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41蘆ケ久保村(横瀬町)、、炭焼,,楮皮,,獨活,,蕨,,絹,,麻布
42大宮郷、、(旧秩父市)、、諸商い,,諸職,,絹,,横麻,,木綿,,縞  
43上影森村、(旧秩父市)、、薪,,養蚕,,絹,,横麻
44下影森村、(旧秩父市)、、薪,,養蚕,,絹,,横麻
45久那村、、(旧秩父と旧荒川)、、薪,,木挽,,筏流,,養蚕,,絹,,横麻           
46別所村、、(旧秩父市)、、縄,,筵,,草鞋,,漁猟,,,養蚕    
47田村郷、、(旧秩父市)、、馬沓,,草鞋,,縄,,筵,,養蚕,,絹,,横麻  
48蒔田村、、、(旧秩父市)、、山稼,養蚕,,絹太物   
49寺尾村、、、(旧秩父市)、、薪,,養蚕,,織物   
50品澤村、、、(旧秩父市)、、薪,,養蚕,,絹,,横麻,,木綿 
51伊古田村、(旧秩父市)、、薪,,白絹,,木綿        
52太田村、、、(旧秩父市)、、薪,,絹,,横麻、、木綿    
53堀切村、、、(旧秩父市)、、山稼,,養蚕,,絹織     
54小柱村、、、(旧秩父市)、、薪,,養蚕,,絹織    
55野巻村、、、(皆野町)、、薪,,養蚕,,絹,,横麻,,太物,,木綿,,縞     
56久長村、、、(旧吉田町)、、山稼、、養蚕、、絹織    
57阿熊村、、、(旧吉田町)、、山稼、、養蚕、、絹、、紙漉
58上日野澤村、(皆野町)、、山稼、、養蚕、、絹、、紙漉   
59下日野澤村、(皆野町)、、山稼、、養蚕、、絹、、紙漉
60矢納村、、、、(神泉村)、、山稼、、養蚕、、絹、、紙漉      
61大田部村、、(旧吉田町)、、山稼、、絹、、紙漉
62藤倉村、、、(小鹿野町)、、薪、、炭焼、、絹、、太織、、紙漉   
63河原澤村、(小鹿野町)、、山稼、、養蚕、、絹織、、紙漉  
64三山村、、、、(小鹿野町)、、山稼、、養蚕、、紡績、、絹、、紬、、横麻   
65日尾村、、、、(小鹿野町)、、山稼、、養蚕、、絹織、、紙漉   
66石間村、、、(旧吉田町)、、山稼、、絹織、、紙漉
67上吉田村、、(旧吉田町) 、、薪、、養蚕、、白絹、、紙漉   
68下吉田村、、(旧吉田町)、、山稼、、養蚕、、絹、、横麻 
69上飯田村、、(小鹿野町)、、山稼、、養蚕、、絹織   
70中飯田村、、(小鹿野町)、、山稼、、養蚕、、絹織
    

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江戸時代、秩父の人たちは食料自給のための畑仕事のほかに、さまざまな仕事をしていました。そこで「風土記稿」に記載されている仕事をまとめてみました。以下の通りです。パソコン操作が下手で見にくいですが、ご容赦ください。


