に分かれてしまいました。その境目にあたるのが、秩父市の東隣にある皆野町です。そのため、ここには大きな断層ができました。そして、この断層をはさんで、西側は秩父盆地、東側は外秩父(そとちちぶ)の山岳地帯というようになりました。さらに盆地の西側には元々奥秩父の山があり、そこも隆起しましたから、今の秩父市がある秩父盆地は、周囲を山に囲まれた皿かお盆の底のようになったのです。こうして、現在の秩父の大まかな枠組みができました。

2)秩父盆地の形成

さらに、この第四紀の地殻変動は、秩父盆地にも大きな影響を与えました。それは盆地内に河岸段丘を形成したことです。

この第四紀という時代は、別名氷河時代ともよばれています。完全に陸地になっていた秩父は、氷河の激しい侵食作用を受けることになりました。氷河は、一年に数百メートルしか動きませんが、その力は強大で、東西山地の山肌を荒々しく削りとりました。そうして、氷河は、これら削りとった土砂を、中央の秩父盆地に運ぶ一方、秩父盆地の土砂をも削りとりました。(もっとも、秩父には、周氷河はあっても、氷河があったという事実はないそうです。ついでながら、次の5行は専門家からみると全然デタラメだそうです。しかし、私の力ではどこがどうまちがっているのか、分かりませんのでそのまま載せておきます。)

しかし、盆地の中にも、氷河の浸食をまぬがれ、かろうじて残った所もあります。それは、秩父市の西方の荒川左岸の、大きな傘を広げたような地形の長尾根丘陵です。この丘陵は、五十万年前に氷河が削り残したところです。五十万年以上前は、この丘陵の表面を荒川が流れていました。この丘陵は、現在荒川より メートル高い位置にありますが、当時はもっと低いところにありました。(ここも簡単にそうとは言えないのだそうです。)

つまり、秩父盆地も隆起しているのです。盆地が隆起すると、荒川や赤平川の流れが変わり、新たな河道をつくります。そうして、岸辺を崖のようにえぐりとり、段丘崖(だんきゅうがい)をつくります。また、一方では、上流からの大量の土砂を堆積し、川床に平らな段丘面を形成します。こうして、秩父盆地は、地面が隆起するたびに段丘崖と段丘面をつくるということを、この五十万年間繰り返しているのです。(これも五十万年前より前はわからないだけで、五十万年前以上前からかもしれないということです。)

秩父盆地の河岸段丘がよくわかるのは、長尾根丘陵とは反対の荒川右岸です。右岸には、荒川から三キロ離れたところに羊山丘陵があります。この丘陵は、荒川と平行に走り、頂上部分が同じ高さでずっと続いていますから、いかにも河岸段丘という地形をしています。この丘陵はいまから十二万年前にできました。そして、丘陵の頂上の高さが荒川より メートル高い位置にあります。

次いで、この羊山丘陵の内側の、国道140号線が通っているあたりも段丘面で、これは五万年前〜一万年前にできました。

盆地の段丘はこれだけではありません。武州鉄道の秩父駅前から荒川に向かって、大きな道路がまっすぐに通っています。この道をあるけばすぐにわかりますが、なめらかな下り道ではなく、所々に段差があり、まるで階段のような道路です。この段差はいずれも荒川の河岸段丘崖で、ここ五万年の間に作られた新しい河岸段丘です。(これは低位段丘のことで、ここの表現は不適切なのだそうです。)

この河岸段丘は、荒川ばかりでなく、赤平川にもありますし、赤平川の支流である吉田川にもあります。つまり、秩父盆地にある丘陵は全部、これらの川によってつくられた河岸段丘です。

3)ますます高地化する秩父

川の浸食については、小学校か中学校の理科で習うことで、いわば常識です。しかし、私は、山あいを流れる小さな沢を見るたびの、はたしてこういう川にそんな力があるのか、と常々疑問に思っていました。ところが、調べてみて、そうでないことがわかりました。

川の力には、物理的に法則があります。一つは、川が山を削る力は流速の二乗に比例するということです。つまり、流れが二倍の速さになると、削る力は四倍になり、流れが三倍になると九倍になるのです。もう一つは、川が運ぶ岩石は流速の六乗に比例するということです。ですから、水量も流速も格段に増大する梅雨時や台風の時の激流は、私たちの想像を越えるすさまじい量の土砂と大きな岩を運んでいるのがわかりました。

武甲山の麓から南に流れる川に、高麗川という川があります。この川には、所々に川をふさぐような大きな岩があり、通るたびに不思議に思っていました。しかし、地学の勉強をして、川にはあのくらいの岩を楽々運ぶ力があるのを知り、感心もし、納得もしました。(しかし、これも山の側面が崩れた可能性のほうが大きいのだそうです。)
 
また、秩父市内に武甲山があります。山全体が石灰石の塊のようなこの山は、セメントや肥料の格好の材料ということで、明治以降さかんに採掘されました。そのため、今では山の形もすっかり変わり、まるでシルクロードにある、顔を削りとった磨崖仏のようになっています。自然破壊の代表例ですが、見ようによっては、神と人間との抗争のようにも見えます。そして、たぶん人間の勝利かなという気もします。
しかし、考えてみると、自然は、別に美しい自然を保つために努力しているわけではないし、美しいとか醜いとかいう尺度も、私たち人間が作ったものにすぎません。

