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武蔵武士(1)

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武蔵武士


1.桓武平氏

秩父盆地の西北の端に吉田という町があります。城峰山麓の小さな町で、町の向こうはもう群馬県です。県境の山間地ということから想像できるように、典型的な過疎の町です。しかし、町の中心部は以前より少し賑やかになってきました。過疎に歯止めがかかったからではなく、近くの山間地に住んでいた人たちが、町に移り住むようになったからです。それでも町の中心である商店街は、客が来てから店の人が出てくるというさびしい町です。

こういう吉田町ですが、どうもここは、平安時代の昔には、秩父というよりは武蔵の国の中心だったようです。

というのも、ここの領主の初代は桓武平氏の平良文という人物で、彼がこの吉田町に館を構えていたという説があるからです。この平良文は、平安時代に関東で威をふるった板東八平氏の祖です。良文が居館をおいた所は、今の吉田小学校の敷地とされています。ここは、吉田川の河岸段丘上にある高台で、また、赤平川と合流地点ですから、武家の棟梁が館を構えるには格好の地形です。

しかし、この平良文については、私もあれこれ調べたり、考えたりしましたが、よくわからないというのが本当のところです。

平良文は別名村岡五郎といいます。村岡というのは今の熊谷市にある地名です。ですから、彼は、元々は熊谷の人らしいのです。しかし、吉田町にも居たということにもなります。そして、秩父市は江戸時代までは大宮郷とよばれていましたが、それは良文が秩父神社に妙見菩薩を祭り、妙見宮があったからということになっています。ですから、それなりの足跡は残しています。

また、鎌倉時代に武蔵七党とよばれる武士団があり、その一つに今の浦和あたりに与野党というのがありました。この武士団も良文の末裔と称していました。

この平良文について、その人物像がはっきりした形で出てくるのは今昔物語です。良文が源充という武士と一騎打ちの戦いをし、互いに相手の馬術と弓矢の技量を認めて和解し、以後両者は厚い友誼を交わすことになった。板東武士とはこういうものだと今昔では称賛しています。しかし、平良文は十世紀半ばの人で、「今昔物語」はそれから二百年後の作品ですから、どの程度事実を伝えているかどうかは大いに疑問があります。

平良文という人は、桓武天皇のひ孫で、有名な平将門の叔父に当たる人です。良文には兄弟がいましたが、長兄の国香は甥の将門に殺され、別の兄の子である将門も反乱を起こしたため、国香の子どもたちに討たれてしまいました。ところが、彼らも将門を討ったということで仲間の武士たちの不評を買い、関東にいられなくなって伊勢に移住しました。この子孫が平清盛です。

したがって、将門の乱が終わってみると、関東の桓武平氏で残ったのは、良文とその弟の良茂だけということになります。この二人の子孫がいわゆる板東八平氏です。良文の子孫が武蔵に拠を構えたのに対し、弟の良茂の子孫は三浦氏を称し、もっぱら相模で勢力を拡大しました。

この両平氏の力は強大だったようです。後に源頼朝が反清盛の兵を挙げ成功したのは、この秩父の平氏と三浦氏が傘下に入ったからでした。そして、平家が滅ぶと、「狡兎死して走狗にらる」という史記の格言通り、この両平氏は鎌倉幕府にとっては危険な存在でしかなく、北条氏によって滅ぼされてしまいました。

しかし、「風土記稿」には、歴代の武蔵守には良文の名はなく、孫の将恒という人が武蔵野守で、将恒のひ孫の重綱から武蔵守代理となっています。ですから、良文が武蔵守というのは、自称か地元の人だけが認める称号だったのかもしれません

良文は、鎮守府将軍や武蔵守となり、その直系の子孫は、その後秩父氏を称し、代々この吉田に住み、実質的に武蔵守でした。実質的というのは、正式の武蔵守は、現地に赴任しない京の皇族が就任する習わしがあり、秩父氏が代行を務めたからです。

そして、良文の子孫から分かれた傍流が関東のあちこちに移り、彼らはそれぞれ新しい姓を名乗りました。いわゆる良文流平氏です。埼玉の河越氏、東京の江戸氏、葛西氏、豊島氏、千葉の千葉氏、などがいました。

河越氏は今の川越を拠点とする豪族で、源義経の正妻を出した家です。後に豪族の強大化を嫌う頼朝のため、義経の反逆を口実に領地の多くを取り上げられるという処分を受けてしまいました。残りの武士は、いずれも誰もが知っている東京の地名の領主です。

ですから、吉田町の秩父氏は、武蔵国に勢力を張った桓武平氏の宗家ということになります。秩父氏が、こういう高い地位を占めることができたのも、この家系の祖が平良文という皇族につながる貴腫であること、そして良文が、坂東武士の伝説的英雄である、平将門の近親者であったことが非常に大きかったような気がします。

この平良文という人物は、実在の人物ではあるが、どうも平安時代の後半には、坂東平氏の人々の手で神格化され、宗教の教祖のように祭り上げられた、というのが私の推測です。

吉田に居を構えたのは、武基からとする説もあり、むしろこちらの方が有力です。武基の父は将恒といい、元々は京の人だったが秩父に下向し、土着して秩父氏を称した。そして、子の武基が、この吉田に館を建てて住んだというのです。実際、吉田町では、この吉田小学校に、武基の居館の遺構として紹介しています。