旧村名、、、、現在の所属  
1南、、村、、(飯能市)、、炭焼、、薪取り、、紙漉、、養蚕、、絹   
2中澤村、、(飯能市)、、木挽、、炭焼、運送業、、養蚕、、絹、、木綿、、紙漉   
3坂石村、、(飯能市)
4坂石町分、(飯能市) 
5高山村、、、(飯能市)、、薪、、炭焼、、木綿、、織麻、、布織
6北川村、、、(飯能市)、、木挽、、炭焼、、養蚕、、絹織、、木綿、、、麻太布織    
7南川村、、、(飯能市)、、炭焼、、木挽、、紙漉、、絹、、織、、木綿織    
8阪元村、、、(飯能市)、、炭焼、、木挽、、紙漉、、絹織、、木綿織    
9上名栗村、(旧名栗村)、、炭焼、、木挽、、筏流、、養蚕、、絹太物織、、材木炭の運送
10下名栗村、(旧名栗村)、、炭焼、、木挽、、材木炭の運送、、養蚕、、絹太物織   
11椚平村、、、(ときがわ町)、、炭焼、、木挽き   
12大野村、、、(ときがわ町)、、薪、、絹、、麻布織   
13安戸村、、(東秩父村)、、炭焼、、養蚕、、絹、、紙漉   
14御堂村、、(東秩父村)、、炭焼、、養蚕、、絹、、紙漉   
15皆谷村、、(東秩父村)、、炭焼、、養蚕、、紙漉   
16白石村、、(東秩父村)、、炭焼、、獨活、、蕨、、川魚、、楮皮
17奥澤村、、(東秩父村)紙、、漉絹   
18大内澤村、(東秩父村),,諸商い、、炭焼、、絹太織   
19坂本村、、、(東秩父村),,諸商い、、炭焼、、木挽、、養蚕、、絹太織
20三澤村、、、(長瀞町),,炭焼、、薪、、養蚕、、生絹、、横麻
21下田野村、(長瀞町),,炭焼、、薪、、養蚕、、絹太物    
22井戸村、、(長瀞町),,薪、、絹太物    
23岩田村、、(長瀞町),,炭焼、、養蚕、、絹太物
24風布村、、、(寄居町と長瀞町),,炭焼、、養蚕絹織       
25金尾村、、、(寄居町),,木挽,,絹,,木綿,,養蚕          
26矢那瀬村、(長瀞町),,薪,,絹太物    
27本野上村、(長瀞町),,山稼ぎ,,養蚕,,絹    
28中野上村、(長瀞町),,薪,,絹太織    
29野上下郷、(長瀞町),,山稼ぎ,,養蚕,,絹織    
30金澤村、、(皆野町)、、山稼ぎ,,絹,,木綿織,,紙漉
31藤谷淵村、(、、、)、、薪,,養蚕,,絹太織
32金崎村、、(皆野町)、、木挽,,絹,,横麻,,太織    
33大淵村、、(皆野町)、、薪,,養蚕,,絹織    
34皆野村、、(皆野町)、、諸商い,,諸職,,養蚕,,絹,,横麻
35黒谷村、、(旧秩父市)、、諸商い,,諸職,,養蚕,,絹,,横麻,,木綿
36大野原村、(旧秩父市)、、諸職,,養蚕,,絹,,横麻,,蕎麦   
37栃谷村、、(旧秩父市)、、山稼ぎ,,養蚕,,絹   
38定峰村、、(旧秩父市)、、炭焼,,山稼,,養蚕,,絹横麻
39山田村、、(旧秩父市)、、山稼,,養蚕,,絹,,横麻   
40横瀬村、、(横瀬町)、、木挽,,炭焼,,板へき,,養蚕,,絹,,横麻,,木綿,,縞織

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4.割り役

陣屋の役人たちの仕事はろくになかったと思います。というのも、陣屋には割り役とよばれる総名主のような人がいて、実務のほとんどをしきっていたからです。江戸時代、支配し階級である武士たちはできるだけ民事にはかかわりたくないというのが本音でしたから、割り役は秩父だけが特別というのではなく全国各地の藩にいたと思います。

割り役というのは、大宮郷11人の名主の筆頭で、秩父領全体を実質的にまとめる世話役といったところです。代官が、忍からの指示を割り役を通して領内の各村々に伝えるのであれば、割り役は領内の村々の要望を代表し、代官を通じて忍に伝えたようです。ですから、当時の秩父領は、代官とこの割り役が相談しながら治めていました。そして、たぶん実際は代官よりこの割り役の方が力があったと思います。要するに、支配者である武士階級は、領内の仕置きは領民たちの自治にまかせ、在地は年貢を滞りこりなく納めてくれればよいという態度だったと思います。

割り役の仕事は広範囲に及び、一見すると今の市長のように見えますが、法的強制力を持っていません。ですから、いわば長老的権威で物事を処理していました。したがって割り役の権威は法以上の力があったと思います。

