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秩父大宮


秩父大宮


秩父市はいうまでもなく秩父地方の中心です。秩父市は江戸時代までは、秩父神社の妙見宮にちなんで大宮郷とよんでいました。その後、明治になって大宮町になり、近くの村々と合併して大正時代に秩父町に変わりました。秩父町になっても近隣との合併は続き、今では秩父盆地の半分以上を占める大きな市になりました。

秩父町になった時、本当は大宮という名にしたかった、という話を聞いたことがあります。ところが、今のさいたま市の、氷川神社のある町が先に大宮になったので、やむなく秩父にしたというのです。たぶん、その通りだと思います。

元々の大宮郷は、秩父神社を中心にして、西は荒川、東は羊山丘陵を境にして、一辺が約三キロメートルの正方形の小さな町でした。しかも、当時は秩父神社が広大な敷地を占めていましたから、今とはまるでちがった景観だったと思います。

秩父神社は大和朝廷の頃にはすでに存在し、その後もずっと、秩父の人たちの心のより所でした。江戸時代には、境内が約一万一千坪もありました。形状はわかりませんが、これは正方形にすると一辺が約二百メートルになります。しかも、境内は3、杉のほかコナラやクヌギの木がうっそうと茂り「ははその森」とよばれていました。

ははそ」というのは、コナラやクヌギの森を表す古語で、また母にかかる枕詞にもなります。斉藤茂吉の短歌に、「ははそはの母は死にたまふなり」という、ハ音が連続する印象的な短歌がありますが、あの「ははそ」です。

ですから、江戸時代の大宮郷は、町の中心部が静寂な森。その森の裾を秩父往還とよばれる街道が東西に走り、街道筋は上町中町下町があって多くの人でにぎわうというメリハリのある町でした。
しかし、大宮郷が昔から秩父の中心だったのは、秩父神社があるからということではなかったと思います。それは、ここが交通の要衝であり、かつ大きな町を形成するのに十分な広い平地があったからです。
周囲を山で囲まれた秩父盆地には、外界と結ばれる道が四方にあります。ひとつは先の秩父往還で、これには秩父から関東平野部の熊谷や川越とを結ぶ道です。熊谷に行く道を熊谷通り、川越に行く道を川越通りといいます。それから、南には飯能・青梅を結ぶ吾野通りです。また、秩父の西北には吉田町や小鹿野町を通って群馬や長野方面に行く道もあります。これら四方に通じる道がすべて合流するのがこの大宮郷でした。

こういう大宮郷の性格をよく表しているのが、十二月二日と三日の秩父夜祭りです。
この祭りは、元々は五穀の収穫を祝う霜月祭(しもつきさい)でした。期間も旧暦の十一月一日から六日までの六日間でした。ところが、ここに秩父神社の妙見祭が入り、さらにはこの日に絹市が催されるようになりました。そこで、全国から商人がやってきては絹の買い付けをし、あるいは、絹の売買を依頼をうけた地元の商人たちが取引をするというようになりました。

昔の十一月は今の十二月です。冬のさなかの夜祭りで、寒いからというわけでもないでしょうが、いわば市の雰囲気を盛り上げるために、行われるようになったのが秩父夜祭りです。壮麗な屋台車と笠鉾が、きらびやかな音楽と威勢のよいかけ声にあわせ、町中を練り歩く行列は、たしかに人々の高揚感をあおったと思います。

この秩父祭りをみれば、大宮郷が秩父神社の門前町ではなく、商業の町であり、街道の宿場町でもあるということがよくわかります。秩父市のこういう基本的性格は昔から今に至るまで変わりません。
こういう秩父市ですが、私がいつも不思議に思うのは、江戸時代にどうして大宮郷は城下町にならなかったのか、ということです。秩父盆地を中心とする秩父郡は、地形的にもこぢんまりとまとまっていて、三万石程度の譜代大名を置くには、格好の地であったはずです。
ところが、江戸時代、大宮郷をふくむ秩父盆地の半分は、行田市に城がある忍藩の領地でした。忍藩では、城下からさほど離れてもいないのに、どういうわけか大宮郷に陣屋を設け秩父を代官支配にしました。また、残り半分は幕府領でした。しかし、秩父を統治する代官所は、秩父から遠く離れた川越市の近くにありました。

秩父が政治都市にならなかったということは、江戸時代の前も同じです。戦国時代、秩父は北条氏の所領でした。ところが、北条氏もなぜか秩父盆地には入らず、秩父盆地との境にある寄居という所に、大きな城をつくってここから秩父を統治しました。

さらに、この北条氏の時、武田信玄の軍が秩父に侵入し、秩父神社をふくむ町中を焼き払いました。これを信玄焼きといって、秩父の人たちは今でも覚えています。しかし、武田信玄という人は、深謀遠慮の人で、ふつうはこういうことはしません。彼は、戦争ではいつも戦後の支配を考えていましたから、土地の人々の恨みをかうようなことはしないのです。その信玄が秩父の町を焼きました。ということは、彼には、最初から秩父を支配するつもりなどなかった、ということになります。

どうも、大宮郷をふくむ秩父というのは、昔から、権力者にとって政治的関心をひかない土地でした。
その理由は、私なりにいろいろ考えてみましたがよくわかりません。すぐに浮かぶのは、秩父は稲作ができないからということです。しかし、米のとれない中部山岳地方や東北地方にも大名はいます。ですから、稲作ができないからというだけではなさそうです。

それから、昭和天皇の弟に秩父宮という人がいます。どうして秩父の名称が選ばれたかについては、秩父の人に聞いた時には、秩父宮は秩父が好きだったから、ということでした。しかし、宮家の名称をそういう理由だけで決めることがあるだろうかと思って、図書館で調べてみました。すると本の名前は忘れましたが、次のようなことが書いてありました。

江戸時代まで宮家はずっと京都の地名から選ぶ慣習だった。しかし、宮内庁の係の人たちが、東京に遷都したことだし新設宮家の名称を武蔵国の地名からとるのはどうだろうかと考え、武蔵唯一の高山がある秩父を明治天皇に提案した。明治天皇も、皇居からよく秩父連山を望みみていたのでそれで良かろうというので秩父宮になった、というのです。どうもこちらの方が正しいようです。
とはいえ、秩父神社には昭和天皇をはじめ皇族の歌碑がいくつかあります。これは天皇家が秩父が好きというより、秩父の人が天皇家が好きという表れだと思います。

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