しかし、こうなると、将恒の父の忠頼という人が一度京に戻って、京都人にならなくてはなりません。すると、この忠頼には、別の子に平忠常という人がいて、彼は、将門と同じように、今の千葉県に独立国を作ろうと謀反を起こしている、という有名な歴史的事実の説明がつかなくなります。

ただ、秩父氏については、この武基あたりからはっきりしてきます。彼は、源氏の棟梁として有名な源義家にしたがって、後三年の役という、奥州の内乱を鎮圧する戦いで功を立て、従五位伊予守に任命されています。

秩父氏というより、秩父の武士団の力がもっとも勢威を発揮したのが、この武基から重弘という人の頃までだったと思います。おそらく、関東の武士団の中でも、最大勢力だったと思います。周辺の武士たちも秩父氏との縁戚を求め、あるいは、血縁がなくとも擬似的に秩父氏一族として認めてもらい、その傘下に入った武士も多かったと思います。こうして秩父一族の裾野が広がり、武蔵国の最高権威者としての、秩父氏の地位が確立したようです。

良文流平氏も初めの頃ははっきりしませんが、ともかく、平安時代中頃から、平良文の流れをくむと自他とも信じる武士の棟梁がこの吉田にいて、秩父を拠点に武蔵国に強い力を発揮したというのはまちがいなさそうです。

吉田町の良文の子孫は八代の重能まで吉田町に住みました。この重能という人の時に、今の熊谷市近くの川本町の畠山という所に領地を得て、畠山氏を名乗りました。重能は、畠山に姓を変えても吉田町にいましたが、その子が当主になると畠山の地に移り、吉田の地を離れることになりました。この人が、源平の戦いで有名な畠山重忠です。そして、この重忠が非業の死をとげると、武蔵守の地位は分家の河越氏に移り、この頃から吉田町というより、秩父全体の地位が、武蔵国の中で相対的に低下していくことになったようです。 

重忠滅亡の直接の原因は讒言です。彼は、前に一度頼朝から疑いを受け、その時はなんとか切り抜けましたが、頼朝の死後、今度は北条氏に陥れられ、闇討ちにあってしまいました。

頼朝という人は、自前の領地も家来も持たず、裸で将軍になったような人ですから、非常に猜疑心の強い人でした。北条氏も、頼朝の外戚ではありましたが、元々は小さな武士団にすぎません。畠山重忠のような、名門の巨大豪族がいることは邪魔でした。重忠の死はある程度予想されたことでした。

ただ、先に秩父氏が外秩父に出たのは重能の時といいましたが、実は重能の父の重綱のころから、秩父氏は秩父の外に進出しています。重綱は外秩父の比企に勢力を張り、今の嵐山町の平沢寺には重綱の奉納品が残っています。また、重綱の次男重隆も嵐山町に大蔵館を建て、源平の戦いで有名な木曽義仲の父義賢を女婿にしていました。

秩父氏の家系をたどると、次のようになります。

桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―良文―忠頼―将恒―武基―武綱―重綱―重弘― 重能― 重忠

2.秩父に大武士団が興った理由

吉田町というのは、先に言ったように城峰山麓の小さな町です。町の真ん中を吉田川が流れています。町にはわずかに田んぼが点在していますが、その田の水は吉田川の水ではなく、城峰山の雪解け水と近くの山からわき出る湧出水です。
 
吉田町の先には、秩父市の太田という所があります。太田は秩父盆地でもっとも大きい水田地帯で、古代の農地区画事業である条里制の遺構が残っています。ですから、桓武平氏がやってきた頃には、吉田から太田に至る土地は、秩父最大の水田地帯であったろうと思います。

しかし、吉田町とこの太田の水田地帯を合わせてもたかがしれています。太田は秩父最大の水田地帯ですが、その広さは今でもわずか四十ヘクタールに過ぎません。平安時代にはもっと小さかったにちがいありません。ですから、ここだけで秩父氏が大きな力を培ったと考えるのは無理があります。

秩父の、この吉田という小さな町に秩父氏のような、大きな武士団が生まれたことが、なんとも不思議です。それで、私はあれこれ考えてみました。

いろいろ考えられますが、最も大きな理由は、当時の秩父が人口の稠密地帯だったからだと思います。秩父の武士団にとって、最大の優位はたぶん人が多いことだったと思います。戦争に動員できる兵士が、ほかの武士団に比べ圧倒的に多かったのだと思います。

私は、「風土記稿」を読み、江戸時代の秩父をいろいろ考えてみました。その中で、いつも思うのは、いつの時代も秩父は人口が多いということです。

「風土記稿」は1800年頃にまとめられた書物です。そして、この当時の秩父郡の全部の村落の戸数を数えると、約1万5百になります。1戸あたり5人とすると、5万2千5百人になります。これを少し多めにして、約6万人というのが、たぶん、1800年頃の秩父の人口です。稲作をせず畑作だけで、秩父はこれだけの人口がいました。ただ、その代わり生糸やタバコの生産があり、こちらを勘案しなければなりませんが。

江戸時代の日本の総人口は、ずっと安定していて約3000万人です。平安時代はおそらく600万人くらいでした。江戸時代の5分の1です。しかし、平安時代の秩父が、同じ5の1の1万人ということはなかったと思います。山村の畑作というのは、品種改良も農地整備もたいして進みませんでしたから、たぶん、平安時代と戸時代を比べても、劇的な変化というのはなかったと思います。漠然とした推測ですが、おそらく、半分の3万人はいたと思います。すると、総人口の0.5%になりますから、相当高い数値になるのがわかります。

