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秩父の市
1.市がさかんな秩父
江戸時代の昔から、秩父地方では定期的に市が立っていました。「風土記稿」を見ると、市が立っていたは、秩父市の中心地旧大宮郷と長瀞町、それから小鹿野町と吉田町の四カ所だったのがわかります。長瀞町は昔は野上郷といいました。市は、たとえば大宮郷が1と6の日というように日にちが決まっていました。そして、この四カ所ではすべて市の日がちがうように調整されていました。長瀞は2と7。小鹿野は5と10。吉田は3と8でした。
例えば1と6の日と決めると、市の立つ日は、月の中で、1日、6日、11日、16日、21日、26日になります。すると四つの町のどこでも月に六回は市日になり、昔の暦はすべて一ケ月は三十日ですら、秩父全体で、一月の三十日のうち二十四日はどこかで市が立っていたということになります。最初は別に気にもしませんでしたが、よく考えてみると、この二十四というのは異常に多い数値だと思いました。
不思議なのは、秩父の中心地である大宮郷でも市が立ったことです。大宮郷は当時すでに大きな町で、一番の繁華街である往還には、常設の店舗が200以上ありました。こういう所にはたして市が必要だったのかと思います。
その上、大宮郷から遠く離れた長瀞はともかく、小鹿野と吉田にまで市があったというのもわかりません。ここは大宮郷から近く、かつ、この二つの町は隣同士です。これほど近接した場所で、月に六回も市を立てて、はたしてそんなに客があるのか、という素朴な疑問もあります。しかも、この四ケ所のうち、長瀞、小鹿野、吉田は当時村でしたが、村内には町とよばれる中心地があり、この区域全体が市になっていました。ですから、今の朝市などとは比べものにならない大がかりなものだったようなのです。
さらに考えてみると、山間地の秩父はほとんどが山村でその大半は農民です。山の農民だからこそ市にやってきて、日々の生活に必要なものを調達していたとも考えられますが、では彼らは市で購入するお金をどこで調達していたのだろうか、と考えるとますます疑問が広がってきました。
2.市は農家の現金調達源
<font size=3>そこで、いろいろ考えてみました。結論としては、どうも秩父の市というのは、近隣に住む人々が生活用品を購入するための市ではなく、反対に、人々がここにさまざまな物を持ってきては売る、そういう市だったのではないかということです。
最初、私は、地方の朝市あるいは町のフリーマーケットのようなものを想像しました。市として設けられた区域に、商品を広げた店がびっしり並び、あちこちの村からやってきた人々が、品物を慎重に吟味しては生活必需品を買い歩くというものです。
しかし、秩父の市を、人々が商品を買うための場と考えるとどうにもぴったりしません。まず、前に言ったように、農民というのは自給自足が基本ですから、生活物資を外から求める必要はありません。山村になればなるほど自給度は高まります。ですから、こういう農民を客にするのは限界があります。とても、月に六回も市を立てるのは無理です。
しかし、これら農民が買い手ではなく売り手だとするとスムーズに理解できます。山村ですから、売る品物の種類も多くなります。木地椀、鍬の柄、白箸、岩茸、山鳥や鹿などの鳥獣。それから畑で収穫する粟や稗などの余剰雑穀も、これが常食である秩父なら売り物になります。そして、たばこや和紙、絹、それから絹や麻の織物です。人々は、こういうさまざまの物を市に持ってきては売り、現金を手に入れていたのだと思います。
秩父の農民には、どうしても現金を調達しなければならない理由がありました。それは税です。当時、秩父の半分は忍藩領で、もう半分が幕府領でした。そして、どちらも農民に対する税は金納でした。ですから、秩父の農民はどこに住んでも、どこかで現金を調達して税として納める義務があったのです。秩父の人たちは、市をつくり、その市を利用して納税する現金を作ったのだと思います。
あるいは、逆だったのかもしれません。物納が基本の江戸時代に秩父だけが金納になったのは、ここではすでに市があり、農民が現金を調達するのがさほど困難ではないという状況があって、その実態に合わせたということも考えられるからです。
ともかくも、昔の秩父の市は、たぶんこのような市だったと思います。そして、秩父の市をこう考えると、この市は、ふつう私たちが持つ、自由で開放的な空気に満ちた市のイメージとはだいぶちがうものだったと思います。
まず、今のフリーマーケットのように、市の日になると農民が思い思いの品物を持ってきて、路上にムシロを敷いて売るということはなかったと思います。農民の多くは、商売などは不得手な朴訥な人たちです。それに、遠方の村人には、市のある町へ往復するだけで一日仕事です。とても、店を張って商売する時間など確保できません。農民が商品を持ち込み、直接購入者を見つけて売るということはなかったと思います。
おそらく専門に買い付ける商人がいたのだと思います。それは、町の商人たちです。そして、農民も一人一人がバラバラに品物を持ち込むのではなく、村ごとにだれかがまとめて馬の背に積んで市に運んだのだと思います。売る農民と買う商人とは、長いつき合いで顔なじみになっており、価格の駆け引きなどはまったく入る余地のない取引だったと思います。
「風土記稿」に浦山村という、秩父でも辺境の村落の記述があります。それによると、180戸の民家が17区に分かれて散在し、急峻な地のため、人々は焼き畑で生活しているとあります。しかし、焼き畑ではとても年間の食料を確保できず、そのため村には17,8頭の馬がいて、この馬を使って薪を大宮郷に運び、帰りに米粟を持ち帰り暮らしの足しにしていたとのことです。17区で17,8頭の馬なら、1区当たり馬1頭になります。つまり、浦山村では、集落ごとに馬を持ち、集落がまとまって市に参加していた様子がうかがわれます。
先ほど山村は自給自足といいましたが、しかし、こういう大きな市ができると自給自足にこだわらなくてもよくなります。畑作に恵まれた村は、消費する以上の作物を栽培して市で売ることができます。あるいは、浦山村のような山奥の山村では、畑作よりも山の良材を使って白箸や木椀や鍬の柄づくりに専念し、不足する食料は市で調達するということもできます。
こうして、秩父の山村の人々は、市を利用して納税する現金を調達し、そのあまりで自給できない生活用品を購入し、日々の生活を立てていたのだと思います。
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