割り役は忍藩の武士ではなく、大宮郷の有力者が藩から任命されました。士分ではありませんが、苗字帯刀が許され、一人扶持(一日玄米5合)の給米が支給され、士分の待遇を与えられました。もっとも、この一人扶持というのは、割役にとってはなんの意味もなく、フランス人がいうところのノブレスオブリッジ、つまり名士としての義務のような感じがします。

割り役の主な仕事は次のようでした。
1.藩の命令を代官から受け取り村の名主に伝える。また、村の様子を代官に伝える
2.年貢割付
年貢は毎年決まっていましたから、何もなければ前年通り。不作になれば、村から
願書を提出させ、それを代官を通して忍の城に伝える。
3.絹市の管理
4.戸籍(結婚離婚を含む)の管理
5.訴訟の立ち会い、

これらの仕事内容を見ると、この割り役というのはひじょうに重要な役職であるのがわかります。したがって、一人ではなく複数いたようです。それも、一代交代でなく、月番か年番かはわかりませんが、たぶん短期でしょっちゅう交代していたと思います。

大宮郷では、割り役はだいたい松本、高野、新井、久保という四家から選ばれていました。もっとも割り役が自分一人で事務処理をするはずもありませんから、おそらく自分の家の使用人を何人か、その仕事に従事させたと思います。その費用はおそらく割り役の個人負担でした。

5.土地の有力者

江戸時代の大宮郷には、こういう割り役とよばれる飛び抜けた有力者、それから名主になる有力な家がありました。このことについて考えたことがあります。

秩父の人に聞くと、秩父の資産家はみな絹織業で財をなしたようなことを言います。
しかし、これは明らかにまちがいです。というのも、秩父で工場を設置して絹織業が盛んになるのは明治になってからで、江戸時代には絹織りは農家の主婦の副業にすぎなかったからです。しかし、秩父の有力者は江戸時代にすでに資産家でした。彼らは確かに明治以降機織り業の事業を展開していますが、それは元々ある財力を使って機織り業に手を広げたのであって、機織りで財をなしたのではありません。

では、江戸時代のどこかで、経済感覚の鋭い人物が出て有力な家になったのかというと、これもちがいます。というのも、彼らは江戸時代がはじまった時にすでに資産家だったからです。したがって、考えられるのはひとつしかありません。それは元々彼らは秩父の領主層だったということです。はっきり言うと、鎌倉室町時代にこの地の小領主である武蔵七党の武士だったということです。

彼らはたぶんこの武蔵七党の子孫だったと思います。武蔵七党の人たちは、それまで旧秩父郡の村々の土豪でした。村全体を直接支配する力は持たなかったが、広い土地を持ち村を差配していました。その彼らは、戦国末期に一時在地を離れます。それは鉢形城の北条氏の家臣となって職業武士になったからです。そして、北条氏が滅ぶとまた地元にもどったのだと思います。そして、昔通り村内で有力者になったのだと思います。というのも、彼らの多く多分戦国時代の北条氏の家臣の末裔でした。家臣といっても、小田原から来た北条譜代の家臣ではなく、昔から秩父各地に根をはり、中世には武蔵七党とよばれ、小さないながらも領地を持つ土豪たちでした。それが、北条滅亡とともに在地にもどり地主化した人たちでした。こういう人たちは、一種の領主的立場でもあった、と思います。大宮郷に広い土地を持つ地主でした。こういう中世以来脈々と続いた権威と地主ということで、大宮郷の運営に当たっていたのだと思います

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江戸時代 秩父の民政

1.江戸時代の秩父郡
江戸時代の旧秩父郡は、幕府の直轄地である天領と忍藩領、それから譜代大名や旗本領に分かれていました。

戦国時代、関東を支配していた北条氏が滅び、家康が江戸に入府すると武蔵国は徳川領になります。その後、徳川幕府が成立し、幕府は武蔵国の一部を大名や旗本たちに与えました。