どうも、多くの人口を養うという点では、水田稲作は、畑作より効率が悪かったような気がしています。稲作というのは、一年に一回きりの収穫です。それに、平安時代の稲作は、技術も稚拙でしたから、稲を育てる適地も少なく、平地の稲作地帯は人口も少なかったのではないか、と思っています。
その点、畑作は一つの畑でも、一年に二回か二年に三回くらいの収穫があり、安定しています。それに、

山村では、山の林産物が生活の材料にもなります。秩父の山村を見ると、さまざまな生活手段があるのがわかります。山村の農民というのは、豊かな生活はできませんが、生きていくにはあまり困らない、とい

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3.市の決め手は絹

秩父の市について、この市の主な役割は、農民たちが商品を購入するためではなく、現金を調達する場であると考えました。これは多分まちがいではないと思います。しかし、考えてみると、こういう市はどこの農山村でも成立するのではなく、おそらく秩父でしか成り立たなかったと思います。ここに昔の秩父がほかの農村地帯とはちがう特殊生があると思います。このことについて説明しておきます。

前に、浦山村の農民が薪を売り、帰りに食料を買って帰る、という例をあげました。その続きで考えを進めてみます。

お金を持たない浦山の農民が薪を市に持ってきて売れば、確かに税金として払う現金は用意できます。しかし、領主に税として納めた現金は、その後秩父の外に出ていってしまいます。

これは、浦山の農民に食料をで売った畑作農民についても同じです。彼も米穀を市で売ることで現金が入手しますが、そのかなりの部分は税金に回り秩父の外に出ていってしまいます。また、税金でなくとも、たとえばや塩や酒のように秩父では生産できないが、生活する上でどうしても必要なものがあります。こういうものを購入したお金も結局は秩父の外に出ていってしまいます。

ですから、こういうことを繰り返していくと、いずれ秩父にはお金がなくなってしまいます。秩父にお金がなくなれば市はなくなります。市がなくなれば秩父の経済は崩壊してしまいます。

つまり、秩父で市というものが持続するには、秩父で生産される商品の一部が秩父の外に運ばれ、そこで新たにお金を獲得して再び秩父にもどってこなければなりません。しかし、秩父には、それが可能な商品がいくつかありました。それは、生糸や絹であり、タバコや和紙です。中でも農家の女性たちが作る生糸や絹が決め手だったと思います。タバコや和紙が稼ぐ現金は高がしれています。この絹だけが、秩父が毎年払う税金をまかない、他国の物産を買うお金を生み出していたと思います。

当時の税金がどのくらいであったかは、わかりませんが相当な額になるはずです。また、税金でなくても、酒造用の米や塩、儀式道具など秩父ではまかなえず、秩父の外から秩父に入ってくる物もあります。そういうものも含めると、毎年、膨大な金額のお金が秩父から流出していきます。ですから、秩父の女性たちが作る生糸や織り出す絹は相当な量にのぼっていたと思います。

そして、これはまったくの想像ですが、そのためには、たぶん秩父地方が産出する繭だけではまかなえなかったろうと思います。というのも、江戸時代の養蚕は春夏の二回で、後のように1年に五回も養蚕をすることはしません。また、山岳地帯の村では、絹織りはしても養蚕はしなかったからです。当然生産される繭の量は明治以降よりずっと少なかったはずです。

しかし、繭はなにも自家ですべてまかなう必要はありません。市があるからです。中には広い桑畑を持ち、あまった繭を市に出荷する農家もあったと思います。さらには、秩父の外には広大な関東平野が広がっており、そこから大量の繭を秩父に運ぶこともできます。

おそらく、秩父の農家は自家で生産する繭だけでなく、紡いだ生糸や織った絹を市に持っていってお金を入手し、そのお金でまた繭を買っては生糸を作り、絹を織るということをしていたのだと思います。

4.市の主体は商人

ただ、多くの農民で賑わう秩父の市でしたが、市の主導権は町の商人たちにあったと思います。商人たちは買い入れた品物を、流通経路にのせなくてはなりません。販路は秩父だけでなく、熊谷、川越、それから遠く江戸まで含まれていたと思います。むしろ、市に持ちこまれる品物の多くは、秩父内で消費するよりも秩父外に運ばれたはずです。

すると、商人たちは常に安定した量を確保する必要があります。農民の気まぐれで、予想外に大量の品物が持ち込まれたり、当てにしていたのに品物が入荷しなかったというのでは困ります。それで、ひんぱんに市を開き、馴染みの農民に次回に持ってくる品物や、その量も指示していただろうと想像できます。在庫をできるだけ作らないというのは商売の鉄則です。ですから、この市は、商人たちの都合が優先される、統制された市だったと思います。

そして、市に商人たちですが、私は当初、常設店舗の店が市の日にも店になると思っていました。しかし、販路や市で買い上げる資金を考えると、大宮はともかく吉田や小鹿野の小さな商人には無理だと思いました。そこで、吉田町の大正生まれの商店主に聞いてみましたところ、「市の商人たちは、市日に下(しも。下流でたぶん荒川下流の大宮や寄居などのこと)からやってきて、大きな屋敷のある家の廊下や庭先を借りて商売していた」と言っていました。この人は、昔の市を知っているとは思えませんが、なるほどと思いました。おそらく、市の商人は地元の人もいましたが、よその商人たちだったと思います。