秩父盆地をふくむ秩父地方は、この百七十万年の間にすっかり高くなりました。しかも、ここ数万年間は、さらに加速して急激に高山化しています。(私が読んだ本には、確かこう書いたあったのですが、専門家からみると?だということです。)

ですから、秩父の今の地形は、すでにできあがった安定した地形ではなく、急速に変化しつつある過程の一つの姿です。
 
こういうことを考えてみれば、無惨な姿の武甲山も、あと十万年もすれば、今の武甲山よりもはるかに高く峻険な山となり、かつて人間という生き物がこの姿に手を加えたという痕跡も残らないくらいのこうごうしい山容になっていると思います。

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地学から見た秩父

1.3億年前の秩父(古生代から中生代)

周囲を山にかこまれた秩父盆地は、盆地の中にも丘陵が幾重にも走っていて、複雑な地形をしています。そして、その山や丘陵を広葉樹や針葉樹の木々がおおっていて、変化に富んだ秩父の四季を形作っています。また、ここには、荒川や赤平川という大きな川が流れていますが、これらの川は、深い崖の下を流れています。そのため、川の両岸には堤防というのがありません。

こういう複雑な地形はどうしてできたのか、ということについては、いくら考えてもわかりません。そこで、地質学の本を読んでみました。

正直言うと、私の理解力では読んでもよくわかりませんでした。しかし、おぼろげながらも、秩父の大地は大きく地殻変動してきたこと。そしてこの変動は今も続いてことがわかり、人間の歴史を見るとは別の驚きを感じました。

秩父の昔をさかのぼると、その初めは約三億年前です。この頃、秩父を含む日本列島は海の底にありました。そして、どうやら、ここは海底の土砂が堆積する海域だったようで、分厚い地層が形成されました。この時期は地球の歴の中で、古生代から中生代にあたりますので、この地層を秩父中古生層とよびます。
秩父中古生層は、秩父だけでなく日本の広い地域に分布しています。しかし、秩父ではこの地層が表面に露出していて、この地層が最初に見つかったのが秩父な.のでこの名前がつきました。全国的にも、この秩父中古生層より古い地層は、日本では見つかっていません。したがって、この秩父中古生層のある時代が、地質学で到達できる、日本の過去の下限になります。

また、秩父盆地の西側には奥秩父山系、東側には外秩山系があります。そして、盆地とこの山地の境目には大きな断層があります。この断層面には、秩父中古生層からその後の地層を見ると、古生代から現在までの地層が観察できます。つまり、秩父にくれば、日本列島の歴史がわかることになります。そこで、明治から大正時代にかけて地質学の研究では、秩父は大変重要な場所になっています。

大正時代に、学生だった詩人宮澤賢治も秩父に来ています。その時、賢治は31首の短歌を作っており、秩父にとって最高の贈り物をしてくれました。

それはともかく、三億年前の秩父は、海底にあり、秩父古生層とよばれる地層が形成される時代でした。それは、秩父というより、日本列島の揺籃期でした。

2.2億年前の秩父(中生代)

そして、その後は恐竜で有名な中生代になります。しかし、残念ながら、この二億年の長い中生代と、その後の新生代の前半分まではよく分かっていません。

空白時代というのは、確かなことはわからないからからです。というのも、過去を知る手がかりは地層しかありません。ところが、秩父中古生層のすぐ上の地層は、新生代の地層だからです。場所によっては、中生代の地層もあるのですが、断片的なのと、なによりもはっきりした化石がないので、この時代のくわしいことはわかりません。中生代の地層は、その後のはげしい地殻変動と、それにともなう海の浸食ではぎ取られてしまったらしいのです。

ただ、中生代の末頃には、日本列島は依然として海底にありながらも、海底火山による造山運動がはじまり、現在の関東地方の原型らしき地形ができつつあったようです。また、日本列島は隆起と沈降を繰り返し、時には、高地の一部が海上に顔を出したことがあったかもしれません。それは、おそらく、秩父の西側、両神山や三峰山などの奥秩父の高い山々でした。

3.1千700万から1400万年前の秩父(新生代)

地質学的に昔の秩父の姿がはっきりするのは、新生代になってからです。新生代は、今から六千万年前からはじまりました。

ただし、その前半は、日本列島全体が大陸の一部だったようでが、地層も化石も乏しいのでくわしいことはわかりません。しかし、新生代の中頃になると、かなり具体的に当時の様子がわかってきます。

今から約千七百万年前頃には、日本列島は完全に大陸からは分離し、秩父は、ちょうど陸と海の境目になりました。現在の秩父からは想像もできませんが、秩父市は海に面した地形になりました。ただし、秩父の東側の高い山はまだできていませんでした。ですから、海のある秩父といっても、今の西秩父の山々が海岸線を形成し、秩父盆地が湾となり、そこから先は太平洋に続く大海原という光景だったようです。湾内にも鯨なども立ち寄っていたようです。また、珊瑚なども生息し、広い珊瑚礁の中をサメが泳ぐという、今の沖縄の海みたいになっていました。

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