旧秩父郡も最初はすべてが天領でしたが、幕府は秩父盆地の主要部を忍(おし)藩に与え、また外秩父の村々や小鹿野あたりの平地は譜代大名の飛び地や旗本の領地としました。したがって、こう言ってはなんですが、江戸時代の秩父は、秩父盆地は忍藩領で、盆地の外縁部のうち、地味がよい村や交通の便がよく開けた所は譜代大名や旗本領、そして、山間地にあって条件の悪い村々が幕府領ということになりました。

2.忍藩

旧秩父郡のうち、もっとも広い範囲を領地にしたのは忍藩でした。忍藩はさきたま古墳で有名な行田市に城がありました。忍城は石田三成が水攻めにしたので有名です。ここは北は利根川、南は荒川が流れ、この大きな二つの川に挟まれた低地です。

城のあるところを忍といい、忍の城下を行田といいます。この区別は室町時代にはすでにありました。どうして、こう分けるのかわかりません。福岡市も城のある所を福岡といい、それ以外を博多といいます。しかし、福岡という名称は領主の黒田氏が出身地の名をとったといういきさつがありますが、行田の場合はこういうこともありません。そういえば、ここの古墳も国宝の剣が出土しよく研究されていますが、ではどうして、ここにこんなに大きな古墳があるのかがわかりません。巨大古墳がたくさんあっても、肝心の古墳を作った人たちの生活の跡がないのです。考えるとよくわからないことが多いのが行田市です。
それはともかく、忍藩の領主は阿部氏です。阿部氏が入る前には、家康の息子の松平忠吉。その忠吉の後は、老中として有名な松平信綱が領主でした。この信綱の後に領主になったのが。阿部忠秋でした。そして、阿部氏は1639年から1823年まで領主でしたから、江戸時代の忍藩はずっと阿部氏の領地であったと考えてもさしつかえないと思います。

阿部忠秋という人は旗本の出身です。それが、将軍家光の側近になって出世し、一代で忍八万石の大名になりました。このあたりは柳沢吉保や田沼意次に似ています。しかし、忠秋の場合、はさほど目立った業績は何一つないのですが、その後老中になり、八万石の大名になりました。ふつう、こういう人は浮き沈みが激しいのですが、忠秋は沈むことなく円満に引退しました。しかも、忍藩はその後二万石加増され、十万石になりました。忠秋の後継者も三代続いて老中職に就いています。

忠秋もその後の後継者たちも、とくに優れた政策能力があったということでもなかったようです。強いていうと、「あの人にまかせておけばまずは安心」というようなタイプの人たちだったようです。ですから、見方によっては、柳沢吉保や田沼意次などより、はるかに処世術に長けていたような気がします。今でも、大きな会社などで大して能力があるわけでもないのに、やたら昇進する人がいますが、たぶんそんな感じの人だったようです。

忍藩は十万石でした。大名というと、ふつう金沢の前田百万石とか仙台の伊達六十万石のような大きな大名を想像します。それで、十万石くらいだと小さいというイメージがあります。しかし、そうではありません。忍藩でいうと、今の行田市、熊谷市、秩父市、それと周辺の町村が武蔵本国領。それに関西の摂津に一万石ありましたから、十万石といっても藩域は広大です。

ちなみに、阿部忠秋の時ですが、それでも藩士の数は家老から足軽、中間といった最下級の武士まで入れてたったの1300人くらいです。行田市の市役所の方が人数が多いくらいです。この人数で広い領域を統治し、江戸屋敷を運営し、阿部氏の場合、なおかつ老中職という幕閣の中枢をつとめたというのですから、いったい本当に可能だったのかという素朴な疑問が湧いてきます。しかし、忍藩についてはこれ以上立ち入らないことにします。

3.忍藩秩父領の陣屋役人
忍藩秩父領は今の旧秩父市、長瀞町、横瀬町,皆野町、旧吉田町、小鹿野町、旧荒川村で石高でいうと約9千石でした。ただ、後の三町村は一部幕領や大名旗本領でした。また、長瀞町の一部は、同じ忍藩でも秩父領ではなく鉢形領になっています。