秩父の市が、物産の流通を秩父の外まで広げるということはどうしても必要なことでした。というより、秩父の市は、絹という商品を持っていたから長い間持続できたのだと思います。これに対し、秩父外の各地の農民が苦しい自給自足の生活を強いられたのは、販路を外にまで広がる商品と市を持たなかったからです。

5.秩父の経済

江戸時代の秩父は、農村にはめずらしく景気の影響を受ける地方だったと思います。ふつう、農村は豊作と不作の年があり、豊作になれば村中大喜び、不作になれば意気消沈となります。農村では基本的に生活は自給自足です。税も物納ですから、過剰生産による価格暴落、いわゆる豊作貧乏というのはありません。

しかし、秩父の場合は、秩父に流入するお金が多い年は好景気、少ない年は不況ということになります。具体的にいうと、生糸や絹がたくさん売れれば景気がよくなります。たくさん売れなくても価格が高ければ、秩父に流入するお金が増えますからやはり好景気になります。反対に売れ行きが悪かったり、価格が低迷すれば不況です。それを決めるのは江戸をはじめ都会の経済です。

江戸時代の経済を大雑把に見ると、景気の大きな波は120年を周期とするという経済学のコンドラチェフの波が当てはまると思います。それによると、16世紀末から17世紀初めの元禄年間と19世紀初めの化政年間が好景気でした。ですからこの時代は、秩父の人々は生活が楽だったと思います。もっとも、元禄時代に秩父がどの程度都市経済と結びついていたかはわかりませんから断定はできません。しかし、次の好景気の化政時代はまちがいなくその恩恵を受けたと思います。「風土記稿」が書かれたのがこの時代です。反対に17世紀の将軍吉宗の享保年間は、完全にデフレの時代でしたから、生活は苦しかったと思います。享保は名君徳川吉宗が将軍の時代でした。一般的に、優れた政治家である名君とか戦争上手の名将が出てくる時代は庶民にとって最悪の時代です。しかし、どういうわけか、こういう人物にかぎって庶民に人気があります。

それと見逃せないのは、こういう経済では人々はある程度贅沢したほうがよいということが言えます。
市が発達した社会では、好不況は流通するお金できまります。お金が多ければむろん好景気ですが、お金の絶対量が少なくても流通速度が速ければ、お金が多いのと同じ効果が現れます。ですから、江戸の市民が宵越しの金は持たないというように、ある程度気前よくお金を使うほうが景気もよくなります。

贅沢は敵と考え、質素倹約を旨とする封建道徳に縛られると経済がうまく回りません。出回るお金が少なくなるからです。とくに大金持ちの人がお金を貯め込むのは最悪です。金持ちがお金を貯めても貸し出しに回せばよさそうですが、人々の多くが借金を抱えた経済では、世の中がインフレにでもなっていれば別ですが、そうでないとすぐに破綻します。それは秩父事件をみればすぐにわかります。ですから、お金持ちは派手にお金を使うのが地域社会に対する貢献になります。
秩父といえば12月の秩父夜祭が有名です。それに小鹿野の歌舞伎があります。しかし、歌舞伎は小鹿野以外にもありますし、荒川村には本格的な人形浄瑠璃がありました。また、全体に秩父は祭りや行事が多いところです。

こういう行事は、文化や信仰を大切にする秩父の人たちの心のあらわれともいえますが、行事にはお金がかかります。しかし、そのためということではないと思いますが、こういうふうにみんながお金を出しあって、派手にパッと使うのは経済的には十分意味のあることだったと思います。

秩父の市は明治になって急速に衰えたようです。しかし、定期市はなくなりましたが、雛市(ひないち)や夜祭の市は最近まで続いていたようです。
商人たちは、秩父で店を開き、そこが終わると長瀞に入り、それから寄居へと道順に西から東に移動していきました。これを「まちがえり」(町帰り?)というのだそうです。

秩父の市(いち) (1)

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秩父の市

1.市がさかんな秩父

江戸時代の昔から、秩父地方では定期的に市が立っていました。「風土記稿」を見ると、市が立っていたは、秩父市の中心地旧大宮郷と長瀞町、それから小鹿野町と吉田町の四カ所だったのがわかります。長瀞町は昔は野上郷といいました。市は、たとえば大宮郷が1と6の日というように日にちが決まっていました。そして、この四カ所ではすべて市の日がちがうように調整されていました。長瀞は2と7。小鹿野は5と10。吉田は3と8でした。

例えば1と6の日と決めると、市の立つ日は、月の中で、1日、6日、11日、16日、21日、26日になります。すると四つの町のどこでも月に六回は市日になり、昔の暦はすべて一ケ月は三十日ですら、秩父全体で、一月の三十日のうち二十四日はどこかで市が立っていたということになります。最初は別に気にもしませんでしたが、よく考えてみると、この二十四というのは異常に多い数値だと思いました。

不思議なのは、秩父の中心地である大宮郷でも市が立ったことです。大宮郷は当時すでに大きな町で、一番の繁華街である往還には、常設の店舗が200以上ありました。こういう所にはたして市が必要だったのかと思います。

その上、大宮郷から遠く離れた長瀞はともかく、小鹿野と吉田にまで市があったというのもわかりません。ここは大宮郷から近く、かつ、この二つの町は隣同士です。これほど近接した場所で、月に六回も市を立てて、はたしてそんなに客があるのか、という素朴な疑問もあります。しかも、この四ケ所のうち、長瀞、小鹿野、吉田は当時村でしたが、村内には町とよばれる中心地があり、この区域全体が市になっていました。ですから、今の朝市などとは比べものにならない大がかりなものだったようなのです。

さらに考えてみると、山間地の秩父はほとんどが山村でその大半は農民です。山の農民だからこそ市にやってきて、日々の生活に必要なものを調達していたとも考えられますが、では彼らは市で購入するお金をどこで調達していたのだろうか、と考えるとますます疑問が広がってきました。

2.市は農家の現金調達源
<font size=3>そこで、いろいろ考えてみました。結論としては、どうも秩父の市というのは、近隣に住む人々が生活用品を購入するための市ではなく、反対に、人々がここにさまざまな物を持ってきては売る、そういう市だったのではないかということです。

最初、私は、地方の朝市あるいは町のフリーマーケットのようなものを想像しました。市として設けられた区域に、商品を広げた店がびっしり並び、あちこちの村からやってきた人々が、品物を慎重に吟味しては生活必需品を買い歩くというものです。

しかし、秩父の市を、人々が商品を買うための場と考えるとどうにもぴったりしません。まず、前に言ったように、農民というのは自給自足が基本ですから、生活物資を外から求める必要はありません。山村になればなるほど自給度は高まります。ですから、こういう農民を客にするのは限界があります。とても、月に六回も市を立てるのは無理です。

しかし、これら農民が買い手ではなく売り手だとするとスムーズに理解できます。山村ですから、売る品物の種類も多くなります。木地椀、鍬の柄、白箸、岩茸、山鳥や鹿などの鳥獣。それから畑で収穫する粟や稗などの余剰雑穀も、これが常食である秩父なら売り物になります。そして、たばこや和紙、絹、それから絹や麻の織物です。人々は、こういうさまざまの物を市に持ってきては売り、現金を手に入れていたのだと思います。

秩父の農民には、どうしても現金を調達しなければならない理由がありました。それは税です。当時、秩父の半分は忍藩領で、もう半分が幕府領でした。そして、どちらも農民に対する税は金納でした。ですから、秩父の農民はどこに住んでも、どこかで現金を調達して税として納める義務があったのです。秩父の人たちは、市をつくり、その市を利用して納税する現金を作ったのだと思います。

あるいは、逆だったのかもしれません。物納が基本の江戸時代に秩父だけが金納になったのは、ここではすでに市があり、農民が現金を調達するのがさほど困難ではないという状況があって、その実態に合わせたということも考えられるからです。

ともかくも、昔の秩父の市は、たぶんこのような市だったと思います。そして、秩父の市をこう考えると、この市は、ふつう私たちが持つ、自由で開放的な空気に満ちた市のイメージとはだいぶちがうものだったと思います。

まず、今のフリーマーケットのように、市の日になると農民が思い思いの品物を持ってきて、路上にムシロを敷いて売るということはなかったと思います。農民の多くは、商売などは不得手な朴訥な人たちです。それに、遠方の村人には、市のある町へ往復するだけで一日仕事です。とても、店を張って商売する時間など確保できません。農民が商品を持ち込み、直接購入者を見つけて売るということはなかったと思います。
おそらく専門に買い付ける商人がいたのだと思います。それは、町の商人たちです。そして、農民も一人一人がバラバラに品物を持ち込むのではなく、村ごとにだれかがまとめて馬の背に積んで市に運んだのだと思います。売る農民と買う商人とは、長いつき合いで顔なじみになっており、価格の駆け引きなどはまったく入る余地のない取引だったと思います。

「風土記稿」に浦山村という、秩父でも辺境の村落の記述があります。それによると、180戸の民家が17区に分かれて散在し、急峻な地のため、人々は焼き畑で生活しているとあります。しかし、焼き畑ではとても年間の食料を確保できず、そのため村には17,8頭の馬がいて、この馬を使って薪を大宮郷に運び、帰りに米粟を持ち帰り暮らしの足しにしていたとのことです。17区で17,8頭の馬なら、1区当たり馬1頭になります。つまり、浦山村では、集落ごとに馬を持ち、集落がまとまって市に参加していた様子がうかがわれます。

先ほど山村は自給自足といいましたが、しかし、こういう大きな市ができると自給自足にこだわらなくてもよくなります。畑作に恵まれた村は、消費する以上の作物を栽培して市で売ることができます。あるいは、浦山村のような山奥の山村では、畑作よりも山の良材を使って白箸や木椀や鍬の柄づくりに専念し、不足する食料は市で調達するということもできます。

こうして、秩父の山村の人々は、市を利用して納税する現金を調達し、そのあまりで自給できない生活用品を購入し、日々の生活を立てていたのだと思います。

秩父と北条氏邦(2)

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3.北条氏邦

この氏邦という人は、また北条氏滅亡のきっかけをつくった人でもあります。彼は、父氏康の死後もさかんに上州を攻略します。しかし、戦争の時代はすでに終わっていました。氏邦の家臣が上州の真田氏を攻めたことが、豊臣秀吉に絶好の口実を与え、秀吉の小田原攻めとなりました。

この戦いで、鉢形城には三千三百の兵が籠城しました。秀吉はこの城に三万五千の兵をさしむけました。その後の天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍の総員が八万だったことを考えると、猛将氏邦率いる鉢形城攻撃にかける秀吉の意気込みがわかります。