忍藩秩父領を統治するのが、大宮に陣屋のある代官でした。陣屋は今の秩父市の市街地である上町の裁判所近くにありました。

私は陣屋の代官というから、テレビの水戸黄門に出てくるような代官を想像していました。大勢の部下をしたがえ、善悪はともかく強大な権力を持って領民にのぞむ代官です。だから、代官は城下を離れた出先の役人であっても、士分としての格は藩中でも上位で、家老の下くらいかなと思っていました。
しかし、どうやら、まったくちがうようでした。詳しいことは調べきれてませんが、秩父領の代官は、忍藩では下級武士の部類に入ると思います。

忍藩の役職表を見ると、代官が13人いて、秩父の代官はこの中に入ります。代官職は30俵3人扶持でした。1俵は米60キログラムですから、30俵で1800キログラム。1人扶持というのは、1日に米5合給与するというものです。1年を360日で計算すると1800合になり、270キログラムです。3人扶持なら710キログラムです。そして、両方あわせると2510キログラムで、石高でいうと17.4石にすぎません。忍藩では200石当たりが上士の下限ですから、17.4石の代官職ははっきりいって下級役職です。

ついでに、代官の上役は忍にいる郡奉行ですが、この郡奉行でも150石くらいですから中級の部類です。一般に、江戸時代の藩の仕組みでは、小姓組のように主君のそばで働く人や、番役といって戦争の時精鋭部隊として働く人たちが厚遇されますが、郡奉行とか代官職という民政に従事する人たちは恵まれてなかったような気がします。

しかし、代官に限らず陣屋の役人たちは、役職がら贈り物や祝い金などの収入が多かったと思いますので、給与は低くても結構恵まれていたと思います。ただ、一言言っておきますが、これらは賄賂ということではありません。賄賂とか汚職という言葉が出てくるのは、近代ヨーロッパの政治仕組みの中から生まれてくる倫理観意識で、江戸時代には別に職業倫理にそむく悪という観念ではなかったと思います。
大宮陣屋の代官は二人一組で陣屋に常駐する、交代勤務だったようです。代官は複数で任にあたるので独裁的に権力を振るうということはできない仕組みでした。というよりも、代官の仕事は、忍の郡奉行から出てくる指示命令を地元に伝えるのが主な仕事で、独自の裁量権などはほとんどなかったようなのです。ですから、陣屋の役人たちも、常時10人程度で細々と事務処理にあけくれる毎日だったのではないか、と思います。

秩父領の陣屋には、代官のほかに、秩父山廻り(定員6人、20俵供与)、秩父賄人(まかないにん)(人数、仕事の内容不明)、在忍秩父中間(ちゅうげん)(180人で180人扶持)というのがありました。

ここで気になるのは在忍秩父中間です。180人という人数は、これだけで忍藩の1割を越えます。先に述べたように忍藩の総人数は1300人くらいですから、180人はどうも多すぎます。それに、1人扶持というのは1日に玄米五合ですから、石高に直すと1.8石です。これは農民でも下層農民の部類で、とても家族を養って生活できる家禄ではありません。そこで、この在忍秩父中間というのは、藩領の有力農民を士分待遇にするためにもうけた役職でほとんど実質がなかったのではないか、という気がしています。もっともまったく根拠はありません。

浦山村のこと(3)

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5.焼き畑農業

「風土記稿」は、秩父の焼き畑について、中津川村の「白井差」(しらいさし)とこの浦山村の欄で説明しています。

それによると、焼き畑には、春に火を入れその年の秋に蕎麦を作る「応」(まさ?読み方不明)と、秋に山野を焼き翌年の春に播種する「差」(さし)があります。差では粟、稗、豆などを作るとあります。また、「風土記稿」では秩父には「さし」とか「さす」という地名が多いのは、この焼き畑にちなむのだろうといっています。

そこで、「風土記稿」では浦山村の村人の話として、次のように書いています。
「焼き畑は、二十年くらいたった山野を、まず草木を刈り取り、よく乾くのを待って火を入れて畑にする。焼いた後の灰が肥料になるので、焼き畑は普通の畑より収穫は多い。しかし、畑は四五年しか使わず、それをすぎれば、また新しい所に畑を作る。