指揮官は秀吉の盟友前田利家でした。利家軍が鉢形城を囲んだ時には、すでに北条方の諸城も落ち、その攻撃軍も鉢形に集結しました。おそらく、鉢形城は四万を超える膨大な兵力に包囲されただろうと思います。鉢形城はやむなく降伏せざるをえませんでした。

北条氏邦はその後、北陸の金沢に移され蟄居の身となり、七年後五十七歳で死去します。しかし、秩父の長い歴史で、辺境の地秩父に天下の大軍を集め、堂々と対峙したのはこの北条氏邦という人がはじめてでした。しかも、籠城戦でしたから死者もほとんどでなかったと思います。そういう意味で、この北条氏邦という人は、秩父の人々にとって忘れることのできない英雄になっていたと思います。

4.鉢形落城について

鉢形城の攻防をめぐっては、実は氏邦はこの時小田原にいて不在だったという説があります。氏邦が鉢形にいてもいなくても、大きな歴史の流れから見れば、どうでもよいことですが、歴史のロマンという点では地元にとっては切実な問題です。地元の人は、氏邦にはぜひ城にいて、籠城の指揮をとっていたということなってほしいと思っています。

氏邦が鉢形城にいたかいなかったかは、今となってはわかりません。それで、その両方を合成して、氏邦は初め小田原にいたが鉢形攻撃を知り急遽寄居に駆けつけた。しかし、その時にはすでに城は包囲され、氏邦は入城できず城外から指揮したという説があるのを最近知りました。聞いた時は、なるほどこういう考えもあるのか、歴史というのはどんなふうにでも解釈できるものだ、と大いに感心しました。

そこで、私も考えてみました。あれこれ想像してみて、結論としては、私は氏邦はいなかったと思います。

理由はいくつかありますが、最大の理由は、北条きっての猛将で、人格すぐれ、郷土の誇りとなっている氏邦に、こういう説が出ることは、それが動かしがたい事実だったからだと思われるからです。

それとこの戦いの推移を考えてみると、やはりこの籠城戦に氏邦はいなかったと考えるのが自然だと思います。

この戦いで、北条氏は戦略的に、本拠の小田原に立てこもる持久戦をとりました。それは、たぶん北条中興の祖氏康が、昔、上杉謙信をあえて小田原に引き入れ、持久戦の末謙信を退却させた故知にならったものでした。北条氏がこういう戦略をとる以上、小田原以外の支城は木にたとえると枝葉です。捨て城にしたと考えるのが妥当です。

小田原では、北条一族と重臣たちが集まり最高首脳会議が開かれていました。すると、この場に、当主の叔父にあたり、先代の弟である氏邦がいないのはむしろ不自然です。ですから、氏邦は当時小田原にいたと思います。

氏邦不在の鉢形城の指揮を執ったのは、たぶん妻の御福だったと思います。こういう土壇場での戦いでは、いくら有能でも家臣が指揮を執るのは無理です。さらに御福は元々この鉢形城で生まれ育っています。家臣たちにしてみれば、御福は重代の主人でもあります。野戦ではありませんから、作戦を立てる必要はありません。むしろ、彼女を中心に城兵が結束できるということでは、彼女こそがうってつけの指揮官だったと思います。

鉢形城は難攻不落の城でした。利家もただ包囲するだけで、どうしようもありません。転機は後から駆けつけた家康麾下の武将本多平八郎が持ち込んだ大砲でした。大砲といっても火縄銃を大型化したようなもので、威力はたいしたことありません。その上、今の大砲とちがって、砲弾に火薬が仕込んであって爆発するものでもありません。ですから、大きな鉛の玉がただ飛んでくるだけなのですが、爆音がすさまじかったようです。城内はパニックになりました。これは、史実として残っています。私は戦争の経験がないのではっきりは言えませんが、軍隊というのは、勝てると思うと士気が異常に高まる代わり、だめだとなると、全軍が恐怖にとらわれ、どんな優れた指揮官でもコントロール不能になるようです。たぶん、大砲を撃ち込まれた鉢形城もそうなったのだと思います。

ちなみにこの戦法はその後、家康が大阪城を攻略する時にも用いられました。パニックに陥った大阪城は和睦に応じ、そのため大阪城は外堀を埋められ裸の城になりました。その後、大阪夏の陣で豊臣氏は簡単に滅んでしまいました。

第一次大戦は、ドイツ兵とフランス兵がそれぞれ穴を掘って身を潜め、その上を砲弾が飛び交うという塹壕戦でした。見えない敵が打ち込む砲弾が近くで炸裂し、次は自分の所ではないかと思いながら、穴の中でじっと堪えるというのは想像以上に過酷で、多くの兵士が精神異常をきたしました。この時の鉢形城もたぶん、これと似たような状況だったと思います。

パニックになった鉢形城で、指揮をとる御福がとる道は降伏するしかありませんでした。結局、籠城一月で鉢形城は開城しています。降伏はおそらく御福の判断でした。

その後まもなく、御福は自害しています。夫の氏邦は生きているにもかかわらず、彼女はひとり自害してしまいました。

彼女はたぶん責任をとったのだと思います。

彼女は見たのだと思います。鉢形攻撃の四万以上の敵軍が鉢形降伏と同時に反転し、小田原攻撃に進軍していく様子をです。彼女はそれを見て北条氏の滅亡を確信しました。そうして、いずれ落城するにしても、もう少し長く敵を鉢形に引きつけ時間をかせげば、北条氏滅亡を避ける何らかの政治局面が現れたかもしれない、と考えました。彼女は自分の決断が早すぎたというようなことを考えたのではないかと思います。それが、ひとりだけの自害になったような気がしています。

秩父と北条氏邦(1)

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秩父と北条氏邦

1.安戸

江戸時代、江戸から秩父に行くには、川越市から今の東秩父村を抜けていくのがもっとも一般的でした。この道を当時は川越通りといいました。現在この川越通りは県道11号線になっています。

この道は外秩父山系の山あいを縦断する道です。杉やヒノキの針葉樹とコナラやカシの広葉の雑木が覆う山の麓には槻川が流れ、道はこの川沿いに右に左に折れ曲がって北西に伸びています。秋になると紅葉が美しく、絵本で見るような景色がそのままずっと続いています。

この川越通りで秩父に向かい、旧秩父郡の最初の村になるが旧安戸(やすど)村です。今は東秩父村という過疎の村の一集落ですが、江戸時代にはこの地域でもっとも大きな宿場町でした。その名残は今も残っています。

県道で、川越方面の小川町から安戸に入るとすぐ、右手に橋を渡る細い道があります。これが昔の道です。この道は橋を渡ると、急に道幅が五、六メートルの広い道になります。これが昔の宿場の名残です。
しかし、江戸時代には、この道はもっと大きく、幅七間、長さが四町もありました。メートルに直すと、道幅十三メートルの道路が四百五十メートルにわたって続いていたということです。そして、この道の両脇には六十軒の家が並んでいました。ですから、昔の安戸は今では想像もできないくらい賑わいのある町でした。

昔の宿場については、福島県の大内宿と群馬県の三国峠で見たことがあります。両方とも、やはり道幅十三メートルくらいあります。道の中央には堀割があり、道の両脇には、奥行きのある民家が短冊のように並んでいます。たぶん、昔の安戸村も同じだったろうと思います。

ただ、安戸村には、この掘割はなかったかもしれません。というのも、「風土記稿」に安戸村と同じ宿場である隣郡の旧児玉村の絵図があります。それを見ると広い道があるだけだからです。また、秩父大宮のメーンストリートにも堀はありませんでした。

昔の交通を考えて、いつも疑問に思うのは、昔の日本人はどうして車を使わなかったのかということです。日本は山の多い複雑な地形ですが、実際に歩いてみると、山と山の間には平坦な所もけっこうあります。ですから、こういう平地では馬車を使い、それが無理な所では馬の背で運べばよいと思うのですが、どういうわけか、どんな所でも荷物は人が背負うか馬の背で運んでいます。馬を使っても、馬の背に直接荷を載せますから、一度に運ぶ量も少なく、馬もすぐに疲れてしまいます。それで、昔はこういう街道沿いには、馬継(うまつぎ)といって、いわば馬の休憩所をひんぱんに設けることになります。

ちなみに江戸時代の駄馬は、荷物を運ぶ馬と人を乗せる馬の二つがありました。荷物を運ぶ馬を「本馬(ほんま)」といい、この馬は40貫目(約150キログラム)まで荷を運びました。米俵でいうと二俵半です。人を乗せる馬は「軽尻(かろじり)」といい、これは人のほか5貫目(約20キログラム)まで荷物を載せることができました。ですから、昔の川越通りも、旅人を乗せた馬や、背に荷を振り分けて積んだ馬が行きかっていたはずです。

しかも、この安戸は、単なる馬継ではなく、旅人の宿泊地でもありました。秩父と平野を結ぶ表街道の宿場として、夕方になると、宿を求める秩父札所の巡礼者たちや商人、それから定宿に足を急ぐ馬方たちが集まり、そうして、そういう人たちを宿に呼び込む女たちの声で活況を呈していたと思います。

2.鉢形城

江戸時代の安戸村は、こういう旅人の村でしたが、村にはもっと景気のよい時代があったようです。「風土記稿」の中で、土地の古老が村の衰えを嘆いています。「風土記稿」が書いているのは、1800年頃の江戸時代です。確かにそのずっと前は安戸村では毎月五と十の日に市が立っていました。ところが、江戸時代も後半になるとその市もいつの間にかなくなり、「風土記稿」の頃には十二月二十五日の一日だけになっていました。

調べてみると、安戸村を通る川越通りがもっとも賑わったのは、戦国時代の終わりのころでした。この頃の川越通りは、江戸時代とはだいぶ様相がちがっていました。

川越通りが県道11号であることはさっき言いました。この道は安戸村の先の浄蓮寺という古刹を過ぎると落合(おちあい)という所に出ます。落合というのは川の合流点を表す地名で、ここでは槻川と大内沢川が合流しています。

この落合で、そのまままっすぐ進む道と、左に折れる道に分かれます。県道11号はこの左折する道で、この道は昔の粥新田峠(かいにたとうげ)に通じ秩父に行く道です。

しかし、落合で左折しないで直進すると、寄居町の鉢形という所に行きます。この道は大内沢川に沿った道で、今は、砂利道の表面にアスファルトを貼りつけただけの所もあるという単なる山道です。しかし、戦国時代はちがっていました。鉢形には城があって、この道は鉢形城と川越方面を結ぶ一種の軍用道路でした。鉢形と安戸村との間は、道のりで十キロくらいです。宿場にするには手ごろな距離でした。