耕作者は春から冬のはじめまでは、それぞれの畑地に小屋をたてて移り住み、畑の手入れをする。大変なのは実が熟する頃で、昼は猿、夜は猪や鹿が荒らしに来る。そこで、家族が手分けして、昼夜を問わず畑を見張ることになる。獣がくれば大声をあげ、もしくは木をたたいて音を出して追い払うので、一晩中寝るひまもない。とくに猪鹿の食害が多いので、藩から鉄砲54丁が与えられている。

これを読むと、焼き畑というのは、一つの農地に限ってみれば、最初の五年間を畑として使い、その後二十年間休ませる、そして二十年たてばまた畑にするというもので、いわば二十五年を一つのサイクルとするローテーション農法ということになります。ですから、焼き畑そのものは、原始的な農業というのではなさそうです。むしろ、江戸時代は、平地の農村は田畑の肥料となる山の刈り敷を確保するのに苦労していますから、そういう制約から解放されているという点では、焼き畑はすぐれた農業だったような気がします。

ただ、問題は焼き畑農業では広い農地を必要とするところにあったようです。浦山村も中津川村も食料を完全に自給できませんでしたが、それはおそらくは農地不足によるものだったと思います。

浦山村の場合、家族が手分けして畑の番をしていますから。一戸の家で一ヶ所の畑ではなかったのがわかります。実際、地形的に見ても、まとまった広い土地を確保するのは無理だったと思います。ですから、こちらの山に畑が一面、あちらの山に畑が一面というように畑が分散していたと思います。

そこで浦山村について、次のようなおおざっぱな思考実験をしてみました。

かりに、浦山村では一戸あたり三ヶ所の畑を毎年耕していると仮定してみます。それで二十五年ローテーションで持続可能な焼き畑農業を行うには、計算してみると、一戸の農家で約15ケ所の畑地にできる土地が必要になります。約としたのは、ぴったり三カ所にならない年があるからです。計算方法は省略します。

15ケ所の畑地があれば、5年耕作20年休耕でも毎年3カ所の畑を確保できます。畑にできる土地を一戸あたり15ケ所持つとすれば、浦山村の180戸の全部の農家が焼き畑をするには2700ケ所の畑になる土地が必要になります。

一方、浦山村の領域は、北は浦山口からで、東は武甲山と鳥首峠までです。西と南ははっきりしませんが、住居から遠く離れた所で焼き畑はしないと思いますから(そうであれば出作りではなく、そこに住み着きます。そうなれば新しい地名がつきますがそれがありません)、地図を見た限り、一辺が約10キロの正方形になります。すると、面積はおおよそ百平方キロメートルです。

この面積の中でさっきの2700ケ所の畑用地を確保するには、一平方キロメートルあたり27ケ所になります。これでもピンときませんが、もっとわかりやすく言うと、100メートル四方の土地に畑になる土地を2.7ケ所もつということです。しかし、浦山村の急峻な山岳地形を考えると、100メートル四方の土地に畑地を2.7ケ所もつということはとてもできません。家の近くは常畑になりますから、そういう所をはずすと、ざっとみて1ケ所くらいです。10キロ四方の土地に農家が180軒ということだけ見れば、江戸時代の浦山村には十分余裕がありそうですが、現実は土地不足だったと思います。

したがって、実際は一戸の畑地は三ケ所ではなく二ケ所だったり、あるいは一つの畑を複数の家で耕すというようにしていたと思いますが、いずれにしても畑地は不足します。「風土記稿」によれば、必要な食料の半分くらいしか自給できないとあるのも、この土地不足が原因だったと思います。ですから、浦山村の農民は焼き畑だけでは生活できません。そこで前に説明したさまざまな副業をすることになります。

これは、浦山村だけでなく、秩父地方のすべて村にあてはまることなのですが、全体に、昔の秩父の村々は農民が農地だけを耕して生活するには人口が多すぎるという印象を持ちます。しかし、そのために生活が苦しいとか、秩父の地を離れ流浪する農民が大量に発生するというようなことはなかったように思います。最大の理由は、旧浦山村のように、農民には畑を耕作する以外にもさまざまな収入口があったということが大きいのではなかったのかと考えています。


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