戦国時代末期、武蔵国は北条氏の領地でした。北条氏は最初は伊豆を本拠にする小さな戦国大名でした。その後南関東に進出し小田原に城を築き、さらに北条氏康という英傑が現れ一気に領土を拡大します。氏康は武蔵国を支配下におくと、寄居町のこの鉢形に巨大な城をつくり、三男の氏邦を入れました。

鉢形は元々北武蔵の要衝で、北条氏以前には関東管領の山内上杉氏の拠点でしたこれが鉢形城です。鉢形城は荒川右岸の絶壁を背中にした天然の要害で、しかも川の対岸は長瀞町ですから交通の要衝にもなります。氏康は前からあった鉢形城を新につくり直したのです。

鉢形城は北条滅亡後に壊され、跡形もなくなりましたが、最近遺構の発掘調査がすすみ、現在は遺構の土塁や城郭跡にはきれいに芝生が張られ美しい公園になっています。

鉢形城の氏邦の役割は武蔵国の統治ではなかったようです。氏康は次男の氏照を八王子城にいれ、八王子の氏照と鉢形の氏邦を連携させて北関東の上州下野攻略を進めていました。北条氏の領土の西方には、今川義元と武田信玄がいました。西を塞がれた北条氏にとって、拡大する場所は北関東しかありません。ですから鉢形城は、北条氏の上州攻略の前線司令部であり、兵士や兵糧を補給する兵站地でもありました。

さらに言うと、八王子はどちらかというと西の武田に対する備えの色彩が強かったのですが、鉢形は北条氏の領土拡張という攻撃に専念できましたから、氏邦はじめ鉢形城軍の士気は高かったと思います。

この鉢形城と小田原や八王子を結ぶ道が、安戸を通るこの川越通りでした。戦国時代は戦時経済です。軍事がすべてに優先します。浪費になろうとも、持っているありったけの物資と人員を動員します。安戸宿の川越通りは、ひっきりなしに荷をつんだ馬と兵士が行きかい、交通が途切れることはなかったと思います。

ですから、たぶん安戸の村人も城主氏邦に心服していました。商売抜きの心意気で、兵士の世話をし、物資の輸送に夜も昼もないという働きぶりだったと思います。そして、この時が、安戸村がもっとも繁栄した時でした。

「風土記稿」の執筆者は、どうも、今の総務省の役人というより、文化庁の学者のような人たちでした。それで、村落の調査にも、村人の持つ古文書も提出させました。そして、掲載の価値があると見なしたものは、旧家なにがしの文書として、「風土記稿」に載せています。それを、見ると、もっとも多いのが、北条氏邦と父氏康の文書です。

真偽のほどは知りませんが、日本人が現在も重視する印鑑というものを最初にはじめたのは武田信玄だと聞いたことがあります。それまでは、花押といって名前をデザインした文字を直々に書いていましたが、公文書と手柄をたてた武士にだす感状の多さに、これでは間に合わないというので、花押とは別に印鑑を使いだしたというのです。

その時はなるほどと思いましたが、氏康と氏邦の文書を見ると花押を使っています。氏邦はともかく、北条氏の総帥氏康が秩父の地侍に与える文書にまで花押で署名しているのを見ると、戦国大名というのは、ただ戦争上手だけではつとまらない、よほどの気配り上手でないといけないのがわかります。

氏邦は氏康の実子ですが、この地の豪族の婿養子でもありました。鉢形城はもともと藤田氏という領主の居城でしたが、当主の藤田氏が氏邦の将来性を見越して娘を氏邦の妻にし、城ごと氏邦に譲ったのです。そこで、氏邦は城を拡張すると同時に、多くの地元の人たちを兵士として登用し武蔵と上州の各地で戦いを続けました。

今でこそ戦争は悪ということになっていますが、当時は悪ではありません。その上、氏邦の戦争は征服戦争でした。正直言って、戦場に向かう兵士の士気も高揚していたと思います。いつの時代も、戦争というものは、人々を刺激し興奮させてくれます。はっきり言って、本質的に人間は戦争が好きだと思います。それに、昔の戦争は意外と死者がでなかったように思います。スポーツと同じとは言いませんが、それに似た気分だったような気がします。

氏邦は養子でしたから本拠の小田原からついてきた家臣は少なかったようです。それで、秩父衆と荒川衆とよばれる地元の兵が活躍しました。

とりわけ秩父衆は軍団の主力を形成していました。秩父には、横瀬の根小屋城や小鹿野の日尾城をはじめほかにも砦がありましたが、これらはいずれも地元の土豪たちの持ち城でした。そして、氏邦は彼らをそのまま家臣団に組み入れ、彼らの城郭は鉢形城の出城にしたようです。 

元々秩父には、武蔵七党の丹党や児玉党とよばれる武士たちがいましたが、その内実は小武士たちの乱立割拠でした。したがって武士団としてまとまることはなく、その力を天下に示す機会もありませんでした。それが、北条氏邦という戦国大名を主君にもつことで、はじめて戦国武士として活躍できるようになったのです。

秩父は桓武平氏の血をひく武蔵武士発祥の地です。しかし、武人の血が流れる秩父人も活躍の場は意外と少なく、彼らが歴史の舞台に登場するのは、畠山重忠に率いられ源平の戦いを戦った時と、この北条氏邦の軍団として、武蔵と上州の戦場で戦った時の二度しかありません。北条きっての猛将である氏邦のもとで働くこと、は誇り高い秩父人のプライドを十分満足させてくれたと思います。

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